やっと、沖縄辺野古の情報がマスコミで流れるようになりました。いま日本で、もっとも大きな動きといえば、「集団的自衛権に基づく日米防衛協力」にむけて着実に、強引に進められているこの動きだと思うのですが、マスコミ情報は立てこもりの元暴力団と母殺しの高校生の情報でいっぱいです。不思議ですが、辺野古情報が出始めたのは、このブログをはじめ、あちこちのブログやメーリングリストですでに飛び交っているためかもしれません。もはや、隠してもしょうがないと・・。今日は、少し、普天間代替基地の経緯を追ってみました。
朝日記事→http://www.asahi.com/national/update/0518/TKY200705180041.html
読売記事→http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20070518i303.htm
グリーンピースジャパンの事務局長星川淳さんが防衛施設庁に抗議声明を出しました。→http://www.greenpeace.or.jp/info/features/okinawa/blog_jpn/382
辺野古の海が米軍の普天間代替ヘリポートとしてねらわれることになるのは、1995年11月に開始されたSACO(沖縄に関する特別行動委員会)に端を発します。日米安保体制の下での、誤射誤爆の事故や多発する米兵による婦女暴行(殺人を含む)事件、米軍車両による交通事故・・など、沖縄の負担を軽減するために一部の基地返還や日米地位協定の運用改訂などが盛り込んだ最終報告書が1996年12月2日に出されました。
それまでの沖縄での事件→http://www.okinawatimes.co.jp/spe/spe_incident.html#6
宜野湾市のど真ん中にあり、市を東西に分断する普天間基地の撤去もこの中に盛り込まれました。2004年の沖縄国際大学へのヘリ墜落事故も、まさにこの環境の中で起こっています。普天間基地の撤去は、いわば悲願でした。
普天間基地代替問題年表→http://www.jca.apc.org/HHK/Heliport/99/chrono.html
SACOはそれを実現すると約束しました。しかし、それには代替基地がいると明記したのです。わざわざ付属文書としてつけられました。この文書は、代替施設の検討場所として嘉手納基地、キャンプシュワブ(辺野古)、海上施設の三つがあったとし、海上施設を推奨する結論とし、いかにも辺野古を避けたように見せています。しかし、海上施設の場所は「沖縄本島東海岸」と明記し、そのときすでに辺野古がターゲットであることをほのめかしていました。
SACO訳文→http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/usa/hosho/saco.html
その後、代替ヘリポート建設をめぐって辺野古をかかえる名護市では激しい反対運動が起こります。1997年12月の住民投票では52.8%が反対で、その後に当時の比嘉名護市長が受け入れ表明して辞任という理解に苦しむ辞め方をします。
しかし翌年2月の市長選では、建設賛成派の岸本氏が当選します。これに対し、当時の太田県知事は県として建設反対表明をします。ところが、その年秋の県知事選では、建設容認派の稲嶺氏に太田知事は敗れてしまいます。
政府は稲嶺氏当選なら、開発名目のふんだんな資金を沖縄に投じると約束したと言われています。事実、太田県政時代とは比べ物にならない補助金が沖縄振興の名のものとに投入されるようになりました。1999年4月には沖縄サミットの開催まで決定されます。
これに対し名護市の辺野古地区行政委員会(18人)は1999年9月に基地建設反対決議を上げます。この頃、代替ヘリポートは10年の期限付きとされていたはずなのに、米側文書(国防総省報告書)では運用年数40年、耐用年数200年となっていることなどが暴かれます。1999年12月には沖縄タイムス等の世論調査で建設反対が59%と増えます。賛成派23%しかない。それなのに、12月23日名護市議会は「移設推進決議」をあげるのです。
こうして1999年12月28日、もう御用納めだろうという日に、辺野古への基地移設の閣議決定が行われます。圧倒的な差で辺野古への道が作られたわけではなく、市政、県政の選挙における微妙なわずかの意思表明の差が、辺野古をここまで追い込んできたように見えます。むしろ、県民、市民の気持ちは反対なのに議会構成は推進のスタンスとなっています。まるで、9条改憲反対の国民が多いのに、9条を含む改憲派多数となっている「今の国会」のようです。
辺野古の状況は閣議決定後も二転三転します。2004年4月からは、地元のおじいおばあとその支援者たちによる座り込みがはじまりました。もう3年も続けています。この間にも、いろいろなことがありました。海上、陸上での反対運動の高まりに、政府は辺野古沖合案を撤回、現基地の敷地を大部分含む辺野古沿岸案に変更、さらに地元の反対が強まると、滑走路の向きを変え、最終的にはV字型滑走路へと・・。ところが、これには稲嶺知事が強硬に反対・・と。
私自身も、2000年頃に辺野古に行きました。真っ白い砂に真っ青な空の晴れ渡った夏の日でした。警備の米兵もまだ穏やかでした。しっかり銃を構えていましたが。環境派の私としては、まずこの美しい海が代替ヘリポートに変えられることが耐えられないと思いました。海の中には沖縄本島では減少の一途をたどる珊瑚礁がここには健在で、世界的に貴重なジュゴンのコロニーも存在する海です。
でも鉄条網をくるくる丸めて作ったフェンスのむこうには、日本ではない土地がありました。どんなに汚そうが、どんなに毒を流そうが、日本の法律では止めることのできない世界です。普天間基地が撤去されれば、宜野湾市の人は嬉しいが、それが辺野古にやってくれば、誤射誤爆、墜落事故の危険はこちらにやってくるだけです。それは日本のどこに持っていっても、世界のどこでも同じことです。軍事基地とは人間社会とは相容れないものなのではないでしょうか?
そんなものを人間社会を守るために必要とする・・というのは本当に正しい論理なのでしょうか?
9条改憲というテーマの前で、私たちが問われているのも、この問いなのではないでしょうか?軍隊がいるのだろうか?それは国民を社会を市民生活を、本当に守るものなのだろうか?
小康状態・・だったかもしれない辺野古の状況は、昨年から緊迫してきました。名護市長選での(勝てたはずの)反対派の敗北、そして沖縄で稲嶺氏の引退と新知事誕生です。
名護市長選は2006年5月に行われました。推進派の岸本市長の後継の島袋氏に対し、共産党、社民党、民主党、自由連合、沖縄社会大衆党が推薦する反対派の我喜屋氏が挑んだが5000票差で敗れたのですが、もう一人「反対派」が出ていて、この方が4000票以上を取っています。もし両陣営が一つになっていたら、票差は逆転していたかも知れません。辺野古がこのまま破壊されたら、まさに運命を決した選挙だったということになるかもしれません。
今回の海上調査は5月14日から開始されました。しかし、沖縄県にも、名護市にも正式な連絡も許可も取っていなかったようです。抗議の人たちの裏をかくための突然の開始、沿岸案に難色を示す市長と県知事への牽制・・というような意図もあったのでしょうか?
そんな中で、辺野古地区行政委員会は99年に上げた反対決議を5月15日に全会一致で撤回したというニュースも流れています。いろいろなことが裏でうごめいています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます