パリのル・サロンに 100号の絵を搬入して、始まるまでの 10日間を今年はニース周辺の美術館等を見て回った。
かつてそして今もこのニース周辺のコートダジュールには多くの画家がアトリエを構えている。
パリとは比べ物にならない、輝く明るい太陽が降りそそぐコートダジュールは光線を描く印象派以降特にフォービズムやキュビズムの画家たちにとっては堪らない環境だったに違いない。
多くの作品をこの地で描き、そしてこの地に残している。
もちろんこの地で描かれた名作の多くは世界中の美術館に散らばってはいるが、動かす事の出来ない、この地でしか観ることの出来ない作品が実に多い。
リューマチで苦しんでいた、77歳のマチスが恐らく最後の力をふりしぼって、建物のデザインからステンドグラス、タイル絵、ドア、僧衣のデザインに到るまで、その全精力を傾けたであろうと思われる「ロザリオ礼拝堂」
ステンドグラスには明るい黄色とブルー、タイル絵には白地に黒の線描きのみ、透かし彫りの懺悔の扉も白く塗られステンドグラスの黄色とブルー以外は殆ど無彩色の世界。
色彩画家マチス最晩年の極限の色だろうか?壮絶な仕事を垣間見た思いである。
ヴァロリス城礼拝堂のピカソ「戦争と平和」も物凄い迫力で観る者を圧倒する。
小さな古い礼拝堂であるが、そのアーチになった壁と天井いっぱいに貼ったコンパネをキャンバスにたれ落ちた絵の具も生々しく、上から上から塗り重ねた線、そして面。
ピカソの戦争への憎しみと平和への喜びが、まさに叩き付けられていると言った迫力の超名作と言える。
礼拝堂ではもう一つ、マントン市役所礼拝堂の「ジャン・コクトー」がある。
普段ジャン・コクトーを観る機会はあまりないが、いつもの線にパステルカラーが心地よい。
これは現在も礼拝堂として使われている様子。
ジャン・コクトーの壁画に包まれて結婚式が出来るマントンの若者は幸せだ。
おなじ町の玉砂利のビーチに張り出した要塞は今ではジャン・コクトー美術館になっている。
その入口の壁をそのビーチの小さな玉砂利でモザイクした、ジャン・コクトーもいかにもコクトーらしい。
ビーチの玉砂利を踏みしめながらあの映画の構想を創り出していったのであろうか?
モザイクはシャガールもヴァンスの教会やサン・ポールとニースの美術館に残している。
そして教会のために描いた大作のかずかずがニースのシャガール美術館にある。
おおよそ 500号くらいの青を基調に描かれた絵が 10点ばかり、赤を基調に描かれた 150号くらいの絵が5~6点。
それに彫刻とステンドグラスといずれも聖書からモティーフを執ったものには違いないけれどシャガールが生まれ育った町とその時住んでいたヴァンスの町なども取り入れられていてシャガール特有の画面構成が楽しい。
その他に聖書のための24点の挿絵。
サン・ポール鷹ノ巣村の村はずれにはマーグ財団美術館がある。
ブラックがモザイクした池には水がたたえられてあり、水を透して見るブラックの作品などここ以外のどこで観ることが出来るだろうか?
そしてやはりブラックのステンドグラス。ミロの沢山のオブジェの庭。
と常設展示の他にここではちょうどムーアの企画展が催されていて、まとめて沢山の作品を見ることが出来た。
大きな木の作品。大作のためのエスキース的な小品。デッサンや油彩。
それに自分の娘のために作ったおもちゃがほほえましく全くムーア的でいままで見慣れたブロンズの大作ばかりとは、ちょっとひと味違った大変充実した贅沢な展覧会で、観ることが出来て運が良かった。
アンティーブからビオット行きのバスに乗り、運転手に教えられるままにその途中で降りて人通りの全く無い住宅街の道を不安を感じながらとことこと歩いていくと突然巨大な壁画が目に飛び込んでくる。レジェ美術館である。
レジェ美術館の建物の二面に何メートルあるだろうか?
