武本比登志の端布画布(はぎれキャンヴァス)

ポルトガルに住んで感じた事などを文章にしています。

017. ポンタヴァン旅日記 (下) Pont-Aven ★ Bretagne

2018-10-15 | 旅日記

ポンタヴァン旅日記(上)

2003/10/29(水)曇り時々雨 ポンタヴァンPont Aven-カンペルレQuimperle-ル・プルデュLe Pouldu

 

 朝、目が覚めるとまだ雨が降っていた。今日はトレマロ礼拝堂Chapelle de Trémaloに行く予定だ。

 トレマロ礼拝堂にはゴーギャンが描いた黄色いキリスト像がある。

 

 ホテルの年配の方のマダムに尋ねると4キロの道のりだという。

 往復で8キロはとても歩けない。

 道もよく判らないし雨も降っているのでタクシーを呼んでもらうことにしたが「タクシーが来ない」と言う。

 マダムは「歩くしかないわね。途中の道は散歩には素晴らしいですよ。

 往復で2時間だからバスにはギリギリ間に合うわね」と簡単に言ってくれる。

 朝食が済んだ頃には雨もあがっていたので歩くことにした。

 幸い標識は出ているのでそれに従って行けば道に迷う事もないだろうと急ぎ足で歩き出した。

 町外れから森の道に入った。

 しばらく行くとまた道路標示があって《トレマロ礼拝堂まで500M⇔ポンタヴァンまで700M》と書いてあった。

 合計で1200メートルしかないわけだ。

 ホテルのマダムは歩いたことがないのだろう。ホテルを出てからたった20分で着いてしまったのだ。

 途中は本当に素晴らしい散歩道であった。

 栗の木がたくさん生い茂っていてその実をいがごと道いっぱいに落していた。

 だれも拾わないのがもったいなくて不思議であった。

 どんぐりもたくさん落ちていたし、野生化したような小さなリンゴも足の踏み場もないくらいに落ちていた。

 昨夜の雨で落ちたのかもしれない。

 それに紅葉も美しい道であった。標識には《愛の散歩道》と書かれてあった。

 

リンゴ

 

トレマロ礼拝堂

 

クリ

 トレマロ礼拝堂はそれ自体絵になる可愛い礼拝堂であった。

 礼拝堂の内部の正面にはゴーギャンが描いた黄色いキリストはなかった。

 マリア像とか他の聖人像が何体かがあったがキリスト像はなかった。

 どこかに貸し出しでもしているのであろうか?と思った。

 あるいは貴重なものだからどこかの博物館入りになったのであろうか?とも思った。

 聖人像たちはやはり彩色木彫でカンペールの博物館で観たのと同じ様に面白みがあって素晴らしいものであった。

 

 狭い小さな礼拝堂であるが一番うしろまで下がって全体を見てみることにした。

 そうすると天井から少し下がった梁のところに薄ぼんやりとキリスト像が見えるではないか。

 入口の所にホテルにあるような時間が経てば自動的に切れる仕組みの電灯のスィッチがある。それに飛びついた。

 まさしくゴーギャンが描いた黄色いキリストがそこに浮かびあがったのだ。

 名もない木彫師が作った素朴なキリスト像であるが、僕にとっては絵を描き始めの頃からゴーギャンの《黄色いキリスト》として慣れ親しんできた絵のモデルである。

 ちょっと大げさな表現であるが『感動的』な出会いであった。

 

聖人彫刻

 

黄色いキリスト

 

トレマロ礼拝堂内部

 今までは単なる黄色いキリストとしか考えていなかったが、この旅を通して感じたことは、この黄色いキリスト像が木彫、つまり木であったというのはゴーギャンにとって重要な要素であったのだ。

 もちろんブルターニュの家具(リ・クロ)。その木彫装飾。木骨煉瓦造りの家屋。

 どれもポンタヴァン派の画家たちとは切っても切れない関係にあったと言うのが理解できる。

 それにジャポニズムの浮世絵木版画が加わる。

 観光客の誰一人も訪れない。落ち着いてゆっくり眺めることが出来た、まったく静かな礼拝堂であった。

 

 来る時は途中の標識までは急ぎ足だったのが帰りはのんびりと《愛の散歩道》を引き返した。

 町外れまでくると家の庭に季節はづれの紫陽花が二輪、蔦の紅葉と競い合う様に鮮やかなブルーに咲き誇っていた。

 町に戻ってもバスの時間まではまだまだあったので港まで行ってみることにした。途中は軒並み画廊が林立していた。

 大きな岩がごろごろと川にころがりまるで日本の渓谷の様な景色である。

 ところどころで水車が回っていた。

 

ポンタヴァンの水車

 なるほど100年前からのリゾート地であったことがよく分る。

 港には今は豪華なヨットが数隻停泊してあった。

 

 ホテルでチェックアウトを済ませる時「次はル・プルデュに行く予定だけどそこにホテルはありますか?」と尋ねてみた。

 「ああル・プルデュね。あの村にはマリー・アンリの家があるものね」

 「えっ、マリー・アンリ?」

 「そうですよ、ゴーギャンが家の天井、壁、ドアに絵を描いたところですよ」

 

 意外であった。そんなところが残されているとは思ってもみなかった。

 当時ル・プルデュにも女性が経営する下宿屋があってお金がない画家からは下宿代を請求しないので、それをよいことにゴーギャンたちはたびたびここに滞在して絵を描いていた。

 といった話は知ってはいたのだが、まさかその家が今も残されていて見学が出来るとは…。

 それならばどんな事があっても観てみない訳にはいかなくなった。

 

 ゴーギャンの画集にはル・プルデュの絵がよく出てくる。

 海辺に立つ十字架の水彩画があって、その十字架だけでも見ることができればよいと当初は思っていた。

 どんな村なのか?海の色は。波の音は。それと美味しい牡蠣が絶対に食べる事ができる漁村だと信じていた。

 でも交通の便が悪かったり、天気が悪くなったりする様だったら、このル・プルデュはパスをしてもよいとも思っていた。

 でもそうはいかなくなった。どんなことをしても絶対行かなければならなくなったわけだ。

 

 ポンタヴァンのホテルを出る時には再び雨が降り出した。しかもかなりのどしゃぶりになった。

 バスは5分程遅れてやってきた。昨日ここまで乗ってきた時と同じ運転手である。

 ル・プルデュに行くには一旦カンペルレに行かなければならない。

 そこからル・プルデュ行きのミニバスが運行されているとのことである。

 

 カンペルレの駅前には2台のミニバスが停まっていた。

 運転手がいたのでル・プルデュ行きを聞いてみたらバス停に張ってあるその時刻表を指し示して「次は17時半です」という。

 人の良さそうなその男は「俺がその運転をして行くのだがね」と付け加えた。

 

 まだ昼すぎであるからこの何にもない町で半日も待たなければならない。

 地図を見るとル・プルデュまでは僅か17キロ程の距離である。

 タクシーで行く事にした。でも駅前のタクシー乗り場にはタクシーは停まっていない。

 

 とりあえずは腹ごしらえ。サンドイッチでも食べようと駅前カフェに入った。

 ところが食べる物は何も置いてない。「その先にスーパーがあるので買ってくれば?」とカフェの人は言った。

 まあなければル・プルデュまで我慢すれば海産物の旨い物が食える。

 コーヒーだけを飲んでいるとタクシー乗り場に一台のタクシーが停まった。

 大急ぎでコーヒーを飲み干しリュックを担いでタクシー乗り場に走った。

 

 でもそのタクシーは客から呼ばれて来ていてやがて列車が着くのだという。

 「1時間あとなら戻ってきて乗せていくがね。」

 「他のタクシーを無線で呼べないのですか?」

 「いや俺はこの町のタクシーじゃないのでね」

 

 そうこうしている内にもう一台のタクシーがうしろに止まった。

 ポンタヴァンのホテルのマダムに教えてもらったル・プルデュのホテル「オテル・パノラミクへ」と言うと「ああ」と運転手は親しげに答えた。

 

