聖なる書物を読んで

現役JW29年目

12月ブロードキャスティング

2018-12-15 | エホバの証人
今回は、145回ギレアデの卒業式の第1部でした。

昔、ものみの塔誌にギレアデ卒業式の記事が載ってた頃は、毎回楽しみで読んでたなぁ。話が教訓的で興味深かったから。(インタビューとか経験とかはどうでもよかったけど)

今回も、話自体は悪くなかったかなと思います。

●「自分に賞賛を求めず、いつもエホバを賛美しましょう」
うん、これはもう、クリスチャンなら当然だよね。
ギレアデ卒業生だからこそ必要な話なんだろうけど・・・そう思う時点でもう、ギレアデダメじゃん。

●「干ばつの年にあなたはどうしますか」
①エホバが選んで任命した、忠実で思慮深い奴隷を信頼する。
「奴隷はエホバが選んで任命した」・・・・ってホントかいな。さらっと2回も(3回?)言ってたけど、刷り込みだよなぁ。
「エホバの証人の否定的な報道」とか「奴隷への根拠なきうわさ、ゆがめられた情報」は、疑いを抱かせるためだとかなんだとか言ってたなぁ。言い訳にしか聞こえなくなっちゃったなぁ。ほんとよく言えるよなぁ・・・神を畏れてたら言えないだろうに・・・。

②聖書の原則を信頼する。当てはめて得られた良い経験を忘れないようにする。
うん。これはその通りだと思う。

ここは①と②が逆だよね。無意識に、聖書より奴隷(の指示、規則)が上だと印象操作される感じがある。

●「別人のようになりましたか」
サウル(悪い)とサウロ(良い)の例。「いい意味で変化できたらそのままで(司会者ジャクソン氏のまとめ)」。

話の内容は良かった。でもね、ギレアデ(パタソン)に来る前と後では別人になってる・・・・ってホントかいな。そういうこと(ギレアデ最高!)にしておかないと困るから、そう言ってるだけでしょ。開拓者学校もそう。こういうのが人を差別するって分からないのかな。だいたい初期クリスチャンには、学校なんてなかったよ。

●「エホバから徐々に与えられる祝福を喜びましょう」(ケニス・クックJr)
①天使と創造の業。エホバはいっぺんに創造することもできたが、物質宇宙、地球、生物、人間と、徐々に創造することで天使たちに喜びと感嘆を与えられた。だから天使たちは、人間たちがどうなっていくのかを見てる。

自分、なんで天使たちはこんなに人間のことに興味津々なのか不思議に思っていたので、なるほどぉと思いました。これはもしかしてエホバ神からの答えかしらん、なんて。(とっさにこう思うってことは、まだ洗脳が解けてないw。疑問の答えは、組織からだけじゃなく、いたるところにあるのにね)。

②復活と完全性。内面は不完全なまま復活してくる(って断定してるけど、ホントかいな)。徐々にエホバを知り進歩してエホバに近づいていく喜び(って断定してるけど、全部推論・・というか夢物語だよね)。わたしたちも、今、完璧である必要はない(完璧さ、求められてる気がする)。

「予期せぬことを徐々に予期する(司会者ジャクソン氏のまとめ)」

●「肩を並べて」
①他の人を支え強める、②試練は互いを励ますチャンス、③分裂を許さない(根に持たず許し合う)。

ナチの時の「死の行進」になぞらえて、視覚に訴える映像つきの話。以前だったら感動したのかもしれないけど・・・・なんだか気味が悪かった。組織人間として洗脳するのが目的なんだろうなと思って。上手く言えないけど、こんな映像を作ってみんなに見せて何がしたいんだろう・・・ホント気味が悪かった。

●「生きる指針とすべき一言」
イエスが言われた「わたしが父を愛していることを世が知るように(ヨハネ4:31)」。父のご性格を知り、それを生き方に反映する。「父を愛している」ことが行動基準になるように(規則ではなく原則で)。

うん。これはその通りだと思う。ただ、強調された点が「人をカテゴリー分けしない」「人を許す」、というのがなんだかなぁ。イエスがいちいち「み父だったらどうするか」なんて考えたかなぁ。何気にイエスをディスってるよなぁ。

以上です。普段のブロードキャスティングよりは良かったと思いました。

真理を教えましょう

2018-12-14 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事。

この記事は、組織が真理だとしてしている教義、もしくは個々のエホバの証人が組織から(聖書からではなく)教えられて真理だと信じていること、を教えましょうという記事です。