とにかくでかいレリーフの壁画が作られていて、その前に立っていると明るい陽の光に包まれたような、なんだか幸せな気分になる。
壁画の前に立ってみるだけではるばるやって来た甲斐があると言うものである。
三岸節子が晩年アトリエを構えていたカーニュにはルノアールのアトリエも残されている。
そのカーニュには地中海美術館と言うのがある。
現在の町の中心地から急な狭い坂道をずり下がりそうになりながらどんどんと登ったグリマルディ城の中にその美術館はあった。
坂の途中小学生の団体に勢い良く追い越されてしまったが、皆が水道の蛇口にかじりつき口をつけて水を飲んでいるところで今度はこちらが追い越して城には結局我々が先に到着した。
まるでうさぎとカメの話の様にだ。
美術館にはその小学生も後から入ってきた。
が観覧者はそれ以外には居ない。
一階はオリーヴオイルを造る古い装置などが展示されていて、先生はその説明を生徒達にしていた様だ。
二階は 20世紀の地元出身現代画家「ヴァレーリ」の年代別展示と、狭い一室に「スージー・ソリドール」と言うその当時パリのキャバレーのトップスターだった
一人の女性を色んな画家が描いた肖像画の部屋。
三段掛け、四段掛けにされていて、うっかりすると見逃してしまいそうだが、そこにはローランサン、キスリング、バン・ドンゲン、デュフィ、コクトー、レムピカ、ピカビアそれにフジタの作品があった。全部で 40点もあっただろうか?
同じ人物を色んな画家の手によって個性豊かに表現されているのはとても興味深い展示であった。
今回の旅で最も期待していたところにニースのマチス美術館がある。
彫刻。墨絵のデッサンの部屋。極初期の油彩。
そして最晩年の壁いっぱいの切り絵とロザリオ礼拝堂のための模型。
その他、モティーフにもなったテーブルや椅子。
ついたてと緞帳(厚手のカーテンの様なもの)も残されていた。
それに版画のための大掛かりな印刷機などもあった。
マチス晩年の切り絵や版画が現在のグラフィックデザインに大きく影響を与えたのもうなずける。
ニースには「ジュール・シェレ」と言う美術館もある。ジュール・シェレは 19世紀の画家。
やはりグラフィックデザインに影響を残したロートレックの先駆的役割を果たした画家である。
一階は古い宗教画イコン等も展示されているが、二階にはジュール・シェレの他にマリー・バシキルセフと言う女流画家の肖像画と自画像、その深い眼差しが素晴らしかった。
そしてデュフィとヴァン・ドンゲンのそれぞれの部屋があり、いい作品が揃っていた。
この旅では 10日間で 14もの美術館等を訪れたことになる。
一ヶ所にかたまっているということはなくそれぞれが不便なところに散らばっていて行き着くのに結構苦労もした。
歩きながら又バスに揺られながら、今観てきたばかりの作品を反芻してみるのに丁度良い距離ともいえる。
その他にマチス、デュフィ、シャガールのお墓にも御参りすることも出来た。
マチス美術館を出て、マチスとデュフィのお墓のある墓地はどっちの方向か?と探していたら、ディジー・ガレスピー通りと書かれた標識を見つけた。
他にマイルス・デイヴィス通りとデューク・エリントン通りもあった。
そして公園の中にはルイ・アームストロングとライオネル・ハンプトンのブロンズ胸像が建てられていた。
マチス晩年の作品に「ジャズ」と名付けられたものがある。
デュフィも音楽には造詣が深い。
きっと今ごろは賑やかにやっているに違いない。
印象派の画家たちはバルビゾンの柔らかな光線に出会い、、後期印象派のゴッホ、ゴーガン、セザンヌたちはもっと強いプロヴァンスの光を求め、そしてフォービズムやキュビズムの画家はコートダジュールの焼け付く太陽によって、お互いが激しく影響しあい、強烈な個性を発揮することになったのだと感じた。
ルノアール、マチス、ピカソ、ブラック、デュフィ、シャガール、レジェ、ムーア、ミロ、そして現代美術のニキ・ド・サンファールに到ってもこのコートダジュールの太陽と無関係だとは思えない。
二度ほど傘を使ったとはいえ、まあまあ天気にも恵まれ感動の連続であった。
ポルトガルよりは少し寒いだろうと厚着をしていったものだから、かえって汗をかいてしまった。
一昨年とその前に訪れたアルルやマルセーユ周辺よりも一ヶ月遅い11月なのにかえって暖かく感じたほどだ。
パリとはかなり気温も違いやはり世界のリゾート地だ。
それでもポルトガルよりは少し気温は低い筈なのだがニースのビーチでは海水浴を楽しんでいる人が何人も居た。
若者だけではなく、決して若くはない人までもがである。
これが11月中旬とは思えない。
地中海の水は大西洋の水よりも温かいのにちがいない。たぶん。VIT
|
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
以下は旅の事前に作成した旅程表です。これはあくまで計画段階のもので、 |
||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ニース旅程表
|
(この文は 2002年12月号のサイト『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが 2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)