駒澤大学「情報言語学研究室」

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「東京方言と名古屋弁」学びの系譜

2023-05-28 18:09:28 | 方言

                            2019年5月21日
lr9089「東京方言と名古屋弁」学びの系譜
名古屋弁の一例

東京方言 意味 名古屋弁
じゃんけん じゃんけん いんちゃん
疲れる 疲れる えらい
かける (鍵を)かける かう
黄色い 黄色い きいない
自転車 自転車 けった
です(だよね) です(だよね) だがや(だがね)
運ぶ 運ぶ つる
非常に 非常に どえりゃあ
鋭い とがっている様子 ときんときん
ビリ、最下位 ビリ、最後 どべ
捨てる 捨てる ほかる
もう一度 もう一度 まっぺん
準備 準備 まわし
久しぶり 久しぶり やっとかめ

(引用元:平成26年度丹後・東海地方の文化方言等調査事業報告書 丹後・東海地方のことばと文化~兄弟のようなことばを持つ両地方~ 京丹後市教育委員会 p.37・38参考資料)

実際に楽曲の歌詞に表現されている「名古屋弁」
楽曲①:なごやめしのうた(BOYS AND MEN)
・「うみゃあ」…おいしい        ・「でら」…とても
・「どえりゃあ(どえりゃー)」…すごい  ・「○○しよまい」…○○しようよ
 「名古屋弁」だけでなくて、名古屋の食べ物や観光地の名前がたくさん出てくるので、名古屋の良さを知ることのできる楽曲であると感じた。

楽曲②:NAGOYA’N’イングリッシュ(祭nine.)
・「おみゃあ」…あなた      ・「えらい」…疲れた
・「いんちゃん」…じゃんけん   ・「どべ」…最下位
・「ほかる」…捨てる       ・「けった」…自転車
・「やっとかめー」…久しぶり   ・「まっぺん」…もう一度
・「ときんときん」…鋭い     ・「まわしする」…支度する
・「しゃびんしゃびん」…水っぽい ・「きいない」…黄色い         など
この楽曲の歌詞に「名古屋弁」がたくさん出てきて、名古屋弁と英語を結びつけているところが斬新だと感じた。

参考資料との連関性
・参考資料に出てきた「名古屋弁」のなかに、楽曲で聞いたことがあり、意味を知っている言葉がいくつかあった。
・楽曲の歌詞で表現されている言葉は、今回の参考資料からみて、「名古屋弁」のなかの「尾張弁=岡崎・三河方言」に近いと考えられる。

 


翻譯『伊蘇普物語』二種

2023-05-28 14:00:35 | 日日昰記録

 新譯伊蘇普物語』上田萬年解説〔一九〇七(明治四〇)年刊〕
第百十九 驢馬(ろば)と小犬(こいぬ)
  驢馬(ろば)が、主人(しゆじん)に可愛(かわい)がられる小犬(こいぬ)の身(み)のうえを羨(うら)み、犬(いぬ)めが種々(いろ〱)の御馳走(ごちそう)に飽(あ)いて、榮華(えいが)に育(そだ)ち、大騒(おおさわ)ぎをやられるのわ、唯(たゞ)尾(お)を掉(ふ)つて、戯(ふざ)けまわり飼(かい)主(ぬし)の膝(ひざ)え上(あが)つて甘(あま)えるからなので、他(ほか)に是(これ)と云(い)う能(のう)がないでわないか。
 自分(じぶん)も一(ひと)つ犬(いぬ)の眞似(まね)をして、主人(しゆじん)の氣(き)に入(い)ろうと、或(ある)日(ひ)主人(しゆじん)が外(そと)から歸(かえ)つて來(く)るのを待(まち)受(う)けて、ヅカ〱座敷(ざしき)に上(あが)り、其處等(そこら)を爬(か)きまわつたり、跳歩(とびある)いたり、妙(みよう)な樣子(ようす)をして見(み)せました。
  主人(しゆじん)が可笑(おかし)がり、默(だま)つて見(み)て居(い)ましたが、驢馬(ろば)わ益(ますま)す圖(ず)に乘(の)つて、狎(な)れ〱しげに主人(しゆじん)の膝(ひざ)え取(とり)つき、前脚(まえあし)で戲(じや)れかゝりますので、此(これ)わ堪(たま)らぬと、主人(しゆじん)も驚(おどろ)いて、大聲(おおごえ)で喚(わめ)きますと、雇人(やといにん)が大勢(おおぜい)駈(かけ)けつけ、寄(よ)つて集(あつま)つて驢馬(ろば)を棒(ぼう)で打据(うちす)えました。
【訓(くん)言(げん)】人(ひと)に本分(ほんぶん)あり、人(ひと)わ其(そ)の本分(ほんぶん)を守(まも)るべし。
【解(かい)説(せつ)】上流(じようりゆう)の風習(ふうしゆう)に慣(な)れぬ者(もの)が、濫(むやみ)に叮嚀(ていねい)に出(で)て、却(かえ)つて人(ひと)を煩(うるさ)がらせるとがありますが、其(そ)の極端(きよくたん)な例(れい)を爰(こゝ)に説(と)き示(しめ)したものです。お世辭(えいじ)も下手(へた)にやれば、却(かえ)つて人(ひと)に厭(いや)がられるばかりで、自分(じぶん)でわ相手(あいて)の機嫌(きげん)を取(と)る心算(つもり)でも、先(さき)わ却(かえ)つて迷惑(めいわく)を感(かん)ずるのですから、禮儀(れいぎ)も大概(たいがい)にして置(お)かなければなりません。美(うま)い物(もの)が、必然(ひつぜん)滋養(じよう)になるとわ決(きま)つたものでもあり。
  尚(なお)この驢馬(ろば)の話(はなし)わ、自分(じぶん)の柄(がら)にもない人(ひと)の職(しよく)業(ぎよう)を可羨(うらやま)しがり、或(あるい)わ不適当(ふてきとう)な地位(ちい)を望(のぞ)み、或(あるい)わ自分(じぶん)にわ、迚(とて)も解(わか)つて居(い)そうもない事(こと)を、知(し)つたか振(ふり)に吹聴(ふいちよう)するなど、世(よ)に有(あり)勝(がち)な「我身(わがみ)知(し)らず」の人(ひと)を、譏(そし)つたものとも解(と)れましよう。
それに就(つ)いて面白(おもしろ)い談(はなし)がありますが、昔(むか)し希臘(ぎりしや)の名高(なだか)い畫家(がか)で、アベレスと云う人(ひと)の描いた畫(え)を、或(ある)靴屋(くつや)が見(み)て、畫(え)のなかの人物(じんぶつ)の靴(くつ)の缼點(けつてん)を指摘(してき)した時(とき)、アベレスわ直(たゞ)ちに其(そ)の忠告(ちうこく)を容(い)れ、其(そ)の部分(ぶぶん)を訂正(ていせい)したのです。
處(ところ)が靴屋(くつや)わ、今度(こんど)わ又(また)他(ほか)の部分(ぶぶん)に就(つ)いて、批評(ひひよう)を試(こゝろ)みようとしましたから、アベレスわ「如何(いか)に堪能(たんのう)でも、總(すべ)て他(た)の業(ぎよう)に適(てき)すると云(い)う譯(わけ)にわ行(い)かぬ」と云(い)つて、取(とり)あげなかつたと云(い)う事(こと)です。
  人(ひと)にわ各(おの〱)長所(ちようしよ)短所(たんしよ)があるのですから、少(すこ)し物(もの)が出來(でき)ると云(い)つて   威張(いば)るのも惡(わる)いし、又(また)妄(むやみ)に人(ひと)の眞似(まね)をするのも宜(よろ)しくない事(こと)です。