間違いだと確実に分かっていることでさえ、組織は真理だと言い張って、信者は疑いもなくそれを信じて宣べ伝えている。(例えばBC607年と1914年とか福音書の書かれた年代とか)

何を信じるかは自由だけど、それを「真理」だと断言して、上から目線で他の人に「教えましょう」なんて、傲慢もいいところ。(過去、自分もそうだったので、反省してます・・・)

そして、本当に「真理を教えましょう」と言うのなら、組織こそがこの組織の真理を、隠されていない本当の姿を教えなければいけないんじゃないかと。(児童性虐待事件やら寄付金の使い道の詳細やらなんやら)

さて。

記事の内容としては、組織はたくさんの宣教道具を用意してやってるんだからしっかり使えよ、と。

●コンタクトカード。使ったことないや。キーホルダーにして鞄にぶら下げてたことはある。
●招待状。留守宅に入れてたなぁ。個人の区域網羅のために。
●パンフレット。同上。日本で「神の王国は~」は一番使い難いでしょうに、なんでこれを使おうとするの。
●雑誌。最近は研究記事以外の雑誌は読んでないなぁ。それもだんだん読む価値がなくなってきてるなぁ。
●ビデオ。全く見てないなぁ(あ、今月のブロードキャスティング見忘れてた~)。
●冊子。新しいのは出てないのね。
●本。入手できない本のことなんか載せないでよ。

こうやって出版物を見てみると、組織も徐々に終わりに近付いてる感じがします。

使徒たちの活動12~14章(追記あり)

2018-12-12 | 聖書
今回はあんまり十分調べられませんでした。なので概要だけ。

12章は、エルサレム会衆への、ヘロデ・アグリッパ1世による迫害。

使徒ヤコブが剣で殺され、ペテロは投獄されるが、夜にみ使いによって救出される。ペテロはマルコの家に行って報告し、別の場所へ(エルサレムから出て姿を隠した?)。その後、ヘロデはカエサレアで、和を求めに来たティルスやシドンの民の前で、神に撃たれて死ぬ(44年)。

13,14章は、アンティオキア会衆での、パウロの第一回宣教旅行(47年~49年頃)。

13章。バルナバとサウロはマルコを伴ってキプロス島(バルナバの故郷)へ。そこでは、執政官代理セルギオ・パウロが改宗する(一緒にいた呪術者バルイエスを盲目にする)。呼び名がサウロからパウロとなる(9節)。キプロスを出てパンフリアのペルガ(港町)へ行く頃には、主導権はバルナバからパウロに(13節)。マルコはペルガからエルサレムに帰る。ペルガから内陸(ガラテア諸都市)へ向かい、ピシデアのアンティオキアの会堂で、パウロが(イスラエルの歴史からイエスの復活までのことを)話す。永遠の命のために正しく整えられた者(永遠の命へと定められていた者)がみな改宗する。ねたんだユダヤ人たちが迫害を起こしたため、足の塵を払ってイコニオムへ。

14章。イコニオムでも会堂で話す。大勢が信者となるが、ユダヤ人たちとは対立する(市が二分)。かなりの時を過ごして証し(しるしや異兆も)するが、石で打たれそうになりルステラ(テモテ)へ。ルステラでは、生まれた時から足なえの人を癒したことで、バルナバをゼウス、パウロをヘルメスと呼んで、二人に犠牲をささげようとしたので、パウロが(生ける神について話して)それをやめさせる。アンティオキアとイコニオムからユダヤ人が追ってきて、パウロを石で打って市の外に引きずり出すが、翌日にはデルベ(ガイオ)へ向かう。そこでも大勢の弟子を作り、その後戻って、ルステラ、イコニオム、アンティオキアの弟子たちを強め、年長者を任命し、主にゆだねる。さらに戻ってパンフリアのペルガでも語り、アタリアから出帆してシリアのアンティオキア会衆に戻り、神が彼らとともになして下さったこと、神が異邦人に対して信仰の扉を開いて下さったことを報告する。


12:15「彼(ペテロ)のみ使いだろう」。人には各々に守護天使がいると考えられていた・・・?

