今回はあんまり十分調べられませんでした。なので概要だけ。
12章は、エルサレム会衆への、ヘロデ・アグリッパ1世による迫害。
使徒ヤコブが剣で殺され、ペテロは投獄されるが、夜にみ使いによって救出される。ペテロはマルコの家に行って報告し、別の場所へ(エルサレムから出て姿を隠した?)。その後、ヘロデはカエサレアで、和を求めに来たティルスやシドンの民の前で、神に撃たれて死ぬ(44年)。
13,14章は、アンティオキア会衆での、パウロの第一回宣教旅行(47年~49年頃)。
13章。バルナバとサウロはマルコを伴ってキプロス島(バルナバの故郷)へ。そこでは、執政官代理セルギオ・パウロが改宗する(一緒にいた呪術者バルイエスを盲目にする)。呼び名がサウロからパウロとなる(9節)。キプロスを出てパンフリアのペルガ(港町)へ行く頃には、主導権はバルナバからパウロに(13節)。マルコはペルガからエルサレムに帰る。ペルガから内陸(ガラテア諸都市)へ向かい、ピシデアのアンティオキアの会堂で、パウロが(イスラエルの歴史からイエスの復活までのことを)話す。永遠の命のために正しく整えられた者(永遠の命へと定められていた者)がみな改宗する。ねたんだユダヤ人たちが迫害を起こしたため、足の塵を払ってイコニオムへ。
14章。イコニオムでも会堂で話す。大勢が信者となるが、ユダヤ人たちとは対立する(市が二分)。かなりの時を過ごして証し(しるしや異兆も)するが、石で打たれそうになりルステラ(テモテ)へ。ルステラでは、生まれた時から足なえの人を癒したことで、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んで、二人に犠牲をささげようとしたので、パウロが(生ける神について話して)それをやめさせる。アンティオキアとイコニオムからユダヤ人が追ってきて、パウロを石で打って市の外に引きずり出すが、翌日にはデルベ(ガイオ)へ向かう。そこでも大勢の弟子を作り、その後戻って、ルステラ、イコニオム、アンティオキアの弟子たちを強め、年長者を任命し、主にゆだねる。さらに戻ってパンフリアのペルガでも語り、アタリアから出帆してシリアのアンティオキア会衆に戻り、神が彼らとともになして下さったこと、神が異邦人に対して信仰の扉を開いて下さったことを報告する。
12:15「彼(ペテロ)のみ使いだろう」。人には各々に守護天使がいると考えられていた・・・?
12:17「ヤコブと兄弟たちに報告してください」。この頃(44年)にはすでに、イエスの兄弟ヤコブが会衆の柱的存在になってたことが分かる。
(追記)
12:25「エルサレムで救援の仕事を十分に果たしてから帰途につき・・・マルコという者を一緒に連れてきた」。11章からの続き。
飢饉が起きたのがクラウディウスの時で45年頃だとすると、まだ飢饉が起きる前にそれを見越して救援のために、ユダヤ各地を回ってエルサレムにも来たってことかなぁ。だとしたらスゴイなぁ。(洞察ではこの救援は46年頃となってるから、飢饉が起きてからと解釈してるってことだね)
ペテロが獄からみ使いに連れ出されてマルコの家に行った時には、まだマルコは居たのかな。マルコはイエスが捕縛された時まだ10代だったらしいから、第一回宣教旅行の時は20代後半かな。
13:10~12「エホバの正しい道」「エホバの手」「エホバの教え」(新世界訳)。原文はエホバじゃなくて主。主に置き換えて読むと、エホバじゃなくてイエスだと分かる。
ここでパウロは、呪術者「バルイエス」(「イエスの子」の意)に対し「悪魔の子」と言って激しい口調で責める。で、一時的とはいえ盲目にしちゃう(癒すのではなく)んだよね。この人は、見えるようになった時、パウロのように回心したのかなぁ・・・
13:39「無罪と宣せられなかった」「無罪と宣せられる」(新世界訳)。他の訳では「義とされ得なかった」「義とされることのできなかった」及び「義とされる」。
13:43「神の過分のご親切」(新世界訳)。他の訳では「神の恵み」「神の恩恵」。
13:44~49「エホバの言葉」4ヶ所(新世界訳)。他の訳では最初は「神の言葉」あと3ヶ所は「主の言葉」。
14:3「エホバの権威のもとに」(新世界訳)。他の訳では「主に基づいて」「主によって」「主を信じて」「主を頼みとして」など。(この節にも「過分のご親切」とあるが、同上)
14:22「多くの患難を経て神の王国に入らなければならない」(新世界訳)。他の訳はおおむね同じなんだけど、田川訳が興味深くて「多くの患難を通ってこそ神の国へと入ることができるのだ」。これだと力強い励ましとなる言葉だよね。(なぜこう訳したのか、いずれ註を読んで確認します)
