気ままな推理帳

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からみ・鍰の由来(12) 尾去沢銅山「御銅山伝書」(1849)は大半が「鍰」である

2021-04-25 08:43:52 | 趣味歴史推論
 尾去沢銅山は明和2年(1765)南部藩の御手山(直営)となり、それ以降の銅山に関連する稼行仕法の秘伝、定法、定目をとりまとめた筆写本が「御銅山傳書」である。1)これを筆写したのは、嘉永2年(1849.3.10)で、南部藩御銅山廻銅支配人で尾去沢銅山の稼行の責任者であった内田家の内田周治である。
明和2年(1765)鉑方役所掟書、床屋役所御控をはじめとして中には、その文書が書かれた年月が記載されているが、この伝書は、その筆写であるので、「からみ」「鍰」がその年月にその通り書かれていたかはわからない。しかし少なくとも嘉永2年(1849)には「からみ」「鍰」が以下に示すように書かれていたということになる。(筆者の読み下し文は読み誤りがあるでしょう)

「御銅山傳書」(1849)
床屋御役所相勤候者平自心得方凡そ左の通り →図1
・鉑吹口明きの節、卸し切り白く成るほど卸しきらせ其の上にを盛り申すべし、左様無く候えば、歩合定まらず鈹も悪きとの御座候。卸し切らみと申すは粉救い(こすくい)を以て数度返し候えば、炭ばかりに相成り、粉燃無くからみ白く相成り候。是をよしと申し候。右の通りおろし切り第一急入申すべき事。
・鉑吹口明き候節立ち合い候はば、盛り候節、鈹も上がる事間々有之もの也。早く見付け撰り取り申すべき関のくぼみへ鈹溜まるもの也。早く折らせ、右折り目より毒いかりよく去り保ち候えば、鈹ほき改もの也。又鈹いかり毒いかりよく砕き尻銅付けおり候はば、からミ分け御役所へ持参、右鉑吹大工の名面附置仕廻に尻銅御蔵処持参の節、尻子入りの小銅へ入れ御蔵処へ納め申すべき候。又床の内にいかり有無に拘わらず、炭を床に入れ羽口を付け、焼懸け火の上に廻り候まで、初て口、二番口の立ち合い引き取り申すまじく候事。右両口とも火廻り候処にて引き取りそれより代わり々に見廻り申すべき事。心得違いの者は、床亦肩杯へいかり立無く立合の引き取り候処にていかりを取り上げ銅取り候ものに御座候間、よくよく気を付け申すべき事。

 嘉永2巳酉年(1849)3月10日拵之  内田周治  此主也  →図2

「床屋御役所相勤候者平自心得方」の節には、鍰5ヶ所 からみ1ヶ所 からミ1ヶ所あり。
御銅山伝書の他の部分には、鍰2ヶ所 からみ2ヶ所 鍰板2ヶ所 鍰鎚3ヶ所 鍰竿1ヶ所あり。
「御銅山伝書」全体では 鍰13ヶ所 からみ3ヶ所 からミ1ヶ所あり。

考察
1. 「御銅山伝書」の各項目が、定められた年代を探ると、
①御手山御取付明和2年(1765)酉11月鉑方御役所掟書之写
②安永5年(1776)申8月改
③天明3年(1783)卯年御普給所に慮の割突込を以て鉄渡方御改左の通り
と明和~天明である。内田周治が筆写したのは、嘉永2年(1849)である。筆写通りに、明和~天明の原本古文書が「からみ」「鍰」と書かれていたかどうかは分からない。
ここでは、嘉永2年では、ほとんどが「鍰」であると言える。

まとめ
 御銅山伝書(1849)では、大半が「鍰」である

注 引用文献
1.「御銅山傳書」 内田周治 嘉永2年(1849.3.10)写 日本鉱業史料集第10期近世編上/下」(白亜書房 1988))九州大学工学部資源工学科所蔵の内田家文書
 上p99~101 →図1 下p107→図2
解説 葉賀七三男
「裏表紙には内田周治が嘉永2年3月に松舘村の大炭中積みの勤務中にこの写本を書きあげた旨を明記している」 