12:17「ヤコブと兄弟たちに報告してください」。この頃(44年)にはすでに、イエスの兄弟ヤコブが会衆の柱的存在になってたことが分かる。

(追記)

12:25「エルサレムで救援の仕事を十分に果たしてから帰途につき・・・マルコという者を一緒に連れてきた」。11章からの続き。
飢饉が起きたのがクラウディウスの時で45年頃だとすると、まだ飢饉が起きる前にそれを見越して救援のために、ユダヤ各地を回ってエルサレムにも来たってことかなぁ。だとしたらスゴイなぁ。(洞察ではこの救援は46年頃となってるから、飢饉が起きてからと解釈してるってことだね)
ペテロが獄からみ使いに連れ出されてマルコの家に行った時には、まだマルコは居たのかな。マルコはイエスが捕縛された時まだ10代だったらしいから、第一回宣教旅行の時は20代後半かな。

13:10~12「エホバの正しい道」「エホバの手」「エホバの教え」(新世界訳)。原文はエホバじゃなくて主。主に置き換えて読むと、エホバじゃなくてイエスだと分かる。
ここでパウロは、呪術者「バルイエス」(「イエスの子」の意)に対し「悪魔の子」と言って激しい口調で責める。で、一時的とはいえ盲目にしちゃう(癒すのではなく)んだよね。この人は、見えるようになった時、パウロのように回心したのかなぁ・・・

13:39「無罪と宣せられなかった」「無罪と宣せられる」(新世界訳)。他の訳では「義とされ得なかった」「義とされることのできなかった」及び「義とされる」。

13:43「神の過分のご親切」(新世界訳)。他の訳では「神の恵み」「神の恩恵」。

13:44~49「エホバの言葉」4ヶ所(新世界訳)。他の訳では最初は「神の言葉」あと3ヶ所は「主の言葉」。

14:3「エホバの権威のもとに」(新世界訳)。他の訳では「主に基づいて」「主によって」「主を信じて」「主を頼みとして」など。(この節にも「過分のご親切」とあるが、同上)

14:22「多くの患難を経て神の王国に入らなければならない」(新世界訳)。他の訳はおおむね同じなんだけど、田川訳が興味深くて「多くの患難を通ってこそ神の国へと入ることができるのだ」。これだと力強い励ましとなる言葉だよね。(なぜこう訳したのか、いずれ註を読んで確認します)

14:23「信ずるエホバに」(新世界訳)。他の訳では「信じるにいたった主に」「信じている主に」。
ここでパウロは、各会衆に年長者(他の訳では長老)を任命している。聖霊がそうさせたのか、パウロの個人的・人間的な判断だったのか。書いてないから分からないけど、後者だとしたら、単なる人間の組織に成り下がって(言い方悪くてすみません)行ってもしょうがないよね・・・年長者じゃなく、主にゆだねたのはいいことだけども。

14:26。新世界訳だと分かり辛い文。「そこから出帆してアンティオキアに向かった。彼らはその地で、[今や]十分に成し遂げた業のため、神の過分のご親切に託されたのである」。なんだかわからないよ。
他の訳で読むと分かり易い。例えば、新共同訳は「そこからアンティオキアへ向かって船出した。そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である」、田川訳(最近気に入ってる訳)は「そこからアンティオキアへと出帆した。彼らはその地で神の恵みによってこの仕事に委ねられたのだが、(今や)その仕事を果たし終えたのであった」。実に分かり易い。そういうことかぁ。


●書かれてある通りに訳すことってやっぱり大事だと思う。それを基に解釈すればいい(色んな解釈があるとしても)のであって、こうだと決めつけて訳すのは著者に失礼だよね。書き手がエホバという言葉を用いなかったのなら、そこにはそういう著者の意図があるのだから、そのまま訳すべきだよね。それをどう解釈するかが大事なんじゃないのかなぁ・・・
ということで、新世界訳は、読むだけでエホバの証人の教義に染まってしまう気がします。気を付けましょう。

●パウロの宣教旅行は、アンティオキア会衆から始まってる。少なくとも第一回目は、エルサレム会衆(組織の言うところの統治体)は何にも関わってない。全く無関係。聖霊がパウロとバルナバを宣教旅行に行かせた(14:26上記)。つまり、組織の言うところのエルサレムにあった統治体は、第一回宣教旅行に関しては全く役立たず(言い方悪くてすみません)だったってことだね。

趣味(昌磨くん)

