2003/10/29(水)曇り時々雨 ポンタヴァンPont Aven-カンペルレQuimperle-ル・プルデュLe Pouldu
朝、目が覚めるとまだ雨が降っていた。今日はトレマロ礼拝堂Chapelle de Trémaloに行く予定だ。
トレマロ礼拝堂にはゴーギャンが描いた黄色いキリスト像がある。
ホテルの年配の方のマダムに尋ねると4キロの道のりだという。
往復で8キロはとても歩けない。
道もよく判らないし雨も降っているのでタクシーを呼んでもらうことにしたが「タクシーが来ない」と言う。
マダムは「歩くしかないわね。途中の道は散歩には素晴らしいですよ。
往復で2時間だからバスにはギリギリ間に合うわね」と簡単に言ってくれる。
朝食が済んだ頃には雨もあがっていたので歩くことにした。
幸い標識は出ているのでそれに従って行けば道に迷う事もないだろうと急ぎ足で歩き出した。
町外れから森の道に入った。
しばらく行くとまた道路標示があって《トレマロ礼拝堂まで500M⇔ポンタヴァンまで700M》と書いてあった。
合計で1200メートルしかないわけだ。
ホテルのマダムは歩いたことがないのだろう。ホテルを出てからたった20分で着いてしまったのだ。
途中は本当に素晴らしい散歩道であった。
栗の木がたくさん生い茂っていてその実をいがごと道いっぱいに落していた。
だれも拾わないのがもったいなくて不思議であった。
どんぐりもたくさん落ちていたし、野生化したような小さなリンゴも足の踏み場もないくらいに落ちていた。
昨夜の雨で落ちたのかもしれない。
それに紅葉も美しい道であった。標識には《愛の散歩道》と書かれてあった。
リンゴ
トレマロ礼拝堂
クリ
トレマロ礼拝堂はそれ自体絵になる可愛い礼拝堂であった。
礼拝堂の内部の正面にはゴーギャンが描いた黄色いキリストはなかった。
マリア像とか他の聖人像が何体かがあったがキリスト像はなかった。
どこかに貸し出しでもしているのであろうか?と思った。
あるいは貴重なものだからどこかの博物館入りになったのであろうか?とも思った。
聖人像たちはやはり彩色木彫でカンペールの博物館で観たのと同じ様に面白みがあって素晴らしいものであった。
狭い小さな礼拝堂であるが一番うしろまで下がって全体を見てみることにした。
そうすると天井から少し下がった梁のところに薄ぼんやりとキリスト像が見えるではないか。
入口の所にホテルにあるような時間が経てば自動的に切れる仕組みの電灯のスィッチがある。それに飛びついた。
まさしくゴーギャンが描いた黄色いキリストがそこに浮かびあがったのだ。
名もない木彫師が作った素朴なキリスト像であるが、僕にとっては絵を描き始めの頃からゴーギャンの《黄色いキリスト》として慣れ親しんできた絵のモデルである。
ちょっと大げさな表現であるが『感動的』な出会いであった。
聖人彫刻
黄色いキリスト
トレマロ礼拝堂内部
今までは単なる黄色いキリストとしか考えていなかったが、この旅を通して感じたことは、この黄色いキリスト像が木彫、つまり木であったというのはゴーギャンにとって重要な要素であったのだ。
もちろんブルターニュの家具(リ・クロ)。その木彫装飾。木骨煉瓦造りの家屋。
どれもポンタヴァン派の画家たちとは切っても切れない関係にあったと言うのが理解できる。
それにジャポニズムの浮世絵木版画が加わる。
観光客の誰一人も訪れない。落ち着いてゆっくり眺めることが出来た、まったく静かな礼拝堂であった。
来る時は途中の標識までは急ぎ足だったのが帰りはのんびりと《愛の散歩道》を引き返した。
町外れまでくると家の庭に季節はづれの紫陽花が二輪、蔦の紅葉と競い合う様に鮮やかなブルーに咲き誇っていた。
町に戻ってもバスの時間まではまだまだあったので港まで行ってみることにした。途中は軒並み画廊が林立していた。
大きな岩がごろごろと川にころがりまるで日本の渓谷の様な景色である。
ところどころで水車が回っていた。
ポンタヴァンの水車
なるほど100年前からのリゾート地であったことがよく分る。