図1. 御銅山伝書 床屋御役所勤心得の一部分


図2. 御銅山伝書 巻末の筆写名と年月日の部分


からみ・鍰の由来(11) 南部藩家老席日誌(1812)に「捨鍰」製方吹立願出の記録

2021-04-18 08:46:09 | 趣味歴史推論
 赤穂満矩著「鉱山聞書」(1785)の原本が「鍰」を用いていた可能性が高いことがわかったが、技術書なので国会図書館の和古書が何時筆写されたのかは決定できない。赤穂満矩は、尾去沢銅山の山師であったので、尾去沢銅山に、年が決定できる古文書があるのではないかと考えて探した。
その結果、尾去沢山許において製錬残滓の捨鍰(すてからみ)を処理し、これより製出した荒銅を地売銅として販売することを、文化8年(1811)に岩間市郎兵衛が幕府に願い出て許された記録が南部藩家老席日誌にあった。この日誌は、寛永21年(1644)から 天保11年(1840)の間、家老席の書記にあたる藩士が家老の政務日記として記したもので、南部藩の代表的な公的記録である。1)2)

「南部藩家老席日誌」
 文化9年(1812)年正月17日晴 勘解由 大和

・---
・御銅山にて荒銅吹立候節、相出る捨鍰製方吹立したく、右製銅の分は地売銅御買上御直段(ねだん)を以て御買い上げ成り下されたく旨御願出差出し左の通り。
・盛岡領尾去沢銅山の儀、旧来御手当等成り下され稼方相続仕り有難く奉存候。然る処往古よりの稼ぎ所にて次第に遠丁深敷(えんちょうふかじき)に相成り、年々普請数ヶ所有之、
入用等嵩十分の稼方行き届き難く候えども、懸り役人ども誠精取扱引続き長崎御用銅売上候処、近年の模様何分御定数53万斤の高相揃わず其年限り相納めかね、年後の決算に罷り成り候。去る寅年(1805)より去午年(1810)まで5ヶ年平均棹銅37万斤余り廻銅相当たり申し候。何卒格別普請仕入方等仕りこの上出銅相進め候様したく奉存、種々勘弁仕り候処、是まで山元にて荒銅吹立候節、捨からみと申す品夥しく有之、右の内には正銅も相残り有之候えども、右製方仕り吹立候には入用多く相懸かり、御用銅売上直段引き合いかね候故、そのまま山元に捨てり有之候処、右を製方仕り吹立候はば、1ヶ年5~6万斤程は正銅も出来仕りべくと奉存候に付き、向後右吹立申す分御地売りの方へお買上に成り下されたく奉願上候。左候はば、諸山地売銅の御振合を以て、御直増並びに御手当等成り下され候えば、右御直段増の融通を以て、稼方の補いに仕り候はば、追々出銅相増し候様の取り計らい相成り、御用銅定数売上候様にも相至り申すべき哉と奉存候。近年出銅進まずの処より、働の者ども家業甚だ困窮難渋至極仕り、老若婦女子ども扶育致しかね候間、右の者ども仕業に製銅仕らせ候はば、前断の通り5万斤程も出銅有之べく候間、御用銅の外右製銅差し廻し申したく候間、相成るべき儀に御座候はば、右5万斤程の分前書き申上候通り地売の方へ御買い上げ成り下られたし。左候はば右代銀猶予を以て稼方手当に仕り候に付き、山方一統御救いにも相成り、且つ本山丈夫の稼出来仕り候付き、御用銅定数この後滞りなく相納め候様相成るべし哉と奉存候。尤もこれまで追々御手当等も有之候儀に付き、懸り役人共は素より山方一同出精仕り候えども、近年山元不模様に付き様々勘弁仕り候処、右の通りに相成り候はば、本山働方励みにも罷り成り、自ら稼方の者へ別段手当も出来仕り候えば、山方一統有難く奉存出精も仕り候。訳に御座候間、山元御救いの思し召しを以て、何分御憐察し下され、願いの通り御聞き届成り下され候様仕りたく奉り願い候。 以上
 文化8年(1811)12月18日    御名内 岩間市郎兵衛

