ポルトガルに住んでこの9月で丁度30年。1990年9月19日、トランク一つでリスボン空港に降り立ち、3日後からセトゥーバルの下町に飛び込みで部屋を借りたのが始まりでした。当初はこれほど長く住むとは思わなく、せいぜい1年か2年。それが2人ともポルトガルの気候風土が余程身体にあうのか、5年が10年になり、気が付けば30年です。
パソコンを始めたのが20年程前、すぐにサイトを立ち上げましたが、サイトは10年程で立ち消えになり、ブログに移転。ブログに淡彩スケッチを掲載し始めて1000景に達した時に、マサゴ画廊から淡彩スケッチの個展をやりませんか?とのお誘いがあり、2017年にやらせて頂きました。実はその以前から長居の『ギャラリーキットハウス』からお誘いはあったのです。
そして今回、2020年9月は大阪芸大同級生がオーナー、長居の『ギャラリーキットハウス』です。2020年9月1日現在2192景。その中から40景の展示です。
武本比登志ポルトガル淡彩スケッチ、2192景『ペニシェの町角』
そして大阪芸大同級生、ワイフである睦子との初めての2人展。大学で同級生になってから一時も離れず、一緒に世界中を旅し、同じものを食べ、同じものを見てきましたが、生まれ育った環境の違いからか生み出される作品は随分と違います。
睦子は『ポルトガルの野の花』という植物事典風のブログを作っています。そしてそれを抽象表現した絵を描いています。
武本睦子『リナリア・アメジステア』
睦子は南九州、都城生まれで、僕は大阪、東住吉生まれです。都城弁と大阪弁、言葉も通じず、遠く離れた国際結婚の様なものですが、実は4世紀末にも大和の仁徳天皇は都城から日向髪長媛をお妃として迎えています。髪長媛は大和に養蚕技術を伝え、蚕(かいこ)の餌となる桑を植えました。後に桑津という地名が生まれた由縁はそこにあり、実家近くには髪長媛を祀った桑津神社があります。そして僕は桑津小学校の出身です。
睦子と出会うずっと以前、僕が小学生の頃、長居といえば僕たち悪餓鬼の遊び場でした。未だ地下鉄もここまではなく、公園も整備されていなく広大な競馬場の跡地。そんな光景が頭を過り何か縁を感じます。
僕は桑津小学校に通っていましたが、桑津小学校高学年の時、久保田君と同じクラスになりました。我が家からほんの1分のところに久保田君の家があり、すぐに親友になりました。久保田君は背も高くハンサムでカッコよく、野球なども上手でした。僕たちはせいぜいグローブとバットを持っていれば良い方でしたが、久保田君は上下のユニフォームまで着ていました。そして自転車を持っている仲間が悪餓鬼として久保田君の周りに集まりました。久保田君は一人っ子で両親から何でも買ってもらえる状況でしたが、僕はそんなのを随分羨ましく思って、僕も一人っ子に生まれたら良かったのにな、などと思いました。僕は兄と妹が居る3人兄弟の真ん中です。久保田君のお母さんも美人でした。家に行くとお母さんが内職をしていました。図書館の本にビニールカバーをする内職です。本に合わせてビニールを電気ごてで貼り付けていくといったものでした。お母さんに挨拶をすると恥ずかしそうにした笑顔が印象的でした。
ある日、久保田君が情報を仕入れてきました。西田辺のお店で『飛び出しナイフ』が売っていると言うものでした。その頃は西田辺が地下鉄の終点駅でした。早速、2人は自転車で見に行きました。刃渡りの長いのと短いのと2種類が売られていましたが、久保田君は長い方を買いました。そして僕は短い方を買いました。飛び出しナイフと言うのは鉛筆を削る訳でもなく、リンゴの皮を剥くわけでもありません。喧嘩に使う道具なのです。こんなものは不良しか買いません。これで喧嘩でもしようものなら大変なことになってしまいます。即、少年鑑別所行です。でも僕たちは喧嘩などしたこともなければ脅しに使う訳でもありません。何となく持ってみたかったというだけの物です。
自転車を持っている悪餓鬼グループでたびたび長居まで遠出をしました。広大な競馬場の跡地では馬を見たことはありませんでしたが、柵の中には砂地があり馬の肥爪の跡などが残っていました。競馬場跡地には見渡す限り人影はありませんでした。僕と久保田君は樹木の幹に向かって飛び出しナイフを投げて遊んだりしました。ナイフは研がなければ切れない代物でしたが、研ぐことまではしませんでした。
他の悪餓鬼の一人が何処からか捨てられていた反物の芯を見つけてきました。反物の芯と言っても丸い筒ではなく、平たい物です。紙が貼られていましたが紙を破ると梯子段状の木の桟になっています。それをその拾ってきた友人が梯子段代わりにして樹に上ろうとしました。桟はあっけなく外れ釘が足の脛を深くざっくりと切ってしまい、血だけではなく肉までも見えていました。何とか皆で協力して止血は出来ましたが、久保田君も僕も青ざめてしまいました。飛び出しナイフで脛を切ったわけではないのですが、無関係には思えませんでした。それ以来飛び出しナイフは2人とも引き出しの奥深くに仕舞ったままになりました。