港には今は豪華なヨットが数隻停泊してあった。
ホテルでチェックアウトを済ませる時「次はル・プルデュに行く予定だけどそこにホテルはありますか?」と尋ねてみた。
「ああル・プルデュね。あの村にはマリー・アンリの家があるものね」
「えっ、マリー・アンリ?」
「そうですよ、ゴーギャンが家の天井、壁、ドアに絵を描いたところですよ」
意外であった。そんなところが残されているとは思ってもみなかった。
当時ル・プルデュにも女性が経営する下宿屋があってお金がない画家からは下宿代を請求しないので、それをよいことにゴーギャンたちはたびたびここに滞在して絵を描いていた。
といった話は知ってはいたのだが、まさかその家が今も残されていて見学が出来るとは…。
それならばどんな事があっても観てみない訳にはいかなくなった。
ゴーギャンの画集にはル・プルデュの絵がよく出てくる。
海辺に立つ十字架の水彩画があって、その十字架だけでも見ることができればよいと当初は思っていた。
どんな村なのか?海の色は。波の音は。それと美味しい牡蠣が絶対に食べる事ができる漁村だと信じていた。
でも交通の便が悪かったり、天気が悪くなったりする様だったら、このル・プルデュはパスをしてもよいとも思っていた。
でもそうはいかなくなった。どんなことをしても絶対行かなければならなくなったわけだ。
ポンタヴァンのホテルを出る時には再び雨が降り出した。しかもかなりのどしゃぶりになった。
バスは5分程遅れてやってきた。昨日ここまで乗ってきた時と同じ運転手である。
ル・プルデュに行くには一旦カンペルレに行かなければならない。
そこからル・プルデュ行きのミニバスが運行されているとのことである。
カンペルレの駅前には2台のミニバスが停まっていた。
運転手がいたのでル・プルデュ行きを聞いてみたらバス停に張ってあるその時刻表を指し示して「次は17時半です」という。
人の良さそうなその男は「俺がその運転をして行くのだがね」と付け加えた。
まだ昼すぎであるからこの何にもない町で半日も待たなければならない。
地図を見るとル・プルデュまでは僅か17キロ程の距離である。
タクシーで行く事にした。でも駅前のタクシー乗り場にはタクシーは停まっていない。
とりあえずは腹ごしらえ。サンドイッチでも食べようと駅前カフェに入った。
ところが食べる物は何も置いてない。「その先にスーパーがあるので買ってくれば?」とカフェの人は言った。
まあなければル・プルデュまで我慢すれば海産物の旨い物が食える。
コーヒーだけを飲んでいるとタクシー乗り場に一台のタクシーが停まった。
大急ぎでコーヒーを飲み干しリュックを担いでタクシー乗り場に走った。
でもそのタクシーは客から呼ばれて来ていてやがて列車が着くのだという。
「1時間あとなら戻ってきて乗せていくがね。」
「他のタクシーを無線で呼べないのですか?」
「いや俺はこの町のタクシーじゃないのでね」
そうこうしている内にもう一台のタクシーがうしろに止まった。
ポンタヴァンのホテルのマダムに教えてもらったル・プルデュのホテル「オテル・パノラミクへ」と言うと「ああ」と運転手は親しげに答えた。
ホテル・パノラミクからは名前の通り海が見渡せた。黒々とした海に大きな白波がたっていた。
ホテルのマダムに「メゾン・マリー・アンリ」を尋ねると「ホテルの横の道をまっすぐに1.4キロ先のカフェ・レストランの隣ですよ」と教えてくれた。
さすが海からの風は冷たい。夏場ならおそらく開いているのであろう所々ある店は全てが閉ざされていた。
途中海岸通の公園の中にツーリストインフォメーションの建物があったので寄っていくことにした。
次の《メゾン・マリー・アンリ》は3時半からだという。なんでもガイドが付くらしい。
《メゾン・マリー・アンリ》の入口を確かめてから隣のカフェ・レストランに入った。
それほどは時間がないからサンドイッチくらいがちょうどよい。
「サンドイッチはありますか?」というと「ない」という。
仕方がないので他を当ってみることにした。
