・人間の血、血すじというものは、
どう考えればよろしいのであろうか。
ふつうには、
人々は血の熱さ、濃さを信じている。
骨肉の縁でつながり、
その人々でもって家族・縁戚グループをつくり、
一族に流れる血を確かめ合って生きてゆく。
血は水より濃い、という言葉もあれば、
血を分ける、血を引く、血は争われぬ、
などといったりする。
人間は一人では生きられない。
血の熱さを確かめ、
それで心を暖めて生きてゆく。
親子のちぎりはむろんであるが、
兄弟姉妹同胞のつながりも深い。
現代は(昭和五十年代)子供の数が少ないので、
きょうだいの味を知らずに過ごす人も多いかもしれないが、
少し前までは、四人、五人、六人きょうだいなどという人が、
少なくなかった。
総領の兄さんとか姉さんは、
末っ子とうんと年がはなれてしまう。
昔の日本の家庭では、
総領の兄さんは父親的存在になり、
姉さんは母親風になるのが多かった。
古い昔からそんな気風が、
日本の社会にはあった。
千年前の「大鏡」という本にも、
村上天皇の中宮(妃)、藤原安子は、
自分に仕える者たちをよくいたわり、
面倒見がよかったが、
ましてご兄弟衆に対してはいうまでもなかった、
とある。
「御兄をば親のやうに頼み申させ給ひ、
御弟をば子の如くにはぐくみ給ふ御心おきてぞや」
(『大鏡』師輔伝)
ことに長女という立場は、
一家の巫呪的位置も占めているらしく思われる。
王朝の斎宮・斎院はその象徴的存在であろう。
「大きい姉ちゃん」がやさしくて快活で、
弟妹たちに親切だったりした場合、
その家庭はどんなに平和でたのしいものになるであろうか。
島倉千代子さんの「りんどう峠」も、
いかにも日本的心情である。
♪姉さは馬コでお嫁にいった・・・♪
と歌う妹は、
♪姉さに嫁かれてなんとしょう
いっしょに柴刈る人もない・・・♪
と名残を惜しむ。(作詞・西条八十)
長女とか姉とかの位置でなくとも、
男きょうだいの中にいる妹・女きょうだいの持つ霊しき力は、
人の心をどんなにうるおし、
やわらげることであろう。
「大きい兄ちゃん」が、
またたのもしく、たくましく、弟妹にやさしければ、
どんなにその家庭に秩序と安寧がもたらされることか。
「源氏物語」の<柏木>の巻、
かの女三の宮に悲痛な恋をしてみまかってしまう柏木も、
長男らしく弟妹をよくいたわる青年だった。
「心ばへのどかによくおはしつる君なれば、
弟の君たちも、まだ末々の若きは、
親とのみ頼みきこへたまへるに・・・」
この青年は重態となり、
やがて親兄弟、一族一門、朝野をあげての哀惜のうちに死ぬ。
「心おきての、あまねく人の年長者(このかみ)心に、
ものしたまひければ・・・」
この青年は気立てがいかにも「大きい兄ちゃん風」で、
誰をも同じように兄貴然として面倒見よく世話をした、
という。
だから弟や妹、姉たちの嘆きは深かった。
こんな兄をもつというのは、
人間にとってなんという幸福であろう。
こういう兄弟、姉妹と同じ血で結ばれていると思う幸せは、
まことに「血は水より濃い」ものであろう。
遠い世のことだけではない。
私たちはたった今でも、
人間にとって血のなんたるかをさまざまと見せられた。
中国残留孤児たちは、
自分の体内に流れる血の熱さを訴え、
同じ熱さの血をさがし求め、
訴え続けてやまない。
私は見ていて涙が出てきて困った。
私だけではない。
きっとたくさんの人々が、
涙を拭きながら彼らに関する新聞記事を読んだり、
テレビを見たり、したと思うのだ。
親兄弟が死んでいれば叔父叔母、
いとこはとこ、遠縁にしろ末流にしろ、
ほんの一滴でも血のつながりを求め、
生きているあかしのよりどころをさがし続ける人々。
(次回へ)