「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

7、葵 ⑧

2023年08月27日 10時29分24秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・源氏は四十九日までは、
左大臣邸にこもりきりになっている。

源氏の慣れぬ独り住みを、
親友の三位の中将は気の毒がって、
いつも源氏の部屋へやってきては、
話相手になる。

中将は、
源氏の悲嘆が深いのを見て、

(ああ、本当に心から、
妹を愛していたんだな、彼は)

ともの悲しく思った。

今まで中将が見た所では、
源氏は必ずしも、
妹の葵の上を愛しているようではなかった。

父君の左大臣なども手厚くもてなされるし、
また母君の大宮は、
源氏にとっての叔母宮である。

どちらにつけても振り捨てがたい絆で、
しばられているので、
いやいやながらも葵の上を妻にしたのだろう、
と中将は内心、
源氏を気の毒に思っていた。

しかしいま、
源氏の悲しみを見ると、
源氏はやはり心から葵の上を愛していたのだ、
とわかる。

それがわかった今、
葵の上は亡いのだ。

中将は世の光は消えた気がして、
気落ちするのだった。

暮れると源氏は灯をつけさせ、
亡き人のそばに仕えた、
馴染みの女房たちを召して、
さまざまな思い出話をする。

源氏は女房たちに、
しんみりと言った。

「この日頃、
悲しみが仲立ちとなって、
みんなが心一つに結ばれて、
今までになく親しんだ気がするね。
しかしこれからは淋しいなあ。
葬式よりあとが辛いね」

女房たちはみな泣いた。

「御方さまのご不幸は、
いってもかえらぬことでございますが、
殿さままでこのお邸からお出になって、
しまわれますのが・・・
もう、こちらにはご縁のない方におなりになります」

「縁がないことなど、
あるものか。
私を心浅い人間と思うのか。
いつまでも気長く私の誠意をみてほしい」

源氏は涙ぐみながら灯をみている。

今まででさえ源氏の来訪は間遠だったものを、
こうなればひとしおうとくなろうと、
女房たちは思った。

大臣の悲嘆はいうまでもなかった。

若君がいるのだから、
よもや源氏はこのまま見限る、
ということはあるまいと思うものの、
愛した娘婿と今は縁が切れた気がして、
辛くも残念にも思い、
泣くのだった。

源氏は久しぶりに御父の桐壺院に参上すると、

「たいそう面痩せしたではないか」

とご心配になって、
御前でお食事をとらせられた。

中宮の御殿に参上すると、
しばらくぶりなので、
女房たちは珍しがった。

中宮も命婦を取り次ぎにして、
お言葉を賜った。

つねの時でも、
物思わしさのただよう源氏なのに、
今は一層沈んだ様子に見える。

二條の邸では、
どの部屋も掃除がゆきとどき、
清らかに磨き立てて、
男たち女たちが源氏を待ちうけていた。

源氏はそれを見ると、
左大臣邸の人々の、
悲しみに沈んだ様子が思いだされ、
胸が痛む。

源氏は着物を着換えて、
西の対へ行った。

冬の衣更えの季節のこととて、
室内の調度から、女房、女童の衣装まで、
すっかり冬装束になって、
目がさめるよう。

源氏は、
乳母の少納言の配慮が行き届いているのに、
満足した。

紫の姫君は、
美しく身じまいをして坐っていた。

「おお、久しく会わぬうちに、
ぐっと大人びたねえ」

源氏が几帳をひきあげていうと、
姫君は恥じらう。

横顔、頭のかたち、
あの恋しい人にそっくりになってゆく、
源氏は嬉しくてならない。

「長く逢いに来ずごめんね。
許しておくれ」

「そんなこと・・・
お兄さまはたいそう悲しい目に、
おあいになったのですもの。
当り前よ。
おかわいそうなお兄さま。
どんなに悲しかったことでしょう」

悲愁にそそけていた心を、
やわらかにうるおしてくれるようであった。

「わたくしね、
おばあちゃまがお亡くなりになった時のこと、
思いだしていたの。
お兄さまもきっと、
あの時のわたくしのように悲しんでいらっしゃる、
と想像したら、お兄さまが、
おかわいそうでわたくしまで悲しくなって、
泣けてきたの」

そのさまを見る源氏は、
いとしくてならず、
思わず姫君を抱きしめる。

「ありがとう。
あなたになぐさめられて、
私は元気になった気がする。
これからはずっとこちらにいるからね、
却って私のことをうるさく思うかもしれない」

少納言は几帳のうしろでそれを聞き、
嬉しく思いつつも、
やはり心もとなかった。

源氏は正妻を失ったといっても、
身分高い恋人があちこちにあるので、
いつ葵の上に代わる女が現れないとも、
限らない。

源氏は二條邸にひきこもり、
まめやかな便りだけを、
左大臣邸に遣っていた。

外出もおっくうで、
どの女のところへもゆく気がしなかった。

いまは紫の姫君とともにいることが、
源氏の楽しみであった。






          


(次回へ)

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