右の通り、取り調べ長崎御奉行曲淵甲斐守宅へ、去る18日御勘定頭岩間市郎兵衛持参差し出し候処、用人星野判左衛門受け取り承知の旨申し聞き候由、これ申し来る。

考察
1. 文化9年(1812)年正月17日、担当は、家老の勘解由と大和である。南部藩の11代藩主南部利敬(なんぶとしたか)の家老として、東勘解由(ひがしかげゆ)、楢山大和(ならやまやまと)の名が見える。3)
2. 「・御銅山にて荒銅吹立候節、相出る捨鍰製方吹立したく、右製銅の分は地売銅御買上御直段(ねだん)を以て御買い上げ成り下されたく旨御願出差出し左の通り」は、家老の文章である。 
「・盛岡領尾去沢銅山の儀、--是まで山元にて荒銅吹立候節、捨からみと申す品夥しく有之---」は、御勘定頭の岩間市郎兵衛が書いた文書を家老が書き写したと思われる。
勘定頭は「からみ」を使っている。長崎御奉行に分かるように「からみ」を使ったのであろう。しかし、家老は、「鍰」を使った。家老にとっては、「鍰」が普通に書く字であり、内部用の日誌なので、分かればよかったのであろう。
3. この文書が「鍰」が書かれた年月を特定できる最も古いものである。「鍰」が普通に使われているので、この日以前に「鍰」を広めた源があるはずで、それが「鉱山聞書」である可能性がある。

まとめ
 文化9年(1812)の南部藩家老日誌に、「捨鍰」と記されており、これが「鍰」が書かれた年月を特定できる最も古いものである

注 引用文献
1. 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p147,402 (勁草書房 1964)
2. 南部藩家老席日誌(原本所蔵 盛岡市中央公民館)マイクロフィルム第128巻(雄松堂フィルム出版 1981)→図1,2,3
3. Wikipedia 「南部利敬」より
「文化14年(1817)の江戸武鑑で見られる主要家臣は以下のとおり。【世襲家老】八戸弥六郎、中野筑後、北監物 【その他の家老他】東勘解由、新渡戸丹波、毛馬内蔵人、八戸淡路、藤枝宮内、楢山大和、南彦八郎、桜庭兵庫、下田将監、奥瀬内記、毛馬内近江、野田豊後

図1. 南部藩家老席日誌 文化9年正月17日の分-1


図2. 南部藩家老席日誌 文化9年正月17日の分-2


図3. 南部藩家老席日誌 文化9年正月17日の分-3


「宝の山」の「切上り」は、田向重右衛門が長兵衛から聞いた話を手代に書かせたのだろう

2021-04-11 09:06:13 | 趣味歴史推論
 「宝の山」は、有望な銅山を探すのに必要な全国の鉱山情報を記録した文書であり、宝永末年~元文5年(1710~1740)に泉屋の手代によって書かれた。1)このなかには「切上り長兵衛」が働いた鉱山や集めた情報が記されている。執筆者の手代は、誰からこの情報を入手したか。「切上り長兵衛」は、新居浜井筒屋加藤家にある位牌によれば、宝永5年に没しており、大坂泉屋に出入りしたという記録もないので、手代が「切上り」から直接話を聞くことはできなかった。では誰が、切上りから話を聞いて手代へ伝えたのか。田向重右衛門の可能性について考察した。
田向重右衛門は、承応3~享保9年(1654~1724)享年71 である。「宝の山」の執筆が始まった宝永末年(1710)から重右衛門死去の享保9年(1724)間の動向を調べた。特にその間、大坂本社で執筆する手代へ「切上り」の情報を伝えることができたかどうかの観点から、住友史料で探し、重右衛門年表を作成した。

