気ままな推理帳

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からみ・鍰の由来(9) 至宝要録の加筆者荒谷忠右衛門は「鍰」へ書換えなかったろう

2021-03-28 09:01:54 | 趣味歴史推論
 鉱山至宝要録に、吉田利兵衛・平賀源内の技術指導や安永・天明期の院内銀山の盛況を加筆した人が、原本を写す際、「鍰」に書き換えた可能性があると「からみ・鍰の由来(5)(7)」で指摘した。本報では、その加筆者を特定し、「鍰」書き換えの可能性を推理する。

「鉱山至宝要録」工学史料1)
   →図1
・此度、吉田利兵衛*・平賀源内、従江戸表被相頼、當山へ罷下、数日逗留の上、別で利兵衛事、山方巧者にて、山内一体稼方・山普請を始め、荷堀・吹方、数々の仕法、無残處、深切に致伝授、何も日々稼方、甚順宜相成、於上、御満悦被成置候。自分共、是迄の致癖不相泥、伝授の趣、大切に相守、往々御上の御為を存有其人を撰み、能々相伝可申候。且、---
・冥加銀定法 ---
 安永2癸巳年(1773)7月
 *吉田利兵衛は石見銀山山師である。

 →図2,3
 右、吉田利兵衛・平賀源内、被差下候て、御直吹御仕法、御取行。同年(1773)11月中、石田久太郎・私等、両人再興被仰付、罷越候節、1日出銀30目にも相至不申候所、翌午年(1774)1ヶ年に吹銀28貫目余吹出し、未年(1775)より36~7貫目、それより年々相増、50貫目・60貫目、子年(1780)は、80貫目余吹出し候處、翌丑年(1781)春中より、御注進、同8月、横堀村斎藤東五郎・菅野忠助と申者に、御渡被成置、寅年(1782)富澤茂兵衛と申者、山巧者の由にて、三戸部新助様御登山、右御仕法御止被成置候。寅年(1782)より午年(1786)迄5ヵ年の間、鋪々埋り、亡山同前に致候處、午(1786)10月、我等又候被仰付、罷越候えば、無間御山勢引直、10月中に8~90目、100匁に相成、翌(天明7 1787)2月に罷成候てば、既に200目山に相成、山中引立候。

 ここに記した「私」が加筆者である。この書には、名前が書かれていないので、他の文書から、この者を特定する。インタネットで調べた結果、「出羽国久保田佐竹家家中小貫家文書目録解題」により、この者が大葛金山(おおくぞきんざん)の山師荒谷忠右衛門とわかった。

「出羽国久保田佐竹家家中小貫家文書目録解題」2)
 享保10年(1725)院内銀山は請山となり、その後直山、請山を繰返した。安永2年(1773)大葛金山の山師荒谷忠右衛門・阿仁銅山の山師石田久太郎が山師明石儀左衛門とともに院内の稼行を命ぜられ、久太郎が翌年阿仁に帰り、儀左衛門は病死したが、直山9ヶ年に金1040両余を藩に収めたという。天明元年(1781)秋斎藤東五郎らの請山となり、翌年富沢善(茂?)兵衛が直山支配人となったが、山勢は振わなかった。天明6年(1786)10月藩の懇望により、荒谷和三郎は親(叔父?)忠右衛門に代わって大葛より院内に赴き、寛政元年(1789)10月支配を辞するまでかなりの成功をみた。安永3~天明元年8月、銅6年10月~寛政元年7月の荒谷氏支配人時代の産銀は年平均50貫目を超すのである。

考察
 鉱山至宝要録の加筆部分と小貫家文書解題との内容、荒谷家文書解題3)を突き合わせることにより、大葛金山の山師7代目荒谷忠右衛門・冨暠が、加筆者であることがわかった。
荒谷家系図によると、7代目忠右衛門・冨暠は、幼名辰之丞、寛政元年(1789)、院内銀山にて没している。この忠右衛門の弟、8代目忠左衛門・冨光は安永7年に没しており、その子が9代目忠右衛門・冨訓(和三郎・銀右衛門)で宝暦11年(1761)に生まれ、文化13年(1816)没している。よって忠右衛門・冨暠が加筆した時期は、天明7年(1787)2月から寛政元年(1789)の間である。
加筆の内容を読むと、院内銀山の吹方技術向上のために、吉田利兵衛・平賀源内が、来訪した事、自分たちが安永・天明期に院内銀山を繁栄させた事を記録に残したくて加筆したことがわかる。黒澤元重の鉱山技術書を補足したいという事ではない。よって本文に手を加えるとか、字を書き換えるという事はしなかったと思う。よって荒谷忠右衛門よりもっと後の人が、黒澤の原本と荒谷忠右衛門の加筆部分を写す際に、「鍰」を使ったと考えるのが妥当である。

