気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

立川銅山(21) 1番目の山師「西条 戸右衛門」は見つけられなかった

2022-07-31 08:40:32 | 趣味歴史推論
 立川銅山の1番目山師は、「西条 戸右衛門」(とえもん)と「立川山村神野旧記」に、8代神野忠紹が記憶をもとに書き残したと思われる覚書(文化13年 1816)にあったので、筆者はこれを正しいとした。1) 従来の文献では全て「戸左衛門」(とざえもん)であったが、これは、神野旧記の「立川山村里正年譜」の書き込みによるものであり、この書き込みは明治以降になされたもので、その出所が不明であった。2)3)
江戸時代人名として戸右衛門と戸左衛門のどちらが多くあるかを、チェックした。ネットの検索では、「”戸右衛門” 江戸時代人名」 の件数、人名の方が、「”戸左衛門” 江戸時代人名」より、約1桁多くあった。即ち「〇〇戸右衛門」の方が、「〇〇戸左衛門」より、はるかに多いということである。「戸右衛門」は文字からみるとありそうな名であるが意外に少なかった。

1. 戸右衛門の山師時期を推定する。紀州徳川一門の松平頼純が寛文10年(1670)西條藩主になって、紀州熊野屋彦四郎が3番目山師として請われたと筆者は推定した。1)すると、2番目山師土佐の寺西喜助の時期は1660年代となろう。神野旧記では、立川銅山の開坑は慶安元年(1648)とあるので、1) 1番目戸右衛門の時期は、1650年代となろう
2. 西条の戸右衛門を文献の中に探した。先ず、「西条市誌」(1966)4) と「西條誌」(1842)5)の全ページを見たが、戸右衛門(戸左衛門も)はなかった。「寛永~慶安~寛文」の時代の西条藩の古文書類は、他藩に比べて非常に少ないことがわかった。庄屋、組頭、年寄などの個人名の記録は少ない。
3. 愛媛県史の新田開発の項には以下のように記載されている。6)
「伊予八藩のうち、干拓による新田開発が最も盛んであったのが西条藩である。西条藩の領域は、東西に走る石鎚連峰の北側に沿っており、急峻な山地から流下する関・国領・室・加茂・中山の諸河川は年々広大な砂地を形成していた。松平西条藩が成立する以前からこうした自然条件に着目した領主や在地の有力者によって、干潟の干拓が行われ、元和年間(1615~24)には西泉新開、承応~万治年間(1652~61)には半弥新開が開かれ、室川・加茂川・中山川の河口部に広大な新田が開発された。こうした開発意欲は松平西条藩時代には有力町民の資本も加わって更に加速された。----」
そこで、秋山英一「西條干拓史」(1952)7)や武田咊生「氷見村新田開発の功労者「渡部多兵衛」」(2022)8)を見たが、著者らが嘆いていたように、個人名の記録は非常に少なく、戸右衛門(戸左衛門も)は見つからなかった。
4. 結局のところ、西条で、戸右衛門(戸左衛門も)は見つけられなかった。ただ1厘の可能性があるかもしれない情報として、ネット検索「”戸右衛門” 江戸時代人名」で得られたものを記しておく。
 今治藩別所村の新田開発者として享保12年(1727)に「戸右衛門新田」の記録があった。1650年代(1655として)は1727年より(1727-1655=)72年前なので、この戸右衛門は、山師戸右衛門のひ孫世代に当たるだろうか。戸右衛門を襲名していればのことである。

 伊予八藩土地関係史料目録 
375番「新田畑御改帳(享保元年~20年)」9)→写1
 今治藩 別所村戸右衛門新田野取帳(享保12年)(1727)
411番「新田畑野取帳(享保4年~12年)」10)→写2
 今治藩 別所村戸左衛門新田野取帳(享保11年)(1726)
この2件は同じ新田に対するものと思われ、どこかで右、左が間違ったのであろう。
新田に名が付いていることから、個人の力でやり遂げたものと思われる。
別所村とはどのような土地であったのであろうか。11)
「現玉川町東北部の村。南北に細長く、北部は蒼社川に面した水田地帯、中央部は集落の並ぶ丘陵、南部は作礼(されい)山である。慶安元年(1648)伊予国知行高郷村数帳の越智郡の項に「別所村 日損所、野山有」とみえ、村高は260石5斗とある。同年の今治御領分新高畝村人数長では、田方13町5反、畑方4町2反、新田1町1反とあり、人数は109人である。貞享5年(1688)に5反余を開き、元禄5年(1692)の別所村地坪帳では計23町3反、以降同6年に5反余、11年に1町6反、享保5年(1720)に6反余、宝暦11年(1761)に菅ノ谷・尻無・柳谷などに1町4反、犬墓新田1町7反などと、江戸中期に盛んな開発が見られる(新田畑改帳)。」
別所村は、今治藩であり、西条から35km離れている。→地図
山師「西条の戸右衛門」のひ孫が別所村に移って新田開発をした可能性は、ほとんどないと思われるが、万一を期待して、記しておきたい。