すぐ側にもレストランがあったが閉まっていた。ここも夏場のリゾートシーズンしか開いていないのだろう。
クレープの看板を見つけたので行ってみた。
クレープ屋の前は大規模に掘り返されていて道路工事の真っ最中であった。ブルドーザの音がうるさい。
工事の人が近寄ってきて「通るのか?」と聞く。
「いや、そこのクレープ屋が開いているかだけ知りたいのだ」と言うとわざわざ見に行ってくれた。
戻ってきて「いや、開いてない」という。
MUZは遠くの方から見ていて「あたりまえやんか」と言っている。それもそうだ。
仕方がないので再び最初のカフェに戻ってビールだけでも飲むことにした。
結局この村で開いているのはこのカフェと泊まっているホテルとインフォメーションの3軒だけである。
それと3時半には隣の《メゾン・マリー・アンリ》が開く。
ビールを注文して「ポテトチップスがあリますか?」と聞くと、それも「ない」。
「でもクローク・ムッシュゥだったら出来るけど…」と言うではないか。
“それを何故もっと早く言わないの!そうすればうろうろしなくて済んだものを。”
でもこれでなんとかめでたく昼食にありつけたわけである。
マリー・アンリの家入口
3時半を5分過ぎて隣の《メゾン・マリー・アンリMaison Marie-henry》の扉を押した。
既に3人の観光客が来ていた。
受付の女性が「2人で9ユーロですよ。」「説明はフランス語でしますけれど分りますか?」
「分らない時はいつでも質問してください」と言いながら英語で書かれたプリントをくれた。
他の3人の観光客はいずれもフランス人である。
入口の扉は鍵を閉めてしまってその受付の女性が皆を案内していった。
大きなはきはきとした張りのある声と強弱をつけた話っぷりはまるで演劇を観ているようで内容が解らなくても思わず引き込まれてしまう。
ゴーギャンが住んでいた部屋。相棒のマイエル・デ・ハーンが住んでいた部屋。
行水用の大きなブリキのたらいが置いてある部屋。
などどの部屋にもポンタヴァン派の画家たちの絵や版画が飾られていた。
マリー・アンリの寝室にはエミル・ベルナールの油彩もあった。
僕が目を近づけて熱心に観ていると、ガイドの女性は「これは本物ですよ!」と強調していた。
各部屋にはポンタヴァン派以外にもマリー・アンリが当時からコレクションしていた様々な絵が飾ってある。
英泉、晴信、歌麿などの浮世絵版画も5点ほどの本物が飾られていた。
2階から見学して階下に下りた。
ガイドの女性は一階の扉をおもむろに開けた。
壁からドアから全てに絵が描かれている。
中には画集で見慣れている絵もたくさんあった。
「もちろん外せるものはみんなアメリカの美術館が持っていってしまって、今は印刷が張ってあるけど雰囲気は当時のままですよ」
観光客は僕たちも含めて皆が圧倒されていた。
僕は『月と6ペンス』の最後のシーンを思い描いていた。
ブルターニュを旅するにあたっていろいろな本を読み漁った。
と前にも書いたが『月と6ペンス』サマセット・モーム(角川文庫)もその内の一冊であった。
この本を最初に読んだのは僕が高校生の時だった。その後も何回か読み返した好きな本の一冊である。
『月と6ペンス』はゴーギャンをモティーフにして描かれた小説だと誰もが分る。
でも主人公の名前はチャールズ・ストリックランドというイギリス人でゴーギャンのようにフランス人ではない。
有能な証券取引人だった主人公は突然妻子を捨て画家になる決心をする。
やがて自分の絵の真髄を求めてタヒチに渡る。
最後には頼病に冒されるが、自分の住む小屋の天井から壁からドアまで全てに絵を描く。
そしてチャールズ・ストリックランドの絵は完成をみる。
原住民の妻アタに「自分が死んだらこの小屋もろとも燃やしてくれ」と頼む、壮絶な最後である。
その小屋はサマセット・モームが描いた架空の物だと僕は思っていた。
でもその下敷きになっていたのがこの《メゾン・マリー・アンリ》なのだろう。
帰りもう一度ツーリストインフォメーションに寄って海辺に立つ十字架の場所を尋ねたが、その存在自体判らなかった。