まとめ
 鉱山至宝要録の加筆は大葛金山山師の荒谷忠右衛門によって1787~1789年の間になされたことがわかったが、彼は、原本の「からミ」を「鍰」に書き換えることはしなかったと推定した。より後の人が「鍰」に書き換えたと推定した。

注 引用文献
1. web. 「工学史料キュレーションデータベース>鑛山至寶要録上 コマ数57(図1)、60(図2)、61(図3)
2. web. 編集国立史料館「出羽国久保田佐竹家家中小貫家文書目録解題」 史料館所蔵史料目録 第33集 p66 (昭和56. 1981) 秋田藩の家臣であった小貫家文書。
3. web. 編集国立史料館「荒谷家文書目録解題」 史料館所蔵史料目録 第18集 p56 荒谷家系図(昭和46. 1971) 秋田郡大葛金山支配人であった荒谷家文書。

図1. 鑛山至寶要録上 加筆部 覚(工学史料)


図2. 鑛山至寶要録上 加筆部 覚(つづき)(工学史料)


図3. 鑛山至寶要録上 加筆部 覚(つづき)(工学史料)


からみ・鍰の由来(8) 「鉱山聞書」(1785)の原本が「鍰」であろう

2021-03-21 08:33:26 | 趣味歴史推論
 「鉱山聞書」原本に近いものを探していたが、国立国会図書館の和古書が見つかり、それを調べた結果を記す。原本は、尾去沢銅山の山師であった赤穂満矩(あかほみつのり)によって、天明5年(1785)に書かれた鉱山書である。からみ・鍰の由来(4)で記した東京大学工学・理工情報学図書館の「工学史料キュレーションデータベース」の「鉱山聞書」と比較してみる。

「鉱山聞書」国会図書館所蔵
からみ・鍰のある部分を念のために下に記す。
図1.
・羽色吹 是は板にて取りたる羽色なり。但し、大フイゴに掛けて吹く也。羽口は石羽口とて、腐(くさり)硯石を唐臼に掛けて粉にし是を塩水にてねり羽口にして紙蔦を入れ堅く拵え、半年位遣う也。釜は掛けず切羽口にて吹くなり。羽色に盃宛掛けて一吹にするなり。合(あい)からみ1盃、地鉛30匁、鉄10匁、炭は一吹に2貫目位入る也。解(とけ)たる時は、返し吹する也。それより右鉛灰吹に掛ける也。
・石吹 堀荷そのまま平目にからみ、右石を吹く也。地鉛30目、相(あい)1盃、鈷(ならし)20匁、炭1貫目、石2盃を吹くなり。

図3.
・寸吹大荷を3吹きにして床にあくりて自然に流るゝ時は吹切りの焼赤まり、次第にに潜り、桃と云うものになり、丸く堅まり、替えの時流れて出しへ出るものなり。外はからみにて割ってみれば内は残らず釣焼なり。まんてうとも云うなり。

図4. あとがき
この書は、巖州邪麻郡下谷地村々長直助所蔵

上に示したように、「からみ」「鍰」のある本文では、「からみ」4ヶ所、「鍰」7ヶ所 合計11ヶ所あった。その書かれ方は、「工学史料」と全く同じであった。「工学史料」で「緩」とあったところは、正しい「鍰」であった。「工学史料」のその部分は写し間違いであることが確認できた。

考察
1. 「xxxx年 写し」の記載がなく、単に「村長直助所蔵」とあるので、「1785 赤穂満矩著」原本が発刊された頃の写しの可能性が高いと推測する。
2. 「からみ」を「鍰」と書いた経緯や理由は、記されていないが、赤穂満矩が、「鍰」を使い始めた人である可能性がある。

まとめ
 「鉱山聞書」(1785)の原本が「鍰」であろう。赤穂満矩が、「鍰」を使い始めた人である可能性がある。

注 引用文献
1. 「鉱山聞書」国立国会図書館所蔵 コマ数 45(図1),52(図2),54(図3),64(図4)