その同じ悪餓鬼グループの6~7人が子供用自転車で二上山まで行ったこともあります。二上山で地元の悪餓鬼グループから喧嘩を売られました。僕たちの中で一番大きかった久保田君に自分たちのナイフを持たせ、これでかかってこい。と言うものでした。相手はたったの3人です。同じ小学6年生だと言っていましたが、その内の一人は相撲取りほども大きくて、僕たちはビビってしまいましたが、久保田君は落ち着いた様子で喧嘩にはなりませんでした。そしてそれを見ていた大人の人が知らせたのでしょう。地元の警察で事情を聞かれました。地元では誰にでも喧嘩を売る悪評の悪餓鬼だったらしいです。警察にその大きな悪餓鬼の写真もあり「こいつやろ」と聞かれました。警察で卵丼をご馳走になり、お土産に森永ミルクキャラメルを一箱ずつ頂き「きょうは遅くなったから電車で帰りなさい、自転車は警察で預かっとくから又後日取りに来なさい」と言う優しいお巡りさんでした。久保田君も僕も飛び出しナイフを持っていなくて良かったなと思いました。
久保田君は絵も上手でした。久保田君を中心に悪餓鬼の数人で『漫画クラブ』も作りました。僕などは鉄人28号の絵などを描いて満足していましたが、久保田君は何か自分で作ったストーリー物も手掛けている様でした。
小学校6年生の2学期だったと思いますが、その頃大阪に建ち始めた長居の公団住宅に久保田君一家は引っ越して行き、長居小学校に転校してしまいました。その後の千里ニュータウンとか泉北ニュータウンと言われるものと同様の鉄筋コンクリートで、その頃では全く耳新しいシステムキッチンにユニットバスなどというモダンな造りでサラリーマンの憧れの的と言われた住宅なのだと思います。長居はその先駆けでした。入居するには抽選に当たらなければなりません。久保田君も嬉しそうで鼻高々だったのだと思います。久保田君は何をしてもかっこいいなとも思いました。
長居だから僕たち悪餓鬼のテリトリーの筈ですが、学校が替われば急速に久保田君とは合わなくなりました。久保田君は長居小学校でも、また悪餓鬼のリーダーになっていたのでしょう。その後、何処の中学に行ったのか、どこの高校に行ったのか、全く知りません。でも久保田君は漫画を続けていたことは確かで、引っ越して行ってすぐに『漫画王』のコンクールに応募して特選に選ばれ雑誌にもその4コマ漫画と久保田君の名前が載り皆を驚かせました。でもお祝いの言葉もかける術も知りませんでした。
僕の実家から1分のところにあった久保田君が住んでいた家はずっと空き家のままでした。2階建て三軒長屋の真ん中でしたが、やがてその両隣も空き家になりました。その三軒長屋の隣にあった庭付きのお屋敷も空き家になりました。僕はその家の前を通るたびに久保田君のことを思い出していました。僕が中学の時も高校、そして大学に通っていた時も、ストックホルムやニューヨークから6年ぶりに帰ってきた時も空き家のままでした。それから宮崎に13年間住み毎年1度は実家に帰って来ていたのですが、その時にも変わらず空き家のままでした。でも少しずつガラスが割れたりして荒れ果てているのが判りました。そしてポルトガルに住み始めてからも毎年帰国し実家には立ち寄りますが、未だ空き家のままでした。久保田君が引っ越して行ってから指折り数えると55年は経っていると思います。
そしてほんの数年前にその三軒長屋とお屋敷はすっかり取り払われ更地になり、アスファルトが敷かれ小さな月ぎめ駐車場へと変わりました。
先年まで久保田君の家はずっと変わらずにありましたが、長居は随分と変わりました。見渡す限り人影はなく、僕たちが飛び出しナイフを樹木に向かって投げた辺りは長居公園のメインゲイトとなり今では人通りの絶えることはありません。地下鉄と同時にまっすぐで広い道路も通り、背の高いマンション群が建ち夜にはネオンが灯ります。影も形もなかった長居競技場は大阪国際女子マラソンのゴール地点で、ポルトガルでもその映像を観ることができます。
そんな長居での夫婦二人展です。
久保田君は今も長居に居るような気もします。まさかその時の桑津小学校での悪餓鬼の一人が長居で夫婦二人展をやっているとは思わないでしょうが、マンションの最上階ペントハウスから遥か二上山などを眺めては、僕と同じ様なことを思い出し、感慨にふけっているかも知れません。
僕たちが小学生の時、飛び出しナイフを投げた筋向かいにあった長居小学校は明治時代の創立当初には追分小学校という名前でした。その辺りは江戸時代には、住吉方面と堺方面の追分(分岐点)で三軒の追分茶屋があったそうです。堺の商人、住吉詣り、それぞれの人々の休憩場所でした。三軒の茶屋は競い合って居心地が良かったと言います。一杯のお茶の筈がついつい長居をしてしまった。と言うのが『長居』という地名の由縁だろうと思います。
長居での展覧会の名称は『ポルトガル淡彩スケッチ・武本比登志・武本睦子・二人展』です。僕も睦子もコロナ禍で帰国できずギャラリーには居ませんが、是非お出かけください。そして「長居は無用!」などとは仰らずに、同級生のオーナーさんとご歓談、お茶でも頂きながらごゆっくりとお寛ぎ、長居をしていってください。武本比登志
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『ポルトガル淡彩スケッチ 武本比登志・武本睦子・二人展』
2020年9月11日(金)― 23日(水)10:00-19:00(最終日は17:00まで)
9月17日(木)はお休み
Gallery キットハウス
〒558-0004 大阪市住吉区長居東 3-13-7 電話 06-6693-0656
詳細はこちら▼
http://plaza.harmonix.ne.jp/~artnavi/01-art/kit/200923-kit-takemoto.html
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