田向重右衛門年表
・吉岡銅山の支配人 泉屋第一次稼行は、延宝8年(1680)~貞享2年(1685)~元禄11年(1698)の間の18ヶ年。大水抜通洞開削がなされた。(貞享2年冬~元禄4年は、杉本助七が実質上の支配人であった) 泉屋第二次稼行の元禄15年(1702)~正徳5年(1715)では、大坂本社にいた。
・別子銅山の見立と開坑(元禄3~4年(1690~1691))
・宇摩郡別子山村の内、足谷見分は、元禄3午の秋、泉屋十右衛門・原田喜兵衛・山留治右衛門備中より渡る。その節備中に炭焼居候予州新居郡新居浜松右衛門と申者案内致候。2)
・住友友信より、家督を下さる(元禄6年(1693)) 吉岡銅山は、元禄4,5,6年に産銅高が非常に大きく出来た。田向重右衛門と杉本助七に家督を下さる。3)
・元禄7年(1694)大火の報告と復興
元禄13辰年(1700)4月21日 山木代官へ目見・取持の覚に、重右衛門の名あり。(山木与惣左衛門は、元禄9~14年に別子銅山支配の代官であった。)4)
・宝永3年(1706)11月2日 勢州宮川堤際より出火して、伊勢御師谷一郎兵衛の家屋が全焼したので、12月5日、重右衛門方にて50両合力した。5)
・宝永3年12月 土山市左衛門が事情あって無心、重右衛門方へ呼び寄せ15両貸した。6)
宝永6(1709)年5月13~26日 丹波国天田郡岩屋村の梶浦七郎右衛門より重右衛門方へ、丹波の銅山の見分依頼で鉑石に状が添えられてきた。しかし、重右衛門より、銅山は望なしの返事の状を出した。7)
宝永6年(1709)6月19日 長崎より銅支配人衆が、長崎や五郎兵衛方へ上着致し候由、重右衛門より申し来る。8)
宝永6年(1709)12月24日 泉屋重右衛門所にて、餅つき申し候。9)
享保9年(1724)正月21日 予州別子銅山初発之書付(住友友昌公あて)
享保9年(1724)没す

「宝の山」の「切上り長兵衛」の記録
・三河 つぐ(津具)金山   但切上り若時稼居申由、様子聢覚不申候
・美濃 はたさ(畑佐)銅山  但切上り若き時稼居候えども、様子聢と覚不申候
・出雲 さつめ(佐津目)銅山 但少々銅出申候、未稼方可有之様に切上り申候、直に見分不仕候
               但切上り咄しにては、いまだ稼可成とも申候
・越前 おも谷(面谷)鉛山  但切上り若き時稼居申候えども、様子聢と覚不申候
・出雲 橋波銅山       但先年切上り長兵衛稼止め
・石見 亀井谷銅山      但先年切上り新見立引割、草際上競取、下𨫤に〆10挺だけ下喰〆、青石成候由
・播磨 桜銅山        右は世間にては未稼方可有之様に申候えども、先年切上り致しかゝり、競にかゝり候時分、人手に渡り、大競取候て仕詰め乱喰〆、切上り申候
               但昔は大競有候由、切上り稼申候由
・豊前 かわら(香春)銅山  〆はみ出し、不宜止め申候、切上り申し候
・豊後 尾平蒸籠(おびらこしき)銅山    但古山にて切上り取り明け、水貫切、𨫤なし、鉑鶴のはし掘り、切庭50挺前程有之、歩無数、360貫目吹、床尻30貫目、これを吹き直し12貫目、皮70貫目に銅21貫目、〆て銅33貫目程、大方200斤と見え申候、右代100斤180匁位致候由、足り120匁位も有之様覚候由* 右煙り大分人にあたり腫申由、それ故その後致し候者無之由。
              *糺吹(ただしぶき) 荒銅100斤につき、足り(たり 垂銀、得られる灰吹銀のこと)が丁銀で表される。
・豊後 大平銅山       但銅金𨫤にて役立不申由、その後切上り致候由
・薩摩 あくね(阿久根)銅山 いらず(不入)山と申して、材木山に被仰付候、山内に銅山之新見立有之由、予州金子村弥市右衛門・新五右衛門 先年林木山に請申由、定めて是に鉑石可有之由、切上り申候、重ねて尋可申候