 渡邊温譯『通俗伊蘇普物語』明治八年
 第四十六 驢馬と狒狗(ちん)の話(60)
或人狒狗(ちん)と驢馬とを畜(か)ふに、驢馬をば遠く廏につなぎ、 飼ふに豆や草を以てし、狒狗をば近く左右(かたはら)におき、 飼ふに膏味(かうみ)を以てして、時にふれては膝へ上げ、 愛玩する事甚し。
驢馬常に思ひけるは、狒狗は毎日遊び戲れ、 旦那へざれては可憐(かあい)がられる、夫に引かへ吾(わし)はマア、 用ばかり多くして、晝は木を牽き、夜は車を廻し、 骨の折れる事ばかり、ナント狒狗が樂でゐられるのは羨敷(うらやましい)わけじやアないか、吾(わし)も狒狗と同じ樣に旦那樣へじやれ付いたら、彼(あれ)と同樣に可憐(かわい)がられるだらうと、或日絆(たづな)をふり切つて座敷の上へ駈上り、爬(かい)たり躍(はね)たり妙な容態(そぶり)で狂ひ廻り、果は主人の飯を喰て居る處へ跳込むと、食机(ぜん)は倒(かへ)る汁は覆(こぼ)れる、皿小鉢は踏こはされる。驢馬はこゝぞと圖に乘て、主人へ抱付き尾を振て、 口をなめんとしたりけるが、恰好(をりよく)臺所より男どもが駈付けて來て、 スハ、旦那の一大事と、手に~棒をふりひらめかし、主人を救ひ驢馬を打倒し、半死半生になしければ、驢馬は頻りに歎息して、「吾(おれ)はマア、 まぜ自己(じぶん)の本文(もちまへ)を守らなかつたらう。
呆狗(くだらねえやつ)の眞似をしてとんだめに逢(あつ)た」。


近代の寓話集『伊蘇普物語』―黄金の卵―

2023-05-24 18:25:45 | YeStudyの知的資源

新譯伊蘇普物語上田萬年解説〔一九〇七(明治四〇)刊〕架蔵本

 

第百四十一 黄金(おうごん)の卵(たまご)

 或(ある)人(ひと)が一(いち)羽(わ)の鵞鳥(がちよう)を飼(か)つて居(い)ましたが、其(そ)の鵞鳥(がちよう)わ日(ひ)に一(ひと)つ宛(ずつ)黄金(おうごん)の卵(たまご)を産(う)みますので、殊(こと)の外(ほか)大切(たいせつ)にして居(い)ました。

 處(ところ)が其(そ)の後(ご)段々(だんだん)慾(よく)が増長(ぞうちよう)し、こんな卵(たまご)を産(う)むからにわ、腹(はら)に黄金(おうごん)の大(おう)塊(かたまり)があるに相違(そうい)ない、一(ひと)つ宛(づつ)取(と)つて居(い)るよりか、寧(いつ)そ一時(いちじ)に取(とり)出(だ)して見(み)ようと、或(ある)時(とき)鵞鳥(がちよう)を殺(ころ)して見(み)ますと、さて何(なん)にも見(み)つかりませんでしたので、大(おお)いに失望(しつぼう)したと云(い)うのです。

訓言(くんげん)】有(あ)れば有(あ)るだけ欲(ほ)しくなる。
解説(かいせつ)

 勤勞(きんろう)わ人生(じんせい)の常態(じようたい)であります。

 少年(しようねん)の教育(きよういく)にしても、單(たん)に讀書(どくしよ)數學(すうがく)をのみ教(おし)えるに止(とゞ)まらず、併(あわ)せて人(じん生)せい)の実際(じつさい)問題(もんだい)たる生活(せいかつ)の幸福(こうふく)を得(う)る爲(ため)にわ、眞面目(まじめ)な勞働(ろうどう)が必要(ひつよう)であると云(い)うことを、頭(かしら)に注入(ちゆうにゆう)しなければならぬのです。
 他日(たじつ)の不幸(ふこう)に備(そな)える爲(ため)に、或(ある)わ自分(じぶん)の高尚(こうしよう)な希望(きぼう)を達(たつ)するために、勞働(ろうどう)して或(ある)物(もの)を蓄(たくわ)えるのわ、最(もつと)も貴(たつと)ぶべき人間(にんげん)の美點(びてん)で、其(そ)の正直(しようじき)な勞働(ろうどう)わ、殆(ほとん)ど神聖(しんせい)といつても可(か)いくらいです。
 處(ところ)が世(よ)にわ、此(こ)の眞面目(まじめ)な勞働(ろうどう)を厭(いと)い、飽(あ)くことを知(し)らぬ貪慾(どんよく)を充(みた)したいばかりに、一時(いちじ)に大(おお)きな結果(けつか)を收(おさ)めようとして、却(かえ)つて何(なに)物(もの)をも得(え)ず、甚(はなはだ)しいのわ、有(あ)る物(もの)までも失(しつ)して了(しま)う人(ひと)が澤山(たくさん)あります。