まとめ
 1. 立川銅山の1番目山師「西条 戸右衛門」を古文書、文献で見つけられなかった。
 2. 可能性はほとんどないと思われるが、今治藩別所村にひ孫世代に当たる戸右衛門の新田の記録があった。

注 引用文献
1.  本ブログ「立川銅山(12)神野旧記(5)神野禮蔵忠紹の文化13年覚書に山師名があった」
2.  本ブログ「立川銅山(11)「神野旧記」(4) 里正年譜へ山師名を書込んだのは、明比貢だった」
3.  本ブログ「立川銅山(5)「神野旧記」(1)」
4.  久門範政編纂「西条市誌」(西条市役所 1966)
5.  矢野益次「註釈西條誌」p266(新居浜郷土史談会 昭和57年 1982)
・日野和煦編著「西條誌」天保13年(1842)巻14
6. web. データベース「えひめの記憶」>愛媛県史近世上>藩政の展開>西条藩>新田開発
7. 秋山英一「西條干拓史」(氷見郷土資料 昭和27年 1952)
8. 武田咊生「氷見村新田開発の功労者「渡部多兵衛」」 西条史談112号(西条史談会 2022)
9. 「伊予八藩土地関係史料目録」p24 史料番号375「新田畑御改帳(享保元年~20年)」(愛媛県立図書館 昭和51年 1976)→写1
10. 同上p27 史料番号411「新田畑野取帳(享保4年~12年)」→写2
11.日本歴史地名大系39 「愛媛県の地名」p219(平凡社 1980)

写1. 伊予八藩土地関係史料目録 375番「新田畑御改帳(享保元年~20年)」


写2. 伊予八藩土地関係史料目録 411番「新田畑野取帳(享保4年~12年)」


図 今治藩別所村と西条と立川銅山


宇摩郡柏村 藤枝家文書・貞享元禄期の銅山開発の書き込みは信用できない

2022-07-24 08:15:26 | 趣味歴史推論
 石川士郎「伊予今村家物語」では、今村祇太夫の家譜に続けて、別子銅山開坑の経緯を、藤枝家文書をもとに、推論している。この文書の内容を調べたので記す。1)
 藤枝家文書:大永2年(1522)藤枝四郎重純(ふじえだしろうしげずみ 医名 玄瑞)が紀州から柏村に移住し、医師を開業して以来、毎年日記を書き続けてきたが、文政年間に一部が紛失した。そこで、藤枝亀吉が文政6年(1823)これを整理し、天地二巻にまとめた。以後下柏村庄屋である藤枝家の歴代当主がこれを引き継ぎ、安政2年(1855)まで書き続けた、地域の歴史の記録である。
筆者はこの文書の電子コピー本を四国中央市歴史考古博物館で見せて頂いた。電子コピーは、伊予三島市史編纂に当たって撮られたもののようであった。銅山に関する記述に絞って内容を検討した。

藤枝家文書「年代雑記録天」役代継村記録

貞享2丑年(1685)8月 御代官御交代後藤覚左衛門*御初入り、御手代中野長左衛門、宮川安左衛門、下手代赤木与左衛門
貞享3寅年(1686)御代官御手代佐藤守右衛門、黒川常左衛門、岡崎三左衛門、塚口喜兵衛入也
A 銅山初て出来候に付、御手代大勢入込み銅山にて材木山仕成方候事
貞享3寅年(1686)同3月三嶋郷蔵痛に付き立替、寿(?)田荒神宮破損取繕
貞享4卯年(1687)5月 上之丁と水論御座候に付、下来りし囲水済口**一札有
B 別子山銅山始大坂表大坂屋久左衛門之仕込、尤立川之銅山30年も前より
元禄4未年(1691)5月 御代官交代平岡吉左衛門御手代林彦八郎御初入
元禄4未年(1691)8月 大風吹
C 銅山始大坂表大坂屋久左衛門之仕込、立川口は銅山は30年前に有て候
 
