2003.07.06~2023/05/10 更新
あぢさゐ【紫陽花】
萩原義雄識
江戸時代の曲亭馬琴『増補俳諧歳時記栞草』〔夏之部あ〕に、
紫陽花(あじさゐ) 四葩花(よひらのはな) [韻語陽秋]唐の招賢寺(せうけんじ)に山花あり。色紫、氣香(かうば)しく、穠麗(れい)愛すべし。人、其名を知る者なし。白樂天、これを過(よぎり)て標(へう)をなす。其名を紫陽(しやう)といふ。[和漢三才圖繪]其(その)莖(くき)叢生す。莖(くき)・葉(は)、綉毬(てまり)の葉に似て、五月花をひらく、云云。此花もまたてまりの花に似て、淡碧色(うすみどりいろ)。一名、四葩(よひら)の花。[夫木]あぢさゐのはなのよひらはおとづれてなどいなのめのなさけばかりは 俊頼
とあって、日本人が梅雨時に風情を感ずる花の一つとして、和名「あぢさゐ」として今も親しまれている花がある。その語源は、大槻文彦編『大言海』にいう「集真藍(あずさあい)」ということばであり、「あづ」は「あつ」の語根で集まるの意、「さい」は「さあい」(真藍)からきたことばで、藍色の花がいくつも集まって咲くと言う意味から、この花の形状と色彩とが複合化して一つの花の名称となったものである。異名としては、「よひらのはな【四葩花】」とも呼称され、実際には中国にも「八仙花」という名でこの花があって、唐の白楽天(白居易(七七二~八四六))が「招賢寺」にて詠じた詩(『白氏文集』の詩「紫陽花」所収)に見えている「紫陽」の花の語は、その後の中国文献資料からはなぜかしら見出すことができないという不思議な花でもある。
というのも、現在では庭園の草花として平地にも栽えられているが、もともとは山地に咲く花であったのであろう。中国の詩人、そして作家及び作画者たちの目を奪う花の対象からも疎遠な花の一種であった。この花が本邦にあって細々ではあるが賞美されたのは、仏教崇拝に遵って山ごもりしてすごす都人が六月の梅雨時に可憐な色合いを見せ、うっとうしい雨雲の間隙をぬって光り射しに映えるかのようにその色合いを七変化に見せていくこの花の美しさに目を奪われるようになったことに由来するからであろうと私は思うのである。実際、『万葉集』卷二十・4448に、
「安治佐為能 夜敝佐久其等久 夜都与尓乎 伊麻世和我勢故 美都々思努波牟 /右一首左大臣寄味狭藍花詠也」
という一首があり、、平安期に六首、鎌倉期に十五首、室町期に五首ほどがあるのみにすぎない。それに付随する歌学書では、『八雲御抄』卷第三に、
「阿知佐井 万に、やへくさと云り。歌〔に〕難レ詠物也」〔312頁〕
と記載が見られる。
また、平安時代の古辞書源順編廿卷本『和名類聚抄』に、
「紫陽花 白氏文集律詩云紫陽花、和名安豆佐爲」〔那波道圓本元和版、勉誠社文庫887⑦〕
とあり、かつ、観智院本『類聚名義抄』にも、
「紫陽花、アヅサ井」〔僧上五③〕「𦳄、音便、アツサ井」〔僧上五三④〕と記載され、同じく黒川本『色葉字類抄』に、「紫陽(シ ヤウ)花、アツサ井。𦳄、同」〔下二二オ③〕
と記載され、室町時代の広本(文明本)『節用集』に、
「紫陽(アヂサヱ)シヤウ、ムラサキ・ミナミ 草也」〔草木門745⑤〕
『佚名分類辞書』花草に
「紫陽(シ ヤウ)、アヅキ(サ)イ紫陽花(シヨウクワ)也。今按此是繍毬花(シウキウクワ)也。紫綉毬(シシウキウ)レ有二紅綉毬(コウシウキウ)一」とある。
江戸時代の『書字考節用集』(村上平樂寺藏版)には、
「紫陽花(アチサ井)アヅサイ[白文集]/[夫木集]。線繍花(同)」〔485①〕
とある。本邦古辞書にあっては、「紫陽花」として継承されている。そして、本草学からこの花を見たとき、花びらは解熱剤に、葉は瘧(おこり)病に特効があるのみでなく、その堅い茎は木釘や楊枝の材となった。このことは古の寺院が担った医療実務には必須な藥草の一種であり、この観点からも、仏教社会とは密接な花(植物)の一つであったのではないかと見るのだがいかがなものであろうか。
馬琴は中世の歌人俊頼の『夫木和歌集』卷九所出の和歌「あぢさゐのはなおとづれてなぞいなのめのなさけばかりは」の歌を引用する。江戸時代の俳人松雄芭蕉も「紫陽花や帷子時の薄浅黄」(陸奥鵆)と詠む。また、江戸時代後期には、オランダ商館の医師として来日したシーボルト(オランダ人)が愛妾であった長崎丸山の遊女、楠本滝「お滝さん」を「オタクサ」と呼び、これを紫陽花の学名「Hydrangea Macrophylla var. otaksa」にし出版したことで一気に世界へ広まったものである。
