・人が来るのはうるさくて仕方ない、
とくに朝食を邪魔されるのは、
いやなのだ
マンションの八階から海が見える
東神戸にあるこのマンションは、
反対側の窓からは山も見える
船の白い航跡、
動くともみえぬ巨大なタンカー、
水平線は春から夏は、
たいていぼうっとしているが、
夏の空は申し分なく晴れ、
風は家中をふきわたる
私はラベンダー色の絹の部屋着をまとい、
明るい涼しい部屋でゆっくり朝食をとる
私の家では、
応接セットなどをおいて、
いつ来るか分からぬ客のために、
飾り立てるなんて、
ことはしない
私ゃ、
自分自身がこの家では、
お客さまだと思っている
だから自分がいちばんいい場所に、
いつも坐り、
いい椅子やテーブルを使う
七十六までツツいっぱい生きて、
自分より偉い人間があると思えるかっ!
年とれば、
自分で自分を敬わなければいけない
自分がへりくだって、
つつしむのは、
ほんとに好きな人、
尊敬できる人の前だけである
私ゃ、この年まで、
おべんちゃらをいったり、
お上手でごまかしたり、
持ち上げたりしたくないのだ
で、イギリス風のがっしりした椅子に坐り、
キッチンからはこんだ朝食を、
海を見つつゆっくり食べる
紅茶にトースト、
目玉焼き、
グレープフルーツ
トーストは一枚をたて二つに切り、
バターかマーマレード、
ジャムをつけて食べるが、
このジャムは浅間のグーズベリーの、
ジャムでないといけない
マーマレードはイギリスのもの
一枚には濃紫のジャム、
一枚にはオレンジのマーマレード、
色どりも美しくなくては
お茶は九州の嬉野のお茶、
茶器は薄手の清水焼、
紅茶茶碗はイギリスのものがいい
私ゃまちがっても、
民芸品なんか使わないよ
あれは鈍重であたまの悪そうな印象だ
重くてもろくてモウロク爺さんさながら、
さらにいえば人の尊重する骨董品、
剥げたりくすんだり、
黒ずんだり、
茶しぶで色変わりしたという、
抹茶茶碗なんかと同じように、
汚らしい
私ゃ手のひらの垢で、
黒ずんだような古ぼけた茶碗は、
きらいなのだ
「チーン!」
と音のするような西洋茶碗がいい
それから日本の清水焼、
作られ立ての新しいのが清潔でいい
そういうきれいな食器を扱おうとすれば、
爪もきれいでなくてはいけない
しかしマニキュアをすると、
爪をいためるから、
色を塗るのはやめて、
オリーブ油を爪にすりこみ、
あと鹿革でよく磨いておく
そうして絹のラベンダーの、
部屋着を楽しみ新聞をひろげる
まずスポーツ欄を見る
私は阪神びいきで、
掛布、ラインバック、小林が好き・・・
そういう時間に遠慮もなく、
ピンポン鳴らして誰かやってくる、
うるさいったらない
インターホンで確かめると、
いつもの交番のヒヨコおまわり
「やあ、おばあちゃん元気ですか」
この安ポリは、
悪気はないのだろうけれど、
「おばあちゃん」を連発し、
私はあまりいい気はせぬのだ
トシヨリには、
こういう応対が気に入られると、
思い込んでいるふしがある
「元気ですよ、
何かご用ですか?」
「変りないやろね、
おばあちゃん」
「ありませんよ」
「元気な顔見せてんか、
おばあちゃん」
ふた言目には「おばあちゃん」を、
連発する
いっちゃ悪いが、
下町暮らしの好きなエバ婆さんとは違う
鹿革で爪を磨いて、
ラベンダーの絹の部屋着を着て、
海の見えるマンションで、
紅茶を飲もうという私を、
安婆さん扱いしないでもらいたい
「おーばーちゃん
ちょっとおねがーい
開けてちょーだい」
安ポリは子供にいうようにいう
何いうとんねん
ポリやからいうて、
気安うにドア開けられるかっ!
まさかと思うことが起きる世の中
いくら私が、
七十六の婆さんだからといって、
女は女、
どんな拍子に若い男の劣情を、
そそるかもしれないではないか
トシとってからのいいところは、
想像力がたくましくなる点である
想像力が具備しなければ、
トシヨリの一人暮らしは張っていけない
しかし、仕方ないから、
私は立っていって、
ドアチェーンをかけたまま、
ドアをあけた
ヒヨコおまわりはにこにこしている
体の大きな童顔の、
二十一、二といった年ごろの男である
「や、おはよう、
年よりの一人暮らしは一応、
ちゃんと顔合わせるように、
いわれてるさかいなあ」
ヒヨコおまわりはビラを抱えており、
私にも一枚渡した
「ひとりぐらしのおとしよりへ」
というビラである
「これ、読んどいてくださいよ、
それからゆうべ、
あしこの駅の向こうの松の木坂で、
おそわれた婆さんがおってな」
「へえ、怖いこと
痴漢ですか?
夏やからねえ」
「痴漢は痴漢やろけど、
うしろから抱きついたいうさかい、
見えなんだんやな、
前からやったらそんなこと、
なかったやろけど、
男は婆さんが悲鳴あげると、
『けっ、婆あか』
いうて突き倒して逃げたそうや、
婆さん仰向けに倒れて、
頭のうしろ怪我して、
二針縫うたそうや」
「まあ、えらい災難やこと」
「痴漢が前から来たら、
そんな災難にならんやろけどな、
痴漢ちゅうもんはたいがい、
うしろから来るからな、
おばあちゃんかて間違われるねん
まさか、背中に年書いて歩くわけには、
いかんやろし、ハッハツハッ・・・」
私は笑う気もしない
「それに痴漢のつもりが、
婆さんとわかったら、
腹立ちまぎれに強盗に変じて、
金奪って逃げるかもしれんし、なあ
そないなったらえらいことや、
気ぃつけてや、
おばあちゃん、
ええか、おばあちゃん」
何をどぬかす、安ポリめ
金を奪われるより、
貞操のほうが大事ではないか、
婆さんなら貞操などないと、
思っているのと違いますか
(次回へ)