「宝の山」の「庄屋長兵衛」の記録
享保10年巳4月 手代平左衛門・重助 左に記し候山見分之覚書(上記とは別の手代の記録である)
・石州邑智郡岩屋村(鉛山)
  右4ヶ所は残らず銀山領・九き(久喜)山の境目、山峰表裏近い迄にて候、前方別子銅山に居り申し候庄屋長兵衛稼ぎ居り候由、相止め4,50年にも相成り候由
・石州下道川村古鋪
  但これは44~45年以前に桑名や仁兵衛、すなわち別子銅山に居り申し候庄屋長兵衛が世話致した、が稼ぎ申し候由、間符数ヶ所、尤もこの内銀山と申す古敷も在之候、右場所は村より3里余り南へ入深山にて大木大分在之、広嶋境へ1里半在之、先年銅山繁栄致し候由

考察
1. 重右衛門は、吉岡銅山の第一次稼行が終わった元禄11年(1698)から大坂本社に勤務していたと思われる。元禄13年(1700)に大坂での山木代官へ目見・取持の席に参列している。そして宝永6年(1709)には、鉑の見立て、長崎より銅支配人衆の接待、本社手代たちの餅つきをしていることから、大坂本社に出入りしていたことがわかる。宝永6年は、ちょうど「宝の山」を手代が書き始めた頃である。よって、時期的、場所的に執筆する手代とかなりの接触が出来たに違いない。手代もその道の第一人者から情報を集めようとしたに違いない。

2. 「宝の山」では、単に「切上り」とだけある。しかしこれは明らかに固有名詞である。普通なら、少し説明(例えば、山留とか山師とか---)を付けるのだが、そうはしていない。それだけでわかるからこれでよいのだ。例えば「三河津具金山 但切上り若時稼居申由、様子聢覚不申候」は、内容からして、「切上り」を記録したいから書いたとしか考えられない。たいした情報はない。それでもわざわざ手代が書いたということは、「切上り」に感謝をこめて記録に残したいという重右衛門の指示があったからではないか。
文体を見ると、「切上り----致し候由」 と「由」の付いたものと 「切上り---申候」と由の付かないものがある。「由」は伝聞を表しているので、「切上り」と執筆者の間に誰かが入り伝聞役をしていることがわかる。一方、「由」なしは、伝聞文ではないので、執筆者が直接「切上り」から聞いた形になっている。しかし執筆当時に「切上り」が生存し大坂にいたことはあり得ないことである。よって、「由」のない文も誰かが伝聞役をしていたにも拘わらず執筆者が「由」を書かなかったと見るべきである。誰が伝聞役をしたか。それはもう田向重右衛門以外には、考えられない。細かな情報もいくつかある。これを記憶しておくことは、各地の鉱山情報をいつも注意していた重右衛門だからできたことである。

3. 享保10年(1725)の別の手代の記録にある「庄屋長兵衛」は「別子開坑時に別子で働いていた切上り長兵衛」を指していることは、以前に本ブログで指摘した。10)