 此(こ)の話(はなし)の男(おとこ)わ、其(そ)の標本(ひようほん)の一(ひと)つで、詰込(つめこみ)もも〱とした財布(さいふ)が破(やぶ)れて、尻(しり)から財寶(たから)が殘(のこ)らず脱(ぬ)けて了(しま)つたと一般(いつぱん)です。

 骨(ほね)を折(お)らずに、一足飛(いつそくとび)に何(なに)か大儲(おうもうけ)をしようなどと目論(もくろ)む人(ひと)ほど、氣(き)の毒(どく)なものわないので、絶(た)えず苦(くる)しみ悶(もだ)え、唯(たゞ)の一時(いちじ)も氣(き)の靜(しず)まる時(とき)がありませんから、死(し)ぬまで生活(せいかつ)の眞味(しんみ)を知(し)らずに終(おわ)るのです。

 此の文章では、係助詞「は」を「わ」で表記しています。口にのぼらせたときの発話に併せた表記を行っているのが特徴です。

 同じく、「大塊」「大儲」の熟語も「おかたまり」「おもうけ」と表記しています。

これ以前に編纂された『通俗伊蘇普物語』では、

第七十九 鶩黄金の卵を産む話(110)

或人鶩を飼しに、日々黄金の卵一ツを産めり。

主人是をよろこぶ事かぎりなし。

雖然かく日に一ツづゝにては益の付方甚だ遲し、 如かず一度に寶を得たらんにはと、やがてあひるをしめころして腹のうちをせんさくするに、 さらに尋常のあひるにことなる事なかりしと。

としています。上田萬年が意図した解説こそが当に「新譯」として相応しいものとなっています。

「ガチョウと黄金の卵」―学生のYeStudy提出報告書より抜粋―

  ★この物語の内容

 ある農夫の飼っているガチョウが毎日一個ずつ黄金の卵を産み、農夫は金持ちになる。しかし、一日一個の卵が待ち切れなくなり、腹の中の全ての卵を一気に手に入れようとしてガチョウの腹を開けてしまう。ところが腹の中に金の卵はなく、その自身にとって最も貴い黄金を産むガチョウまで死なせてしまう。

  ★この物語の教訓

 欲張り過ぎて一度に大きな効果を得ようとすると、その効果を生み出す資源を失ってしまうことがある。効果を生み出す資源をも考慮に入れる事により、長期的に大きな効果を得ることができる。

 Those who have plenty want more and so lose all they have.

 


あぢさゐ【紫陽花】

2023-05-10 17:18:37 | 日日昰記録

                     2003.07.06~2023/05/10 更新
   あぢさゐ【紫陽花】
                                                                          萩原義雄識

 江戸時代の曲亭馬琴『増補俳諧歳時記栞草』〔夏之部あ〕に、
    紫陽花(あじさゐ) 四葩花(よひらのはな) [韻語陽秋]唐の招賢寺(せうけんじ)に山花あり。色紫、氣香(かうば)しく、穠麗(れい)愛すべし。人、其名を知る者なし。白樂天、これを過(よぎり)て標(へう)をなす。其名を紫陽(しやう)といふ。[和漢三才圖繪]其(その)莖(くき)叢生す。莖(くき)・葉(は)、綉毬(てまり)の葉に似て、五月花をひらく、云云。此花もまたてまりの花に似て、淡碧色(うすみどりいろ)。一名、四葩(よひら)の花。[夫木]あぢさゐのはなのよひらはおとづれてなどいなのめのなさけばかりは 俊頼