 ホテル・パノラミクからは名前の通り海が見渡せた。黒々とした海に大きな白波がたっていた。

 ホテルのマダムに「メゾン・マリー・アンリ」を尋ねると「ホテルの横の道をまっすぐに1.4キロ先のカフェ・レストランの隣ですよ」と教えてくれた。

 さすが海からの風は冷たい。夏場ならおそらく開いているのであろう所々ある店は全てが閉ざされていた。

 途中海岸通の公園の中にツーリストインフォメーションの建物があったので寄っていくことにした。

 次の《メゾン・マリー・アンリ》は3時半からだという。なんでもガイドが付くらしい。

 

 《メゾン・マリー・アンリ》の入口を確かめてから隣のカフェ・レストランに入った。

 それほどは時間がないからサンドイッチくらいがちょうどよい。

 「サンドイッチはありますか?」というと「ない」という。

 仕方がないので他を当ってみることにした。

 すぐ側にもレストランがあったが閉まっていた。ここも夏場のリゾートシーズンしか開いていないのだろう。

 クレープの看板を見つけたので行ってみた。

 クレープ屋の前は大規模に掘り返されていて道路工事の真っ最中であった。ブルドーザの音がうるさい。

 工事の人が近寄ってきて「通るのか?」と聞く。

 「いや、そこのクレープ屋が開いているかだけ知りたいのだ」と言うとわざわざ見に行ってくれた。

 戻ってきて「いや、開いてない」という。

 

 MUZは遠くの方から見ていて「あたりまえやんか」と言っている。それもそうだ。

 仕方がないので再び最初のカフェに戻ってビールだけでも飲むことにした。

 結局この村で開いているのはこのカフェと泊まっているホテルとインフォメーションの3軒だけである。

 それと3時半には隣の《メゾン・マリー・アンリ》が開く。

 ビールを注文して「ポテトチップスがあリますか?」と聞くと、それも「ない」。

 「でもクローク・ムッシュゥだったら出来るけど…」と言うではないか。

 “それを何故もっと早く言わないの!そうすればうろうろしなくて済んだものを。”

 でもこれでなんとかめでたく昼食にありつけたわけである。

 

マリー・アンリの家入口

 3時半を5分過ぎて隣の《メゾン・マリー・アンリMaison Marie-henry》の扉を押した。

 既に3人の観光客が来ていた。

 受付の女性が「2人で9ユーロですよ。」「説明はフランス語でしますけれど分りますか?」

 「分らない時はいつでも質問してください」と言いながら英語で書かれたプリントをくれた。

 他の3人の観光客はいずれもフランス人である。

 入口の扉は鍵を閉めてしまってその受付の女性が皆を案内していった。

 

 大きなはきはきとした張りのある声と強弱をつけた話っぷりはまるで演劇を観ているようで内容が解らなくても思わず引き込まれてしまう。

 ゴーギャンが住んでいた部屋。相棒のマイエル・デ・ハーンが住んでいた部屋。

 行水用の大きなブリキのたらいが置いてある部屋。

 などどの部屋にもポンタヴァン派の画家たちの絵や版画が飾られていた。

 マリー・アンリの寝室にはエミル・ベルナールの油彩もあった。

 僕が目を近づけて熱心に観ていると、ガイドの女性は「これは本物ですよ!」と強調していた。

 各部屋にはポンタヴァン派以外にもマリー・アンリが当時からコレクションしていた様々な絵が飾ってある。

 英泉、晴信、歌麿などの浮世絵版画も5点ほどの本物が飾られていた。

 

 2階から見学して階下に下りた。

 ガイドの女性は一階の扉をおもむろに開けた。

 壁からドアから全てに絵が描かれている。

 中には画集で見慣れている絵もたくさんあった。

 「もちろん外せるものはみんなアメリカの美術館が持っていってしまって、今は印刷が張ってあるけど雰囲気は当時のままですよ」

 観光客は僕たちも含めて皆が圧倒されていた。

 

 僕は『月と6ペンス』の最後のシーンを思い描いていた。

 ブルターニュを旅するにあたっていろいろな本を読み漁った。

 と前にも書いたが『月と6ペンス』サマセット・モーム(角川文庫)もその内の一冊であった。

 この本を最初に読んだのは僕が高校生の時だった。その後も何回か読み返した好きな本の一冊である。

 『月と6ペンス』はゴーギャンをモティーフにして描かれた小説だと誰もが分る。

 でも主人公の名前はチャールズ・ストリックランドというイギリス人でゴーギャンのようにフランス人ではない。

 有能な証券取引人だった主人公は突然妻子を捨て画家になる決心をする。

 やがて自分の絵の真髄を求めてタヒチに渡る。

 最後には頼病に冒されるが、自分の住む小屋の天井から壁からドアまで全てに絵を描く。

 そしてチャールズ・ストリックランドの絵は完成をみる。

 原住民の妻アタに「自分が死んだらこの小屋もろとも燃やしてくれ」と頼む、壮絶な最後である。

 その小屋はサマセット・モームが描いた架空の物だと僕は思っていた。

 でもその下敷きになっていたのがこの《メゾン・マリー・アンリ》なのだろう。

 

 帰りもう一度ツーリストインフォメーションに寄って海辺に立つ十字架の場所を尋ねたが、その存在自体判らなかった。

 

 一旦ホテルに戻った。ホテルの向かいにはレストランがあるが、今日は休みだという。
 夕食はどうすれば良いのだろう。

 海産物や牡蠣どころではない。夕食からあぶれる恐れさえ出てきた。

 小さなスーパーも店の一軒もない。

 でも最悪の場合でも親戚の人から頂いた小袋のおかきがある。

 それにコンカルノーで買ったビスコットも半分は残っている。飢え死にすることはない。

 あとはメゾン・マリー・アンリの隣のカフェに望みを繋ごう。

 昼に見た時、黒板にチョークで肉料理のメニューなら書いてあった。

 

 7時過ぎに再び凍える道を歩き出した。

 カフェに着いて「レストランは開かないのですか?」と尋ねると「開かない。夜に開くのは夏場だけだ。」とのこと。

 カウンターでビールを飲んでいた客たちが口々に「レストランなら4キロ先にある。」と教えてくれるがこちらには車がないのでわざわざ夕食を取るために4キロも歩けない。

 もう既にホテルから1.4キロを歩いてきているのだ。

 

 昼のクロークムッシュゥが結構旨かったので、もう一度それを食べる事にした。

 それしか残された道はなかったのだ。

 ただし夕食なのでダブルで注文した。それに例によってシードルの大瓶。

 よほど僕たち二人は情けなく惨めな顔をしていたのだろう。

 キッチンで奥さんと相談してきたのか「よかったらサラダも出来るけど?」と言う。

 サラダも二人前注文した。デザートには昼からショーケースに入っていた、プラム入りのカスタードケーキがある。

 仕上げにはやけくそでカルバドス(この地方で産するリンゴの絞り粕から抽出した強い焼酎)を飲んだ。

 立派なディナーになった。

 

 クロークムッシュゥといえば思い出すことがある。

 かつてスウェーデンでストックホルム大学に通っている時に夜中にレストランでコックのアルバイトをしていた。

 夕方から夜中の3時までキッチンにはたった一人での勤務である。

 百貨店の前にあるレストランだから昼時は猛烈に忙しい店だった。

 夜は経営者も交替し、黒人のピアノ演奏が入りバーが主になる。

 一通りの食事メニューはあるのだが、殆ど注文はこない。一日にほんのひとつか二つ。

 でも一応のことは出来なければならないから給料は良かった。帰りには毎日自宅までのタクシー代がでた。

 夜中になってよく注文が来るのがクロークムッシュゥだった。

 僕はクロークムッシュゥに腕を振るった。

 クロークムッシュゥはその店で評判になりますます注文が増えた。

 「いったい誰がクロークムッシュゥを注文するのか?」と聞いたことがある。「娼婦」との答えだった。

 それは仕事にあぶれた娼婦のささやかなディナーになっていたのである。

 

