「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

15番、光孝天皇

2023年04月17日 08時06分56秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<君がため 春の野に出でて 若菜つむ
わが衣手に 雪は降りつつ>


(あなたにと思って 
まだ寒い早春の野に
私は出て
やっと生いそめた
みどりの若菜をつみました
その私の袖に
雪がちらちら)






・『古今集』春の部にこの歌はあり、

「仁和のみかど、
みこにおはしましける時、
人に若菜賜ひける御歌」

とある。

「仁和」というのは光孝天皇の年号。
天皇がまだ親王でいられた時代のこと、という。

この歌に先行するものといわれる、
『万葉集』の、

「君がため 山田の沢に 恵具(えぐ)つむと
雪消の水に 裳の裾ぬれぬ」

などのゴツゴツした野趣とは、
くらべものにならない。

エグというのはクワイのことである。

それよりは、生い初めたばかりの、
うす緑のなずな、すずしろ、よめな、
それらをつむ貴公子の袖にかかる春の雪、
いかにも絵のように美しい。

この光孝天皇(830~887)は、
仁明天皇の第三皇子であった。

幼いときから学問を修めたインテリで、
人柄は謙虚で温厚、
思いやりがあって心が広かった。

その上気品のあるハンサムだった。

身内の皇族にも受けがよく、
ことに文徳帝の后・明子(あきらけいこ)は、
親王に好感をもって重んじられ、
何かパーティがあると、
后は乞うて、
この時康親王を主人役にされるのであった。

父帝の仁明帝は人に愛される性格だったので、
人柄のよさは父君ゆずりであったのだろう。

親王は順調に官位をふんで年を重ねていかれたが、
社交界ではともかく、
政界とは無縁のまま一生を終えられるかにみえた。

野心のない親王は、
政界実力者の藤原基経とはいとこの関係でもあり、
親しくつき合っていられたが、
その無心で人なつこい性格がはからずも、
親王を御光の座へ押し上げることになった。

ときの陽成天皇は、
君にあるまじき無道のふるまいがあるというので、
十七歳で退位させられた。

皇族男子はたくさんひしめいていたが、
幼かったり臣籍に下ったりしていて、
皇位継承者のせん議は揉めに揉めた。

その時基経は、
人望のある五十五歳の老親王(当時は五十五は老人である)
を帝位に据え、事態を収拾した。

在位四年、次の宇多天皇は、
光孝天皇の第七皇子であった。

五十五で天皇になったので、
長いこと不遇だったと思われるかもしれないが、
親王は経済的にも窮乏していなかったし、
風流人でもあったから人生を楽しまれたに違いない。

金田元彦先生のお説によれば、
『源氏物語』の光源氏は、

<光孝天皇さんがモデルではないか>

ということである。

『源氏』の「若菜」の巻にちなんで、
源氏マニアの定家は光孝さんの「若菜」の歌を、
百人一首に入れたのではないでしょうか、
と先生はおっしゃる。

ともあれ、春先の楽しい歌である。






          


(次回へ)

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