一旦ホテルに戻った。ホテルの向かいにはレストランがあるが、今日は休みだという。
夕食はどうすれば良いのだろう。
海産物や牡蠣どころではない。夕食からあぶれる恐れさえ出てきた。
小さなスーパーも店の一軒もない。
でも最悪の場合でも親戚の人から頂いた小袋のおかきがある。
それにコンカルノーで買ったビスコットも半分は残っている。飢え死にすることはない。
あとはメゾン・マリー・アンリの隣のカフェに望みを繋ごう。
昼に見た時、黒板にチョークで肉料理のメニューなら書いてあった。
7時過ぎに再び凍える道を歩き出した。
カフェに着いて「レストランは開かないのですか?」と尋ねると「開かない。夜に開くのは夏場だけだ。」とのこと。
カウンターでビールを飲んでいた客たちが口々に「レストランなら4キロ先にある。」と教えてくれるがこちらには車がないのでわざわざ夕食を取るために4キロも歩けない。
もう既にホテルから1.4キロを歩いてきているのだ。
昼のクロークムッシュゥが結構旨かったので、もう一度それを食べる事にした。
それしか残された道はなかったのだ。
ただし夕食なのでダブルで注文した。それに例によってシードルの大瓶。
よほど僕たち二人は情けなく惨めな顔をしていたのだろう。
キッチンで奥さんと相談してきたのか「よかったらサラダも出来るけど?」と言う。
サラダも二人前注文した。デザートには昼からショーケースに入っていた、プラム入りのカスタードケーキがある。
仕上げにはやけくそでカルバドス(この地方で産するリンゴの絞り粕から抽出した強い焼酎)を飲んだ。
立派なディナーになった。
クロークムッシュゥといえば思い出すことがある。
かつてスウェーデンでストックホルム大学に通っている時に夜中にレストランでコックのアルバイトをしていた。
夕方から夜中の3時までキッチンにはたった一人での勤務である。
百貨店の前にあるレストランだから昼時は猛烈に忙しい店だった。
夜は経営者も交替し、黒人のピアノ演奏が入りバーが主になる。
一通りの食事メニューはあるのだが、殆ど注文はこない。一日にほんのひとつか二つ。
でも一応のことは出来なければならないから給料は良かった。帰りには毎日自宅までのタクシー代がでた。
夜中になってよく注文が来るのがクロークムッシュゥだった。
僕はクロークムッシュゥに腕を振るった。
クロークムッシュゥはその店で評判になりますます注文が増えた。
「いったい誰がクロークムッシュゥを注文するのか?」と聞いたことがある。「娼婦」との答えだった。
それは仕事にあぶれた娼婦のささやかなディナーになっていたのである。
良い気持ちでカフェを出た。
気温はますます下がっていた。
そして満天の星空がそこにあった。これほど美しい星空を見たのは久しぶりである。
セトゥーバルでは昼間は雲一つない快晴でも夜になれば雲がでだして星空の美しい夜空をあまりみたことがない。
もっとも早寝早起きを心がけているせいもあるが。
ホテルまでの1.4キロを星座を眺めながら帰った。
みち半ばまで戻った時である。
北斗七星の取っ手のあたりから大きな流れ星がこぼれ落ちるのを2人で目撃したのである。
ブルターニュの家
月明りのル・プルデュ夜景
2003/10/30(木)曇りのち雨 ル・プルデュLe Pouldu-カンペルレQuimperle-ヴァンヌVannes
その日は祭日でミニバスの運行はなかった。同じ道をタクシーで戻るしかなかった。
同じタクシーを頼んだが昨日とは違う女性の運転手であった。
カンペルレに着いて料金を払おうとするとメーター料金よりも安い金額で良いと言う。
往復割引が付いているのかも知れない。
「またカンペルレに来る事があったら、私のタクシーを使ってください。」と言って名刺をくれた。
本当にそんな日が近い内に来れば良いと感じている。
カンペルレからは列車である。ブルターニュの古都ヴァンヌでもう一泊してからパリに戻る。
ヴァンヌに着くとまた雨であった。