4. 重右衛門は、執筆する手代から、別子見分の際の同行者の名前を確認されたに違いない。重右衛門の記載当時の記憶は正確である。この項に、なぜ別子銅山見分のきっかけは「切上り」の情報によると書かれていないのか。考えられるのは、
①「宝の山」の執筆目的は、新に有望な鉱山を見つけるために種々の鉱山をリストアップしようということなので、既に別子は操業中なので、細かいことは記載する意味がない。
②いつか「宝の山」を幕府役人に見せざるを得ない時に、立川銅山で働いていた「切上り」が情報をもたらしたということが記されていない方が、問題がない。立川銅山と抜け合い等で争いごとが起きている時に、わざわざ記したくない。重右衛門がこの項には「切上り」のことは書くなと言ったのではないか。
元禄16年(1703)7月に銅座役所へあてて、泉屋孫兵衛・大坂屋八右衛門からさし出した、諸国銅山覚書には、211ヵ所が挙げられている。これは、勘定奉行の諮問に応じるためになされたようである。11)「宝の山」でも同様なことが起こりうる。

まとめ
 「宝の山」執筆開始時に、田向重右衛門は、大坂本社に出入りしていたので、時期的場所的に「切上り」の伝聞役に成り得た。内容からみて、あまり役立つとは思えない「切上り」の情報が記録されていることから、田向重右衛門が、「切上り」の情報を手代に伝え、それを記すように指示したと推測する。重右衛門の「切上り」に対する感謝の表れと思う。


注 引用文献
1. 住友史料叢書「宝の山・諸国銅山見分扣」(思文閣 平成3年 1991)
2. 「宝の山」P116
3. 住友修史室「泉屋叢考」第12輯P59(昭和35年 1960)
4. 住友史料叢書「鉱業諸用留」p208(思文閣 平成元年1989)
5. 住友史料叢書「年々帳一番」p188(思文閣 昭和60年 1985)
6. 「年々帳一番」p189
7. 住友史料叢書「宝永6年日記」p35(思文閣 平成8年 1996)
8. 「宝永6年日記」p45
9. 「宝永6年日記」p112
10. 気ままな推理帳「切上り長兵衛は、開坑時の別子銅山で働いていた」2018-11-15
11. 住友史料叢書「銅座御用扣」p344 解題(今井典子)p15(思文閣 昭和64年 1989)

からみ・鍰の由来(10) 石見銀山「諸事に付認書差上控」(1810)は、「からみ」である

2021-04-04 09:03:01 | 趣味歴史推論
 石見銀山「諸事に付認書差上控」は、文化7年(1810)銀山附役人 山中百治が、勘定所役人 村田幾三郎・山本三保助の求めに応じて提出した鉱山技術の解説書である。1)

「諸事に付認書差上控」
1. 鏈拵(くさりこしらえ)
鏈拵は、鋪より負出し候荒鏈を或は掛け目10貫目、半切桶に水を入れ、右の鏈を入れ、よくよく鍬にてまぜ、泥を水にて流し、荒鏈をゑふと申す底のとがりたる目粗成るざるに入れ、右半切桶の内に、水を以てゆり洗ひ候えば、小砂並びに小鏈は、半切桶に溜り申し候。右洗い候大き鏈に石の添居り候は、石を鶴の嘴と申すものにて砕き、石と鏈とを分け申し候。右水に溜り候細鏈、小砂の分はゆり鉢と申し、差し渡し2尺程有の木鉢にて水につけ、砂と鏈をゆりわけ、鏈は内に溜り、砂は外へ出候て、正味に相成り申し候。右の通りいたし候ても石去り難き分は、鉄碓(うす)にて細末し石をゆり除け、正味にいたし候もこれ有り候。左候上にて、荒鏈10貫目に正味鏈何程と申す事に相成り申し候。尤も脇頭と正味鏈二様にも取り申し候、何程余分たりとも右の通りにて仕分け候。
 この節に「正味」2ヶ所、「正味鏈」1ヶ所、「正味鏈何程」1ヶ所あり。