とあって、日本人が梅雨時に風情を感ずる花の一つとして、和名「あぢさゐ」として今も親しまれている花がある。その語源は、大槻文彦編『大言海』にいう「集真藍(あずさあい)」ということばであり、「あづ」は「あつ」の語根で集まるの意、「さい」は「さあい」(真藍)からきたことばで、藍色の花がいくつも集まって咲くと言う意味から、この花の形状と色彩とが複合化して一つの花の名称となったものである。異名としては、「よひらのはな【四葩花】」とも呼称され、実際には中国にも「八仙花」という名でこの花があって、唐の白楽天(白居易(七七二~八四六))が「招賢寺」にて詠じた詩(『白氏文集』の詩「紫陽花」所収)に見えている「紫陽」の花の語は、その後の中国文献資料からはなぜかしら見出すことができないという不思議な花でもある。
 というのも、現在では庭園の草花として平地にも栽えられているが、もともとは山地に咲く花であったのであろう。中国の詩人、そして作家及び作画者たちの目を奪う花の対象からも疎遠な花の一種であった。この花が本邦にあって細々ではあるが賞美されたのは、仏教崇拝に遵って山ごもりしてすごす都人が六月の梅雨時に可憐な色合いを見せ、うっとうしい雨雲の間隙をぬって光り射しに映えるかのようにその色合いを七変化に見せていくこの花の美しさに目を奪われるようになったことに由来するからであろうと私は思うのである。実際、『万葉集』卷二十・4448に、
    「安治佐為能  夜敝佐久其等久  夜都与尓乎  伊麻世和我勢故  美都々思努波牟 /右一首左大臣寄味狭藍花詠也」

という一首があり、、平安期に六首、鎌倉期に十五首、室町期に五首ほどがあるのみにすぎない。それに付随する歌学書では、『八雲御抄』卷第三に、
    「阿知佐井 万に、やへくさと云り。歌〔に〕難詠物也」〔312頁〕
と記載が見られる。
 また、平安時代の古辞書源順編廿卷本『和名類聚抄』に、
    「紫陽花 白氏文集律詩云紫陽花、和名安豆佐爲」〔那波道圓本元和版、勉誠社文庫887⑦〕
 とあり、かつ、観智院本『類聚名義抄』にも、

紫陽花、アヅサ井」〔僧上五③〕「𦳄、音便、アツサ井」〔僧上五三④〕と記載され、同じく黒川本『色葉字類抄』に、「紫陽(シ ヤウ)花、アツサ井。𦳄、同」〔下二二オ③〕
と記載され、室町時代の広本(文明本)『節用集』に、
 「紫陽(アヂサヱ)シヤウ、ムラサキ・ミナミ 草也」〔草木門745⑤〕
『佚名分類辞書』花草に
 「紫陽(シ ヤウ)、アヅキ(サ)イ紫陽花(シヨウクワ)也。今按此是繍毬花(シウキウクワ)也。紫綉毬(シシウキウ)紅綉毬(コウシウキウ)」とある。

