大阪芸大に入って1回生の未だそれ程は経ってはいなかった頃だったと思う。1968年の梅雨前か恐らくその頃だ。
美術科同級生の浅場一司君から「屠殺場に行こう」と誘われた。藤井寺にあった牛の屠殺場である。それは大阪芸大最寄り駅喜志駅と僕の自宅北田辺駅とのほぼ中間地点になる。僕のクルマで僕が運転して、浅場君の誘導で2人で行った。でも50年も昔の話だから記憶もあやふや、だがその情景ははっきりと覚えている。
到着すると屠殺場の人達は「よう来たね!学生さん」と言って、いたって親切に対応してくれた。
実際にその場で牛が屠殺されているのだ。牛は狭い通路に押し込まれ上から脳天目掛けて楔が撃ち込まれる。ドスンと鈍い音。牛の悲鳴。コンクリートの水路には真っ赤な牛の血がどろどろと流れて僕にとっては大変なショックであった。
そこでは男女大勢の人たちが平然とした面持ちで忙しく立ち働いていた。両手に地面に届かんばかりの大きな牛たんをぶら下げて小走りに働く小柄な老婆など。僕などは目を瞠るばかりであった。
ルネッサンスの時代から或いはそれより以前から画家や彫刻家たちは骨格を描いて来た。とりわけダ・ヴィンチと解剖学は切り離すことは出来ない。実に多くの骨格デッサンを残している。ダ・ヴィンチだけではなくデューラー、レンブラント、ルーベンス、勿論、ミケランジェロやロダンなども多くの骨格デッサンを残している。骨格を描くことはデッサンの重要な基礎なのだ。
当時は聖人像、人物画の骨格つまり人骨である。でも現在社会において人骨は問題だ。ホラー映画並みの犯罪と結び付けられてしまいかねない。その後は人骨ではなく動物の骨、主に牛の頭蓋骨が重要なモティーフとなったのだ。
浅場君は何事にも一生懸命、やる気のある人物で、例えば大学の体育祭でマラソン大会があり、それに出場すると言うのだ。そしてその1か月も前から喜志駅と大学の間は結構な距離、2,3キロ程もがあるのだが、スクールバスに乗らないで毎日往復を走って足慣らしをしていた。優勝は逃したものの見事2位銀メダルを獲得したと言うことなどもある。そんなことや他にもいろいろとあって僕は浅場君には全幅の信頼を寄せていた。
浅場君は屠殺場の人と事前に話をつけていたらしく、牡牛の頭部があらかじめ用意されていた様に思う。牛の頭部と言っても皮と肉は削ぎ取られ角と骨だけになっているのだが、その骨に血糊がべっとりと残っている。浅場君が用意していったのか、屠殺場で貰ったのか、古新聞をクルマの座席にもトランクにも敷き詰め、骨だけになった牛の頭をぎっしりと載せた。10個である。10頭分の牛の頭である。角は出張っているし結構大きなものでよく載せられたものだと思う。それを大阪芸大まで運び、適当な場所に埋める作業だ。
当時、大阪芸大は開校して未だ4年目の新しい大学で、山や田畑を切り開いて造成したのだろう。そんな名残が至る所にあった。墓地も隣接していたし、農業用のため池もあった。校舎といえば半数はバラック小屋であった。
浅場君は骨を埋める場所もあらかじめ決めていたのだろう。早く肉片や脳味噌が腐る様にとじめじめした湿地に埋めた。誰も近寄らない場所だ。3か月か半年かは忘れたがそれくらいの期間だったと思う。
決めていた時期まで待って掘り上げた。綺麗に肉片は腐っていて、大阪芸大事務所前の洗車場で洗い流した。ホースからは勢いよく水が噴き出し頭蓋骨の奥まで綺麗に洗い流せる場所なのだ。その場所も浅場君が決めていて、その作業の最大のパフォーマンスだと彼は言っていた様に思う。空手部の新庄先輩はよくその場所で糸東流空手の型の練習をしていたし、勿論、同級生の鳩山君や金森君が加わっての合同練習などは部員も多く事務所の上階大教室からの眺めは壮観であった。そして大学への抗議行動デモは決まってその場所だった。事務所からも大教室からも良く見える一等場所、大学の玄関なのだ。