*代官、手代の名が、正確に書かれ読み取れているかは疑問である。例:本文書⇔ほかの文書 覚左衛門⇔覚右衛門 安左衛門⇔安右衛門 三左衛門⇔三右衛門
**済口:すみくち 江戸時代の民事裁判手続(出入筋(でいりすじ))において,和解(内済(ないさい))が成立すること。
 
考察
1. 本文書には、余白が多い。あとから書き加えられるので、記録としての信頼性が低くなる。後世に正確に伝える記録文書としては、字間、行間の余白がある書き方は不適当である。後で、行間の余白に書き込まれても判別し難いからである。
2. 銅山に関する記述は、A,B,Cの3ヵ所である。
(1)Aの直前の行末の字句は、筆者は「入也」と読んだ。石川士郎は「入込」と読んで、次行の銅山への「入込」と関連があると考えたようである。しかし字は「也」であり、この行は、次行の銅山とは関係なく、単に手代4人が着任したことを書いているにすぎない。その傍証として全員フルネームで記している。
(2)A,B,Cは、後から余白に書き加えられた文であると筆者は結論した。
 その根拠は以下の通りである。
 ① 筆跡が違う。本体は太い線と細い線がはっきりして先の尖った字であるが、A,B,Cは軟らかく滑らかな中細の字である。墨の付き具合が違う。書き手が違うかもしれない。
 ② B,Cは本体の墨よりうすい。特にBは非常にうすく、電子コピーの濃さを濃くしてコピーした紙をその左行に張り付けてB´としている。
 ③ B,Cの「(別子山)銅山始て大坂屋久左衛門の仕込み、尤も立川銅山は30年前よりあるが」は、貞享4年と元禄4年の2ヵ所に書かれている。しかし石川士郎はBのみを取り上げ論を組み立てており、Cを無視している。
(3)A,B,Cの内容は意味するところがあいまいで信用できない。
 ① 元禄4年のCは始めて仕込むのが泉屋であるなら解るが、大坂屋になっている。
 ② A「貞享3年 銅山初て出来候に付、御手代大勢入込み材木山仕成方候事」は、大事な銅山の場所や名が記されておらず、医師の書いた文としては、抜けが大きすぎる。この時期の宇摩天領の銅山開発であれば、「元禄2年大坂屋開坑」の佐々連鉱山の可能性があるが、何とも言えない。
(4)本文書は、「藤枝亀吉が文政6年(1823)これを整理し、天地二巻にまとめた」とある。この時、本文を一人で書き写し、そのあとA,B,C が書き込まれたのではないかと推測する。書き込んだのは、1823年以降ではないか。
 結論として、本文書の銅山に関する記述A,B,C 3ヶ所は意味するところがあいまいで、信用できない。
3. 川之江代官の交代時期が書かれているが、この時期が正しいのか疑問がある。この文書では、元禄4年5月に、「御代官交代平岡吉左衛門御手代林彦八郎御初入」とある。
一方、後藤覚右衛門は、元禄5年6月頃に平岡吉左衛門と替わったとされている。2) その根拠としては以下のものがある。
① 「予州宇摩郡別子山足谷銅山炭竈未年御運上目録」3)
 ・銅5,122貫900目 出来銅辻 ---
 ・炭竈22口---
 右の銅、未閏8月朔日分掘掛り、10月12日より同極月晦日迄焼吹仕---
 元禄5年申正月   泉屋吉左衛門
  後藤覚右衛門様
 前書之通私共吟味仕、相違無御座候、以上
           河野又兵衛印
           沢田新助印

「予州宇摩郡別子山足谷銅山炭竈申年御運上目録」
 ・銅9万5404貫700目 出来銅辻----
 ・炭竈452口----
 元禄6年酉正月
  平岡吉左衛門様
 右之通相改、少も相違無御座候、以上
           河野又兵衛 
           沢田新助