 江戸時代の『書字考節用集』(村上平樂寺藏版)には、

紫陽花(アチサ井)アヅサイ[白文集]/[夫木集]。線繍花(同)」〔485①〕

とある。本邦古辞書にあっては、「紫陽花」として継承されている。そして、本草学からこの花を見たとき、花びらは解熱剤に、葉は瘧(おこり)病に特効があるのみでなく、その堅い茎は木釘や楊枝の材となった。このことは古の寺院が担った医療実務には必須な藥草の一種であり、この観点からも、仏教社会とは密接な花(植物)の一つであったのではないかと見るのだがいかがなものであろうか。
 馬琴は中世の歌人俊頼の『夫木和歌集』卷九所出の和歌「あぢさゐのはなおとづれてなぞいなのめのなさけばかりは」の歌を引用する。江戸時代の俳人松雄芭蕉も「紫陽花や帷子時の薄浅黄」(陸奥鵆)と詠む。また、江戸時代後期には、オランダ商館の医師として来日したシーボルト(オランダ人)が愛妾であった長崎丸山の遊女、楠本滝「お滝さん」を「オタクサ」と呼び、これを紫陽花の学名「Hydrangea Macrophylla var. otaksa」にし出版したことで一気に世界へ広まったものである。
 そういう私もこの紫陽花の好きな一人である。現在、おりしもこの時節に「母の日」という記念日があり、この日には通例「カーネーション」という花を贈る習慣が根付いている。だが、日持ちの良い「紫陽花」を 「カーネーション」の代わりに母に贈る人もいる。故郷の庭に一苗一苗栽えつづけられ、やがて「紫陽花」の園がこの方の家に誕生する日もそう遠くは無かろうと思いをはせるとき、母と娘のまさに思いで深い花ともなろうというものだ。

 現代では、「あじさい」は、各地の寺院にその花が植栽されていて、これを愛でることができる。「あじさい寺」などとも呼ばれ、多くの参拝者の目を和する花模様で親しまれている。

《補注》
※大槻文彦編『大言海』に、
 「あぢさゐ(名)【紫陽花】〔集眞藍(あづさあゐ)の約転(阿治の語原を見よ、眞青(さあを)、さをとなる)〕又、あづさゐ。灌木の名。高きは五六尺に至る、葉は、對生して、大きさ四五寸あり、長楕(ながいびつ)にして、先き尖り、周辺に鋸葉あり、初夏に、茎の頭に、小さき花を開く、四弁にして、数十むらがり咲く、歌に、四枚の花と詠めり、色は、初め、黄白にして、後に、碧、或は、淡紫等に変ず、故に七変化の名あり。紫繍毬。万葉集、四57「味狭藍(あぢさゐ)」同、二十46「安治佐爲(あぢさゐ)の、八重咲くごとく」六帖、六、草「あぢさゐの、花の四片(よひら)に、逢ひ見てしがな」倭名抄、二十16「白氏文集律詩云、紫陽花安豆佐爲(あづさゐ)」名義抄「同、あづさゐ」〔八〇④〕と記載する。
※「紫陽花  白居易」の詩は、前書きに「招賢寺有山花一樹、無人知一レ名、色紫花気香、花芳麗可愛、頗類仙物、因以紫陽花一名之」とし、
 「何年植向仙壇上 早晩移栽到梵家 雖人間人不識 與君名作紫陽花

という。

この「紫陽花」は紫色の花が咲く木犀であり、唐の李徳裕が『平泉草木記』で「紫桂」とし、本邦には産しない樹木であるとした。源順がこの表記に「安豆佐爲」と認定したことが今日まで誤認され、継承され続けているのだが、この花の紫色は、邦人の目には一つの確かさとして伝えられてきたことも事実である。
※『名義抄』『色葉字類抄』のもう一つの表記字「𦳄」の字だが、『新撰字鏡』に、「𦳄、止毛久佐又安地佐井」(巻七453⑦)とし、大東急記念文庫蔵『字鏡集』卷第二に、「𦳄、音便/アツサへ」〔卅五オ①〕と記載が見えている。昌住がこの表記字を何により、「安地佐井」と収録したのかが焦点となってきている。

 すなわち、「𦳄」の字については、『康煕字典』に、「𦳄集韻、毘連切音跿、類篇、 𦳄縷草名」とあって、これが何故この花の名となったかは、編纂者昌住にしか解し得ていないことになる。そして、学僧の手になる古辞書からやがては公家・武家などの智者がその所以を検証することなく、文字表記として今日まで定着をみてきた表記漢字の一種となってきている。この事柄については、漢学者の目は冷ややかであり、この文字表記に「あづさゐ」、転じて「あぢさい」「あぢさゑ」「あぢさへ」などの和名は、一切収録をしないというのが鉄則した編纂方針のようである。