14:23「信ずるエホバに」(新世界訳)。他の訳では「信じるにいたった主に」「信じている主に」。
ここでパウロは、各会衆に年長者(他の訳では長老)を任命している。聖霊がそうさせたのか、パウロの個人的・人間的な判断だったのか。書いてないから分からないけど、後者だとしたら、単なる人間の組織に成り下がって(言い方悪くてすみません)行ってもしょうがないよね・・・年長者じゃなく、主にゆだねたのはいいことだけども。
14:26。新世界訳だと分かり辛い文。「そこから出帆してアンティオキアに向かった。彼らはその地で、[今や]十分に成し遂げた業のため、神の過分のご親切に託されたのである」。なんだかわからないよ。
他の訳で読むと分かり易い。例えば、新共同訳は「そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である」、田川訳(最近気に入ってる訳)は「そこからアンティオキアへと出帆した。彼らはその地で神の恵みによってこの仕事に委ねられたのだが、(今や)その仕事を果たし終えたのであった」。実に分かり易い。そういうことかぁ。
●書かれてある通りに訳すことってやっぱり大事だと思う。それを基に解釈すればいい(色んな解釈があるとしても)のであって、こうだと決めつけて訳すのは著者に失礼だよね。書き手がエホバという言葉を用いなかったのなら、そこにはそういう著者の意図があるのだから、そのまま訳すべきだよね。それをどう解釈するかが大事なんじゃないのかなぁ・・・
ということで、新世界訳は、読むだけでエホバの証人の教義に染まってしまう気がします。気を付けましょう。
●パウロの宣教旅行は、アンティオキア会衆から始まってる。少なくとも第一回目は、エルサレム会衆(組織の言うところの統治体)は何にも関わってない。全く無関係。聖霊がパウロとバルナバを宣教旅行に行かせた(14:26上記)。つまり、組織の言うところのエルサレムにあった統治体は、第一回宣教旅行に関しては全く役立たず(言い方悪くてすみません)だったってことだね。
12章は、エルサレム会衆への、ヘロデ・アグリッパ1世による迫害。
使徒ヤコブが剣で殺され、ペテロは投獄されるが、夜にみ使いによって救出される。ペテロはマルコの家に行って報告し、別の場所へ(エルサレムから出て姿を隠した?)。その後、ヘロデはカエサレアで、和を求めに来たティルスやシドンの民の前で、神に撃たれて死ぬ(44年)。
13,14章は、アンティオキア会衆での、パウロの第一回宣教旅行(47年~49年頃)。
13章。バルナバとサウロはマルコを伴ってキプロス島(バルナバの故郷)へ。そこでは、執政官代理セルギオ・パウロが改宗する(一緒にいた呪術者バルイエスを盲目にする)。呼び名がサウロからパウロとなる(9節)。キプロスを出てパンフリアのペルガ(港町)へ行く頃には、主導権はバルナバからパウロに(13節)。マルコはペルガからエルサレムに帰る。ペルガから内陸(ガラテア諸都市)へ向かい、ピシデアのアンティオキアの会堂で、パウロが(イスラエルの歴史からイエスの復活までのことを)話す。永遠の命のために正しく整えられた者(永遠の命へと定められていた者)がみな改宗する。ねたんだユダヤ人たちが迫害を起こしたため、足の塵を払ってイコニオムへ。
14章。イコニオムでも会堂で話す。大勢が信者となるが、ユダヤ人たちとは対立する(市が二分)。かなりの時を過ごして証し(しるしや異兆も)するが、石で打たれそうになりルステラ(テモテ)へ。ルステラでは、生まれた時から足なえの人を癒したことで、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んで、二人に犠牲をささげようとしたので、パウロが(生ける神について話して)それをやめさせる。アンティオキアとイコニオムからユダヤ人が追ってきて、パウロを石で打って市の外に引きずり出すが、翌日にはデルベ(ガイオ)へ向かう。そこでも大勢の弟子を作り、その後戻って、ルステラ、イコニオム、アンティオキアの弟子たちを強め、年長者を任命し、主にゆだねる。さらに戻ってパンフリアのペルガでも語り、アタリアから出帆してシリアのアンティオキア会衆に戻り、神が彼らとともになして下さったこと、神が異邦人に対して信仰の扉を開いて下さったことを報告する。
12:15「彼(ペテロ)のみ使いだろう」。人には各々に守護天使がいると考えられていた・・・?
