むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

6、総角 ⑬

2024年05月16日 08時41分32秒 | 「霧深き宇治の恋」   田辺聖子訳










・そこへくると、
臣下の薫の身分は気楽だった。

去年春に焼失した三條の邸を、
新築中であるがそこへ大君を、
晴れて薫の夫人として、
迎える心づもり。

匂宮が悩んでいられるのを、
薫はいとおしいことに思った。

(自分から母宮の中宮に、
宮はこれこれの方を、
と申し上げようか?
いっときお叱言もあるだろうが、
中の君にとってはいいだろう。
存在を知って頂くほうが。
どうかしお二人を、
幸福にしてさしあげたい)

と思うのであった。

いまは薫も、
大君と心が通い合ったと、
信じられるので自分の幸福を、
疑ってはいなかった。

自分が幸福になるように、
親友の匂宮もお幸せであって、
頂きたかった。

そういえば、
薫は思う。

(宇治では衣更えのことなど、
世話する人もいないのではないか。
早、十月。
冬支度に装わねばならぬ)

薫は早速手配をする。

衣更えは衣装だけではない。

寝室の垂絹から御簾の内側の、
壁代に至るまで、
冬のものと代えねばならぬ。

薫は自邸の新築用に、
準備したものを、
母君(女三の宮)にことわり、
宇治の邸へ運ばせた。

女房たちの衣装も、
新調させたりした。

十月はじめ、薫は、

「網代も、
面白いでございましょう」

と宮に宇治行きをすすめた。

網代は冬の宇治の名物である。

氷魚を獲るさまを、
見物する人も多い。

宇治の紅葉見物という口実で、
薫は宮のために、
計画を立ててさしあげる。

ごく内輪のおしのび、
と宮は考えていられたが、
何分ご威勢のある宮のこと、
いつの間にか大げさになって、
夕霧右大臣の三男も、
お供することになってしまった。

この三男の宰相の中将は、
玉蔓の長女の姫に、
恋をした青年である。

姫は冷泉院の御息所になり、
青年の思いは遂げられなかった。

今は左大臣の姫と結婚しているが、
昔の悲恋を忘れかねている。

彼は薫の友人でもあるが、
父の夕霧に頼まれて、
匂宮のお目付役の、
つもりでお供したのかもしれぬ。

薫もお供をする。

薫は宇治の人々に、
連絡を忘れない。

「宮はそちらで休息なさるでしょう、
そのおつもりでいらして下さい」

宇治の邸では、
新しい御簾を掛け換え、
あちこち掃除をした。

薫は風情ある酒や肴、
果物、菓子などを贈り、
人手も要ろうかと、
手伝いの人もよこした。

大君は、
薫の親切に感謝しながらも、
あるじ顔に世話を焼かれると、
やや不快だった。

しかし、どうしようもない。

いよいよ当日。

こちらの宇治の邸にも、
楽の音が聞こえる。

都びとの一行が、
宇治川を上り下りして、
合奏しているのであった。

霧に浮かぶそのさまを、
邸の若い女房たちは、
廓に出て眺めている。

紅葉を屋根に葺いて、
飾り立てた舟の面白さ、
聞こえてくる管弦の音色、
何とも派手やかな賑わしさだった。

世にもてはやされ、
かしずかれる匂宮のめでたさ。

こんなすばらしい宮を、
お待ちするのは、
と中の君は思うのであった。

宮はというと、
心も空でいられる。

(早く中の君に逢いたい)

お気持ちもそぞろで、
遊興なさる気分ではなかった。

薫と宮だけは楽しめない。

「この騒ぎがおさまってから、
お忍びでお出かけなさいませ」

薫がそっと申し上げる。

宮も、
こんなに大げさな遊覧旅に、
なろうとは思ってもいられない。

そこへ思いもかけぬことに、
仰々しい一行が都から、
匂宮の警護にやってきた。

宰相の中将の兄、
衛門督がことごとしい随身を連れ、
いかめしく参上したのである。

内裏の母后(明石中宮)からの、
仰せだった。

宮がお供も少なく、
にわかに宇治へ行かれたことを、
お聞きになって、
あまりにも軽々しいと驚かれ、
衛門督を、
差し向けられたのであった。

これではひそかに、
抜け出るには具合悪く、
宮も薫も困り果ててしまった。

そんな宮のお心も知らず、
人々は酔いしれて、
その夜は明かした。

翌日、
宮はこのままとどまりたい、
と思っていられるのに、
またまたそのほかの殿上人が、
母后のお指図でお迎えに参った。

宮は気が気でなく、
帰りたくないと思われたが、
どうしようもなかった。

わずかに中の君にあてて、
お手紙を書かれる。

「許してください。
どうしても、
行けなくなってしまった」

宮のお手紙は、
いまは恋文めいた気取りは、
なかった。

切羽つまった青年の、
真剣な苦しみをこまごまと訴えた、
真心のこもったものだったが、
中の君からの返事はなかった。

人目も多い中だし、
お立ちのごたごたの時に、
と遠慮されたのである。

それ以上に、

(数にも入らぬわたくしたちが、
雲上人のあの方と、
お付き合いは出来ないのだ。
遠くにいるときは、
お越しになれないのも尤もと思い、
心を慰めてきたけれど、
こんな近くへおいでになって、
そ知らぬ風でお帰りになるなんて、
ひどい・・・
もう信じられない)

と姫君たちは思い悩む。






          


(次回へ)

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