 良い気持ちでカフェを出た。

 気温はますます下がっていた。

 そして満天の星空がそこにあった。これほど美しい星空を見たのは久しぶりである。

 セトゥーバルでは昼間は雲一つない快晴でも夜になれば雲がでだして星空の美しい夜空をあまりみたことがない。

 もっとも早寝早起きを心がけているせいもあるが。

 ホテルまでの1.4キロを星座を眺めながら帰った。

 みち半ばまで戻った時である。

 北斗七星の取っ手のあたりから大きな流れ星がこぼれ落ちるのを2人で目撃したのである。

 

ブルターニュの家

 

月明りのル・プルデュ夜景

 

2003/10/30(木)曇りのち雨 ル・プルデュLe Pouldu-カンペルレQuimperle-ヴァンヌVannes

 

 その日は祭日でミニバスの運行はなかった。同じ道をタクシーで戻るしかなかった。

 同じタクシーを頼んだが昨日とは違う女性の運転手であった。

 カンペルレに着いて料金を払おうとするとメーター料金よりも安い金額で良いと言う。

 往復割引が付いているのかも知れない。

 「またカンペルレに来る事があったら、私のタクシーを使ってください。」と言って名刺をくれた。

 本当にそんな日が近い内に来れば良いと感じている。

 

 カンペルレからは列車である。ブルターニュの古都ヴァンヌでもう一泊してからパリに戻る。

 ヴァンヌに着くとまた雨であった。

 駅前のホテルでも良かったのだが最初に泊まったレンヌのホテルが良かった。

 そのチェーン店がこの町にあることを知っていたので、雨の中そこまで歩いた。

 

ヴァンヌの洗濯場

 

ステンドグラス

 

ヴァンヌの家

 

ヴァンヌの木靴屋

 ヴァンヌでは美術館見学の予定はない。街を楽しめば良いことにしていた。

 先ずはカテドラルを観た。内部は一部工事中であったがここでもステンドグラスが美しかった。

 フランスにはステンドグラスの美しいカテドラルが各地にある。

 雨が降っていたので雨宿りのつもりで《ヴァンヌ美術館》Musée des Beaux-Arts de Vannesにも入った。

 全体に大きな作品が多くて、ルーベンスやドラクロアの作品もあった。

 

 雨は降ったり止んだりである。傘をさしたりたたんだりが忙しい。

 初めから傘を持たないでアノラックのフードだけでびしょぬれになっても平気な観光客がたくさん歩いていた。

 港にも行ってみた。「今夜は絶対に牡蠣を食べるぞ。」と決心していた。

 その日の夕食は港の近くの城門の内側で見つけたブラッセリーに決めた。

 

 早くからそこのカフェでビールを飲みながらレストランの開くのを待った。

 7時にレストランが開いてすぐに席を移したつもりだったが、もう既に何組もの客が座っていた。

 今夜は牡蠣だけではなく、表のメニューに掲げてあったシーフードの盛り合わせを頼む事にした。

 蟹、手長海老、普通の海老、2種類の巻貝、あさり、それに牡蠣の盛り合わせである。

 豪華に注文してしまったが、蟹や海老、巻貝などはセトゥーバルの自宅でいつも生きた新鮮なものを食べているのだから

 やはり牡蠣だけにしておけば良かった。

 

ヴァンヌの家並み

 

ヴァンヌの街門の家

 

ヴァンヌ夫妻の木彫

 

店先のシードル

 

2003/10/31(金)曇り時々小雨 ヴァンヌVannes-パリParis

 昼すぎのTGVでパリに戻る日である。

 ヴァンヌの町角でサンドイッチとペリエールを買って乗り込んだ。

 二人席であるが喫煙席しか取れなかったのだ。

 喫煙席と言うのは困ったものだ。

 以前のどこでも喫煙できた時代より今の喫煙席は嫌煙家にとってはきつい。

 愛煙家が禁煙車に座っていてタバコが吸いたくなると喫煙車にやって来て空いた席を見つけて吸い始めるのである。

 吸い終わると又自分の禁煙車両に戻って行く。

 それが入れ替わり立ち代わりだから、喫煙車両から動けない嫌煙者は堪らない。

 見渡すと幼児も何人か乗っていた。この問題は何とかしなければならないと思う。

 

 今は飛行機は全部禁煙になったから愛煙家は大変だろうと思う。

 でもそれになる前に一度大変な思いをしたことがある。

 僕たちは禁煙席を希望したのだが、禁煙席の一番後ろの席で次の列からは喫煙席になっていた。

 前の方の禁煙席に座っている愛煙家が入れ替わり立ち代わり喫煙席にタバコを吸いに来るのだ。

 僕たちの席にはタバコの煙がパリから日本に着くまでずっと漂っていた。

 

 TGVの喫煙車両では幼児が祖母らしき人に絵本を読んでもらいながら、無邪気な可愛い声でずーっと唄を歌いつづけていた。

 祖母らしき人も一度もタバコを吸っていなかったから、僕たちと同じ様に禁煙席が取れなかったのだろう。

 モンパルナス駅に入った時には唄はぴたっと止んでいたので見てみるとすやすやと眠っていた。

 ああいった子供に害が及ばなければ良いがと心配する。

 

 モンパルナスからメトロに乗り換えていつものルクサンブールのホテルに入った。

 フロントの男は僕たちの顔を憶えていた。毎年1~2泊しかしないがもう10年近くもこのホテルを使っている。

 空港との行き帰りにもパリをうろうろ歩くにもこのルクサンブールは僕たちにとって便利な位置にある。

 昨年からル・サロンの会場が替わったがそれにもメトロのクリュニューまで歩けば乗り換えなしのメトロ一本で行ける。

 

 ル・サロンの前にサン・ジェルマン・デ・プレにあるドラクロア美術館に向う。美術館の前に着いたのが5時半だった。

 今回も閉まっている。開館時間の表示をみると17時15分までとなっていた。

 ドラクロア美術館を訪れたのは4回目位だろうか?

 工事中であったり今回の様に時間切れであったりとなかなかうまくいかない。

 また次回に楽しみを残す事になった。

 

 さっそくル・サロンに出かけた。その日はベルニサージュ(オープニング)なので人で溢れていた。

 僕の絵は入口からすぐのところにあった。でも少し歪んでいるのが気になる。

 まっすぐに直してひと回りしてくるとまた歪んでいた。紐の取り付けが悪いのだ。

 人の多いのに閉口して早々に退散した。


2003/11/01(土)曇り時々小雨 パリParis-サン・ジェルマン・アン・レーSt.Germain en Laye-パリParis

 今日は忙しい。

 ホテルで朝食を済ませて《タヒチのゴーギャン展》が催されている、グランパレまでのメトロの路線図を調べているとMUZは「歩いたらええやん」という。

 メトロで下手に乗り換えをたくさんするより返って歩いた方が良いこともある。

 ちょっと遠いと思ったが歩くことにした。歩くのなら簡単である。セーヌ沿いに下って行けばグランパレに着く。

 でもルーブルのところからチュイルリ公園の中に入って紅葉を楽しみながら歩いた。

 

 グランパレに着いた時には既に200人位の行列が出来ていた。

 別の入口では「ヴイヤール展」が催されていた。そこにも少しの行列が出来ていた。

 随分経って、もう少しで開館という時間になって列に向って大声でアナウンスしている関係者がいた。

 側に来たので聞いてみると「今日の午前中は予約をしている人だけの入場です」という。

 「予約をしていないのなら午後1時からまたここに並んでください」

 

黄昏のグランパレ

 今パリでは同時にルクサンブール美術館で《ボッチチェリ展》ポンピドーセンターで《コクトー展》それにここグランパレで《タヒチのゴーギャン展》と《ヴイヤール展》が開かれている。そしてこの行列である。

 常設のルーブルやオルセー、ポンピドーそれにピカソ美術館やロダン美術館とたくさんの美術館が他にもあるのにこの人たちはどこからやってくるのだろうか?と不思議に思う。

 昔はどこでもこれほどの人だかりはなかった。世界中で美術ブームなのであろうか?