駅前のホテルでも良かったのだが最初に泊まったレンヌのホテルが良かった。
そのチェーン店がこの町にあることを知っていたので、雨の中そこまで歩いた。
ヴァンヌの洗濯場
ステンドグラス
ヴァンヌの家
ヴァンヌの木靴屋
ヴァンヌでは美術館見学の予定はない。街を楽しめば良いことにしていた。
先ずはカテドラルを観た。内部は一部工事中であったがここでもステンドグラスが美しかった。
フランスにはステンドグラスの美しいカテドラルが各地にある。
雨が降っていたので雨宿りのつもりで《ヴァンヌ美術館》Musée des Beaux-Arts de Vannesにも入った。
全体に大きな作品が多くて、ルーベンスやドラクロアの作品もあった。
雨は降ったり止んだりである。傘をさしたりたたんだりが忙しい。
初めから傘を持たないでアノラックのフードだけでびしょぬれになっても平気な観光客がたくさん歩いていた。
港にも行ってみた。「今夜は絶対に牡蠣を食べるぞ。」と決心していた。
その日の夕食は港の近くの城門の内側で見つけたブラッセリーに決めた。
早くからそこのカフェでビールを飲みながらレストランの開くのを待った。
7時にレストランが開いてすぐに席を移したつもりだったが、もう既に何組もの客が座っていた。
今夜は牡蠣だけではなく、表のメニューに掲げてあったシーフードの盛り合わせを頼む事にした。
蟹、手長海老、普通の海老、2種類の巻貝、あさり、それに牡蠣の盛り合わせである。
豪華に注文してしまったが、蟹や海老、巻貝などはセトゥーバルの自宅でいつも生きた新鮮なものを食べているのだから
やはり牡蠣だけにしておけば良かった。
ヴァンヌの家並み
ヴァンヌの街門の家
ヴァンヌ夫妻の木彫
店先のシードル
2003/10/31(金)曇り時々小雨 ヴァンヌVannes-パリParis
昼すぎのTGVでパリに戻る日である。
ヴァンヌの町角でサンドイッチとペリエールを買って乗り込んだ。
二人席であるが喫煙席しか取れなかったのだ。
喫煙席と言うのは困ったものだ。
以前のどこでも喫煙できた時代より今の喫煙席は嫌煙家にとってはきつい。
愛煙家が禁煙車に座っていてタバコが吸いたくなると喫煙車にやって来て空いた席を見つけて吸い始めるのである。
吸い終わると又自分の禁煙車両に戻って行く。
それが入れ替わり立ち代わりだから、喫煙車両から動けない嫌煙者は堪らない。
見渡すと幼児も何人か乗っていた。この問題は何とかしなければならないと思う。
今は飛行機は全部禁煙になったから愛煙家は大変だろうと思う。
でもそれになる前に一度大変な思いをしたことがある。
僕たちは禁煙席を希望したのだが、禁煙席の一番後ろの席で次の列からは喫煙席になっていた。
前の方の禁煙席に座っている愛煙家が入れ替わり立ち代わり喫煙席にタバコを吸いに来るのだ。
僕たちの席にはタバコの煙がパリから日本に着くまでずっと漂っていた。
TGVの喫煙車両では幼児が祖母らしき人に絵本を読んでもらいながら、無邪気な可愛い声でずーっと唄を歌いつづけていた。
祖母らしき人も一度もタバコを吸っていなかったから、僕たちと同じ様に禁煙席が取れなかったのだろう。
モンパルナス駅に入った時には唄はぴたっと止んでいたので見てみるとすやすやと眠っていた。
ああいった子供に害が及ばなければ良いがと心配する。
モンパルナスからメトロに乗り換えていつものルクサンブールのホテルに入った。
フロントの男は僕たちの顔を憶えていた。毎年1~2泊しかしないがもう10年近くもこのホテルを使っている。
空港との行き帰りにもパリをうろうろ歩くにもこのルクサンブールは僕たちにとって便利な位置にある。
昨年からル・サロンの会場が替わったがそれにもメトロのクリュニューまで歩けば乗り換えなしのメトロ一本で行ける。
ル・サロンの前にサン・ジェルマン・デ・プレにあるドラクロア美術館に向う。美術館の前に着いたのが5時半だった。
今回も閉まっている。開館時間の表示をみると17時15分までとなっていた。
ドラクロア美術館を訪れたのは4回目位だろうか?
