気ままな推理帳

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別子銅山切上り長兵衛の霊と藤田敏雄の対話

2018-03-27 11:19:42 | 趣味歴史推論
1. 切上り長兵衞は、別子銅山開坑300年を記念して住友金属鉱山株式会社が平成三年(1991)に発刊した「住友別子銅山史」では、1)

元禄三年(1690)秋、泉屋経営の備中吉岡銅山支配の田向重右衛門の一行は、-----踏査見分したが、これは切上り長兵衛という巧者の掘子からの報告によると伝えられる。重右衛門らはのちの歓喜間歩に当たるところを掘り入って銅鉱の所在を見届けたという。

と、僅か一文でしか記録されなくなってしまった。確かに長兵衛は大露頭の第一発見者ではなかったが、大露頭存在の情報を泉屋へ伝えた功績は、非常に大きい。これがなかったら、住友の幕府への申請、認可、その後の経営もなかったであろう。情報がないのに、行動は起こせない。情報の重要性と長兵衛の功績をこの銅山史は軽んじていると思う。

2. 住友修史室編纂の泉屋叢考には、住友が伊予の別子山に銅鑛のあることを知るようになった動機について以下のように書かれている。2)

事実は住友家の舊記自體が、いとも明確に渡り下財切上り長兵衛の報知によることを述べている。すなわち「別子開坑二百五十年史話」が依據した「伊豫國宇摩郡別子山村足谷御銅山新見立之覺」と題する覺書には、
元禄三年午六月、伊豫國西條御領分立川銅山ニ相働居候下財長兵衛、立川銅山を立退此方ニ而相稼居候備中國吉岡銅御山え罷越シ、重右衛門助七平七等え申聞候者、立川銅山之南方峯越ニ山色宜キ銅𨫤筋在之所見届置候旨為相知候、----
  
  と見え、又「豫州別子立川両銅山開発覺書」および「豫州別子御銅山未来記」にも同様なことが記されている。3)

3. 切上り長兵衛の経歴については謎が多く、別子銅山地元の新居浜では、新居浜郷土史談会、山村文化研究会、自彊舎益友会などの会員の方々が長年調査研究されてきた。筆者が切上り長兵衛に関心を持ったのは、つい最近であり、歴史、古文書などについては、全くの素人である。調べていてインターネット検索では引っかかりにくいが、大変興味深い報文があったので紹介したい。

技術者で新居浜郷土史談会会員である藤田敏雄は、慈眼寺の現住職大隆大宗方丈と、昭和59年(1984)に、長兵衛の過去帳を見つけた。しかし記載の仕方や命日(宝永5年(1708)3月29日)に疑問があった。次いで、位牌も見つけた。瑞応寺にある長兵衛妻子の墓の命日が元禄7年(1694)の別子大火の日であるが、なぜか焼死者の名前の中には妻子の名前が見当たらない。これらの疑問点を解明するために、藤田は優秀な霊能者(名は伏せられている)にお願いして、切上り長兵衞及び妻子のそれぞれの戒名で霊を呼び出し、平成4年(1992)2月11日と3月10日に3時間ずつ2回、計6時間に渡って対話した。4) すると上記の疑問点は解決したという。以下に要点を記す。

4. 長兵衛の霊の言: 私(長兵衛)は、土佐清水で刀鍛冶の妾の子供として生まれ、鍛冶の仕事を見て育った。10才の時に、阿波の祖母の所にやられ、16才までそこにいた。16才の時に、京都に出て偉い先生について、冶金や鉱石の見分け方を3年間あまり勉強した。20才から実地に勉強するため日本中の鉱山を廻った。自分で穴を掘り鉱石の質を調べ、また新しく鉱石を発見する喜びに魅せられた。世間で言われている穴掘り坑夫でない。
立川銅山に来る前に働いていた所は海を渡って北の方の鉱山だ。そこで亭主のいる女と親しくなったが、その女が男の子を連れて突然立川銅山へ逃げてきた。その女と一緒になり、子供と共に三人は楽しく暮らした。
峰の南に鉱脈があることを、以前働いていた所(住友)へ知らせた。それからは不幸に落ちていった。お金をやるからうち(住友)へ来いと言われて、行こうとしたが、命が危なくなったので、逃げ出した。その時、ある程度のお金は貰った。北へ行き、北海道の南の方の松前に落ち着き金鉱山で働いた。女と二人で暮らしたが、胸が苦しい病気で辛かった。金鉱山の坑内で仕事中に水が噴き出してきて、水攻めにあい、仲間が担ぎ出してくれたが、息絶えた。歿年七十才余り。
近くの寺へ無縁仏として葬られた(現在は飛行場ができて、寺も墓も取り除かれている)。生前、鉱山の主人に頼んでいたので、毛髪と着物は住友の別子の蘭塔場へ送られ妻子の墓に埋められた。父母の墓は高知にあり、神道で祀っている。