 

 午前中はサン・ジェルマン・アン・レーの《プリウレ美術館》に急ぐ事にした。

 一度行ったところなので地図も何も見ないで歩き始めた。

 セーヌを渡ったところのRERの駅から乗れば一本で行けると間違って思い込んでいたのだ。

 間違った思い込みのお陰で随分複雑な乗換えで時間もたっぷりかかって、ようやくサン・ジェルマン・アン・レーにたどり着いた。

 駅から《プリウレ美術館》への道のりもすっかり忘れてしまっている。

 ちょうどとおりかかった在住らしき日本人に尋ねてみたが行った事がないという。

 方角だけ聞いて歩き出したら見覚えのある道にさしかかって無事プリウレ美術館の塀が見えた。

 

プリウレ美術館

 プリウレ美術館はかつてはモーリス・ドニの屋敷であった。

 ドニの手になる教会がある。ステンドグラスや壁画それにそのエスキース。

 ドニのタイル絵が天板として張られた木彫家具もあった。

 それにドニ自身が集めたコレクションがたくさんある。当然のことながらポンタヴァン派のコレクションが多い。

 ゴーギャンのタヒチでの素晴らしい木彫が2点あった。

 その内の一点は木の葉型の大きな皿に熱帯魚が二尾彫られ一本の繋がった紐のようなものを二尾がそれぞれの口にくわえている。

 

ゴーギャンの木彫

 

ドニの木彫レリーフ

 

ドニのドア

 これと同じ図柄を別の絵でも見たことがあるが、なにか意味があるのだろうか?

 それと珍しいモーリス・ドニの6号くらいの着色木彫レリーフも素晴らしいものであった。

 彩色の施し方はあのブルターニュの聖像の彩色に似ているとおもった。

 ここでもエミル・ベルナールやセリジェの作品とゴーギャンの油彩。

 

E・ベルナール

 

P・セリジェ

 それにボナールやヴイヤールの作品もあり結構見ごたえがある美術館であることを再認識した。

 でもパリの美術館の行列が嘘のようにここでは僕たちのほか一組の家族づれがいただけであった。

 庭に出るとブールデルのブロンズ像がいくつもあり、紅葉の蔦とコントラスト良く映えていた。

 

ブールデルと蔦

 こんどの旅は本当に強行軍で、お昼はたいてい電車かバスの中でのサンドイッチということになってしまった。

 サン・ジェルマン・アン・レーからの電車でもサンドイッチである。幸いフランスのサンドイッチはどこで買っても旨い。

 いや但し、フランスでのサンドイッチはパン屋で買うべしである。

 シシカバブ屋のサンドイッチは量ばかり多くてあまり旨くない。

 帰りはまともにシャンゼリゼに到着した。

 

 ゴーギャン展の入口に着いたのは1時をかなり過ぎていた。

 行列はたいしたこともなさそうで、2~30人づつどんどんと入って行く。

 入口でテロ対策の荷物検査をやっているのだ。

 入ればかなりの人でしかも多くの人が『電子解説』とでも言おうか?

 携帯電話の様な器械で作品の前に来たらその書いてある番号を押すとその解説が聞こえる仕組み、を入口で借りていてなかなか次へ進まないのだ。

 でもさすがいままで画集で観ていた本物がよく集められていた。

 アメリカのボストン美術館からロシアのプーシキン美術館から日本の倉敷のものまで、それにオルセーのもの、個人所蔵の物もあった。

 そしてやはり木彫と木版画も多い。

 ゴーギャンは画家であると同時に僕は彫刻師であるとここでも実感した。

D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?

『われわれは何処から来たか?われわれは何か?われわれは何処へ行くのか?』の集大成的油彩大作(139.1X374.6)もボストン美術館から運ばれてきていた。

 が今まで画集で観なれていた印刷物とは全く異なった鮮やかな色彩に驚いてしまった。

 

 僕は今年日本に帰国した折にゴーギャンの小説『ノアノア』を探したが残念ながら手に入らなかった。

 その『ノアノア』の原画、原稿も展示されていた。

 

2003/11/02(日)曇り パリParis-リスボンLisboa

 

 いよいよポルトガルに戻る日。今日もスケジュールは目いっぱいである。

 ドゴール空港を15時45分発のエール・フランス機に乗る。

 ドゴール空港には2時間前の13時45分に着く必要があるのだ。ルクサンブールを13時に出れば間に合う。

 それまでに3つの美術館のハシゴをする予定である。

 朝食を済ませ、荷物をまとめてホテルのチェックアウトを完了しておいてリュックをホテルに預けた。

 ホテルからサンジェルマン大通りを歩いて先ずはオルセー美術館に行くのだ。

 今日は日曜なので美術館は無料である。

 オルセー美術館には今日の開館の9時を少し回っていたがすんなり入る事が出来た。

 エスカレーターで最上階まで上がってポンタヴァン派の部屋を観るのだ。

 途中ゴッホの部屋を通り過ぎた。横目で見ながら通り過ぎたが以前来た時とはかなりの絵が入れ替わっている。

 やはりオルセーにしろルーブルにしろポンピドーにしろしょっちゅう来なければ駄目だ。

 

紅葉のルーブル

 

夕映えのノートルダム遠望

 

エッフェルとA三世橋の欄干

 

オルセー美術館

 エミル・ベルナールとポール・セリジェの絵を初めて観たのがここオルセーであった。

 ここにも作品は少ししかないが今回の旅でたくさんまとめて観ることができたので僕には充分である。

 ゴーギャンの部屋ではタヒチ時代の絵はグランパレの特別展に行っていたので

 その分ポンタヴァンの絵が多く展示されてあったのは僕にとって好都合であった。

 この一週間でこれほど多くのゴーギャンをまとめて観たこともない。

 

 タヒチに向う前にゴーギャンはゴッホと弟テオの要請にしたがって、ポンタヴァンを去り南仏アルルでゴッホとの共同生活に入る。

 でもそれは2人の強烈な個性のぶつかりあいによって僅か2ヶ月で破綻を迎えることになる。

 しかしその僅か2ヶ月のアルル生活がゴーギャンにとっても、ゴッホにとってもその後の作品に大きく影響を与え転機になったことは言うまでもない。

 ゴーギャンが他のポンタヴァン派の画家たちよりは強さに於いても、文学性に於いても、また装飾性豊かな色彩の多様さに於いても一歩抜きんでているのにはアルルでのゴッホとの2ヶ月の共同生活を抜きにしては語れないのではないのだろうか?

 それはまたゴッホに於いても同様のことが言える。

 

 オルセー美術館を早々に退散して次は《市立近代美術館》に向った。RERを2駅乗ってセーヌを歩いて渡ればすぐだ。

 ところが行ってみると《市立近代美術館》は先月から一年間の工事に入っていて休館であった。

 

 仕方がない、あとは《ポンピドーセンター》を観るのみである。再度メトロに乗りシャトレで降りた。

 勝手知ったる駅である筈がひとつ出口が違うと戸惑ってしまう。

 

 ポンピドーセンターでも以前と展示内容が随分と違っていた。

 ルオー、マチス、ピカソ、ブラックなどの作品もかなりが入れ替わっていた。

 それに市立近代美術館にある筈のモディリアニとスーティンがポンピドーセンターに避難?してきていた。

 

 予定をしていたドラクロア美術館には4度目の挑戦で今回も観ることは出来なかった。

 市立近代美術館も工事中でかなわなかった。

 

 市立近代美術館では今回重点的に観てきたポンタヴァン派の後に続くナビ派とポンピドーセンターではフォーヴィズムとキュビズムをちょっとだけ覗いておきたかった。

 

 またドラクロアは近代美術に大きく暗示を与えている画家である様に僕には思えるから、そのアトリエをちょっとは見てみたいとかねてから思っているのだが…。

 

 今回のポンタヴァンへの旅はタイムリーにも《タヒチのゴーギャン展》に出くわしたこと、ル・プルデュで《メゾン・マリー・アンリ》の存在を知り、観ることが出来たことなど、思いもかけずに観ることができた、といったものを差し引いても予想以上に収穫の多い旅であった。

 そしてこの旅が今までにしてきた全ての旅がそうであった様に、今後の僕にとって宝物となることを確信している。

 

