天満浦から別子銅山の粗銅が大坂へ運ばれた元禄時代に、天満に「口屋」と称する役所があったことを証明したい。ここでいう「口屋」とは、前報で記したように、川之江代官所の現場詰所およびその役職のことである。天満村関係の文書などで「口屋」が記載されたものは、近藤六郎右衛門の過去帳だけである。1) そこで、近藤六郎右衛門について調べることにした。天満の近藤嘉豊様より、近藤家の由緒を伺い、貴重な史料を見せて頂いた(2024.7.21)。
1. 過去帳 ( )内は筆者 →写1
・享保6(1721)辛丑9月5日(卒) 行年83才 (書込)寛永16年(1639)生
天高宗運信士俗名近藤六郎衛門
(書込)寛永通寶銭をゐる (薄黒塗り箇所)宴を楽しみ求む豊富
一柳様御下り寛文9年改め松平左京様御地相成候 近藤六郎衛門二十八才也
御銅山口屋仕也
・享保7(1722)壬寅7月7日(卒) 行年78才
帰源妙性信女六郎衛門妻
(薄黒塗り箇所は読めない)
・享保14年(1729)己酉(卒)
俗名近藤嘉兵衛 近藤六郎右エ門忰
御銅山御用口家
2. 墓碑 →写2
六郎右衛門夫妻の墓が、ざと(座頭?)屋敷地区の近藤家墓所(出店の南200m)の中央手前にある。笠付方形で花崗岩製の立派な墓で、夫婦同じ大きさである。(笠部38cm+柱石84cm+台部18cm=)総高140cm 柱石の幅30cm 厚18cm。
・天高宗運信士忌
・帰源妙性禅定尼忌
3. 三人の絵図(天保13年(1842)以降)→写3
中心人物:五代近藤六郎右衛門 寛永16年生 壽83歳 妻78歳
右の人物:六郎右衛門の孫の十代藤四郎 享保6年生 壽79歳 妻75歳
左下の人物:十代藤四郎の孫の十二代文兵衛 明和7年生 壽73歳 妻72歳
右下の人物は左下隅に名があり、この絵を描かせた十四代儀兵衛で、十二代文兵衛の長子である。摂州浪花島之内柳町住。大坂に出ていた儀兵衛は、父が亡くなった(1842)直後に、この絵で先祖を祀ったのであろう。
左上の文
「伊予国宇摩郡小林當主近藤日向守義信の弟同苗将監は 天正13乙酉秋8月天満村に移りて、世家**なり。その子松太郎天正8年誕生なり 寛永10年癸酉6月28日没 享年54。その嫡同苗六之丞 齢87なり。その嫡子同苗六郎右衛門 寛永16年(1639)誕生より享保6年(1721)辛丑秋9月5日没 齢83。」
**世家(せいか) 官吏として代々俸禄を受け継いでいる家柄
検討と考察
1. 松平頼純の就封は寛文10年であるが、書込者は、寛文9年と記憶違いをしている。六郎右衛門が28才(数え年)の時は、(1639+27=1666)寛文6年となるが、西條藩主の一柳直興が改易されたのは、寛文5年である。書込者は、一柳改易と松平就封を勘違いしている。なお28才と「御銅山口屋仕なり」とは、無関係である。
近藤六郎右衛門は、御銅山口屋仕(くちやつかえ)であった。別子銅山開坑の元禄4年(1691)に、六郎右衛門は53才であったが、その歳でも活力十分であったことは、83才まで生きたことから推定できる。別子銅山開坑に向けて、六郎右衛門は持てる知力・財力・人脈などで川之江代官所や大庄屋寺尾九兵衛に協力したのではないか。そして、開坑後に「口屋仕」として働いたのではないか。
忰の近藤嘉兵衛も御銅山御用口家(屋)とあるので、父の六郎右衛門が天満の口屋で数年勤めた後、退職し、息子の嘉兵衛が継いだと思われる。
「寛永通宝銭をゐる」とは、「銭を鋳る」かと思い、四国内の寛永通宝鋳造所の存在を調べた。その結果、鋳造所はないことがわかったので、「鋳る」ではない。「率る」が正解で「携える、添えて持つ」意味であろう。すなわち、「寛永通宝銭を持っていた、時代の先端を生き裕福であった」ことを表していると思われる。薄黒塗り部分が「宴を楽しみ求む豊富」と読めることもそれを裏付ける。金勘定だけでなく、俳諧などを嗜む風流人でもあったようである。
家は、寛文10年に松平西条藩初代藩主松平左京頼純の領地となった上天満村の、後に出店と呼ばれる地区にあった。「出店」は泉屋の支店であるが、その中又は隣に川之江代官所の役所「口屋」があったと筆者は推測するので、もしそうであれば、勤め先は家の直ぐ近くである。