妻(立川銅山で一緒に暮らした)の霊の言:私(妻)は、大火で死んだのではなく、何者かに後ろから谷に突き落とされて死んだ。
子の霊の言:私(子)は、大火の日に或る人の家に招かれ御馳走(ふぐの肝)を食べたら、体が痺れて息が詰まって死んだ。
長兵衛の霊の願い:松前で迷い仏になっている、長兵衛の名前と功績を認める碑の様な物を建てて大勢の人に公表してほしい、そうすれば、成仏できる。

5. この報文を読んで、長兵衛の霊の言うことが本当であると第三者が認めることができるかについて考察と検証をした。
藤田は、30年におよぶ学習、体験、実験から霊が存在することを納得している。この霊能者の能力は高く、藤田が体験した8件の例が挙げられている。この霊能者と当時で約10年の交わりがあった。藤田は、霊への質問が誘導尋問にならないように注意をしている。

検証
① 刀鍛冶の子であれば、金属を扱う技術者となる素地はある。刀鍛冶は、藩によって統制されていて、寛永時代の土佐清水では、数軒程度であろうから、古文書等で明らかにできるであろう。霊が父の名を告げれば、照合できる。古文書、系図、墓石(高知にあるといっている)などで確認できれば、生まれは、検証可能となる。

② 少年期に阿波の祖母の所で過ごしたことの検証は難しい。阿波出身といわれる故と考えれば辻褄が合うが。

③ 秀吉、徳川時代には金銀銅の生産が領主や幕府から勧められていたから、京都に冶金や鉱石の見分け方の教える先生がいたであろうし、そこで学んだということは、十分ありうることである。しかし、霊が先生の名を告げ、先生の存在が古文書などで確認され、在籍名簿や、先生の日記に長兵衛の名がない限り、正しいと検証はできない。

④ 実地に勉強するため日本中の鉱山を廻ったということは、以下のように正しいと検証できる。 住友が日本各地の鉱山の調査(1710~1740年頃)をまとめた「宝の山」によれば、以下のように書かれている。5)

切上りは、三河の津具金山、美濃の畑佐銅山、越前の面谷銅山で若き時に稼いだと申している。また出雲の橋波銅山では、先年切上り長兵衛稼止めとフルネームで書かれている。播磨の桜銅山、豊後の大平銅山で稼ぎ、豊後の尾平こしき銅山では坑道を掘り、石見の津和野領亀井谷銅山、出雲の佐詰銅山、豊前の香春銅山、薩摩の阿久根銅山の情報を申している。

⑤ 立川銅山に来る前に働いていた所は海を渡って北の方の鉱山だということは、備中の泉屋の吉岡銅山で相当長くいて、伊予の立川銅山へ移ったと記されているので正しいと検証できる。

⑥ 住友からある程度のお金をもらったことは、泉屋の帳簿に記載されていれば、正しいと検証できる。調べてみる価値はある。

⑦ 北海道の南の方の松前に落ち着き金鉱山で働いたということについて考察する。
松前藩では江戸初期から砂金の採掘がおこなわれており、千軒岳からの川筋に大沢金山、千軒金山、知内金山、勝山金山などがある。6) 藩財政のために、本州から多数の働き手を受け入れた。命を狙われた長兵衛が安全な松前に行って、その腕を生かして、新鉱山の採掘に居場所を得たであろうことは十分考えられる。
長兵衛が居たという検証は難しい。

⑧ 無縁仏として葬られた寺や墓は、現在は飛行場ができて、なくなっているという。現在、道南の飛行場は、函館空港と鹿部飛行場であるが、上記の金山とは60~80km離れている。飛行場の様なものとの表現もあるので、上記の場所でないのかもしれない。または別の金山があったのかもしれない。7) 検証は難しい。

6. 霊は、今までに知られていなかったこともたくさん言っており、それらの辻褄があっていることは確かである。しかし 正しいと検証するには、至っていない。
霊の言が、真実かを第三者が検証可能な内容であれば、歴史の解明に役立つと思う。また検証対象事項が、対話者や霊能者の考えが及ばなかったこと、特定の事物の存在を指摘したものであれば一番よい。対話者がすでに知っていること、推論していることが、霊あるいは霊能者に影響することがあるかもしれないので。
また、対話者が記録者となると、記録文書に微妙に影響がでるかもしれない。記録者は、第三者が好ましいと思われる。
今後 対話の続きがあるのかを調べてみたい。