図1. 鉱山聞書の銀山吹方働方の部分


図2. 鉱山聞書の熊野床の部分


図3. 鉱山聞書の野床の部分


図4. 鉱山聞書のあとがき(所持者名)


からみ・鍰の由来(7) 元禄4年(1691)の至宝要録は、「からミ」であった

2021-03-14 09:03:23 | 趣味歴史推論
 より原本に近い「鉱山至宝要録」を探していたら、秋田県大館市立栗盛記念図書館所蔵の真崎文庫に「至宝要録」があることがわかった。この図書館より、そのコピーをいただき、調べたところ、原本に近いものであることがわかり、「からみ」の表記が分かったので、本ブログで示す。この和古書には、安永2年(1773)の平賀源内らの巡視や天明7(1787)年2月までの院内銀山の状況の追加記入はされていない。
以下に「からみ」表記の箇所の全てと、あとがきの署名、書写者、年月日等を記した。(読み下し文は、筆者が句読点、助詞、送りがな を付け、元の字が「三」である変体仮名は、字形の似ているカタカナの「ミ」で表記した。また、フイゴへ書き換えている)

「至宝要録」真崎文庫
1. 本文中
・銀鉑を床にて吹、はやよき頃と思う時、ふいごを指やすめ、上の炭をのけ、銀より上に有物をかきのけて取り、是をからミと云。其のからみにも銀の残る有り、左様のからミは、又吹けば銀有り、五度も六度も吹て、銀有る事あり。銀気なくなりたるを、捨からミと云。銀と鉛は重き物故、二色一つに成りてからミの下に有るを水をかけてかたまらせて取り其のかたまるを氷ると云。其の氷りたるを灰の上に置き、フイゴさして吹けば、鉛は灰のうらへ入り、其の上に銀あり。是を灰吹銀と云、上銀なり。なま吹にすれば銀は鉛気残る上、銀の位悪し。鉛気をよく吹き抜きたるを花ふり上銀と云。灰のうらへ入りたる鉛をろかすと云。みつだそう(密陀僧)の事也。其のろかすを銀鉑吹時、又床へ入れて吹けば鉛と同じ事なり。灰吹するを灰吹床と云。
・金銀銅鉛も、床にてとかしたるを湯と云。湯になりやすき鉑を、里(さと)やすきと云。湯に成りにくきをこはり物と云。
・吹にこはる鉑は湯に成りても、銀少なくおりてからミに残る也。それはやに多く有る鉑なり。やにと云うはかねのやに也。何かねにも有り。少なく有ればくるしからず。多く有ればかねおりかぬる也。かねは重ければからミより下へつみ通しおるるものを、やにはねばる物故、かねを包みて下へやらず其の内にかねも、やにと氷りて、からミと成る也。左様鉑吹に合種入る事なり。
・---
・金鉑は焼きてはたき、石うすにて引き、それを水につけて流し-----
----此の吹様を口吹と云。大鉉をつると云。金砂を取りたる路の金気薄きを銀吹様に床にて 鉛入れて吹きそれを灰吹して金取り申す有り。又鉑を其のまヽ銀の様に床にて吹くも有り。それは又有るからミをはたき、水に付けてなり法事、前のをし水に付け流す成ながしと云。ねこほこ取をねこながしと云。

2. あとがき
 此上下二冊は當時、當地に山事しりたる者なきゆえ、書之。後世、山事知りたる人出来たらば井蛙の書さま笑わるべし。然れども時に取ての事也。
 元禄4年(1691)7月日 黒澤浮木著
    菁莪園(せいがえん)蔵書
天明3年癸卯(1783)7月以て石川重禮先生の蔵書をひらき、落合直聴之を写す。

考察
1. 真崎文庫の書は、安永2年(1773)の平賀源内らの巡視や天明7年(1787)2月までの院内銀山の状況の追加記入はされていないので、より原本に近い。石川重禮先生所蔵の本を1783年落合直聴が書き写した記録が書かれている。工学史料や、日本科学古典全書に比べると、細部では、多くの語句や文章に違いが見られる。
2. 真崎文庫の「写し」は、「からミ」8ヶ所、「からみ」1ヶ所 であり、「鍰」はなかった。
3. 秋田藩院内銀山で、黒澤元重より前の惣山奉行であった梅津政景の日記の「からミ」を踏襲している。真崎文庫のこの「写し」は、原本通りの写しと推定した。
4.  工学史料や、日本科学古典全書の「鉱山至宝要録」は、1787年以降に、書き加えられ、書き写れたもので、その際「からミ」が「鍰」に書き換えられた可能性が高い。