 ルクサンブールからドゴール空港までのRER内でもサンドイッチの昼食を取る事にしていた。

 日曜なのでいつものサンドイッチ屋は閉まっている。

 学生アルバイト風の男が駅の入口のところでサンドイッチとクレープの店を開いていた。

 僕たちの前に2人のパリジェンヌがクレープを焼いてもらっていた。

 僕たちはブルターニュで本場のクレープをさんざん食べたので、ここでは普通のチーズとハム入りのサンドイッチを注文した。

 男はクレープ台の上でサンドイッチを温めてくれた。

 今日もいまにも雪にでもなりそうなしんしんと冷える寒いパリである。

 

 パリからリスボンに戻ってくる飛行機では隣になんと半そでに短パンの髭顔男が座った。

 どこか熱帯の国から来てパリを中継してリスボンまでの旅の途中であろう。

 まさかタヒチではないであろうが、べつに聞くこともしなかった。

 さすがパリ出発の時には寒そうにはしていたがリスボン空港に着いた時には僕たちも服を2枚は脱がなければならなかった。VIT

 

(この文は2003年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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017. ポンタヴァン旅日記 (上) Pont-Aven ★ Bretagne

2018-10-15 | 旅日記

 ル・サロンとサロン・ドートンヌに出品するための作品を持ってパリに行き、搬入してからその展覧会を観るためには始まるまでの1週間を何らかの形で潰さなければならない。
 パリの美術館をくまなく観て歩くのだけでも良いのだけれど、どうせなら「佐伯祐三の足跡を訪ねてみよう」と思い立ったのが1994年。
 画家がどんな環境に住み、どんな気持ちでそのモティーフを選び、何を強調し何を省き。というのを観察するのは、僕にとって勉強にもなるし楽しみでもあった。

 佐伯祐三の足跡を訪ねる旅はゴッホとも重複している。
 次にゴッホを訪ねるとまたいろんな画家との拘わりが出てくる。
 といった具合にそれ以後毎年、拘わりを求めた旅をしてきている。

 そうして今回はゴッホと拘わりの深い、エミル・ベルナールとゴーギャンらが活動した、ブルターニュ地方のポンタヴァンを目指す旅とした。

(文章は日記形式とし、かなりの長文になりました。一部美術に関し専門的で読みづらい箇所もあるかと思いますが、そういった興味のないところは飛ばしてお読み下さい。また関連した写真をカット的に挿入しました。大きくはなりませんのでご了承ください。下線の入った美術館のホームページへはリンクが繋がっています。但しフランス語です、併せてご了承ください。武本比登志)

 

 プロローグ

 ブルターニュのポンタヴァンという響きは僕の心の中でかなり以前から持ち続けていた。

 それは高校生の絵を描き始めの頃にさかのぼる。

 美術部顧問の恩師・藤井満先生から課外授業で教わった『美術史』

 その教科書に使われたのが福島繁太郎著『近代絵画』(岩波新書/昭和27年第1刷)であった。

 その中に《ポンタヴァン派》という記述が登場する。

 

 ポンタヴァン派《L'École de Pont-Aven》とはゴーギャンを筆頭にエミル・ベルナール、モーリス・ドニそれにポール・セルジェらが中心となって起った近代絵画史上重要な位置を占める絵画革命のひとつであった。

 セザンヌの理論的背景とジャポニズム(浮世絵)の影響を受け後のナビ派やフォービズム、キュビズムそして抽象絵画へと発展、暗示を与えたことになる。

 それまでは印象派による光線の分割理論によって七色の色彩を混色することなく点描で表わしていたものを、浮世絵版画からの発想による黒い線の縁取りの中は点描ではなくて原色や混色した平塗りでもって、そしてその色は自由に最も自分が好きな色を塗れば良いのだ。

 といった自由な発想がポンタヴァン派であると思う。

 それは色や塗り方だけではなく大胆な構図、装飾性、モティーフにも自由な考えは広がって当然のことであった。

 芸術とはひとつの抽象作用であるという《サンテティズム》(綜合主義)を明確に表わした。

 

 縁取りのことを《クロワゾイズム》と言う。

 僕は油彩を描き始めた当初からこの縁取りを多用してきた。

 もっとも僕の場合黒ではなく赤土色であるが…。

 そんなこともあってかポンタヴァン派には人一倍興味があるのかも知れない。

 

 そしてこの程ようやくブルターニュのポンタヴァン行きの実現にこぎつけたわけだ。

 でもいざブルターニュへ行くとなるとその資料は殆ど見つからない。

 インターネットで検索してみても薄っぺらな観光案内しか見つからなかった。

 

 ゴーギャンと並んでポンタヴァン派の中心的画家エミル・ベルナールはポンタヴァンにいる時やパリにいる時に頻繁にゴッホと手紙のやりとりをした。

 そのゴッホからの手紙をまとめて『ゴッホの手紙』(エミル・ベルナール編)として出版した。

 エミル・ベルナールはその他にも『回想のセザンヌ』と言った著書を著していることでも知られているが、それらの本の中にもポンタヴァンについての記述は殆どない。

 

 色々読み漁ったあげくひとつの興味深い文章を見つけた。

 あまのしげ著『ゆらぎの時代-環境文化誌』(リトルガリバー社)の中の《ブルターニュの小箱》という章の記述である。

 僕たちもパリに住んでいた時によく行った《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市。

 そこでもう30年も前になるがひとつのコーヒー挽きを買って今も日本に帰った時には使っている。

 著者のあまの氏が見つけたのは《木彫りの小箱》。

 《木彫りの小箱が想像を掻きたてブルターニュへの旅を誘う》という書き出しである。

 それはヨーロッパに於ける木の文化について触れられていて興味深い。

 僕はこれを読んでブルターニュではあまの氏が言うその木彫の寝台《リ・クロLit-clos》をしっかり見て来ようと思った。

 

 2003/10/25(土)曇りのち小雨 セトゥーバルSetubal-リスボンLisboa

 

 親戚の人が団体旅行でポルトガルに来ているという突然の電話が入ったのでリスボンで逢うことにして自宅は一日早めて出発した。

 当初の予定なら朝4時に起きてセトゥーバルを5時発のローカルバスに乗らなければならなかった。

 パリに行く時はいつもそうしているのだが、今回はそういう訳で親戚の人が団体で泊まる予定の同じホテルに一泊することにした。

 幸いリスボン空港に比較的近い位置にそのホテルはあった。

 それでもホテルを朝5時半には出発しなければならない。

 

 2003/10/26(日)曇り リスボンLisboa-パリParis-レンヌRennes

 

 リスボンを発つ日はちょうど夏時間が終って冬時間に変わったその朝で一時間得をした。

 パリで出品の手伝いをしてくれている画材店のマダム&ムッシューMは昨年で永年営業してきた画材店を閉じた。

 今までならその画材店に絵を持って行けば良かったのだが今回からは自宅に持ってゆく必要があるわけだ。

 同じモンマルトルの18区なのだが自宅には行った事がないのでうまく逢えるかどうかが心配だった。

 

 その日のうちに行くブルターニュの最初の町レンヌ行きのTGV(フランスの新幹線)の切符をド・ゴール空港のTGVの窓口で先に買っておくことにした。

 モンパルナス駅を予定の15時05分発ではちょっと不安だったので、2つ遅らせて17時05分発を買うことにした。

それでも7時過ぎにはレンヌに着くことができる。

 

 だが禁煙席はもう既に満席で喫煙席ならあるという。それでも仕方がない。

 思ったよりも結構混んでいるようだ。他の区間も心配になったので、次の日のレンヌからカンペール行きも、そして帰りのヴァンヌからモンパルナスもまとめて買っておくことにした。

 カンペールからヴァンヌのあいだはTGVではなく、普通の列車かバスでの移動になる。

 その間に目指すポンタヴァンがある。

 

 モンパルナスでもし時間が余ってもぶらぶら歩いて、久しぶりに《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市を歩くのも悪くないとも思っていた。

