「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

9、恋愛映画 ③

2022年07月20日 08時14分26秒 | 田辺聖子・エッセー集










・ジャン・コクトーの映画はいくつかあったが、
その中では「オルフェ」がいい。

冥府とこの世を自在に突っ走るオートバイ、
マリア・カザレスの冥府の女王の方に印象が強くて、
若い私にはジャン・マレーの魅力は、
もひとつわからなかったが、
この映画でコクトーは、
生と死について語りたいかにみえる。

死と生と愛を三つ編みにして、
そこへ詩のビーズをいくつもちりばめ、
そのビーズはガラスのかけらのように光り、
たがいに触れあって風鈴のように鳴る。

私にとって「オルフェ」は見たこともない、
不思議な織物だった。

「オルフェ」を見てから、
私は形容できないような光耀がこの世にあるのだ、
という感を深くした。

それまでの私は、
この世の万象を文学でほとんど表現できると信じていたが、
「オルフェ」を見てから「文学」で表現しきれない世界、
というより、映像技術の底深さを知らされた。

ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」は、
筋だけでいえば文学でも書ける世界と思うのだが、
ジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバーグの、
からみあいの、しれしれとした関係は、
やはり文学では定着しにくい。

ことにベルモンドの、
ぎょろりとした目やひょろ長い体、
上品といえない面がまえ、
次に何に移るか自分でもわからないような、
無鉄砲な行動力、などというものの面白さは、
一瞬の映像をつなぎあわせていく映画の強みである。

この間、不幸な死を遂げたジーン・セバーグが、
いつも何かにかつえているような、
どこか上の空風の娘を演じていてよかった。

パリに留学しているアメリカの女子学生、
という設定なのだが、アルバイトに、
パリの街角でアメリカの新聞の売り子をしている。

彼女が叫ぶ、
「ヘラルド・トリビューン!」
という叫び声は、何年も私の耳から消えないのだった。

この作品は、
映画の新しい波としてよそおいを一新したかにみえるが、
私から見れば「悪魔が夜来る」の美しい応用編なのである。

「哀愁」の形を変えた現代恋愛映画といってもよい。

もっとも「勝手にしやがれ」ふうの映画は、
日本でも作りやすいらしくて、
わりにこの手のものは見た。

それなりに楽しめたのだが、
なぜか日本のは恋愛映画にならず、
屈折してしまう。

そうしてたちまち、「ドバッ!」と、
血しぶきが画面に広がって、
血に弱い私など見ていられない。

でなければ濃厚な色模様になったり、
枯淡になったり。

またそうでなければ名作傑作風になってしまう。

たとえばアンリ・ヴェルヌイユ監督の「ヘッドライト」、
トラック運転手のジャン・ギャバンと、
安食堂の女中フランソワーズ・アルヌールの、
恋物語なのだけれど、
初老に近い運転手と娘のように若い女中の恋を、
日本映画で描けるだろうか。

なぜ日本で恋愛映画ができないのかと、
いつも私は考えるのだが、
恋愛に対しての基本的概念がそもそも日本文化の中に、
ないからかもしれない。

あるとすれば「好色精神」というもので、
「恋愛」ではないようだ。

いや、日本映画界にはすぐれた女優さんも、
たくさんいるではないか。

それらの人々が出演した映画で、
いいのがいっぱいあるではないか、
という人もあるだろう。

私も、あれこれ思い浮かべる。
私の好きなものは古い映画ばかりになってしまった。

「浮雲」や「夫婦善哉」や「猫と庄造と二人のをんな」など。

新しいのをあげたいが、
新しい時代のはみな大ぶりな政治もの、社会もの、
犯罪ものになったりして、
大人が出てきて小躰な色気といった、
情感を見せてくれるものがない。

それがさびしい。






          


(次回へ)

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