むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

6、血と水 ①

2022年07月06日 08時57分03秒 | 田辺聖子・エッセー集










・人間の血、血すじというものは、
どう考えればよろしいのであろうか。

ふつうには、
人々は血の熱さ、濃さを信じている。

骨肉の縁でつながり、
その人々でもって家族・縁戚グループをつくり、
一族に流れる血を確かめ合って生きてゆく。

血は水より濃い、という言葉もあれば、
血を分ける、血を引く、血は争われぬ、
などといったりする。

人間は一人では生きられない。

血の熱さを確かめ、
それで心を暖めて生きてゆく。

親子のちぎりはむろんであるが、
兄弟姉妹同胞のつながりも深い。

現代は(昭和五十年代)子供の数が少ないので、
きょうだいの味を知らずに過ごす人も多いかもしれないが、
少し前までは、四人、五人、六人きょうだいなどという人が、
少なくなかった。

総領の兄さんとか姉さんは、
末っ子とうんと年がはなれてしまう。

昔の日本の家庭では、
総領の兄さんは父親的存在になり、
姉さんは母親風になるのが多かった。

古い昔からそんな気風が、
日本の社会にはあった。

千年前の「大鏡」という本にも、
村上天皇の中宮(妃)、藤原安子は、
自分に仕える者たちをよくいたわり、
面倒見がよかったが、
ましてご兄弟衆に対してはいうまでもなかった、
とある。

「御兄をば親のやうに頼み申させ給ひ、
御弟をば子の如くにはぐくみ給ふ御心おきてぞや」

(『大鏡』師輔伝)

ことに長女という立場は、
一家の巫呪的位置も占めているらしく思われる。
王朝の斎宮・斎院はその象徴的存在であろう。

「大きい姉ちゃん」がやさしくて快活で、
弟妹たちに親切だったりした場合、
その家庭はどんなに平和でたのしいものになるであろうか。

島倉千代子さんの「りんどう峠」も、
いかにも日本的心情である。

♪姉さは馬コでお嫁にいった・・・♪

と歌う妹は、

♪姉さに嫁かれてなんとしょう
いっしょに柴刈る人もない・・・♪

と名残を惜しむ。(作詞・西条八十)

長女とか姉とかの位置でなくとも、
男きょうだいの中にいる妹・女きょうだいの持つ霊しき力は、
人の心をどんなにうるおし、
やわらげることであろう。

「大きい兄ちゃん」が、
またたのもしく、たくましく、弟妹にやさしければ、
どんなにその家庭に秩序と安寧がもたらされることか。

「源氏物語」の<柏木>の巻、
かの女三の宮に悲痛な恋をしてみまかってしまう柏木も、
長男らしく弟妹をよくいたわる青年だった。

「心ばへのどかによくおはしつる君なれば、
弟の君たちも、まだ末々の若きは、
親とのみ頼みきこへたまへるに・・・」

この青年は重態となり、
やがて親兄弟、一族一門、朝野をあげての哀惜のうちに死ぬ。

「心おきての、あまねく人の年長者(このかみ)心に、
ものしたまひければ・・・」

この青年は気立てがいかにも「大きい兄ちゃん風」で、
誰をも同じように兄貴然として面倒見よく世話をした、
という。

だから弟や妹、姉たちの嘆きは深かった。

こんな兄をもつというのは、
人間にとってなんという幸福であろう。

こういう兄弟、姉妹と同じ血で結ばれていると思う幸せは、
まことに「血は水より濃い」ものであろう。

遠い世のことだけではない。

私たちはたった今でも、
人間にとって血のなんたるかをさまざまと見せられた。

中国残留孤児たちは、
自分の体内に流れる血の熱さを訴え、
同じ熱さの血をさがし求め、
訴え続けてやまない。

私は見ていて涙が出てきて困った。
私だけではない。

きっとたくさんの人々が、
涙を拭きながら彼らに関する新聞記事を読んだり、
テレビを見たり、したと思うのだ。

親兄弟が死んでいれば叔父叔母、
いとこはとこ、遠縁にしろ末流にしろ、
ほんの一滴でも血のつながりを求め、
生きているあかしのよりどころをさがし続ける人々。






          



(次回へ)

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