 この二つの目録日付より、元禄5年中に両人の交替があったことがわかる。
②後藤覚右衛門は川之江代官と備中川上郡(吉岡銅山)代官を兼務していた。「備中川上郡吹屋村御山用控」収録の貞享2年9月付吉岡銅山制札の署名後藤覚右衛門のところに「元禄5年申6月平岡吉左衛門様と書直す」と記されていることから、その交替が元禄5年6月頃であったことが知られる。
③Web竹島問題研究所の杉原通信第9回「元禄竹島一件と石見銀山代官」の記述によれば、元禄5年8月が交替の時であることがわかる。4)元禄~享保5年は、隠岐は幕府の直轄地として、石見銀山代官が支配した。
根拠となる古文書は以下の通りである。
「隠岐御役人御更代覚」(慶長4年~天保6年)
「元禄5申年8月由比長兵衛様御代り、後藤覚右衛門様御支配、為御検見、稲塚平兵衛殿、中瀬団右衛門殿、丸斗九右衛門殿御渡、両島御立見御仕舞、石州へ御帰帆、
  御在番      島後  三好平左衛門殿 (郡代)
               田辺甚九郎殿  (郡代を補佐する代官)
           島前  中瀬弾右衛門殿 (郡代を補佐する代官)」

 以上のことより、後藤覚右衛門が、石見銀山代官に転出したのは、元禄5年6~8月であると結論される。
 次の川之江代官平岡吉左衛門の手代林彦八郎が、代官任命の1年も前に、現地に入るということが、当時ではあり得ることだったのであろうか。辞令の出る1年も前に任地が決まって、現地に手代を行かせるのが慣行だったのか。筆者は、文書を整理し書き写す時に、年を間違えたのではないかと思うのであるが、どうであろうか。

まとめ
 藤枝家文書・貞享元禄期の銅山開発の書き込みは、信用できない。

注 引用文献
1.  藤枝家文書「年代雑記録天」役代継村記録  原本は伊予三島市下柏町藤枝喜一氏蔵 四国中央市の指定文化財(昭和37年)である。電子コピー本は、四国中央市歴史考古博物館にありそこで見せて頂きました。お礼申し上げます。
2. 住友修史室「泉屋叢考」第13輯p33 p40(昭和42年 1967)
3. 住友史料館「別子銅山公用帳一番」p9(思文閣 昭和62年 1987)
4. Web竹島問題研究所>杉原通信>第9回「元禄竹島一件と石見銀山代官」
 国会図書館デジタルコレクション個人送信「新修島根県史.史料篇第2(近世上)」p267
原典「隠岐御役人御更代覚」(慶長4年~天保6年 海士郡海士村海士 村上重子所蔵)
島根県総務部総務課竹島資料室様に教えて頂きました。お礼申し上げます。

写1. 藤枝家文書 貞享元年~3年の部分


写2. 藤枝家文書 貞享3年~5年の部分


写3. 藤枝家文書 元禄3年~4年の部分


写4. 藤枝家文書 貞享2年~元禄4年の銅山関連部分


三島村今村祇太夫は「油屋」で46才の貞享4年に別子の露頭を源次郎に試掘させた

2022-07-17 08:31:31 | 趣味歴史推論
4. 今村祇太夫義元1)
義元 勝義の長男 義太夫とも称す、三島「油屋」の2代目。元禄14年(1701)7月14日没 享年62才(推定) 鐘鋳原に葬る。
妻は今村義広の10才上の姉(従兄の子)で、宝永7年(1710)11月11日没享年68才 法名 本光院実蔵玄蔵玄真大姉
義元の長弟義明は、「鍵屋」の祖となる。次弟新平は、西条藩井上家養子となる。末弟義重は、「鍵屋」を継ぎ三島に住み茂右衛門と称す。
義元の子は、義片祇太夫と称し、今治藩より中小姓格を賜る、寛延3年(1750)没 享年75才。」