注 引用文献など
1.住友金属鉱山株式会社住友別子鉱山史編集委員会 「住友別子鉱山史」p4(平成3.5 1991)
2.住友修史室編纂 泉屋叢考第13輯「別子銅山の発見と開発 附録 別子銅山発見開発関係資料」p4 (1967.10)
3.同上の附録
4.藤田敏雄「切上り長兵衛の霊を呼び出した記録(第一、二回)」「益友」42巻9号p38(編集 村尾福乗 平成7.12 1995)
 藤田敏雄「別子銅山の発見者と言われている謎の人物[切上り長兵衛]について(一)(二)」 新居浜史談 第312号 p1(2001.8)、第313号p1(2001.9)
5. 住友史料叢書[6] 監修小葉田淳 編集住友資料館今井典子「宝の山 諸国銅山見分扣」(思文閣出版/京都 平成3.12 1991)
切上り長兵衛と書かれた部分をまとめたコピーを添付した
「宝の山」は、別子の第二期開拓もその効果がいよいよ望み薄となった宝永の末年(1710年頃)に住友大阪本社で着手し、三十年後の元文五年迄段々書きつづけられたもので、全国を山城から対馬に至る六十六箇国に分け、国別に金・銀・銅・鉛・白目等鉱の鉱山を五百箇所余り列挙して、これに住友自身の実地調査や各種の聞込旧記等により、所要の註記つまり年月・見分者・見立・沿革・将来の参考事項等を書込んだものである。
6.日本歴史地名体系第一巻 北海道の地名「松前町 大千軒岳・前千軒岳」p272(平凡社 2003.10)
大千軒岳、前千軒岳は、松前町・福島町・上ノ国町の境界にある山である。千軒の峰々に源を発する知内川・石崎川・大鴨津川・大沢川などでは江戸時代初期に砂金採掘がさかんであった。「松前の金銀山の根本なり」とされ、松前藩の財政を支えていた。元和六年(1620)蝦夷地を訪れたイエズス会宣教師ディオゴ・カルワーリュの旅行記によると、松前から内陸へ一日ほどの金山に赴いている。金堀としてキリシタンが働いており、期限契約を結んでいたようである。寛永五年(1628)千軒岳で新たに砂金の採掘が始まった。最盛期には金堀に紛れて迫害を逃れたキリシタンが大勢渡島した。寛永十六年(1639)松前藩主公広は幕府からのキリシタン宗禁制を受け、50人を大沢金山で、逃れた6人を石崎で、50人を千軒金山で処刑した。
大沢金山、千軒金山(松前町大沢、松前町から東へ5km)
知内金山(上磯郡知内町、北東へ30km)
勝山金山(檜山郡上ノ国町、 北へ45km)
7.函館空港から40km 東に、大正10年ごろ探鉱された女那川金山(函館市恵山町、松前町から北東へ100km)がある。(恵山町史 1961)
鹿部飛行場(渡島半島北東部)から20km西に、昭和5年開坑の大盛金山(茅部郡森町、松前町から北東へ80km)がある。

「宝の山」で、切上り(長兵衛)と書かれた部分をまとめたコピーを添付した。



立川銅山は天正年間に操業していた?

2018-03-04 23:20:57 | 趣味歴史推論
「寛永15年空性法親王御巡行記の白窟は、市之川鉱山か」のなかで引き合いに出した立川銅山の開坑年を再度調べた。

1. 立川銅山沿革記によれば1)
 「右銅山者寛永年中一柳監物様御領分之砌、所之者致開発候由申伝、其後中絶有之候処、松平左京太夫様御領分ニ相成、右御領分金子村之百姓眞鍋弥一左衛門と申者致再興、元禄三年より同十四年巳年迄相稼云々」


2. 別子開坑二百五十年史話で、古文書記載の証拠があるのは以下のである。2)
「宝暦11年住友家より幕府巡見使に提出せる[立川御銅山仕格覚書]に「伊予国新居郡立川山村之内長谷御銅山者百餘年以前一柳監物様御領地之節始相稼」とあり、また現に同銅山に寛永谷や、寛永坑の名称のあるのは、まさしくその寛永頃の採掘を語るもので、時は住友家の別子開坑にさきだつこと、すくなくとも五六十年以前であった。」

