最近のアメリカ映画などを見ていても瓶のビールは捩じって開けている様で、センヌキはもはや使ってはいない。日本でもポルトガルでも瓶のビールには昔ながらのセンヌキは今でも使う。尤も日本では瓶ビールより缶ビールが主流で、瓶ビールはお店などでは使われているが家庭ではやはり手軽な缶ビールなのだろう。アルミ缶ならリサイクル箱に捨てるだけで済むがビールの瓶を返すには手間がかかる。
ポルトガルのスーパーで売られている1リッターのビール瓶はワインの瓶と同様、ガラスのリサイクル容器に捨てるようになっていて、蓋も捩じり式で繰り返し栓が出来る様になっている。だからその様なものが主流になり、時代と共にセンヌキなるものの存在はなくなってしまうのかもしれない。
僕は昔、1965年、東京オリンピックの翌年だったと思う。東京国分寺駅前のキャバレーでボーイのアルバイトをしていたことがある。お店の名前は『フレンド』。大きなフロアーの真ん中には池と噴水もあった。噴水の上にはミラーボールが回っていて、池の周りはダンスホールになっていた。その周囲に多くのボックス席があり、ホステスさんに取り囲まれるように男性客がいた。
ボーイは3~4人いたが、間隔を空けて、そのボックス席から少し離れたところで突っ立っている。突っ立っているだけの仕事だ。右手にはセンヌキを持って突っ立っているだけ。何の変哲もないセンヌキだ。時折、ホステスさんから呼ばれる。「ボーイさ~ん」などと呼ばれる。つつつとボックス席に近付く。ホステスさんは「ボーイさん、おビール1本お願い」などと注文をする。ボーイはバーカウンターからビール瓶を持って来て、ボックス席の前で、勢いよくビールの栓を開けるのだ。「シュッパァ~ン」という景気の良い音を鳴らす。それが腕の見せ所でもあった。左手にタオルを持ちよく冷えたビール瓶をそれに包んで胸の高さまで持ち上げる。センヌキを持った右手は腰より下。1メートル程も離れたビールの栓に一直線にヒットさせ景気の良い音をお店中に鳴り響かせなければならないのだ。
岡山に内山工業という明治半ばに創業の古くからの企業がある。何でも創業当時はビールの王冠製造から始まったらしい。王冠の裏にはコルクが使われていた。僕が子供の頃にも王冠の裏にはコルクが張られていた。そのコルクを剥がし、王冠をシャツなどに貼り付け裏に再びコルクを付けて遊んだりもしたものだ。そのコルクを調達するために内山工業はポルトガル北部の町ヴィアナ・ド・カステロに工場を作ったのだと思う。その工場は今でもある。尤も今では王冠の裏にはコルクは使われていなくて、樹脂製に代わっているが、ヴィアナ・ド・カステロの工場はそのまま操業は続けられていて、企業としての人気は高い。今では王冠だけではなく製品の広がりも多いそうだがその製品の世界シェアは何と3割にもなると言う優良企業だ。
僕が最も尊敬する恩師が『センヌキ』先生と言う渾名だった。外見と内実の両方がうまく合致した渾名で、誰が付けたのかは知らないが実に巧く付けたものだと感心していた。外見は少々出っ歯で、そこからも由来しているのだが、何事にも先ず率先してやってみると言う性格もあって、先ず扉を、栓を開けてくれる、何でも出来る人でもあった。
美術部では不定期に機関誌『NACK』というのが作られていて、その冒頭部分に『A Cup Opener』というコーナーがあり、気の利いた文体に、レイアウトとイラストがお洒落で、ご自身でもセンヌキという渾名は気に入られていた様だ。『NACK』のロゴマークはアルファベットを組み合わせて横に倒すとピカソの牛の頭蓋骨になる。
僕たちの美術部の顧問ではあったが、美術部以外にも山岳部とラグビー部も兼務しておられた。兼務と言っても只名前だけの顧問ではなく、生徒と一緒に山にも登られるし、プロテクターにジャージ姿でラグビーボールを抱えて生徒と一緒になって運動場中を走られる。だからと言ってそれ程身体がデカいわけでもなく、どちらかと言えばやせっぽちで華奢なタイプだ。繊細なのにず太いのだ。ず太く見せようと努力されていたのかもしれない。
生徒の部活動の顧問以外にも先生同士での俳句の同好会にも参加されていて、独自に俳句に木版画をドッキングされて面白い表現をされていて、それが出版社の目に留まり1冊の素晴らしい本にもなっている。俳句・俳句版画集『蛍雪の窓』藤井 水草両 著
僕はこの恩師と出会うことによって僕自身が知らず知らず随分と変わっていったのだろうと思う。その頃の母の口癖は「藤井先生のお陰や」だった。そのセンヌキ先生の本名は藤井満先生と言われる。
僕は戦後間もない食糧難の時代にこの世に生を受けた。出産の付き添いに福岡県遠賀郡からわざわざ大阪まで母の姉、僕からすれば叔母さんが手伝いに来て下さった。夜行の蒸気機関車に揺られて。その間には途中、広島の惨状なども目にされてのことだった。
僕は何とか無事に生まれた。でも叔母さんの第一声は「この子は生きられんよ」だったらしい。鳴き声も弱弱しく、痩せっぽちで目と鼻と口だけが大きくてとても異形であったらしい。
でも生を受けてからは母の胸にしがみつき母乳をむさぼり飲んだのだと言う。その結果、母も僕もカルシューム不足は慢性的な事態になってしまい、共倒れも懸念された。僕はその頃から『和田カルシューム』という栄養補助剤が手放せなくなっていたし、ビタミンなどのいろいろな栄養剤を常用しなければならないほどであった。僕の子供の頃は酷いアレルギー体質で、身体中に蕁麻疹が出て、いつも四谷怪談の『お岩さん』状態だったし、喘息気味で、おまけに骨折はしょっちゅうで、怪我などをしてもなかなか血が止まらなかった。近くにあった『淀井病院』の常連患者だったが、お医者様は「中学生くらいになれば自然に良くなりますよ。」と言って頂いていたが、中学生になってもお医者様が言われた様にはゆかなかった。それが高校生になって美術部に入って、母に言わせると見違えるような変化が起きた。と言うのだ。「この子は生きられんよ」と言われた子供がまがりなりにでも高校生にまでなったのだから。そして高校美術部の顧問「藤井先生のお陰」という訳である。
それから今までの実に長い人生でその時からの、センヌキ先生を含めた仲間たちは人生の支えになっていった。
幾つかのセンヌキが手元に残されているのだが、もはや開けるべきものは何もない。
何処の家庭でも台所の引き出しには2個や3個のセンヌキが転がっている。でもあと数十年もすれば「はて、この道具は何に使うものなのだろう?」などと言われる日がやってくるのかもしれない。武本比登志
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