《ことばの情報》
1,近代文学の作品名
 ①永井荷風の『あぢさゐ』…作品中には、「あぢさゐ」の語は未収載にする。
 ②吉行淳之介の『紫陽花』
2,〈テレビウォッチ〉古い緑色の肉は見るからに危険そうだが、何の害もなさそうな緑の葉にも危険なものがある――。番組によれば、茨城県のイタリアンレストランで、あじさいの葉を鶏肉料理に添えて出したところ、八人の客が嘔吐など食中毒の症状を訴えたという。知らなーい
   あじさいの花や葉、芽には青酸配糖体なる毒が含まれているそうだが、レストランは知らずに飾りとして出してしまったという。もっともスタジオのコメンテイター一同もあじさいの毒は「知らなーい」と口をそろえる。
   作家の室井佑月は「水菓子の下にあじさいの葉が敷いてあったことが……」と思い出す。赤江珠緒キャスターも「この時期、お花は飾りとしてよく使われてると思いますけどね」こんな現状ならば、ひょっとして知らずに食べてしまうこともありえるかも? 〔2012.05.16更新〕

 


はやて【颯】

2023-05-01 16:35:12 | ことばの溜池(古語)

2020/05/19 更新
はやて【颯】
萩原義雄識

小学館『日本国語大辞典』(略して『日国』)第二版には、(2 )の意味として「(かかると直ぐ死ぬというところから)疫痢の異称。」という意味説明がある。語用例としては、江戸時代の
*天野信景(あまのさだかげ)随筆『塩尻』〔一六九八(元禄一一)~一七三三(享保一八)年頃〕第六八に、
「小児暴瀉し頓に死するもの多し、(府下の庸医はやてといふにや)」
*『橘黄年譜』天保八年〔一八三七(天保八)年〕上卷に、
「吐利甚、脈弦数、身熱焼が如く〈略〉俗間称して早手と云。蓋迅速にして死するの意と云」と記載する。古辞書では、表記は、
  ①【暴風】文明・易林・書言・ヘボン
  ②【疾風】言海
といった二種の表記例に留まる。かな表記と漢字表記「早手」の併せて二例である。
 そこで、『塩尻』四十二(『古事類苑』方技部一七疾病三より)を閲覧してみると、小児暴潟し頻に死するもの多し、府下の庸医ははやてといふにや、諸藥驗なく見へし、○ ○ ○然るに医家必読曰、漿水散〈治暴潟如水一身尽冷汗出、猶脈弱気少不能言、甚者嘔吐此為急病、〉半夏〈一両蘭製〉良薑〈二匁五分〉乾薑〈砲〉内桂〈各五匁〉甘草〈炙五匁〉附子〈砲五匁〉右細末して、毎服〈四匁〉水二鐘煮一鐘服雲々、
とあることが明らかとなる。他に『日国』では未収載だが、『時還讀我書』卷下に、
 鎮西諸州ニハ夏月、小兒ノ暴利多ク行ハルトキケリ、筑前ハ其證最モ夥シ、  余{○多紀元堅}彼藩ノ醫青木春澤ニ乞テ、其概略ヲ録セシム、今コヽニ掲出スト云フ、暴利ハ多ク六月頃ヨリ八九月頃マデアリ、就レ中後稍涼風ヲ催ス時節最多シ