2018-12-10 | 趣味
趣味のフィギュアースケート観戦です。

●グランプリファイナル。

ライストは見れませんでした。で、順位を知ってからの観戦となってしまいました。先入観入っちゃって、まっさらで観るのとは違った印象になっちゃいました。

男子1位。ネイサンくん。大きく崩れることなく、安定してきました。自己ベスト更新です。4フリップは素晴らしくあざやかでスマート。昌磨くんの4フリップより好きかも。この構成でパーフェクトしたら、どんな得点がでるんだろう。見てみたい。

2位。昌磨くん。SP。終わって昌磨くん迎えたみほこ先生が「まぁ最低限はやったかな」と。インタビューでは「やってきたこと何一つ出せなかった。4-2にした時点で自分を信じられてなかった。調子悪い中でこれだけできたのは良かった」と。スケート靴にテープぐるぐる巻きにしてる映像もあったし(靴の調子が悪い?)、とにかく表情が終始暗かった(体の調子も悪い?)。楽しめてないんだなぁというのが伝わってくる。
FS。ステップ・シークエンスのあたりから笑ってるんだよね。(体力キツイから? 前2つのコンビネーション失敗したから?)終わった時の表情も、やりきった清々しさというより、やっと終わってホッとして放心してる(何かから解放された)ような感じ。インタビューでは「期待に応えられなかった。コンビネーションで力が入って着氷を失敗した。自分を追い込みつつ、逃げないように」と。

なかなか優勝できなくて、ファンとしてはもどかしいけど、相応の結果なのかなとも思う。今回、点数的に良くなかったかというと、そうでもないんだよね(2位なんだから当然か)。グランプリシリーズは合計277、276、275と1点ずつ落としてきているけど、pcsは少しづつ上げてきていて、フリーは90点越え。自分的にはこれが一番嬉しかった。あと、今回は転ばなかった。とにかく耐えた。耐え切った。
さて次は全日本。今度はどんな演技を魅せてくれるのか。パーフェクトな演技を、期待しないで待ってます。

3位。ジュンファンくん。見る度に上手くなってる。表彰台おめでとう。

男子の自分的好き順位は(誰も聞いてない)・・・①昌磨くん②キーガンくん③ネイサンくん、ジュンファンくん。


女子1位。梨花ちゃん。世の中は梨花ちゃんフィーバー(古っ)ですね。アイドル的存在が出ることは、とてもいいことだと思います。ただ自分、すみません、彼女の上手さがよくわかりません・・・。自分のスケート鑑賞能力の上を行ってるんだと思います。

2位。ザギトワちゃん。一つ一つの音にバッチリはめてくる振りが気分良い。ジャンプもさることながら、つなぎがスゴイなぁと思う。魅入っちゃう。

花織ちゃん4位。知子ちゃん6位(ジャンプの高さが欲しいなぁ。他が良いだけにもったいない)。

5位。ソフィアちゃん。SP、FS、もちろん合計も自己ベスト。これからが楽しみな選手。

女子の自分的好き順位は(誰も聞いてないって)・・・①ザギトワちゃん②知子ちゃん③ソフィアちゃん。

真実を語りましょう

2018-12-07 | ものみの塔
今週末のものみの塔研究記事です。

え~・・この主題、このまんま統治体にお返ししたいと思ったのは、自分だけではないでしょうw。

1920年の「現存する万民は決して死することなし」の小冊子。表題からしてうそじゃん。1925年から昔の忠実な人たちが復活するとか、うそばっかり書いてあったじゃん。
「あなたは地上の楽園で永遠に生きられます」の本で自分は研究したけど、1914年の世代(当時真理を認識できる年齢だった人、若くても10歳前後)が亡くなる前に終わりが来るって学んだよ。(本捨てちゃったから確認できないけど・・)

6節。「宗教指導者のうそは特に悪質です」

まんま統治体じゃん。

9節。「自分を守ったり、得をしたりするために、よくうそをつきます。ミスや悪事を隠したり、金銭や他の利益を得たりするためにうそをつくのです」(バタチャルジーの「なぜ人は嘘をつくか」という記事の引用。バタチャルジーって誰?)