 18区のムッシューMの家の前まで来るとムッシューMが寒い中、家の前まで出て待っていてくれた。

 おりしも2~3日前からヨーロッパにはかなりの寒波が来ていて例年に増してパリは寒く、ポルトガルよりは15度程も気温は低かったのだが…

 お陰でル・サロンとサロン・ドートンヌ用の二枚の100号はすんなりと預ける事ができた。

 画材店のあったところと自宅はすぐ1ブロック程であったのでその場所のメトロを目指して歩き出そうとするとムッシューMは「メトロならこちらの方が近いですよ」と言う。確かにメトロ駅がもうすぐそこに見えていた。そのメトロ駅にはユトリロの絵になって見慣れている《ジュール・ジョフリン教会》があった。

ジュール・ジョフリン教会

 そこからモンパルナスには15程も駅があるものの乗り換えなしの一本で行くことができる。

 そんなわけでモンパルナス駅には2時過ぎには着いてしまっていた。

 

 切符売り場に行き「15時05分発に変更が出来ますか?」と尋ねたところすんなり切符が取れてしまった。

 僕たちには好都合の禁煙席で、しかも20ユーロもの金額が戻ってきた。

 「なんで?」と尋ねたら、ひととおりぺらぺらと説明してくれたが、それでも解らない振りをすると、切符売り場の女性は「いらないのなら私が貰っとくわよ!」と笑っている。

 これで《ポルト・デ・バンブ》の蚤の市には行けなくなってしまったが、予定どおりブルターニュに明るい内に着ける。

 

 それでも1時間程の時間が余ったのでモンパルナス高層ビルの横から延びている、

 以前にも行った事のある露店市に行ってみることにした。

 今日は日曜日なのでやっている筈である。

 以前この露店市では美味しそうな暖かいソーセージとシュクレの盛り合わせが売られていたので、それを買い込んでTGVのなかで食べるつもりである。

 

 行ってみると露店市ではなくテント張りの展覧会会場になっていた。

 そしてそのテントは果てしなく続いている。

 テントのひとつのコーナーはそれぞれの個展会場になっていて10点づつ程の展示である。

 ル・サロンがまもなく始まろうとしている時期にまるでかつての《サロン・ド・リュフュゼ》(落選展覧会)の様相である。

 全てを見ることは出来なくて途中からモンパルナス駅に引き返した。

 

 駅の売店でサンドイッチとペリエールを買って列車に乗り込むことにした。

 戻ってきた20ユーロでサンドイッチ代を払ってもまだおつりがきた。

 リスボンからの飛行機のなかで機内食が出たので遅い昼食をTGVの中でするのは当初からの折込済みである。

 

 僕たちの席は18号車になっていて、手前から1号車だからホームを延々と歩かなければならなかった。

 車両は20号車までで、機関車両が前後と中程にも二両が付いていて全部で24両編成の超長車両である。

 どこかの駅で切り離すのかも知れない。

 僕たちの席は4人掛けである。さっそくテーブルを引き出してその上にサンドイッチの入った袋を乗せた。

 TGVが動きだすとすぐにでも開いて食べるつもりである。

 

 出発間際になって向かいには中学生くらいの女の子が二人座った。

 祖父母とおぼしき二人が見送りに来ていた。

 たぶんブルターニュから祖父母の住むパリに週末を利用して遊びに来ていたのかも知れない。

 テーブルが小さいのが不満らしく、もっと大きく出せないのかとやってみたくて僕たちのサンドイッチの袋を一旦どけてくれと言う。

 そうしてやってみるがそれ以上は大きくはならない。

 

 TGVが走り出したので僕たちはすぐにサンドイッチを食べ始めた。

 サンドイッチの袋がなくなったテーブルにその女の子はキャンバス地で出来た大きな手提げ袋の中身をぶちまけた。

 自分の持ち物をこの際整理したかったのだ。

 CDモニター、数枚のCD、ゲーム機、雑誌、それにクッキーの箱とジュース、その他もろもろ。

 CDをセットし耳にイヤホンをつけ、クッキーの箱とジュース、雑誌を一冊だけ残して荷物を再び袋の中に詰めなおし雑誌を読み始めた。

 僕たちはこのTGVが停まる最初の駅ブルターニュの入口レンヌで降りる。レンヌにはわずか2時間で着く。

 その2時間のあいだ雑誌をみたり、ゲームをしたり、CDを聴いたり2人で笑いあったりと、手提げ袋ひとつで随分手軽な旅のようにも見える。

 まるで隣町に買い物にでも行く様な感じである。

 いまTGVを使えば本当に短い時間でフランス国内どこにでも気軽に行ける。

 しかも日本の新幹線ほどは運賃も高くはない。

 

 100年前のゴーギャンの時代はどうだったのか?と考えてしまう。

 TGVも飛行機もない時代、煙を吐く汽車はあったにしろ線路のないところは馬車か歩くしかなかった。

 そんな時代にゴーギャンといえベルナールといえ随分気軽にパリとポンタヴァンの行ったり来たりを繰り返している。

 いやポンタヴァンには限らず、パナマやタヒチ、マルケス島、アルジェリアなどとほんとうに気軽に世界中を歩き回っているのには驚きである。

 

 TGVはほぼ満席である。出入り口の補助椅子にも人が座っている。

 僕たちがフランスを訪れるのは展覧会の都合でいつもこの時期なのだが、今回も車窓を流れる紅葉が美しい。

 寒すぎたり、天気が悪かったりまた日も短く旅をする条件としてはあまり良くはないのだが、紅葉だけは本当に美しい。

 それとホテルなどは空いているし格安で泊まることができる。

 

 今回の旅でもいくつかの美術館を観る予定を立てている。

 レンヌの《レンヌ美術館》Musée des Beaux-Arts de Rennes

 カンペールの《カンペール美術館》Musée des Beaux-Arts de Quimper

 《ブルターニュ博物館》Musée Dèpartemental Breton

 それにポンタヴァンの《ポンタヴァン美術館》Musée de Pont-Avenである。

 

 またパリに戻ってから自分の出品している《ル・サロン》Le Salonを観たあと

サン・ジェルマン・アン・レーの《プリウレ美術館》Musée du Prieuré

パリの《市立近代美術館》Musée d'Art Moderne de la Ville de Paris

《オルセー美術館》Musée d'Orsay《ドラクロア美術館》Musée National Eugène-Delacroix

《ポンピドー現代美術館》Musée National d'Art Moderneを予定している。

 勿論それらの美術館内の全てを観るのは無理なので《ポンタヴァン派》に関連深いところだけをポイント的に観ていくつもりである。

 

 ところがリスボンからパリへのエール・フランスの機内で、その機内誌を見ていて”あっと驚く記事”を見つけてしまったのである。

 『タヒチのゴーギャン』と題した展覧会がパリのグラン・パレGrand Palaisでちょうど催されているのである。

 ゴーギャンはその時期ポンタヴァンとタヒチを行ったり来たりしている。これを観ない手はない。
 昨年はちょうど『モディリアニ展』がホテル近くのリュクサンブール美術館で開かれているのをポルトガルに戻る前日に気がついて戻る日に朝早くから列に並んだのに飛行機の時間が迫って時間切れで見ることが出来なくて悔しい思いをした。

 そんな事もあったので今回はその機内誌をよく調べておこうと思っていたのだが、これほどのタイミングの良さだとは想像もしていなかった。

 

 TGVはきっかり予定通り17時08分にレンヌ駅に到着した。

 駅前のホテルに大急ぎでリュックを下ろし、早速《レンヌ美術館》に行ってみることにした。

 予定では明日の朝からの見学だが、もしかしたら1時間くらいは観ることが出来るかも知れない、と思ったがあと5分で閉館となっていた。

 切符売り場の黒人女性は「今日はもう時間はないわ。明日にしたら。明日は10時からだからね」と言う。

 出来たら少しでも予定を早送りしてあとの予定になかった『タヒチのゴーギャン展』を見なければならないと思ったからだが…。

 

 しかたがないので薄暗くなりかけた旧市街を歩き回った。

 木骨煉瓦造りの家並が続く。上階に上るにしたがって道に張り出している。

 また上階に上るにしたがって隣に食い込んでいたりもする。

 隣は隣でまた更に隣に食い込んでいる。まったく面白い。

 柱は太くセピア、赤、緑と様々な色のオイルステンが塗られまるでアンデルセンやグリム童話の世界か、「まるでブリューゲルの絵の中にでも入り込んだようだ。」とあまの氏は書いているが全く同感である。

