むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

1、「ああ、しんど」

2021年12月28日 09時19分26秒 | 田辺聖子・エッセー集










・標準語で言えば「おお、くたびれた」という意味である。
しかし、しんど、またはしんどい、という大阪弁には、
もっと複雑なニュアンスがこめられている。

「しんど」は「辛労」より来る。
辛労がしんろになり、しんどに変化していったのは室町期。

それが、しんどい、になったのは、明和ごろ。
1700年代からのようである。

しんどい、は由緒あるただしき古語である。


・「ああ、しんど」と真昼、白昼の日盛りをさけて物かげで、
腰を下ろす日雇いのおっさん、彼らがつぶやくと、
全く疲労困憊、くたびれた、疲れた、もう動かん、などと、
いわば「しんど」のオーソドックスな使い方になる。

重いものを担ぐ、それも一瞬の労苦ではなく、
その持続を強いられたときに発する嘆声である。

ところがこれを女が言うとまた違う。
たとえば、花見疲れ、芝居見物疲れ。

まず帯を解く。
色とりどりの紐、帯あげ、帯じめ、おたいこの山、
それらを取り捨てて着物を脱ぐ。

長い襦袢姿になって「ああ、しんど・・・」とホッとしている。
留守番の婆さんに「何かおあがりやすか」と聞かれても、
「もうええ、おなかいっぱいや・・・」

ほんとは芝居びいきの役者を思い出して、
胸もいっぱいでうっとりして、なまめかしい、
「ああ、しんど」である。

若い娘だと、お見合いの席から帰ってくるなり、
着慣れない着物を着て、帯で締めつけられたので、
モノも食べられず、帰ってくるなり着物を脱いで、
「ああ、しんど」と叫ぶ。

正月など、はじめて作ってもらった大振袖を着る。
「しんど!しんどいわ、もうあかん」などと、騒ぎ立てる。

これがもっと若い子だと、
女子高生がバレーやテニスのクラブでしごかれ、
日が暮れて足をひきずるようにして帰る。

まっ黒に日焼けして、汗と泥に汚れ、
がっくりしてつぶやくのも「ああ、しんど」である。

中年主婦の場合は、スーパー、デパート、市場をまわり歩いて、
トイレットペーパー、洗剤を買い集め、両手に持ちきれぬほど持って、
思わず荷を下ろして「ああ、しんど!」といったりする。

こんなえらい目をして買い出しするのは誰のためか?
おのオッサンや子供たちはこんな苦労知っとんのかいな?
というふくれっ面のニュアンスがある。

こういう風に思わず自分がもらすため息、
または人に聞かせるつぶやきのほかに、
口に出さず、腹でつぶやく「ああ、しんど」もあるであろう。

これは、世の中のおおむねの男はそうではないか。
生存競争、弱肉強食の会社から帰る。

満員電車を乗り継いで、やっと降り立った駅、
バスに乗るのも行列、たどりつく団地、
これでもか、これでもかと、
いじめられるようなわが家へたどりついて、
胸の底からわきあがるため息は「ああ、しんど」である。

男は黙ってこらえている。
しかし、もし口に出すとすれば、男が家に帰った時であろう。

さらに、しんどい、には精神的なそれも含まれる。

「舅、姑、小姑が三人いるんですけど・・・
でも、ご本人はいい方ですし、
小姑はそのうち結婚して家をでられますし」

などと仲人が説得しても、
「ああ、しんど、そんな家へはよう行きませんわ」
などと娘さんは一言でいう。

気苦労、気が重い、そういう風なときは「しんどい」に尽きる。

新入りが古参、先輩の顔色を見、気を使う。
これまた「しんどい」
この頃の若い者、根性もへったくれもない奴が多い。

「なんでこんなしんどい目ぇせんならんねん」
あっけらかんとしていう。

落第、といわれても一向おどろかぬ。
追試験などといわれると、
昔なら最後のチャンス、と頑張ったものを、
今の生徒は「ああ、しんど」などとぬかし、
学校や親をありがたいとも思わぬ。

そういう子供は可愛げないが、
まだ幼児の頃、舌足らずに話をする。

一生懸命、乏しい言葉をつなぎ合わせてしゃべる。
それを聞いてる大人、じれったくももどかしいが、
可愛くてたまらない。

「はい、はい、それで・・・?」
などと聞き、やっと話し終えると「ああ、しんど」
と聞いてる方が疲れる。

幼児だけでなく、ダラダラと牛のよだれのように長々しく、
一向に要領を得ない人、そういう人の話の相手をしている時も、
「ああ、しんど・・・」というのである。

そう、きついことも言えぬ、という相手。
じっと我慢して耳を傾ける。

まさにそんな時、相手が話し終わり、
大すじが飲み込めたら「ああ、しんど・・・」と重い息をつく。

それから「ああ、しんど」には、
人生を見透かすような思いもある。

たとえば、定年間近の男、子供はまだ中学ぐらい、
それを思うと男は気も遠くなり、あきらめてせっせと働く、
こういう話は聞いてる方が「ああ、しんど」と嘆声が出る。






          





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