まとめ
1. 真崎文庫「写し」から、元禄4年(1691)の「至宝要録」は、「からミ」8ヶ所、「からみ」1ヶ所 であり、「鍰」はなかったと推定した。
2. 工学史料や、日本科学古典全書の「鉱山至宝要録」は、1787年以降に、書き加えられ、書き写れたもので、その際「からミ」が「鍰」に書き換えられた可能性が高い。

注 引用文献
1. 「至宝要録」 秋田県大館市立栗盛記念図書館所蔵 真崎文庫 写真帳 56丁、落合直聴写 
秋田県立図書館、秋田県公文書館、そして大館市立栗盛記念図書館の佐久間裕子氏に史料コピーの入手等でお世話になりました。お礼申し上げます。

からみ・鍰の由来(6) 「からミ」の初出は、慶長7年(1602)石見銀山の大久保長安書状

2021-03-07 08:41:17 | 趣味歴史推論
 梅津政景日記によれば、秋田藩院内銀山で慶長17年にすでに、からミが使われ、からみ役・からみ札まであることから、石見銀山史料で慶長17年より古いものに、「からみ」を探した。その結果、初代の石見銀山奉行となった大久保長安の書状にあった。

1. 慶長7年(1602)10月 大久保長安書状 →図1.
  覚
・ ---
・ 伝兵衛間歩鏈分け候はば、ふたからミ程、ふかせ候て上げべく候間、その支度有るべき事。
・ ---
 10月13日 大十兵
 吉隼人殿  参

2. 慶長7年(1602)10月 大久保長安書状 →図2.
  覚
 ---
 吹屋入候覚
 ・ふいご 6丁
 ・しゃうぜん 6本
 ・大からミ取 4本 この内 1本17貫目、1本16貫目
 ・中からミ取 2本 内 1本12貫目、1本10貫目
 ・口明からミ取 2本 内 1本5貫目、1本5貫目
 ・からミつち 3 但し1貫目
 ・くま手 5丁
 ・ゑぶり 4本
 ・こすき 6枚
 ・---
   10月26日  大十兵
 吉隼 宗弥右 今宗玄 参 

考察
1. 1の「ふたからミ」とはなにか。本の解説文では「鏈を分けたら二からみほどこころみ吹きをせよとしている。」とある。鏈を分けたら(選鉱したら?)からミとよばれるもの、状態ができるのか?よく理解できない。
筆者は、「鏈を吹いて回収した1番からミだけでなく、2番からミも再度吹いてもれなく銀を取り出して、銀が多くなるようにせよ、またはからミ中の銀量は、バラツキが大きいので、2件サンプリングして正確を期せ」と推測する。これなら からみは、床で吹いて副生する通常のものということになる。
2. 2では道具のからミ取、からミつち が列挙されている。
 からミ取が1本17貫目とは、その用具の重さにしては重すぎる。鏈の仕込み量17貫目に対応したからミ取ということであろうか。
 ゑぶり(柄振り)とは別にからミ取りがあった。
3. 慶長7年の石見銀山では、「からミ」であった
4. 「からミ」がKARAMI と発音されたかGARAMI と発音されたかは、わからない。
5. 筆者が探した史料の内で、今のところ、この大久保長安書状が「からみ」の初出である
6. 「からミ」が記された最も古そうな文書にたどり着いたが、その由来や語源については、書かれていなかった。「からみ」は、銀吹きからでた言葉の可能性が高いので、石見銀山とその技術が伝わった佐渡金銀山、院内銀山あたりを調べてみる。

まとめ
 慶長7年(1602)石見銀山の大久保長安書状に「からミ」があり、これが「からみ」の初出である
 
注 引用文献
1. 村上直 田中圭一 江面龍雄「江戸幕府石見銀山史料」吉岡家文書p86~89(雄山閣 昭和53年 1978)→図1.2.

図1. 大久保長安文書(慶長7年10月13日)


図2. 大久保長安文書(慶長7年10月26日)