 なるほどあまの氏の言うヨーロッパの木の文化がこの街にも息づいている。

 同じフランスでも南のプロバンス地方とはあきらかに違う。

 むしろドイツなどの北ヨーロッパで同じ様な建物を見ている。

 

 ヨーロッパはローマ帝国が支配した時代からどうも石の文化の様に見られがちだが、どうして木というものも見過ごすわけにはいかないのだ。

 そう言えばスウェーデンの伝統的な建物も木造であった。

 ノルウェーはベルゲンにはヨーロッパ最古?の木造教会があった。

 

 ひときわ明るく輝いている地区があったので行ってみることにした。

 夜の露店市でも開かれているのかな?と思ったのである。

 行ってみると大きなメリーゴーランドであった。

 そのメリーゴーランドが面白い。乗り物一つ一つがまるでボッシュの絵の世界から飛び出てきた様である。

 あるいはハリーポッターのイメージなのだろうか?子供たちは大喜びで興じていた。上の方でひきつっている子供もいる。

 このレンヌにはここの他、狭い地域に3つものメリーゴーランドがあった。

 

レンヌの木骨煉瓦造りの家

 

メリーゴーランド

 

レンヌの街並み

 

レンヌの通り

 

2003/10/27(月)快晴 レンヌRennes-カンペールQuimper

 

 その朝も早くから街を歩き回って、10時の開館と同時にレンヌ美術館に駆けつけた。

 入口には既に幼稚園児が20人ばかりとその先生たちが4~5人で列をつくっていた。

 その美術館は博物館も兼ねていてエジプトの発掘品、ギリシャ時代の陶器、ローマ時代、イコン、と一通り美術の歴史順に展示がされている。

 ルーベンスの迫力のある大作がある。本当にルーベンスの作品はヨーロッパ中どこの美術館にもある。

 シャルダンJean-Baptiste Siméon Chardin(1699-1779)の2点の静物画が素晴らしかった。

 

 18世紀の絵が飾られている部屋に幼稚園児が座り込んで美術館員の説明を受けている。

 やがてゲームが始まった。美術館員が一枚の絵の部分写真を持っている。

 「この絵はこの部屋のどこにありますか?」という部分当てクイズなのだ。

 子供たちは一枚一枚絵の前に立って「ノン」「ノン」などと可愛い声で答えていた。

 僕たちはそういったところもひととおり観ながら《ポンタヴァン派》の部屋に急いだ。

 

 印象派のシスレーやカイユボットのいい絵もあったが、ゴーギャンのピサロやセザンヌの影響をそのまま受けている初期の静物画も興味深く観た。

 そしてエミル・ベルナール、モーリス・ドニ、ポール・セルジェなどのポンタヴァン派はさすが充実していて、じっくり観ることが出来た。

 またピカソの時代の異なった絵が数点、現代美術のサム・フランシスまで、エジプトから20世紀までと実に幅広い。

 

 この日のレンヌからカンペール行きのTGVも予定していた時間の切符は取れなくて2時間遅れである。

 お陰でレンヌの街はゆっくり堪能する事は出来たが…。

 

 TGVはレンヌを14時11分に出てカンペールに16時23分に着く。

 お昼は少々味けがないが駅で軽くリンゴ入りクレープとシードルのハーフボトルで済ますことにした。

 でもこれもブルターニュ式である。

 

クレープ屋の看板

 レンヌからのTGVは昨日のよりも更に満席であった。

 入口の補助椅子にも座れなくて立っている人もいる。

 僕たちの席も別々である。

 しかも窓が小さくまるでスペースシャトル(乗った事はないが)のようでもあり、監獄(入った事はないが)のようでもある。

 1時間ほどの途中の町、ロリエントで殆どの人が降りてしまい、それからカンペールまでは4人席に2人だけでゆっくりする事が出来た。

 カンペールでは美術館と博物館の2つを観る予定なので今日中にひとつはどうしても観ておかなければならない。

 カンペールにもTGVは定刻通り16時23分に到着した。

 

 レンヌでは駅前のホテルが想像以上に良かったのでカンペールでも何も考えずに駅前の一番目立つホテルに飛び込んだ。

 後でよく見てみるとその隣にもっと設備の良さそうなホテルがあったのだが…。

 ここでもリュックを放り投げてカンペール美術館に急いだ。

 

 美術館に着いた時には薄暗くなりかけていたがその日は充分に観賞する事が出来た。

 ここでも初期のゴーギャン[Paul Gauguin](1848-1903)をはじめ、エミル・ベルナール[Emile Bernard](1868-1941)モーリス・ドニ[Maurice Denis](1870-1943)、ポール・セリジェ[Paul Serusier](1864-1927)に加えて、クロード・シュフネッケル[Claude-Emile Schuffenecker](1851-1934)、アンリ・デュラヴァレェ[Henri Delavallee](1862-1943)アンリ・モレ[Henry Moret](1856-1913)、マキシム・モウフラ[Maxime Maufra](1861-1918)ジョルジュ・ラコンブ[Georges Lacombe](1868-1916)、マイエル・デ・ハーン[Meijer de Hann](1852-1895)シャルル・フィリジー[Charles Filiger](1863-1928)、モーゲン・バラン[Morgens Ballin](1871-1914)アルマンド・スギャン[Armand Seguin](1869-1903)、ロドリック・オコーナー[Rodric O'Conor](1860-1940) 、フェルディナンド・プィゴドウ[Ferdinand LoyenduPuigaudeau](1861-1930)、ウラディスラヴ・スレヴィンスキー[Wladyslaw Slewinski](1854-1918)といった、ポンタヴァン派の画家たちの作品がひととおり網羅されていた。

 やはり後のタヒチのゴーギャンに比べるとどれももう一つ強さや個性といったものに欠けるのかも知れないが、その当時の競い合って新しいもの、独自のものを捜し求めていた息ずかいを感じ取ることが出来る充実した展示であった。

 

 フランスに来た時はいつも何度かは牡蠣を食べる事を楽しみにしている。

 フランスの牡蠣は旨い。

 今回は特にその産地のブルターニュである。勿論この時期が旬でもある。

 そんな訳だから「毎夕食には牡蠣ばかり食べまくるぞー」と張り切っていた。

 パリでもニースでも牡蠣は氷をびっしり敷きつめたお盆のようなものに盛られて出てくる。

 レンヌではあまりの寒さにとても氷に乗った牡蠣を注文する気にはなれなかった。

 暖かいシーフードスープと暖かいムール貝を注文した。

 カンペールでは牡蠣専門店のある市場の隣のブラッセリーに入った。

 ここではいくら寒くても牡蠣を食べないわけにはいかないだろう。

 暖房も効いていたので思い切って12個づつの24個を注文した。旨かったがやはり身体が凍えた。

 身体を暖めようとムール貝のクリームソース煮を追加注文した。それもぺロリと平らげてしまった。

 デザートにはブルターニュではフロマージ・ブランが良い。甘くないヨーグルトのようなものだから。

 それを食べたら再び身体が冷えた。いずれにしろ食べすぎである。

 

カンペールのカテドラル遠望

 

氷の上の牡蠣

 2003/10/28(火)快晴 カンペールQuimper-コンカルノーConcarneau-ポンタヴァンPont Aven

 

 その朝は芝生にもベンチにも真っ白に霜が降りていた。

 先ずは昨夜入ったブラッセリーの隣の市場に行ってみた。やはりセップ(まつたけもどき)が出ている。

 それに市場の中だけで3軒ものクレープ屋があった。

 カマンベール入りとハム入りのクレープを焼いてもらって歩きながら食べた。

 

セップ

 

クレープ屋さん

 

 ポルトガルと比べるとフランスの市場は小綺麗だがあまり元気がない。

 大型スーパーに客を取られて活気がなくなっているのであろうか?