工事中であったり今回の様に時間切れであったりとなかなかうまくいかない。
また次回に楽しみを残す事になった。
さっそくル・サロンに出かけた。その日はベルニサージュ(オープニング)なので人で溢れていた。
僕の絵は入口からすぐのところにあった。でも少し歪んでいるのが気になる。
まっすぐに直してひと回りしてくるとまた歪んでいた。紐の取り付けが悪いのだ。
人の多いのに閉口して早々に退散した。
2003/11/01(土)曇り時々小雨 パリParis-サン・ジェルマン・アン・レーSt.Germain en Laye-パリParis
今日は忙しい。
ホテルで朝食を済ませて《タヒチのゴーギャン展》が催されている、グランパレまでのメトロの路線図を調べているとMUZは「歩いたらええやん」という。
メトロで下手に乗り換えをたくさんするより返って歩いた方が良いこともある。
ちょっと遠いと思ったが歩くことにした。歩くのなら簡単である。セーヌ沿いに下って行けばグランパレに着く。
でもルーブルのところからチュイルリ公園の中に入って紅葉を楽しみながら歩いた。
グランパレに着いた時には既に200人位の行列が出来ていた。
別の入口では「ヴイヤール展」が催されていた。そこにも少しの行列が出来ていた。
随分経って、もう少しで開館という時間になって列に向って大声でアナウンスしている関係者がいた。
側に来たので聞いてみると「今日の午前中は予約をしている人だけの入場です」という。
「予約をしていないのなら午後1時からまたここに並んでください」
黄昏のグランパレ
今パリでは同時にルクサンブール美術館で《ボッチチェリ展》ポンピドーセンターで《コクトー展》それにここグランパレで《タヒチのゴーギャン展》と《ヴイヤール展》が開かれている。そしてこの行列である。
常設のルーブルやオルセー、ポンピドーそれにピカソ美術館やロダン美術館とたくさんの美術館が他にもあるのにこの人たちはどこからやってくるのだろうか?と不思議に思う。
昔はどこでもこれほどの人だかりはなかった。世界中で美術ブームなのであろうか?
午前中はサン・ジェルマン・アン・レーの《プリウレ美術館》に急ぐ事にした。
一度行ったところなので地図も何も見ないで歩き始めた。
セーヌを渡ったところのRERの駅から乗れば一本で行けると間違って思い込んでいたのだ。
間違った思い込みのお陰で随分複雑な乗換えで時間もたっぷりかかって、ようやくサン・ジェルマン・アン・レーにたどり着いた。
駅から《プリウレ美術館》への道のりもすっかり忘れてしまっている。
ちょうどとおりかかった在住らしき日本人に尋ねてみたが行った事がないという。
方角だけ聞いて歩き出したら見覚えのある道にさしかかって無事プリウレ美術館の塀が見えた。
プリウレ美術館
プリウレ美術館はかつてはモーリス・ドニの屋敷であった。
ドニの手になる教会がある。ステンドグラスや壁画それにそのエスキース。
ドニのタイル絵が天板として張られた木彫家具もあった。
それにドニ自身が集めたコレクションがたくさんある。当然のことながらポンタヴァン派のコレクションが多い。
ゴーギャンのタヒチでの素晴らしい木彫が2点あった。
その内の一点は木の葉型の大きな皿に熱帯魚が二尾彫られ一本の繋がった紐のようなものを二尾がそれぞれの口にくわえている。
ゴーギャンの木彫
ドニの木彫レリーフ
ドニのドア
これと同じ図柄を別の絵でも見たことがあるが、なにか意味があるのだろうか?
