
・ジャン・コクトーの映画はいくつかあったが、
その中では「オルフェ」がいい。
冥府とこの世を自在に突っ走るオートバイ、
マリア・カザレスの冥府の女王の方に印象が強くて、
若い私にはジャン・マレーの魅力は、
もひとつわからなかったが、
この映画でコクトーは、
生と死について語りたいかにみえる。
死と生と愛を三つ編みにして、
そこへ詩のビーズをいくつもちりばめ、
そのビーズはガラスのかけらのように光り、
たがいに触れあって風鈴のように鳴る。
私にとって「オルフェ」は見たこともない、
不思議な織物だった。
「オルフェ」を見てから、
私は形容できないような光耀がこの世にあるのだ、
という感を深くした。
それまでの私は、
この世の万象を文学でほとんど表現できると信じていたが、
「オルフェ」を見てから「文学」で表現しきれない世界、
というより、映像技術の底深さを知らされた。
ジャン・リュック・ゴダール監督の「勝手にしやがれ」は、
筋だけでいえば文学でも書ける世界と思うのだが、
ジャン・ポール・ベルモンドとジーン・セバーグの、
からみあいの、しれしれとした関係は、
やはり文学では定着しにくい。
ことにベルモンドの、
ぎょろりとした目やひょろ長い体、
上品といえない面がまえ、
次に何に移るか自分でもわからないような、
無鉄砲な行動力、などというものの面白さは、
一瞬の映像をつなぎあわせていく映画の強みである。
この間、不幸な死を遂げたジーン・セバーグが、
いつも何かにかつえているような、
どこか上の空風の娘を演じていてよかった。
パリに留学しているアメリカの女子学生、
という設定なのだが、アルバイトに、
パリの街角でアメリカの新聞の売り子をしている。
彼女が叫ぶ、
「ヘラルド・トリビューン!」
という叫び声は、何年も私の耳から消えないのだった。
この作品は、
映画の新しい波としてよそおいを一新したかにみえるが、
私から見れば「悪魔が夜来る」の美しい応用編なのである。
「哀愁」の形を変えた現代恋愛映画といってもよい。
もっとも「勝手にしやがれ」ふうの映画は、
日本でも作りやすいらしくて、
わりにこの手のものは見た。
それなりに楽しめたのだが、
なぜか日本のは恋愛映画にならず、
屈折してしまう。
そうしてたちまち、「ドバッ!」と、
血しぶきが画面に広がって、
血に弱い私など見ていられない。
でなければ濃厚な色模様になったり、
枯淡になったり。
またそうでなければ名作傑作風になってしまう。
たとえばアンリ・ヴェルヌイユ監督の「ヘッドライト」、
トラック運転手のジャン・ギャバンと、
安食堂の女中フランソワーズ・アルヌールの、
恋物語なのだけれど、
初老に近い運転手と娘のように若い女中の恋を、
日本映画で描けるだろうか。
なぜ日本で恋愛映画ができないのかと、
いつも私は考えるのだが、
恋愛に対しての基本的概念がそもそも日本文化の中に、
ないからかもしれない。
あるとすれば「好色精神」というもので、
「恋愛」ではないようだ。
いや、日本映画界にはすぐれた女優さんも、
たくさんいるではないか。
それらの人々が出演した映画で、
いいのがいっぱいあるではないか、
という人もあるだろう。
私も、あれこれ思い浮かべる。
私の好きなものは古い映画ばかりになってしまった。
「浮雲」や「夫婦善哉」や「猫と庄造と二人のをんな」など。
新しいのをあげたいが、
新しい時代のはみな大ぶりな政治もの、社会もの、
犯罪ものになったりして、
大人が出てきて小躰な色気といった、
情感を見せてくれるものがない。
それがさびしい。



(次回へ)