・標準語で言えば「おお、くたびれた」という意味である。
しかし、しんど、またはしんどい、という大阪弁には、
もっと複雑なニュアンスがこめられている。
「しんど」は「辛労」より来る。
辛労がしんろになり、しんどに変化していったのは室町期。
それが、しんどい、になったのは、明和ごろ。
1700年代からのようである。
しんどい、は由緒あるただしき古語である。
・「ああ、しんど」と真昼、白昼の日盛りをさけて物かげで、
腰を下ろす日雇いのおっさん、彼らがつぶやくと、
全く疲労困憊、くたびれた、疲れた、もう動かん、などと、
いわば「しんど」のオーソドックスな使い方になる。
重いものを担ぐ、それも一瞬の労苦ではなく、
その持続を強いられたときに発する嘆声である。
ところがこれを女が言うとまた違う。
たとえば、花見疲れ、芝居見物疲れ。
まず帯を解く。
色とりどりの紐、帯あげ、帯じめ、おたいこの山、
それらを取り捨てて着物を脱ぐ。
長い襦袢姿になって「ああ、しんど・・・」とホッとしている。
留守番の婆さんに「何かおあがりやすか」と聞かれても、
「もうええ、おなかいっぱいや・・・」
ほんとは芝居びいきの役者を思い出して、
胸もいっぱいでうっとりして、なまめかしい、
「ああ、しんど」である。
若い娘だと、お見合いの席から帰ってくるなり、
着慣れない着物を着て、帯で締めつけられたので、
モノも食べられず、帰ってくるなり着物を脱いで、
「ああ、しんど」と叫ぶ。
正月など、はじめて作ってもらった大振袖を着る。
「しんど!しんどいわ、もうあかん」などと、騒ぎ立てる。
これがもっと若い子だと、
女子高生がバレーやテニスのクラブでしごかれ、
日が暮れて足をひきずるようにして帰る。
まっ黒に日焼けして、汗と泥に汚れ、
がっくりしてつぶやくのも「ああ、しんど」である。
中年主婦の場合は、スーパー、デパート、市場をまわり歩いて、
トイレットペーパー、洗剤を買い集め、両手に持ちきれぬほど持って、
思わず荷を下ろして「ああ、しんど!」といったりする。
こんなえらい目をして買い出しするのは誰のためか?
おのオッサンや子供たちはこんな苦労知っとんのかいな?
というふくれっ面のニュアンスがある。
こういう風に思わず自分がもらすため息、
または人に聞かせるつぶやきのほかに、
口に出さず、腹でつぶやく「ああ、しんど」もあるであろう。
これは、世の中のおおむねの男はそうではないか。
生存競争、弱肉強食の会社から帰る。
満員電車を乗り継いで、やっと降り立った駅、
バスに乗るのも行列、たどりつく団地、
これでもか、これでもかと、
いじめられるようなわが家へたどりついて、
胸の底からわきあがるため息は「ああ、しんど」である。
男は黙ってこらえている。
しかし、もし口に出すとすれば、男が家に帰った時であろう。
さらに、しんどい、には精神的なそれも含まれる。
「舅、姑、小姑が三人いるんですけど・・・
でも、ご本人はいい方ですし、
小姑はそのうち結婚して家をでられますし」
などと仲人が説得しても、
「ああ、しんど、そんな家へはよう行きませんわ」
などと娘さんは一言でいう。
気苦労、気が重い、そういう風なときは「しんどい」に尽きる。
新入りが古参、先輩の顔色を見、気を使う。
これまた「しんどい」
この頃の若い者、根性もへったくれもない奴が多い。
「なんでこんなしんどい目ぇせんならんねん」
あっけらかんとしていう。
落第、といわれても一向おどろかぬ。
追試験などといわれると、
昔なら最後のチャンス、と頑張ったものを、
今の生徒は「ああ、しんど」などとぬかし、
学校や親をありがたいとも思わぬ。
そういう子供は可愛げないが、
まだ幼児の頃、舌足らずに話をする。
一生懸命、乏しい言葉をつなぎ合わせてしゃべる。
それを聞いてる大人、じれったくももどかしいが、
可愛くてたまらない。
「はい、はい、それで・・・?」
などと聞き、やっと話し終えると「ああ、しんど」
と聞いてる方が疲れる。
幼児だけでなく、ダラダラと牛のよだれのように長々しく、
一向に要領を得ない人、そういう人の話の相手をしている時も、
「ああ、しんど・・・」というのである。
そう、きついことも言えぬ、という相手。
じっと我慢して耳を傾ける。
まさにそんな時、相手が話し終わり、
大すじが飲み込めたら「ああ、しんど・・・」と重い息をつく。
それから「ああ、しんど」には、
人生を見透かすような思いもある。
たとえば、定年間近の男、子供はまだ中学ぐらい、
それを思うと男は気も遠くなり、あきらめてせっせと働く、
こういう話は聞いてる方が「ああ、しんど」と嘆声が出る。