12:17「ヤコブと兄弟たちに報告してください」。この頃(44年)にはすでに、イエスの兄弟ヤコブが会衆の柱的存在になってたことが分かる。
(追記)
12:25「エルサレムで救援の仕事を十分に果たしてから帰途につき・・・マルコという者を一緒に連れてきた」。11章からの続き。
飢饉が起きたのがクラウディウスの時で45年頃だとすると、まだ飢饉が起きる前にそれを見越して救援のために、ユダヤ各地を回ってエルサレムにも来たってことかなぁ。だとしたらスゴイなぁ。(洞察ではこの救援は46年頃となってるから、飢饉が起きてからと解釈してるってことだね)
ペテロが獄からみ使いに連れ出されてマルコの家に行った時には、まだマルコは居たのかな。マルコはイエスが捕縛された時まだ10代だったらしいから、第一回宣教旅行の時は20代後半かな。
13:10~12「エホバの正しい道」「エホバの手」「エホバの教え」(新世界訳)。原文はエホバじゃなくて主。主に置き換えて読むと、エホバじゃなくてイエスだと分かる。
ここでパウロは、呪術者「バルイエス」(「イエスの子」の意)に対し「悪魔の子」と言って激しい口調で責める。で、一時的とはいえ盲目にしちゃう(癒すのではなく)んだよね。この人は、見えるようになった時、パウロのように回心したのかなぁ・・・
13:39「無罪と宣せられなかった」「無罪と宣せられる」(新世界訳)。他の訳では「義とされ得なかった」「義とされることのできなかった」及び「義とされる」。
13:43「神の過分のご親切」(新世界訳)。他の訳では「神の恵み」「神の恩恵」。
13:44~49「エホバの言葉」4ヶ所(新世界訳)。他の訳では最初は「神の言葉」あと3ヶ所は「主の言葉」。
14:3「エホバの権威のもとに」(新世界訳)。他の訳では「主に基づいて」「主によって」「主を信じて」「主を頼みとして」など。(この節にも「過分のご親切」とあるが、同上)
14:22「多くの患難を経て神の王国に入らなければならない」(新世界訳)。他の訳はおおむね同じなんだけど、田川訳が興味深くて「多くの患難を通ってこそ神の国へと入ることができるのだ」。これだと力強い励ましとなる言葉だよね。(なぜこう訳したのか、いずれ註を読んで確認します)
14:23「信ずるエホバに」(新世界訳)。他の訳では「信じるにいたった主に」「信じている主に」。
ここでパウロは、各会衆に年長者(他の訳では長老)を任命している。聖霊がそうさせたのか、パウロの個人的・人間的な判断だったのか。書いてないから分からないけど、後者だとしたら、単なる人間の組織に成り下がって(言い方悪くてすみません)行ってもしょうがないよね・・・年長者じゃなく、主にゆだねたのはいいことだけども。
14:26。新世界訳だと分かり辛い文。「そこから出帆してアンティオキアに向かった。彼らはその地で、[今や]十分に成し遂げた業のため、神の過分のご親切に託されたのである」。なんだかわからないよ。
他の訳で読むと分かり易い。例えば、新共同訳は「そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である」、田川訳(最近気に入ってる訳)は「そこからアンティオキアへと出帆した。彼らはその地で神の恵みによってこの仕事に委ねられたのだが、(今や)その仕事を果たし終えたのであった」。実に分かり易い。そういうことかぁ。
●書かれてある通りに訳すことってやっぱり大事だと思う。それを基に解釈すればいい(色んな解釈があるとしても)のであって、こうだと決めつけて訳すのは著者に失礼だよね。書き手がエホバという言葉を用いなかったのなら、そこにはそういう著者の意図があるのだから、そのまま訳すべきだよね。それをどう解釈するかが大事なんじゃないのかなぁ・・・
ということで、新世界訳は、読むだけでエホバの証人の教義に染まってしまう気がします。気を付けましょう。
●パウロの宣教旅行は、アンティオキア会衆から始まってる。少なくとも第一回目は、エルサレム会衆(組織の言うところの統治体)は何にも関わってない。全く無関係。聖霊がパウロとバルナバを宣教旅行に行かせた(14:26上記)。つまり、組織の言うところのエルサレムにあった統治体は、第一回宣教旅行に関しては全く役立たず(言い方悪くてすみません)だったってことだね。