 

 インフォメーションがあったので地図をもらった。そのインフォメーションの前に1枚のポスターが貼ってあった。

 なんと『ポンタヴァンのゴーギャン』と題された展覧会ポスターである。

 でも期間は7月12日から9月30日となっていて、残念ながらもう終っている。

 

ゴーギャン展のポスター

 

 パリといいここカンペールといい違う時期のゴーギャン展を同じ様な時期に催すとは…。

 《ゴーギャン》がいま流行っているのであろうか?

 

 カテドラル内部のステンドグラスも朝の光りを透して美しく輝いていた。

 パステル調で色の優しいモザイクがあったのでサインを読んでみると《モーリス・ド二》と書いてあった。

 

ステンドグラス

 

ドニのモザイク

 10時の開館を待ってカテドラルの隣のブルターニュ博物館に入った。

 先ずはこのあたりに点在する紀元前2~5世紀頃の巨石群の石のレリーフの展示である。

 

 それに教会の為の聖人の彫刻。これが彩色木彫でありどれもこれも面白い。

 ヨーロッパでは大理石の聖人彫刻が主流である。フィレンツェのすぐ隣シエナでは陶器の聖人像もあるが…。

 

 それにしてもこのブルターニュの聖人彩色木彫は面白い。

 まるで子供に見せる人形劇にでも出てきそうな、マリオネットとして今にも動き出しそうな温かみがある。

 街並みの家の柱にそのままノミを入れたようでもある。

 

 この博物館にあまの氏が言う大きな寝台(リ・クロ)が展示されていた。

 栗の木であろうか?扉とベンチの付いたずっしりといかにも重そうな大きな寝台(り・クロ)Lit-closが箪笥Armoireや揺りかごBercerまでが一体となったものにどっしりとした彫刻が施されている。

 

木彫家具

 

寝台,箪笥が一体となったリ・クロ

 

 展示室にはそのような木彫家具が所狭しと展示されていた。

 そんな中に囲まれていると、ゴーギャンがたくさんの木彫を彫ったのが当然のなりゆきであったかのように思われてくる。

 

 カンペールからコンカルノーそれにコンカルノーからポンタヴァンはバスである。

 コンカルノー行きのバスは駅前つまりホテルの真ん前をお昼の少し前に出発する。

 だから今日も昼食はバスの中でサンドイッチを食べる事にした。

 

 コンカルノーは城壁に囲まれた町が港の中に突き出た島になっていて橋ひとつで繋がっている。
 でもその島の中はみやげ物屋、売り絵画廊、レストランなどと観光的な色彩ばかりが目立ってあまりたいしたこともなかった。

 直径20センチほどもある大きなクッキーを焼いている専門店があったので一枚買ってみた。

 どうもこの島の名物らしくて「ビスコット」というらしい。

     

コンカルノー

ハロウィンの飾り

コンカルノーのビスコット屋

 次のポンタヴァン行きのバスには時間が余ったのでカフェのテラスでシードルを飲むことにした。

 気温は低いのだが天気が良いので陽の当るところでは陽射しが強くて気持ちが良い。

 ブルターニュ名物のシードルはアルコール分5%くらいと低いので僕にはちょうどよい。

 このコンカルノーでゴーギャンは船乗りと喧嘩をして怪我を負っている。

 ゴーギャンはシードルでは済まなかったのだろう。

 ここでもアルコール分70%のアブサンを引っ掛けていたのかも知れない。

 

 コンカルノーのバス停のうしろには椿の生垣があって蕾をたくさん付けていた。

 ゴーギャンをはじめポンタヴァン派の画家たちはたくさんの木版画を残している。

 浮世絵の影響なのだろうが、こうして観てくると昔からブルターニュでは木に細工をするというのは日常に行われてきたのが分る。

 版木には何の木を使っていたのだろう。棟方志功は「版木には椿が最も良い」と言っていたのを思い出していた。

 

 20歳くらいの女性がバスが行ってしまったのではないか?とあせりまくっている。

 僕たちは時刻表の5分前からバス停に座っていたが、そう言えば時刻はもう過ぎている。

 やがて5分遅れでバスはやってきた。バスの本数が少ないのでひとつ逃しても大変なのだ。

 でも乗客の殆どはその女性も含めてすぐに降りてしまってポンタヴァンまで乗っていたのは僕たちともう一人の3人だけだった。

 30分ほどバスに揺られていよいよポンタヴァンに到着した。

 僕たちを降ろしたバスはさらにカンペルレまで行く。

 ここでもバスを降りてすぐの広場に面したところにあったホテルに迷うことなく決めた。

 隣に美術館の看板が見える。リュックを置いてさっそくポンタヴァン美術館に出向いた。

 

ポンタヴァン美術館

 ここでは文字通りポンタヴァン派の展示が中心である。

 この時代のゴーギャンの作品が少しと、その他のポンタヴァン派の画家たちの作品がたくさん展示されていた。

 それとその当時の写真が展示されていて興味深いものであった。

 ゴーギャンや人の良さそうなベルナールは以前から少しは写真を見ていたがセリジェは初めてであった。

 髭面でいつも笑っていて絵からは想像ができない容貌である。

 恐らくゴーギャンが居ない時はこのセリジェがリーダー的だったのかも知れない。

 でもやはりゴーギャンがいなかったらポンタヴァン派という動きは出来なかったのだろう。

 

 美術館はポンタヴァン派の常設展示場と特別企画展示場になっていて企画展でもポンタヴァン派の画家たちの個展を定期的に催しているようであった。

 その日はポンタヴァン派よりは少し後の時代だが、ポンタヴァンゆかりのシャヴィエー・ジョッソXavier Josso(1894-1983)という画家の個展が催されていた。

 水彩と主に木版画の展示でモティーフとしてはブルターニュの風景には違いないのだけれど、木版の細かい彫り方や構図の取り方などまるで東海道五十三次の広重の様であった。

 

 夕方ホテルに戻ると「もしここで夕食を考えているのなら席を予約をしておいたほうが良いですよ」とのことだったので予約をしておいた。

 とても寒くなっていたしこれ以上歩き回るより…

 それになによりキッチンからは食欲をそそるとても良い匂いが漂ってきていた。

 7時半の開店を待ちかねて部屋を出た。

 ホテルの受付のマダムもウエイトレスに変身して、他の2人のボーイと共に大忙しである。

 すぐにレストランは満席になった。ポンタヴァンの町の人たちが大勢このホテルのレストランに食事に来ているのだ。

 町にはたくさんレストランがあったがどれも皆夏場のリゾート客向けで今の時期は営業はしていない様子だったから、

 このレストランに集中したのかも知れないが、なによりも味が良いのだろう。

 良い匂いがしていたのでここでも牡蠣は止してブルターニュ料理にした。

 さすが早い内に満席になるだけのことはあって、素材も味も盛り付けも第一級であった。

メニューは

t.Soupe de Poisson(魚味のスープ-チーズとさいころパンが別盛になっていて極深椀で出てくる。ブルターニュ風)

u.Lieu Jaune(鱈のシードルソース和え)

v.Eglefin Au Chou(キャベツと鱈のクリームソース和え)

x.Baba Framboise(木苺と3種類のソースのカステラ)

y.Charlotte Fromage Blanc(クリームチーズのシャルロット)

         
         

 ホテルは広場に面した良い部屋であった。

 部屋にはそれぞれポンタヴァン派の画家たちの名前が付けられていて僕たちの部屋は「Henri Moret」となっていた。

 アンリ・モレもポンタヴァン派の中心的画家でいい絵をたくさん残しているが、まだ印象派のピサロあたりから抜け出せないでいるように僕には思えた。

 窓からはゴーギャンたちが泊まっていた『グロアネク夫人の下宿屋』の建物と、入り浸っておそらく飲んだくれていた『カフェ・デザールCafe des Art』が見える。

 広場の名前は今《ゴーギャン広場》と呼ばれていて、ゴーギャンの胸像が建てられている。

 今までは快晴続きだったのが夜から雨になった。

   

カフェ・デザールと下宿屋

ゴーギャン像とホテル

ポンタヴァン旅日記(下)へ続く。

 

(この文は2003年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)

 

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