・私でなくとも、
職業を持つハイミスで母と二人暮らしの人は、
この安逸に狎れ、あるいはその存在が枷になって、
結婚を取り逃がしてしまうことが多い。
私はそういう友人を幾人も知っている。
私も考えると、何となくおかしくなるが、
彼にしても私にしても、四十年生きると、
今度は自分のためだけに人生を使いたい、
人生をぜいたくに使いたい、
という気持ちになってきた。
私は元来が出たとこ勝負で人生を渡っていくずぼらやで、
人生に尻をでんと落ち着けているのは嫌いである。
いつも腰かるく、
運命のサイコロに賭けてみるのが好きなのだ。
それに、今では、彼と私の間で、別居ということは、
何か一つの感情に支えられていた不思議な張り合いみたいに、
思われて来たのも面白い。
そのうち、一緒にいるようになる、
そうしたら・・・という、
何だか楽しみのようなものが私にもあり、
一つの運命に対する期待みたいなものが生まれる。
「その内に」という共通の目的のようなものがあって、
複雑な感じながら、それはそのまま生活のリズムに乗って、
私も彼も馴れていき、抵抗なく会ったり別れたりしている。
世間には奇異に見えたのかもしれないが、
つまり、仕事を持つ女性にとって、
別居という形の結婚生活はのぞましい。
とくに小説を書くとか、絵を描く、といった、
エゴイストにならざるを得ない仕事にとっては、
摩擦の少ない理想的な形態である。
小説を書く、という作業はことに、
家の中にばかりいるだけに、
家庭と仕事をが切り離しにくく、
そんな場合「家庭」の匂いのしない仕事場を持つことは、
ありがたい。
私は原稿用紙に醤油のシミがついたり、
ご用聞きが来る度に筆を中断されるのは、
ごめんである。
なぜなら、怠け者の私は、
ご用聞きとのおしゃべりにすぐ身が入ってしまう。
それならそれでよいが、
人生をはんぱになし崩しに生きていくのはよくない。
仕事を持っているあいだは、
それに賭けたいと思うのだ。
それから、
経済的に完全に自立しているわけなので、その意味から、
愛情がなくなっても隷属を強いられる関係は、
産まれない。
対等の人格でつきあえる関係を保てるように思えるし、
自由で束縛されない結婚、
信頼と愛情だけがお互いをつなぐ絆である結婚が、
実現するのではあるまいか。
経済的自立といっても、
私みたいな駆け出しの物書きよりは、
コンスタントに収入のある彼の方が、
ずっと経済的に安定しているので、
私がこんなことをいうと彼に笑われそうだけど、
しかし私は、私と母が住む家の経費は、
自分で稼ぎだしているのも事実である。
(次回へ)