5. 今村義広
(1653生~1726没) 祇太夫の妻は、祇太夫の従兄の子で、その弟が中田井今村家5代義広である。義広は、祇太夫の一回り下であるが、ほぼ同時代を生きた。義広は、宇摩郡中曽根村の庄屋で、今村家中興の祖といわれる。諸芸に巧みで、特に瓶華絵画をよくし、また仏像を好みて多く図し、郷里の寺院に納めた。 
義広は生涯多くの事跡をなしとげたが、これには莫大な資金が使われたと推察できる。中曽根村の慶安4年(1651)の知行高は630石であり、とても足りない。隣村の中之庄村はさらに少なく410石である。その庄屋の坂上(さかうえ)家と今村家とは互いに娘を嫁がせあって血縁となっている。両家は、石高は少ないにも拘わらず多くの財を得て、多くの寺社に堂宇・宝物を寄進している。石川士郎は、その金の源を、坂上半兵衛正閑(羨鳥 せんちょう)の事跡を手がかりにして以下のように考察した。羨鳥は、大名貸し(西条藩、今治藩、松山潘、丸亀藩など)や、米相場で稼いでいたと思われる。義広は、この羨鳥と同年で親戚なので、互いに助け合いながら、事業を展開していたと推測している。

考察
1. 今村祇太夫に関する家譜の記載が少ない。生年月日、享年、法名が記載されていない。
2. 祇太夫の享年62才は推定とある。それによれば、生年は(1701-61=)1640年となる。一方、本の付表の郷土年表によれば、生年は1641年寛永18年としている。本報では年表の生年を採ると、露頭発見の貞享4年(1686)は、祇太夫46才(数え)となる。元禄6年の別子銅山飯米年間7000石余の請負願書によれば、それだけの額を扱う財力があったという事に成る。石川士郎は、今村義広、坂上羨鳥が背後にあって、可能となったと推測している。また祇太夫の子義片が今治藩から中小姓格を賜ったことは、祇太夫親子が多額の資金を今治藩に献上したお礼の意味であるとしている。
中小姓(ちゅうこしょう):小姓組と徒士(かち)衆との中間の身分で、外出する主君に徒歩で随行し、また配膳役に従事。
3. 屋号「油屋」について
 祇太夫は、油屋の2代目である。以下は、筆者の推察である。
油の種類としては、菜種油、綿実油、ごま油で、大半が菜種油と思われる。主に行燈用の灯油である。行燈は、1夜で菜種油0.5合を消費する。
油屋の業として考えられるのは、
①油の仕入れ販売の商売のみ
②農家から収穫した菜種を買い付け、船積みして、大坂の油絞り業者に売る。
③農家から収穫した菜種を買い付け、自社の工場で搾り、油として大坂問屋に売る。
金額の大きさは③>②>① である。
 川之江市誌によれば、特産物として、菜種・綿実が挙げられている。2)しかし幕府は、年貢である米の生産を阻害することは、たとえ農民の利益になることでも禁止や制限を加えた。菜種は寛永20年(1643)畑に作ることを禁止した。もっとも厳密に守られてはいないらしく、時の需要によって、菜種の作付けを奨励することもした。菜種は畑だけでなく早稲のあとの裏作として作ることができ、冬の間の換金作物として、二毛作の形で栽培された。時代は100年余り後の記録であるが、川之江村から大坂への菜種積登高は、28石1斗(文化6年(1809))であった。これは搾ると(28.1×0.22=)6.18石(1112L)の菜種油になる。
 元禄11年(1698)、「天下の台所」大坂から京都、江戸など諸国への油積み出し高は合計7万2千石(1石=約180L)であった。この代金(銀)は、1万6千貫目で、内訳は菜種油68%、綿実油25%、ごま油5%、荏油2%であった。3) 時代が少し後になるが、川之江からの6.12石相当は、7万2千石に対して0.009%とあまりに小さい。江戸中期(元禄)の小売価格は、米1升が80文、菜種油1升が400文で、菜種油は、米の約5倍であった。菜種油6.12石は米31石に相当する。村の石高に対して、それほど大きくないことがわかった。
③の自社で油搾りをしていて、菜種積登高にカウントされないとすれば、もう少し大きな販売額になっていたかもしれない。明暦年間(1655~7)に油を搾る締め木が改良され菜種から油を搾ることが出来るようになり、菜種油が灯明用に使われるようになった。6)
以上のことから推定するのに、①②③だけでは、それほど大きな財にはならないと筆者は推理する。米や他の商いもしていたのであろう。
4. 今村家譜や今村家史料には、別子銅山との関りについては一切記述がない。もちろん祇太夫の別子露頭の発見の件も書かれていない。祇太夫が別子銅山に関連したという記録は、唯一「別子銅山公用帳一番」の記載事項である。7) これによれば、露頭発見の7年後であるが、別子銅山に対して米の売り込みをしていることから財力はあったと推定できる。探鉱、鉱石の見立ての技術、どこで会得したのであろうか。経験が豊富とは言い難い。ただ、曽祖父は山伏、修験道に詳しく、探鉱にも知見はあったかもしれない。それを少しは受け継いでいたのかもしれない。露頭は自分でみつけたのであろうか。誰かからか聞いたのであろうか。金子村の源次郎は、技術上経験はあったと思われる。事実、後に立川銅山の山師になっている。祇太夫は資金面の山師に成ろうとしたのであろう。