と云う記載があって、漢字表記「暴利」と記載されている。訓みは「はやて」かと推測するしかない。

 この「暴利」も疾病として、『古事類苑』は引用しているが、『日国』第二版には意味説明すら未収載なのである。今暫し、検証を重ねた上で取り込むことが必要となろう。
現在の方言では、(8 )流行病。《はやて》島根県仁多郡・隠岐島725(9 )疫痢。《はやて》長野県上伊那郡488 愛知県愛知郡563 名古屋市(疫痢に似た子供の病気)567としている。だが、現行の調査報告書には、疾病の語は「隠岐方言の特徴ー合同調査の報告を兼ねてー」(平子達也)〔二〇一八年、国立国語研究所共同プロジェクト〕
https://www2.ninjal.ac.jp/past-projects/endangered/report/research-report-on-okinoshima-dialect.html
にも残念ながら取り上げられていないことが確認出来た。
続いて、単漢字「颯」を和語「はやて」と読んだ資料は何処にあるのだろうか?探って見たいと思う。
 まず、最初に行った作業は「ふりがな文庫」へのアクセスであった。以下に示そう。
 疾風67.0%
 颶風14.3%
 暴風5.5%
 早手3.3%
 早手風2.2%
 迅風2.2%
 旋風1.1%
 暴風雨1.1%
 速風1.1%
 風1.1%
 (他:1)
ここには、「はやて」で「颯」字の漢字表記はゼロであった。吾人達が日常生活のなかで実際この文字とよみが「はやて」とするところは、人の名前に「颯」⇨「はやて」とし、人名漢字として幅広い人気があるようで、「颯」と書いて「はやて」と読める人は年々増えている傾向にあることが見えてきたのである。当然二字漢字の上位乃至下位にこの「颯」字を添えた人名は男女ともに多い傾向にある。いわば宛字、義訓として、通常の漢和辞典の読み方には「はやて」は未収載であり、パソコンなどでの漢字変換でも即座に入力しても出てこないことばとなっていることがわかる。あと名前では、「フウ」、「はやと」と読む人がいることが見えてきている。
《補助資料》
小学館『日本国語大辞典』第二版
はやーて【疾風・早手】〔名〕(1 )(「て」は風の意)急に激しく吹き起こる風。陣風しっぷうはやてかぜはやちかぜはやちのかぜはやち。*竹取物語〔九C末~一〇C初〕「はやてもりうの吹かする也。はや神に祈りたまへ」*夫木和歌抄〔一三一〇(延慶三)頃〕一九「波しらむ奥のはやてやつよからし生田かいそによするともふね〈藤原為家〉」*浄瑠璃・伽羅先代萩〔一七八五(天明五)〕二「思ひがけなく表(おもて)は恟(びっく)り。〈略〉はやてに逢し心地にて」(2 )(かかると直ぐ死ぬというところから)疫痢の異称。*随筆・塩尻〔一六九八(元禄一一)~一七三三(享保一八)頃〕六八「小児暴瀉し頓に死するもの多し、(府下の庸医はやてといふにや)」*橘黄年譜ー天保八年〔一八三七(天保八)〕「吐利甚、脈弦数、身熱焼が如く〈略〉俗間称して早手と云。蓋迅速にして死するの意と云」( 3)短期間に相場が激変すること。*稲の穂(大阪市史五)〔一八四二(天保一三)~幕末頃〕「多葉粉二三腹呑間に大高下来るを早手と言」( 4)(疾風)旧日本陸軍の四式戦闘機の通称。昭和一八年(一九四三)四月初飛行。単発単座。最大時速六二四キロメートル、航続距離一二五五キロメートル。【方言】(1 )旋風。つむじ風。《はやて》三重県志摩郡585 兵庫県淡路島052( 2)暴風雨。《はやて》愛知県愛知郡563 碧海郡564 滋賀県滋賀郡606(3 )暴風。《はやて》千葉県261和歌山県西牟婁郡690 和歌山市695( 4)寒明けに吹く突風。《はやて》静岡県安倍郡054( 5)夏の強風。《はやて》静岡県浜名郡545( 6)夏の夕立とともに起こる一時的な風。《はやて》愛媛県越智郡844(7 )驟雨(しゅうう)。《はやて》滋賀県蒲生郡612(8 )流行病。《はやて》島根県仁多郡・隠岐島725( 9)疫痢。《はやて》長野県上伊那郡488 愛知県愛知郡563 名古屋市(疫痢に似た子供の病気)567【語源説】「ハヤチ」の転〔東雅・大言海〕。【発音】〈標ア〉[テ][0](4 )は[0]〈京ア〉[ハ]【辞書】文明・易林・日葡・書言・ヘボン・言海【表記】【暴風】文明・易林・書言・ヘボン【疾風】言海