まんま統治体じゃん。

11節。「エホバはすべてをご存知」
12節。「エホバは・・・悪意のあるうそをつき、悔い改めない人は・・・火の湖に投げ込まれます」

統治体の将来は火の湖ってことだね。

16節。「選ぶ音楽や映画やビデオに関する質問もあります」

べテルなどの申込書にこんなくだらない質問があるなんて・・・あきれた。エホバじゃなく、組織にどれだけ忠節かを試してるってことだね。

17節。当局からの尋問には思慮深く・・・って、出たよ、ご都合主義。善意のうそはアリってことじゃん。

18節。重大な悪行を長老に告げる責任。これこそ、思慮深く、だよね。だいたい聖書のどこに、こんな責任があるなんてこと書いてあるんじゃい。

使徒たちの活動9~11章(追記あり)

2018-12-04 | 聖書
ここでは、キリスト教が異邦人に伝わって行った様子が描かれる。

9章では、サウロの改宗。(諸国民への使徒となる)
10章では、異邦人コルネリオの改宗。(ヨッパに居たペテロが呼ばれ、カエサレアに行って)
11章では、エルサレム会衆が異邦人の改宗を受け入れ、アンティオキアに初めて異邦人(無割礼)の交わる会衆が設立される。

9章。

3~9節。サウロの改宗は、弟子から教えられてという宣教の結果ではなく、イエスが光の中から直接話す(ダマスカスへの途上)という特殊なものだった。この出来事はこの書の中で3回も言及されてる(22:6~16,26:12~18)。ルカはパウロの使徒職を確立したかったんだろうな。
そして、学識のあるサウロが理論によってではなく、直接イエスの顕現によって回心に至ったことは興味深い。3日飲み食いしなかった間に、サウロはどれだけのことを考えたんだろう。

14~16節。「み名(イエス)を呼び求める者」「わたしの名(イエス)を・・携えていくための選びの器」「わたしの名(イエス)のために・・苦しみを受ける」。(21節「この名を呼び求める者たち」)
キリスト教は、エホバじゃなくイエスの名を担ってる。ここ大事。

17~18節。ダマスカスに居た弟子のアナニヤ(使徒ではない)が、サウロの上に手を置く。ここでは聖霊が下ることより、目から鱗のほうが強調されてる。サウロの中での変化を象徴してるようで、これも興味深い。

19~25節。サウロはすぐにダマスカスの会堂で、ユダヤ人たちに宣べ伝える。かなりな日数の後、ユダヤ人たちに殺害されそうになり、夜の間に城壁から籠でつり下げてもらってエルサレムへ。
サウロの改宗から最初のエルサレム行きまでに、3年間ある(ガラテア1:17,18)。この間にサウロはアラビアに行って、またダマスカスに戻って来てる。それがいつなのか、なぜなのかは分からない。

26,27節。サウロは「ペテロを訪ねるためにエルサレムに上り、彼のもとに15日間滞在した。他の使徒には会わず、主の兄弟ヤコブに会っただけ」と書いている(ガラテア1:18)。
弟子たち(サウロを恐れている)と交わろうとしているサウロを、ペテロたちに引き合わせたのはバルナバ。バルナバはサウロを知ってたのかなぁ。

28~30節。サウロはエルサレムでもヘレニストたちに宣教した結果、殺されそうになってタルソスに送り出されてる。(22:17~21によるとサウロ個人にも、エルサレムから出るように、という啓示があった)

31節。ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの平和な時期。サウロが去ったから? 

32~43節。ペテロが各地の聖なる者(すでに改宗してた)のところを回る(エルサレム会衆の権威を示すためだったりしてw)。アイネアをいやし、タビタをよみがえらせる。イエスがしていたやり方とよく似てる。「起きて自分の寝床を整えなさい」。皆を外に出して「タビタ、起きなさい(タビタ、クミ?w)」。

ここまでで、サウロは異邦人には宣べ伝えていないんだね。

10章。

14節。ペテロはこの時もまだ律法を守ってた。伝統や慣習を変えるのは難しい。イエスが「外から入って行ってその人を汚すことのできるものは何もない」(マルコ7:15)と言われたことは分かっていたはずなのに。そして諸国民に宣べ伝えなければならないことも分かっていたはずなのに。
エルサレム会衆はかなりユダヤ教におされてたのかもしれない。サウロが殺されそうになったのも、そのあたりが理由だったのかも(ユダヤ教を完全に捨て去った)。

11章。

2,3節。エルサレム会衆のユダヤ人は、ペテロが異邦人にバプテスマを施したことではなく、割礼を受けていない者たちの家に入って一緒に食事をしたことを咎めてる。なんと選民意識の根強さよ。
そして18節。ペテロの話を聞いて、神の偉大さの前で取り敢えずは黙るけど、この後も割礼の問題が論争になっていくんだよなぁ。