そういう私もこの紫陽花の好きな一人である。現在、おりしもこの時節に「母の日」という記念日があり、この日には通例「カーネーション」という花を贈る習慣が根付いている。だが、日持ちの良い「紫陽花」を 「カーネーション」の代わりに母に贈る人もいる。故郷の庭に一苗一苗栽えつづけられ、やがて「紫陽花」の園がこの方の家に誕生する日もそう遠くは無かろうと思いをはせるとき、母と娘のまさに思いで深い花ともなろうというものだ。
現代では、「あじさい」は、各地の寺院にその花が植栽されていて、これを愛でることができる。「あじさい寺」などとも呼ばれ、多くの参拝者の目を和する花模様で親しまれている。
《補注》
※大槻文彦編『大言海』に、
「あぢさゐ(名)【紫陽花】〔集眞藍(あづさあゐ)の約転(阿治の語原を見よ、眞青(さあを)、さをとなる)〕又、あづさゐ。灌木の名。高きは五六尺に至る、葉は、對生して、大きさ四五寸あり、長楕(ながいびつ)にして、先き尖り、周辺に鋸葉あり、初夏に、茎の頭に、小さき花を開く、四弁にして、数十むらがり咲く、歌に、四枚の花と詠めり、色は、初め、黄白にして、後に、碧、或は、淡紫等に変ず、故に七変化の名あり。紫繍毬。万葉集、四57「味狭藍(あぢさゐ)」同、二十46「安治佐爲(あぢさゐ)の、八重咲くごとく」六帖、六、草「あぢさゐの、花の四片(よひら)に、逢ひ見てしがな」倭名抄、二十16「白氏文集律詩云、紫陽花、安豆佐爲(あづさゐ)」名義抄「同、あづさゐ」〔八〇④〕と記載する。
※「紫陽花 白居易」の詩は、前書きに「招賢寺有二山花一樹一、無二人知一レ名、色紫花気香、花芳麗可レ愛、頗類二仙物一、因以紫陽花一名レ之」とし、
「何年植向二仙壇上一 早晩移栽到二梵家一 雖レ在二人間一人不レ識 與レ君名作二紫陽花一」
という。
この「紫陽花」は紫色の花が咲く木犀であり、唐の李徳裕が『平泉草木記』で「紫桂」とし、本邦には産しない樹木であるとした。源順がこの表記に「安豆佐爲」と認定したことが今日まで誤認され、継承され続けているのだが、この花の紫色は、邦人の目には一つの確かさとして伝えられてきたことも事実である。
※『名義抄』『色葉字類抄』のもう一つの表記字「𦳄」の字だが、『新撰字鏡』に、「𦳄、止毛久佐又安地佐井」(巻七453⑦)とし、大東急記念文庫蔵『字鏡集』卷第二に、「𦳄、音便/アツサへ」〔卅五オ①〕と記載が見えている。昌住がこの表記字を何により、「安地佐井」と収録したのかが焦点となってきている。
すなわち、「𦳄」の字については、『康煕字典』に、「𦳄集韻、毘連切音跿、類篇、 𦳄縷草名」とあって、これが何故この花の名となったかは、編纂者昌住にしか解し得ていないことになる。そして、学僧の手になる古辞書からやがては公家・武家などの智者がその所以を検証することなく、文字表記として今日まで定着をみてきた表記漢字の一種となってきている。この事柄については、漢学者の目は冷ややかであり、この文字表記に「あづさゐ」、転じて「あぢさい」「あぢさゑ」「あぢさへ」などの和名は、一切収録をしないというのが鉄則した編纂方針のようである。
《ことばの情報》
1,近代文学の作品名
①永井荷風の『あぢさゐ』…作品中には、「あぢさゐ」の語は未収載にする。
②吉行淳之介の『紫陽花』
2,〈テレビウォッチ〉古い緑色の肉は見るからに危険そうだが、何の害もなさそうな緑の葉にも危険なものがある――。番組によれば、茨城県のイタリアンレストランで、あじさいの葉を鶏肉料理に添えて出したところ、八人の客が嘔吐など食中毒の症状を訴えたという。知らなーい
あじさいの花や葉、芽には青酸配糖体なる毒が含まれているそうだが、レストランは知らずに飾りとして出してしまったという。もっともスタジオのコメンテイター一同もあじさいの毒は「知らなーい」と口をそろえる。
作家の室井佑月は「水菓子の下にあじさいの葉が敷いてあったことが……」と思い出す。赤江珠緒キャスターも「この時期、お花は飾りとしてよく使われてると思いますけどね」こんな現状ならば、ひょっとして知らずに食べてしまうこともありえるかも? 〔2012.05.16更新〕