まとめ
 三島村今村祇太夫は「油屋」で46才の貞享4年に別子の露頭を源次郎に試掘させた。

 石川士郎は、祇太夫の家譜に続けて、藤枝文書を引用して、別子銅山開坑までの経緯について、推論している。筆者は、その内容を疑問に思い、藤枝文書の原典コピーに当たり検討したので、次報で記したい。

注 引用文献
1. 石川士郎「伊予今村家物語」p96(今村武彦発行 平成18年 2006)
2. 「川之江市誌」p250(川之江市 昭和59年 1984)
3. web.「近世日本の地域づくり200のテーマ」>[105]菜種
4. web.「一文と一両の価値」>米の値段の移り変わり
5. web.「江戸時代の食事情」>江戸庶民の食事
6. web. 山中油店>菜の花の便り> 第二号「菜種の伝来と搾油」
7. 住友史料館「別子銅山公用帳一番」p152(思文閣 昭和62年 1987)→写

写 三島村祇太夫の別子銅山入用米請負の出願(別子銅山公用帳一番より)


図 近世宇摩郡の村々 伊予三島市史上巻p333(1984)より(領地は宝永年間以後を示す、寛文10年~元禄11年(1670~1698)はほとんどが天領であった)


今村祇太夫の曽祖父は 近江甲賀郡出身 山伏行で宇摩郡中曽根村へ

2022-07-10 08:28:43 | 趣味歴史推論
 三島村の今村祇太夫は、自身が作成提出した別子銅山への米売込みの願書の記載により、貞享4年(1687)の別子銅山露頭の発見者とほぼ認定されている。祇太夫がどのような経歴の持ち主なのかを知りたいと思った。
そこで「 三島」+「今村家」 でネット検索すると、石川士郎著「伊予今村家物語」(今村武彦発行 2006)が見つかった。1) 石川士郎氏は、家譜・系図と柏町の瀧神社の棟札を読み解き、宇摩、三島の歴史を明らかにするために、「伊予今村家物語」を著した。これにより、今村家の経歴を筆者は知ったので、祇太夫に至るまでの家譜を2回にわたって紹介したい。なお、解りやすくするため、句読点、カタカナ→ひらがな、かな→漢字、()内の読み方、意味 は、筆者がしたものである。

伊予三島市史(昭和59~61発行)の執筆者である郷土史家の石川士郎氏は、平成2年今村正夫氏に「今村道之進日記と家譜、画好類」を見せられた(これは平成4年「今村家岩井屋敷文書」として伊予三島市文化財に指定された)。今村道之進義種は、今治藩(当時は三島は今治藩であった)の中曽根村(なかぞねむら)大庄屋を務めた今村家の分家に生まれ、京都で狩野派の鶴沢探索のもとで修行し、帰郷後、在村狩野派絵師として活動した。この文書は、道之進が天明8年(1788)から文政12年(1829)までの43年間書き記した日記や、道之進が絵師として絵の注文を受けた控えである「画好」などである。

今村家譜の特徴は、初代義親以後は生年月日。没年、戒名、妻の出所、子女の名前や婚家先まで全てわかる範囲まで記載されているところにある。

石川士郎著「伊予今村家物語」(今村武彦発行 2006)
 
今村義親(長蔵坊秀氏筑後守)-----義廉(孫兵衛)-----勝義(茂右衛門)-----義元(祇太夫)
   1602没           1651没     1681没      1701没

1. 伊予三島今村家初代義親(よしちか)
石川士郎によれば、初代の経歴については、家譜より瀧神社棟札に書かれた内容の方が真実に近いとしているので、それを引用する。

