・さて、女が陽気な服によって、
気分を陽気に引き立てたときは、
男たちが「お、きれいだね」と素直にほめたり、
お世辞をいったりしなければ輝きは増さない。
日本の男はといっても、
私は外国男をを知らないけれど、
とりわけ嫉妬心が強いのか、
妻に対して、
「目立つ服装をするな」
「母親ということを忘れるな」
「控えめにしろ」
「二十五すぎたらオバンだ。
オバンは出しゃばった服を着るな」
などという夫が多いらしい。
そして自分はほかの女に気を引かれて、
「会社の女の子はいつも新鮮に見えるのに、
なんでうちの女房は身なりをかまわないんだ」
と文句をいったりするのだから、
支離滅裂もいいところである。
陽気な服を着て、
男にほめてもらう、
それでいつも緊張感を持つ、
というのがおしゃれの要諦みたいな気がする。
このごろ「女は家庭に帰れ」論が、
またぶりかえしてきているが、
服ですら個性的になっているものを、
人生が個別にちがうのは当然である。
家庭にいて夫と子供の世話をして、
緊張感と生きがいを感じている女は、
それはそれで美しいし、
外で働いて、
「お、きれいだね」
「有能だね」
といってもらって緊張する女もいい。
女はみな家事育児の熟練者であらねばならぬ必要はなく、
みな、社会で働かねばならぬこともない。
女の生きたいように自由に門戸を開放してもらえれば、
いちばんいい。
そして毎日がたのしくイキイキしている人は、
おしゃれと表情がぴったりマッチし、
ベストドレッサーとよばれるのであろう。
そうなると、
「なんだ、あの服は」とワーストドレッサーの、
代表選手のように指さされていた悪評を、
かえってねじ伏せてしまう。
それがあるがために、
むしろその人らしいおしゃれ、
と思われるようになるだろう。
奇想天外なおしゃれ、
というのに私は興味があるが、
それは結局、その社会の生命力、
人間の大きさの問題で、それからいえば、
ニューヨークは住みやすそうな町だった。
実にピンからキリまでの服装の人々が歩いており、
それぞれが自分の身なりをたのしんで、
他人のそれに目くじらたてる気配はなかった。
日本のように、
一律のファッション、
一律のブランド志向のある国では、
所詮、人間の生き方も一律になってしまうのかもしれない。
女はもっと奔放大胆に生きて、
ちょうどいいかげんである。
当今の男どもの、
「女の天性・特権は家事育児にこそある」
というホラを蹴とばすくらいで、
ファッションも人生も男と均衡がとれる。
(了)