近藤家初代は小林村近藤日向守儀信で、その弟の将監が、天正の陣の直後、天正13年8月に天満村に移り住んだ。小林渋柿城が落城したので逃れてきたのか、秀吉側について乗り込んできたのかはわからない。世家とあるので、官吏として代々俸禄を受け継いでいる家柄である。五代六郎右衛門は絵図から判断すると、最も勢力があった当主のように見受けられる。
2. 「口屋仕」とは何か
六郎右衛門の過去帳への記載は、没年の享保7年(1722)以降である。さらに余白に「御銅山口屋仕」と書き込まれたのはそれ以降になる。一方、享保7年には、既に新居浜で口屋と称している。よって、この過去帳は、天満村で「口屋」と称していたという証拠にはならない。書込者が、新居浜の例を知っていて、口屋仕と記した可能性があるからである。
しかし前報で記したように、川之江代官所が産銅や米などからの税を算定するための役所として「口屋」と称していた可能性がある。これは元禄時代の川之江代官所の文書の中に「口屋」があればその存在を証明出来るのであるが。
六郎右衛門および嘉兵衛の名は、泉屋の天満出店の4名の手代の中にはない。よって泉屋に仕えたのではない。ではどこに仕えたのか。口屋仕は、川之江代官所の現場詰「口屋」に仕えたのではないか。
なお六郎右衛門の曾孫が伊予聖人「近藤篤山」(1766-1846)である。2)
近藤六郎右衛門――高橋徳右衛門正方(小林村高橋家の養嗣子となる)――高橋甚内春房――近藤篤山(近藤姓に復した)。
まとめ
天満村の住人で元禄時代を生きた、近藤六郎右衛門およびその忰嘉兵衛の過去帳には、御銅山口屋仕と書き込みがあった。泉屋の出店の手代ではない。川之江代官所の現場詰「口屋」の役人であったと推定した。
近藤嘉豊様には、史料のブログ公開を許可していただきお礼申しあげます。
注 引用文献
1.「天満・天神学問の里巡り」(2021)70番「近藤六郎右衛門」(岡本圭二郎著 館報199号(2007))
2. web.データベース「えひめの記憶」(愛媛県史(昭和60年3月31日発行)) 愛媛県史>学問・宗教>学問>漢学・漢詩文>朱子学派>昌平黌派①>近藤篤山
写1 近藤六郎右衛門夫妻の過去帳
写2 近藤六郎右衛門夫妻の墓碑
写3 近藤家先祖三人の絵図
1. 過去帳 ( )内は筆者 →写1
・享保6(1721)辛丑9月5日(卒) 行年83才 (書込)寛永16年(1639)生
天高宗運信士俗名近藤六郎衛門
(書込)寛永通寶銭をゐる (薄黒塗り箇所)宴を楽しみ求む豊富
一柳様御下り寛文9年改め松平左京様御地相成候 近藤六郎衛門二十八才也
御銅山口屋仕也
・享保7(1722)壬寅7月7日(卒) 行年78才
帰源妙性信女六郎衛門妻
(薄黒塗り箇所は読めない)
・享保14年(1729)己酉(卒)
俗名近藤嘉兵衛 近藤六郎右エ門忰
御銅山御用口家
2. 墓碑 →写2
六郎右衛門夫妻の墓が、ざと(座頭?)屋敷地区の近藤家墓所(出店の南200m)の中央手前にある。笠付方形で花崗岩製の立派な墓で、夫婦同じ大きさである。(笠部38cm+柱石84cm+台部18cm=)総高140cm 柱石の幅30cm 厚18cm。
・天高宗運信士忌
・帰源妙性禅定尼忌
3. 三人の絵図(天保13年(1842)以降)→写3
中心人物:五代近藤六郎右衛門 寛永16年生 壽83歳 妻78歳
右の人物:六郎右衛門の孫の十代藤四郎 享保6年生 壽79歳 妻75歳
左下の人物:十代藤四郎の孫の十二代文兵衛 明和7年生 壽73歳 妻72歳
右下の人物は左下隅に名があり、この絵を描かせた十四代儀兵衛で、十二代文兵衛の長子である。摂州浪花島之内柳町住。大坂に出ていた儀兵衛は、父が亡くなった(1842)直後に、この絵で先祖を祀ったのであろう。
左上の文
「伊予国宇摩郡小林當主近藤日向守義信の弟同苗将監は 天正13乙酉秋8月天満村に移りて、世家**なり。その子松太郎天正8年誕生なり 寛永10年癸酉6月28日没 享年54。その嫡同苗六之丞 齢87なり。その嫡子同苗六郎右衛門 寛永16年(1639)誕生より享保6年(1721)辛丑秋9月5日没 齢83。」