家譜にあるとおり、長蔵坊(義親の山伏道の名)が 弘治3年(1557)に眞鍋次郎兵衛(中曽根村地主)の援助を得て瀧神社を再興したことが、以下の棟札で確認された。
「奉再興上棟瀧宮寺社壇一宇 弘治3年丁巳8月吉日 本願者江州之住長蔵坊
  大檀越 眞鍋次良兵衛〇〇〇 大工大蔵200人余」

 長蔵坊が三島に定住するようになった理由については、家譜に眞鍋大炊介(中曽根村地主)の勧めによると簡単に記載されているが、宝永8年(1711)の棟札に瀧宮6代目当主秀紹が次のように書き記している。

「奉上葺瀧宮牛頭天王社一宇 于時宝永8年2月6日------(以下略)
この社零落の所、当初弘治年間嚢祖(のうそ 先祖)今村筑後守秀氏、修験三密の優婆塞(うばそく)、山伏道の長蔵坊と号して、扶桑を回国のついでに来る。因縁の機なり、即ち眞鍋大炊介同次郎兵衛等、田地川地を扶助し財を施し、本願にて再興す。------(中略)
 秀氏(ひでうじ)近江甲賀郡の人なり。乱世に氏族と別れ、日の本のあらゆる寺社霊場を拝せること筆あり。国を出でしは、かって弱冠の時也。四国にも渡りへして、三島村利屋吉兵衛ノ何某がもとに、しばし休息の間、中曽根の城主、近辺の押領使眞鍋大炊介に謁す。軍術兵法の運道に応えると、ひたすらに留められぬ。真鍋大炊介舎弟次郎兵衛等みな筑後守を師とし武辺のいさおし(勲)を極め、しかも志のみさふ(操)なるに慕ひ、とかくして居住の事を勧む
 秀氏 等閑にしてぜひともみるべくもあらねば、大炊介庶幾(しょき 願い)むなしく、君は婆羅窶(ばらぐ)の使徒ならずや、且つ興隆のことはすきる道なり、当郡の鎮守瀧宮牛頭天王の社は、破壊せること年奄し(ひさし)、修験道の本願をなし給はば、予もまた檀越(だんおつ 施主)の績誠を励まし不日(ふじつ いつか)にして社堂を成就せしめんと有りしに、さすが剛ならぬ心様の素直に領掌(りょうしょう 了承)し攸(由)。
 福玉を磨きて成さぬは、縁より利屋吉兵衛の息女を娶り、大炊介が出城に築きたりし瀧の宮に館をつくりして、甚兵衛秀之、九郎右衛門由義の二子を出生しぬ。会者定離すてり免るべくもあらぬ世に妻なん世を供養し給いぬれば、身に思わぬ人の媒に頼りて、讃岐国豊田郡和田の何某大平伊賀守の女をかしづきもて、孫兵衛義廉を生まる也。
祖跡は嫡男甚兵衛。次男九郎右衛門は三島に居しけだし利屋吉兵衛の屋敷に家造りたる。三男孫兵衛は、中曽根村に居住を営し。三子とも思う住にありつけり。---(以下略)」

家譜の記載
義親 今村弥三郎 号筑後守 大織冠(たいしょっかん)(中臣)鎌足15世の孫佐藤筑後守遠義より400有余年なり。大永7丁亥年(1527)江州甲賀郡深川今村郷に生まる。先祖累代近江国栗本郡田ノ上庄の領主なり。----
 慶長7壬寅年(1602)正月10日卒 行年76歳 法名 観光院嘉玉宗珍大居士」

2. 2代今村義廉(よしかど)
 家譜の記載
義廉 今村孫兵衛 本腹 中曽根(なかぞね)今村祖 初め義重と云 家重とも外伝にあり 中田井(なかたい)の元祖なり。 時に邑主眞鍋氏没し時世兵乱して隣境侵掠(かす)む。加藤左馬助嘉明(松山20万石城主)の領地と成る。左馬助義廉に命じて云う 新居宇摩二郡は4州の境にして城下を去る事遠にして、緩急救い難し、よって二郡は孫兵衛心の侭(まま)に処置すべしとて、弓鉄砲鎗長刀甲冑鞍箙籠旗竿各1宛を賜る、皆左馬助の拝領なり。これより郡中安に就きて百姓業を安んず。この時左馬助殿用人(足立)半右衛門承りの書状数通今にあり、この時より初めて大庄屋の名号ありて代々相続す
慶安4辛卯年(1651)10月14日卒す 83歳 法名 素光院玉雪道臨居士
室は讃州壱岐守家老高坂丹波後に豊田郡植田村住坂本甚太夫女なり、3男2女を生す」