2. 銅気有銀鏈小吹試しの仕様大意
 この節に「正味鏈20目」1ヶ所、「からみ」3ヶ所あり。

3. とかし鏈試様
 この節に「正味鏈10匁」1ヶ所、「正味鏈」1ヶ所あり。

4. 大吹の仕様大意(付箋に大の字を小と直すべしとあり)→図1. 図2.
 但、銅気無し鉿かねけ(銀気)の鏈 生吹の事あらまし
 正味鏈 10貫目
 呼鉛  2貫目
 鉿鏈  2貫目
 錬   1貫目
 合計  15貫目
 是は、銅気無鏈汲鉛にて灰吹に相成候、尤も鏈性合により合口鉿錬差し引き考え有り、右鏈の性により鉿錬、或いはからみ等合わせ加減多少相考え、正味鏈に交ぜ合わせ候。大概120貫目を1日吹に仕る、尤も鉿錬も鏈とは申し候えども、銀気は多分無之。
 鉿と申すは多く鉛気の有る鏈を云、銀気もあいには有之の鏈もあり候、からみと申すは、鏈吹き候節、石湯に成り流し候石をからみと唱え申し候、鉿からみ正味鏈のこわき(強き)解けかね候をとかし申し候、錬(こわり)は正味鏈のねばりをさやかし(清かし)申すものに御座候。
 右合鏈120貫目を8つに分け、15貫目を1床にかけ、大フイゴ2丁にて吹き立て申し候。鏈湯になり石は上に浮き候故、柄振りと申すものにて掻き上げ流し申し候、これをからみと申し候。先ず生吹の仕様大意右に准じ考えあり。
 この節に「正味鏈10貫目」1ヶ所、「正味鏈」3ヶ所、「からみ」5ヶ所あり。

5. 銅気有銀鏈正味鏈に拵立、焼釜へ懸け候事
  この節に「正味鏈」1ヶ所、「正味鏈300貫目」1ヶ所、「からみ」8ヶ所あり。

6. 鏈試し吹きのあわひの事
  この節に「正味鏈20目」3ヶ所あり。

結局、この文書には、
「からみ」が16ヶ所あり、すべてが「からみ」である。
「正味」2ヶ所、「正味鏈」6ヶ所、「正味鏈xx目方」8ヶ所 合計「正味」は16ヶ所ある。


考察
1. 慶長7年(1602)の「からミ」から文化7年(1810)の「からみ」まで石見銀山役人は、仮名の「からミ、からみ」で表記していたことがわかった。
2. 「正味鏈」という目方が付いていない単語が6ヶ所あること、「正味」に相成り候とあることから、この文書で「正味」が意味することは、「中味だけの目方」ではなく、「本当の中味」である。
3. 「正味」が16ヶ所も書かれているのだから、「からみ」が、正味(しょうみ)の対極としての「からみ 空味」を意味するのであれば、空味と書かれている場合があってもよさそうなものだが、全くない。筆者は、石見銀山の史料にも、他の鉱山史料にも「空味」の字を見つけることが出来なかった。
筆者は、「からみ」は「空味」に由来するのではないと思うようになった。
4. 日本国語大辞典には、「空味」(からみ)は載っていない。「空味」(くうみ)も載っていない。(もし「空味」があったとしたら、読みは「くうみ」であろう。)「空味」で表記される語はなかったのではないか。また「空身」(からみ)は、「身一つ」であり、意味が違う。

まとめ
 石見銀山「諸事に付認書差上控」(1810)は、「からみ」である。
 「正味鏈」の表記はあるが、「空味」は、なかった。


注 引用文献
1. 石見銀山歴史文献調査報告書Ⅳ(島根県教育委員会文化財課 平成20年 2008)
  山中家文書  解説 仲野義文  p22,23→図1.2.

図1.  石見銀山「諸事に付認書差上控」大(小)吹之仕様大意


図2.  石見銀山「諸事に付認書差上控」大(小)吹之仕様大意つづき