**世家(せいか) 官吏として代々俸禄を受け継いでいる家柄
検討と考察
1. 松平頼純の就封は寛文10年であるが、書込者は、寛文9年と記憶違いをしている。六郎右衛門が28才(数え年)の時は、(1639+27=1666)寛文6年となるが、西條藩主の一柳直興が改易されたのは、寛文5年である。書込者は、一柳改易と松平就封を勘違いしている。なお28才と「御銅山口屋仕なり」とは、無関係である。
近藤六郎右衛門は、御銅山口屋仕(くちやつかえ)であった。別子銅山開坑の元禄4年(1691)に、六郎右衛門は53才であったが、その歳でも活力十分であったことは、83才まで生きたことから推定できる。別子銅山開坑に向けて、六郎右衛門は持てる知力・財力・人脈などで川之江代官所や大庄屋寺尾九兵衛に協力したのではないか。そして、開坑後に「口屋仕」として働いたのではないか。
忰の近藤嘉兵衛も御銅山御用口家(屋)とあるので、父の六郎右衛門が天満の口屋で数年勤めた後、退職し、息子の嘉兵衛が継いだと思われる。
「寛永通宝銭をゐる」とは、「銭を鋳る」かと思い、四国内の寛永通宝鋳造所の存在を調べた。その結果、鋳造所はないことがわかったので、「鋳る」ではない。「率る」が正解で「携える、添えて持つ」意味であろう。すなわち、「寛永通宝銭を持っていた、時代の先端を生き裕福であった」ことを表していると思われる。薄黒塗り部分が「宴を楽しみ求む豊富」と読めることもそれを裏付ける。金勘定だけでなく、俳諧などを嗜む風流人でもあったようである。
家は、寛文10年に松平西条藩初代藩主松平左京頼純の領地となった上天満村の、後に出店と呼ばれる地区にあった。「出店」は泉屋の支店であるが、その中又は隣に川之江代官所の役所「口屋」があったと筆者は推測するので、もしそうであれば、勤め先は家の直ぐ近くである。
近藤家初代は小林村近藤日向守儀信で、その弟の将監が、天正の陣の直後、天正13年8月に天満村に移り住んだ。小林渋柿城が落城したので逃れてきたのか、秀吉側について乗り込んできたのかはわからない。世家とあるので、官吏として代々俸禄を受け継いでいる家柄である。五代六郎右衛門は絵図から判断すると、最も勢力があった当主のように見受けられる。
2. 「口屋仕」とは何か
六郎右衛門の過去帳への記載は、没年の享保7年(1722)以降である。さらに余白に「御銅山口屋仕」と書き込まれたのはそれ以降になる。一方、享保7年には、既に新居浜で口屋と称している。よって、この過去帳は、天満村で「口屋」と称していたという証拠にはならない。書込者が、新居浜の例を知っていて、口屋仕と記した可能性があるからである。
しかし前報で記したように、川之江代官所が産銅や米などからの税を算定するための役所として「口屋」と称していた可能性がある。これは元禄時代の川之江代官所の文書の中に「口屋」があればその存在を証明出来るのであるが。
六郎右衛門および嘉兵衛の名は、泉屋の天満出店の4名の手代の中にはない。よって泉屋に仕えたのではない。ではどこに仕えたのか。口屋仕は、川之江代官所の現場詰「口屋」に仕えたのではないか。
なお六郎右衛門の曾孫が伊予聖人「近藤篤山」(1766-1846)である。2)
近藤六郎右衛門――高橋徳右衛門正方(小林村高橋家の養嗣子となる)――高橋甚内春房――近藤篤山(近藤姓に復した)。
まとめ
天満村の住人で元禄時代を生きた、近藤六郎右衛門およびその忰嘉兵衛の過去帳には、御銅山口屋仕と書き込みがあった。泉屋の出店の手代ではない。川之江代官所の現場詰「口屋」の役人であったと推定した。
近藤嘉豊様には、史料のブログ公開を許可していただきお礼申しあげます。
注 引用文献
1.「天満・天神学問の里巡り」(2021)70番「近藤六郎右衛門」(岡本圭二郎著 館報199号(2007))
2. web.データベース「えひめの記憶」(愛媛県史(昭和60年3月31日発行)) 愛媛県史>学問・宗教>学問>漢学・漢詩文>朱子学派>昌平黌派①>近藤篤山
写1 近藤六郎右衛門夫妻の過去帳
写2 近藤六郎右衛門夫妻の墓碑
写3 近藤家先祖三人の絵図