義廉は、加藤嘉明から宇摩新居は心のままに処置すべしと、大変異常に感ずるほどの信頼を受けている。義廉は武人としても認められていたことであると石川士郎は記している。

3. 今村勝義(かつよし)
家譜の記載
「勝義 2代今村義廉の次男茂右衛門勝義は、分家して三島村に住む。油屋と称す
天和元辛酉年(1681)9月7日没 法名 心蓮祐是居士」

勝義の長男が今村祇太夫である。次報に記す。 

注 引用文献
1. 石川士郎「伊予今村家物語」p11 p13 p53 p96(今村武彦発行 平成18年4月 2006)

立川銅山(20) 宇摩郡新宮村の新宮鉱山に「元禄鋪」があった

2022-07-03 08:14:38 | 趣味歴史推論
 宇摩郡新宮村の新宮鉱山(しんぐうこうざん)も元禄開坑と推定されることを知った。

「四国鉱山誌」(昭和32年 1957)
新宮鉱山
鉱業権者 日本鉱業(株)
宇摩郡新宮村馬立(うまたて)。馬立川(銅山川の支流)の上流で、銅山川の南側にあたる。
含銅硫化鉄鉱床
沿革
新宮鉱床発見の時代は詳らかでないが、旧坑口の一つに、「元禄鋪」という名称があるので、相当古くからのものと思われる。
明治44年12月に宇摩郡中之庄村の佐藤宰相氏が採掘鉱区を設定したが、業績にみるべきものはない。(以下略)1)2)3)

以下の文書の「いやだに」を阿波と筆者は推定したが、小川山村に「いやだに」があったことがわかったので、銅山は小川山村にあったことになり、新宮銅山と推定したことは間違いであった。よってこれに関する文書、考察を削除した。(2023.2.12)
筆者は、新宮鉱山に相当するのではないかと思う記録4)を偶然見つけたので、以下に示す。
別子銅山公用帳一番(元禄5年 1692)
乍恐奉願上銅山の御事 →写
宇摩郡御支配所小川山村の内さざれ・祖谷の間、あしざこと申す野山にて、銅山に成るべき所見立て---

              
考察
1. 写に示した「別子銅山公用帳一番」において、市郎兵衛願書の直前には、元禄6年宇摩郡三嶋村の文左衛門、勘右衛門が問掘願いを出している。その銅山見立場所として別子山村の内、乙地平岩谷、瀬場ヶ谷、床鍋谷、丸岩谷、弐ツ立山、大木西谷、日浦谷が挙げられている。別子開坑成功を知って、多くの人が探鉱していたことがわかる。
2. 銅山川沿いの山野にあった佐々連鉱山、伊予鉱山、新宮鉱山も、元禄期に開坑したと推論した。なかでも、佐々連鉱山と伊予鉱山は、別子銅山より早い元禄2年開坑とみなすことができそうで、別子銅山開坑の経緯を考える上で参考になる。元禄期の銅山を地図で示した。→図

まとめ
  宇摩郡新宮村の新宮鉱山には、「元禄鋪」という名称があった。

注 引用文献
1. 四国通商産業局編「四国鉱山誌」p620(四国商工協会 昭和32年 1957)
2. 「伊予三島市史 下巻」p264(伊予三島市史編纂委員会編 昭和61年 1986)
3. http://www.mafura-maki.jp/ 愛媛の鉱山>新宮鉱山
4. 住友史料館「別子銅山公用帳一番」p155(思文閣 昭和62年 1987)→写

  図 元禄の銅山地図


写 元禄5年の市郎兵衛の願書(別子銅山公用帳一番)


補 筆者のメモ 稼行者 事項
大正4年(1915)奈良県の中村甚三郎
大正15年(1926)福井市の高橋長之助
昭和12年(1937)大阪市東予金山(株)辻熊吉 手掘り。
昭和14年(1939)日本鉱業(株)本格的に掘削。鉱石は佐賀関製錬所へ。20年休山
昭和23年(1948)再開 37年新宮鉱山(株)
昭和53年(1978)閉山