それと珍しいモーリス・ドニの6号くらいの着色木彫レリーフも素晴らしいものであった。
彩色の施し方はあのブルターニュの聖像の彩色に似ているとおもった。
ここでもエミル・ベルナールやセリジェの作品とゴーギャンの油彩。
E・ベルナール
P・セリジェ
それにボナールやヴイヤールの作品もあり結構見ごたえがある美術館であることを再認識した。
でもパリの美術館の行列が嘘のようにここでは僕たちのほか一組の家族づれがいただけであった。
庭に出るとブールデルのブロンズ像がいくつもあり、紅葉の蔦とコントラスト良く映えていた。
ブールデルと蔦
こんどの旅は本当に強行軍で、お昼はたいてい電車かバスの中でのサンドイッチということになってしまった。
サン・ジェルマン・アン・レーからの電車でもサンドイッチである。幸いフランスのサンドイッチはどこで買っても旨い。
いや但し、フランスでのサンドイッチはパン屋で買うべしである。
シシカバブ屋のサンドイッチは量ばかり多くてあまり旨くない。
帰りはまともにシャンゼリゼに到着した。
ゴーギャン展の入口に着いたのは1時をかなり過ぎていた。
行列はたいしたこともなさそうで、2~30人づつどんどんと入って行く。
入口でテロ対策の荷物検査をやっているのだ。
入ればかなりの人でしかも多くの人が『電子解説』とでも言おうか?
携帯電話の様な器械で作品の前に来たらその書いてある番号を押すとその解説が聞こえる仕組み、を入口で借りていてなかなか次へ進まないのだ。
でもさすがいままで画集で観ていた本物がよく集められていた。
アメリカのボストン美術館からロシアのプーシキン美術館から日本の倉敷のものまで、それにオルセーのもの、個人所蔵の物もあった。
そしてやはり木彫と木版画も多い。
ゴーギャンは画家であると同時に僕は彫刻師であるとここでも実感した。
D'où venons-nous? Que sommes-nous? Où allons-nous?
『われわれは何処から来たか?われわれは何か?われわれは何処へ行くのか?』の集大成的油彩大作(139.1X374.6)もボストン美術館から運ばれてきていた。
が今まで画集で観なれていた印刷物とは全く異なった鮮やかな色彩に驚いてしまった。
僕は今年日本に帰国した折にゴーギャンの小説『ノアノア』を探したが残念ながら手に入らなかった。
その『ノアノア』の原画、原稿も展示されていた。
2003/11/02(日)曇り パリParis-リスボンLisboa
いよいよポルトガルに戻る日。今日もスケジュールは目いっぱいである。
ドゴール空港を15時45分発のエール・フランス機に乗る。
ドゴール空港には2時間前の13時45分に着く必要があるのだ。ルクサンブールを13時に出れば間に合う。
それまでに3つの美術館のハシゴをする予定である。
朝食を済ませ、荷物をまとめてホテルのチェックアウトを完了しておいてリュックをホテルに預けた。
ホテルからサンジェルマン大通りを歩いて先ずはオルセー美術館に行くのだ。
今日は日曜なので美術館は無料である。
オルセー美術館には今日の開館の9時を少し回っていたがすんなり入る事が出来た。
エスカレーターで最上階まで上がってポンタヴァン派の部屋を観るのだ。
途中ゴッホの部屋を通り過ぎた。横目で見ながら通り過ぎたが以前来た時とはかなりの絵が入れ替わっている。
やはりオルセーにしろルーブルにしろポンピドーにしろしょっちゅう来なければ駄目だ。
紅葉のルーブル
夕映えのノートルダム遠望
エッフェルとA三世橋の欄干
オルセー美術館
エミル・ベルナールとポール・セリジェの絵を初めて観たのがここオルセーであった。
ここにも作品は少ししかないが今回の旅でたくさんまとめて観ることができたので僕には充分である。
ゴーギャンの部屋ではタヒチ時代の絵はグランパレの特別展に行っていたので
その分ポンタヴァンの絵が多く展示されてあったのは僕にとって好都合であった。
この一週間でこれほど多くのゴーギャンをまとめて観たこともない。
タヒチに向う前にゴーギャンはゴッホと弟テオの要請にしたがって、ポンタヴァンを去り南仏アルルでゴッホとの共同生活に入る。
でもそれは2人の強烈な個性のぶつかりあいによって僅か2ヶ月で破綻を迎えることになる。
しかしその僅か2ヶ月のアルル生活がゴーギャンにとっても、ゴッホにとってもその後の作品に大きく影響を与え転機になったことは言うまでもない。
ゴーギャンが他のポンタヴァン派の画家たちよりは強さに於いても、文学性に於いても、また装飾性豊かな色彩の多様さに於いても一歩抜きんでているのにはアルルでのゴッホとの2ヶ月の共同生活を抜きにしては語れないのではないのだろうか?