でもこれでなんとか、ユダヤ人も異邦人を迎える準備はできた。

20~21節。アンティオキアで異邦人への宣教が始まる。(これもヘレニストたちが行なったのであって、使徒たちではない)

22節。エルサレム会衆からアンティオキア会衆に遣わされたのは、バルナバ。ヘレニストだったからというのもあるだろうけど・・・なんで使徒たちじゃなかったんだろうね。・・・なんかね、バルナバさん、体よく追っ払われちゃったんじゃないかな、なんてね。目立ち過ぎ~(24節)みたいなw。まぁ使徒より目立ってるのは確かだよね。(土地を売って全額寄付し、食料分配の7人に選ばれ、サウロを助ける)

26節。バルナバはサウロを探し、タルソスからアンティオキアに連れて来る。二人はそこで1年間教える。弟子たちがクリスチャンと呼ばれたのは、ここアンティオキアが最初。
ふ~む・・エルサレムが最初ではないということは、エルサレムではイエスを前面に出すことはしてなかった(統治体みたいw)とか。・・まぁバルナバとパウロは、思いっきりユダヤ教を離れてイエスだけを宣べ伝えられただろうけど。

30節。救援のためにエルサレムへ上ったことは、ガラテア書の中には書かれていない。単に省略しただけかもしれないけど・・


組織が主張しているように、エルサレムに統治体があったという前提で読んでると、確かに統治体はあったと思えるようになってきた。伝統や慣習(人間の作った規則)に凝り固まった選民意識の塊が。ただそれは、今の統治体とは違って、人間的な弱さに起因するものなのかなとも思われる。



追記(田川建三氏の新約聖書 訳と註 ヨハネ福音書p474より)
ヘレニスト・クリスチャンはユダヤ教右翼によってえげつなく弾圧され、彼らの代表的な立場にあったステファノスは惨殺され、ほかのヘレニストたちもエルサレムにいられなくなって、亡命し、パレスチナの中でも、ユダヤ人勢力の薄いサマリアや、海岸のヘレニズム的諸都市に逃れた。そしておそらくそこから更に他の土地に、たとえばフェニキア海岸の諸都市にキリスト教を伝えたのも彼らであっただろう。つまり弾圧、亡命後の彼らの活動も目覚ましい物ではあったが、その最初にえげつない弾圧にさらされ、生命の危険にもさらされたということを忘れるわけにはいかない。そして、その時、エルサレム教会の「指導者」、つまり・・ペテロたち一派は何をしたか。何もしなかった。自分たちは「ヘレニスト」の信者たち(つまりユダヤ教のあり方、特に神殿を至上の場所として崇め奉る宗教体制を鋭く批判したが故に弾圧された人たち)とは関係がないとばかりに、この時、まったく何もせずに、手つかずに無事にエルサレムに根を張り続けていたではないか。つまり、イエスが何者であり、イエスを本気になって信じようとしたヘレニスト信者たちが何者であろうと、ペテロたちは無事おとなしくユダヤ教権力ににらまれないようにエルサレムに安住していたのである。

ヨハネ福音書 訳と註

2018-12-02 | 聖書
新約聖書学者の田川建三氏の著作、「新約聖書 訳と註 ヨハネ福音書」を図書館で借りて来て読んでいる。

ちょうど自分なりにヨハネ福音書の考察(といえるほど偉そうなものではないけど)を終えたところだったので、とても興味深く読ませて頂いている。


田川氏によるとヨハネ福音書は、「一人の非常に独特の個性のある、いろいろ癖はあるがまことに面白い著者の作品が、後の編集者たちによって、正統主義的ドグマを表明する文章があちこちにはめ込まれていった」ものだという。

著者(使徒のヨハネではない)は、「イエスが神の子である、つまり、世を絶対的に超越した神的存在である」こと、それを「(パウロと違って)宗教理論、宗教信仰として言い立てるのではなく、神の子である者が本当に人間として我々の世界に姿を顕したのだ」ということが言いたかった。
そして「ペテロたちが形成したキリスト教の実態に対する極めて鋭い批判」、「ユダヤ教批判」なども。

まだ12章までしか読んでないけど、編集者たちが挿入したという部分は、言われてみると確かに「ドグマを表明する」もので、前後の文章とつながらなかったり、矛盾してたりもする。

これはかなり、目から鱗。

聖書が初期から、教義に合わせて改竄されてきたとなると・・・・・う~~~~ん。