・あかん、という大阪弁がある。
ダメだ、いけない、役に立たぬ、などという意味。
どこから出たかというと、「らち明かぬ」の明かぬが、
あかん、になったそうである。
大阪弁といっても、
これは近畿全部から中国、四国まで使われているといわれるが、
そうだろうか。
岡山の私の縁辺の者は、「あかん」に相当する語に、
「おえりゃあせん」とか「あくまあで」などを使う。
大阪弁で使う「あかん」はもっと軽い。
大阪弁は軽くいうところに特徴があるが、
軽くさらりと、こればかりは物々しく言おうとしても言えぬ。
・「あかん」のいちばん普通に使われる制止、禁圧、タブー、命令、
といったニュアンスの「あかん」は多少重くなるが、
その度合いは前後の言葉や表情で補わなければならぬ。
「あかんデ」など、「で」をくっつけて意味を強め、
怖い顔をしたりする。「で」をつけないとしまらないからである。
無能な奴、というのを「あかん奴ちゃなあ」と言う。
これも「ダメな奴だ」と翻訳できるが、
これでは冷酷なひびきがあり、
見限った、というニュアンスがある。
しかし、「あかん奴ちゃなあ」には見捨てられない、
このバカもん、チェッ、という親近感が含まれている。
それだけに死亡の時に医者が「もうあきまへん」
と言ったのでは似つかわしくないであろう。
やはりここは重々しく「ご臨終です」と頭を下げなければ、
ぴったりこない。「あきまへん」というのは「あかん」を、
丁寧に言った場合の語尾変化。
若い男たちが、逆用して、「そんな奴、あくかいや」などと言う。
これは本来あやまった言葉使いで、「あかん」という大阪弁はあっても、
「あく」というのはない。
バンザイ、お手上げ、
などと破産を表現する場合も「あかん」という。
合格発表を見に行った息子、
むっつりと帰ってきて自室にこもる。
お袋が「どうやったんや?」などいうと、
ドアの向こうで「アカン」とひと言。
こういう時は短い。
・「アカン」に似た大阪弁に「ワヤ」がある。
これも、あかんと同じく、ダメ、さっぱり無茶苦茶、失敗、
というような意味がある。
これは「わうやく」からきて、「わやく」になり、
ついに「ワヤ」になった。
「アカン」と「ワヤ」の差異はどこにあるかというと、
主観的発想と、客観的発想の違いではないか。
「ワテ、もうアカン・・・」と破産の人はつぶやくが、
これが「もう、ワヤですわ」というと他人事のように聞こえ、おかしい。
まだ立ち直れる余裕があることを示す。
少なくともその人は精神的に危機を脱して、
一段次元の高い所から、ワヤな状況を見下して感心している、
というおかしみがある。
「ワヤ」は名詞だが「ワヤな奴」という使い方はしない。
ワヤにされる、ワヤにする、と使う。
男の中に女がからかいやすいタイプの男がおり、
女たちがその男をからかって笑いものにする。
それを男はニヤニヤして、「ワヤにしよんなあ」
などと満更でもない顔、そんな時使う「ワヤ」が一番普遍的。
・花見に行こうというので、
一同思い思いの趣向をこらして待ちかねたその日、
雨が降ってお流れ、「さっぱりワヤや」と使う。
ワヤ、というのは本来整っているべきものが、
はからずも支離滅裂になっている、という意味があるのだから、
「儲かりまっか」「ワヤですわ」という会話は本来ないのである。
アカン、は今でも生きていて、誰でも使うが、
ワヤ、はそろそろ老語(死語ではない)になりつつある。
若い娘や青年が「ワヤや」と言うのを聞かなくなった。
「ワヤやな」と我が身の苦境を観察し、その混乱状態を感心する、
そういう大阪人独特の一拍あいだを置いたゆとり、おかしみを、
今の若者は失ったのではなかろうか。
そのせいで、
「ワヤやな」という言葉が消滅しつつあるのではないかと思う。