それはまたゴッホに於いても同様のことが言える。
オルセー美術館を早々に退散して次は《市立近代美術館》に向った。RERを2駅乗ってセーヌを歩いて渡ればすぐだ。
ところが行ってみると《市立近代美術館》は先月から一年間の工事に入っていて休館であった。
仕方がない、あとは《ポンピドーセンター》を観るのみである。再度メトロに乗りシャトレで降りた。
勝手知ったる駅である筈がひとつ出口が違うと戸惑ってしまう。
ポンピドーセンターでも以前と展示内容が随分と違っていた。
ルオー、マチス、ピカソ、ブラックなどの作品もかなりが入れ替わっていた。
それに市立近代美術館にある筈のモディリアニとスーティンがポンピドーセンターに避難?してきていた。
予定をしていたドラクロア美術館には4度目の挑戦で今回も観ることは出来なかった。
市立近代美術館も工事中でかなわなかった。
市立近代美術館では今回重点的に観てきたポンタヴァン派の後に続くナビ派とポンピドーセンターではフォーヴィズムとキュビズムをちょっとだけ覗いておきたかった。
またドラクロアは近代美術に大きく暗示を与えている画家である様に僕には思えるから、そのアトリエをちょっとは見てみたいとかねてから思っているのだが…。
今回のポンタヴァンへの旅はタイムリーにも《タヒチのゴーギャン展》に出くわしたこと、ル・プルデュで《メゾン・マリー・アンリ》の存在を知り、観ることが出来たことなど、思いもかけずに観ることができた、といったものを差し引いても予想以上に収穫の多い旅であった。
そしてこの旅が今までにしてきた全ての旅がそうであった様に、今後の僕にとって宝物となることを確信している。
ルクサンブールからドゴール空港までのRER内でもサンドイッチの昼食を取る事にしていた。
日曜なのでいつものサンドイッチ屋は閉まっている。
学生アルバイト風の男が駅の入口のところでサンドイッチとクレープの店を開いていた。
僕たちの前に2人のパリジェンヌがクレープを焼いてもらっていた。
僕たちはブルターニュで本場のクレープをさんざん食べたので、ここでは普通のチーズとハム入りのサンドイッチを注文した。
男はクレープ台の上でサンドイッチを温めてくれた。
今日もいまにも雪にでもなりそうなしんしんと冷える寒いパリである。
パリからリスボンに戻ってくる飛行機では隣になんと半そでに短パンの髭顔男が座った。
どこか熱帯の国から来てパリを中継してリスボンまでの旅の途中であろう。
まさかタヒチではないであろうが、べつに聞くこともしなかった。
さすがパリ出発の時には寒そうにはしていたがリスボン空港に着いた時には僕たちも服を2枚は脱がなければならなかった。VIT
(この文は2003年12月号『ポルトガルの画帖』の中の『端布れキャンバスVITの独り言』に載せた文ですが2019年3月末日で、ジオシティーズが閉鎖になり、サイト『ポルトガルの画帖』も見られなくなるとの事ですので、このブログに少しづつ移して行こうと思っています。)
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