3. 上記二つの文献によれば、開坑は藩主一柳監物の時にあたる。
伊勢国神戸藩主であった一柳監物直盛(ひとつやなぎけんもつなおもり)は寛永13年(1636年)6月1日、伊予国西条へ転封となり、6万3000石余の西條藩が成立し、初代藩主となった。直盛は任地に赴く途上の寛永13年(1636年)8月19日、病のために大坂にて没した。その遺領は長男直重に西条藩3万石、二男直家に(既に領していた播磨国小野藩5000石に加えて)川之江藩2万3000石、三男直頼に小松藩1万石として分知された。

よって、一柳監物直盛の藩主期間は寛永13年だけであるので、立川鉱山の開坑年は寛永13年となる。

4. 別子開坑二百五十年史話では、銅鉱石の採鉱を記載した古文書等の証拠は挙げられていないが、奈良時代以前からこの地では、御村氏が鉱山を経営したことが明らかに知られると書いている。

「孝徳天皇(在位645~654年)の御宇に生れさせられた龍古乃別君(たつこのわけぎみ)が、代々新居郡立川山の産土神とし祀られ、龍河神社の祭神に崇めさせられてゐるのも、これまた御父祖以来、此の地方にて鉱物採取を掌らさせてゐた證左であって、いまにその遺蹟とおぼしき邊より、當時の年代と一致せる彌生式土器の出土を見るのである。----かように立川の地は加禰古(かにこ)、龍古(たつこ)の別君(わけぎみ)のよって鉱業を創始せられた為、住民永くその御縁故を尊んで別子(わけのこ)とよび、次いで別子(べっし)と音読して、古代新居郡東部の鉱山地帯を汎稱するに至った。後ち平安朝時代より、鎌倉、室町時代に入り、時の為政者が内部の抗争に没頭して、また地方の鉱業を顧みざること久しきに渉つた為、往時盛を極めた御村氏一族の経営も、さながら一夢と化し、ただ立川(たつかわ)の稱呼のみ上古の廃坑附近地に傳えられ、別子の名は分水嶺の南方、宇摩郡の一部に用ひられて、僅に別子山村の村名に昔日の名残りをとどむるにすぎなくなったが、--」

銅の採鉱を証する古文書などが見い出され公開されることを願う。(既に公開されていて筆者が知らないだけかもしれないが)

5. 新居浜在住の高橋恭子著「立川(タヂガワ)銅山物語」では、天正13年(1585年)の天正の陣の以前に、既に立川銅山が操業されていたことを書いている。3)

「大同3年(808年)伊王郡別名村星大明神諸願成就をした片岡氏は、源平合戦で平家が滅亡した文治元年(1185年)加茂川をさかのぼり、四国山脈を越えて土佐に身を隠した。--- 年は下り、---土佐の長宗我部国親、元親に信任された片岡茂光は、仁淀川流域の高吾北一帯を領するに至った。この頃から立川鉱山に関わりを持つようになったと推定される。長宗我部元親は、続いて阿波の三好氏を滅ぼし、次に伊予の東予新居郡の金子元宅ら7城主と同盟を結び、天正13年(1585年)春に四国制覇を遂げた。が僅か2,3か月後に豊臣秀吉の命を受けた中国・毛利氏の小早川隆景率いる軍勢が伊予国新居郡に上陸し、金子城城主金子元宅率いる東予勢力を制圧した(天正の陣)。片岡茂光の子、片岡光綱は、元親の命により、急遽金子城へかけつけ、援兵の高吾北に住む一領具足達と共に戦い、討ち死にした。
立川銅山の経済力を背景に栄えてきた長宗我部家、片岡家、金子家、真鍋家、高橋家はこの戦いにより有用な人々のほとんどを失った。」

 残念なことに、天正あるいはそれ以前に銅鉱石を採掘していたことを示す古文書は開示されていない。一柳藩主以前に銅山が操業していたことを示す貴重な証拠となるので、開示を強く願う。

6. 4,5から見ると、寛永13年以前に立川銅山が操業をしていた可能性が高いのであるが、その証拠となる古文書等が開示されることを願う。


1) 芥川三平「別子開坑記」p4(発行所:正岡慶信、昭和61.7)
2) 住友本社庶務課編「別子開坑二百五十年史話」p106-107(昭和16年)国会図書館デジタルコレクション コマ84~86
写真コピーを添付する
3) 高橋恭子「立川(タヂガワ)銅山物語」p25~34(平成24.8.14)