綺麗な牡牛の頭蓋骨10個が出来上がった。浅場君は早く描きたそうにしていた。牡牛の頭蓋骨と言っても形は様々でそれぞれに個性がある。浅場君は「先ず君が一番かっこいいのを選べよ」と僕に言ってくれた。僕は迷わず一番かっこいいのを選んだ。次に浅場君だ。そしてその次は又僕の番だ。僕は2個を選んだ。
僕が2番目に選んだ牡牛の頭蓋骨は母校の浪速高校美術部に寄贈した。
浪速高校美術部はNACKと言う。顧問の藤井先生が考えられたロゴマークもある。浪速高校アートクラブの略でNACとなるのだが、NACだけならアメリカンフットボール部、洋弓部(アーチェリー)、天文部(アストロノミカル)などもNACとなり、その他にもNACとなるものは多い。それらと差別化するために発音上最後にKを追加したのだと言われていた。そのN、A、C、Kを組み合わせ横に倒すとピカソの牡牛の頭蓋骨になりいかにも美術部らしくなる。そんなロゴマークは僕が高校に入学する以前から浪速高校美術部にはあった。
僕が高校現役生の頃、藤井先生はOB用のロゴも作られた。更に簡略化したロゴマークで僕は未だにそのロゴマークを愛用している。ティシャツにもジーンズにもバッグにもアップリケしたり、刺繍したり、パッチワークしたりして楽しんでいる。
浪速高校美術部に牡牛の頭蓋骨を寄贈したことについては藤井先生からは「武やんがNACKのシンボルを持って来てくれた」と大そう喜んで頂いた。
僕が最初に選んだ1番かっこよい牡牛の頭蓋骨は僕が持っていた。ストックホルムやニューヨーク更に南米に居た時には大阪の実家に置いていた。帰国して宮崎で店を継いだ時に宮崎まで運んだのだが飲食店に飾る訳にも行かず、倉庫に仕舞ったままであった。
いよいよポルトガルに移住する段になってそれまでの思い出の品などあらゆるものを捨てざるを得なかったのだが、牡牛の頭蓋骨はお店の河原に置いて来たのだ。捨てたと言っても良い。店は他人に手放したものの、未だ家は買ってはいなかったし、宮崎市内にアパートを借りて荷物の一切合切を押し込んでポルトガルに来たのだった。牡牛の頭蓋骨は嵩張るし捨てざるを得なかった。
ピカソは牡牛の頭蓋骨を何度も繰り返し絵にしている。残念ながら僕は牡牛の頭蓋骨を一度も絵にはしなかった。1番かっこよいのを持っていながら。
浅場君は何度も絵にしている筈である。卒業制作展にも牡牛の頭蓋骨を配した40号くらいの静物画を出品していた様に思う。
僕はというと大学を卒業もしていないし、牡牛の頭蓋骨も一度も描いてはいない。
牡牛の頭蓋骨を屠殺場から貰って来た頃には工場のパイプや機械などをグレーとローズグレーで抽象的に表現するのに没頭していた頃だ。
宮崎に居た13年間は倉庫に仕舞いっ放しだったとはいえ、毎年大阪でのNACK展には出品していたのに何故シンボルマークの牛の頭蓋骨を一度も絵にしなかったのだろうと今になって悔やむ。
或いは、宮崎に住む前のニューヨークでは僕はマクロバイオティック料理店のコックをしていた。マクロバイオティックは玄米を中心にした健康食で肉は一切食べない。魚も白身だけ赤身や青魚は禁止である。野菜もトマトなどナス科は禁止で鶏卵も牛乳も砂糖も禁止食品であった。そんな影響が未だ宮崎にいた頃まで残っていたのかもしれない。牡牛の頭蓋骨は画材なのだが、何だか描くこと自体に、いや、倉庫から出して見ること自体にも後ろめたさが残っていた様にも思う。
過去を悔やんでも仕方がない。今できることはせいぜいポルトガルの町角を、闘牛場を含めた町角を…絵にすることくらいだろうか?
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