気ままな推理帳

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天満村寺尾九兵衛(18)近藤六郎右衛門は川之江代官所の天満「口屋」の役人ではないか

2024-10-27 08:26:08 | 趣味歴史推論
 天満浦から別子銅山の粗銅が大坂へ運ばれた元禄時代に、天満に「口屋」と称する役所があったことを証明したい。ここでいう「口屋」とは、前報で記したように、川之江代官所の現場詰所およびその役職のことである。天満村関係の文書などで「口屋」が記載されたものは、近藤六郎右衛門の過去帳だけである。1) そこで、近藤六郎右衛門について調べることにした。天満の近藤嘉豊様より、近藤家の由緒を伺い、貴重な史料を見せて頂いた(2024.7.21)。

1.  過去帳 ( )内は筆者 →写1
 ・享保6(1721)辛丑9月5日(卒) 行年83才 (書込)寛永16年(1639)生
 天高宗運信士俗名近藤六郎衛門
 (書込)寛永通寶銭をゐる (薄黒塗り箇所)宴を楽しみ求む豊富
    一柳様御下り寛文9年改め松平左京様御地相成候 近藤六郎衛門二十八才也
     御銅山口屋仕也
 ・享保7(1722)壬寅7月7日(卒) 行年78才
 帰源妙性信女六郎衛門妻
  (薄黒塗り箇所は読めない)
 ・享保14年(1729)己酉(卒)
 俗名近藤嘉兵衛 近藤六郎右エ門忰
  御銅山御用口家


2. 墓碑 →写2
 六郎右衛門夫妻の墓が、ざと(座頭?)屋敷地区の近藤家墓所(出店の南200m)の中央手前にある。笠付方形で花崗岩製の立派な墓で、夫婦同じ大きさである。(笠部38cm+柱石84cm+台部18cm=)総高140cm 柱石の幅30cm 厚18cm。
 ・天高宗運信士忌
 ・帰源妙性禅定尼忌


3. 三人の絵図(天保13年(1842)以降)→写3
 中心人物:五代近藤六郎右衛門 寛永16年生 壽83歳 妻78歳
 右の人物:六郎右衛門の孫の十代藤四郎 享保6年生 壽79歳 妻75歳
 左下の人物:十代藤四郎の孫の十二代文兵衛 明和7年生 壽73歳 妻72歳
 右下の人物は左下隅に名があり、この絵を描かせた十四代儀兵衛で、十二代文兵衛の長子である。摂州浪花島之内柳町住。大坂に出ていた儀兵衛は、父が亡くなった(1842)直後に、この絵で先祖を祀ったのであろう。
 左上の文
「伊予国宇摩郡小林當主近藤日向守義信の弟同苗将監は 天正13乙酉秋8月天満村に移りて、世家**なり。その子松太郎天正8年誕生なり 寛永10年癸酉6月28日没 享年54。その嫡同苗六之丞 齢87なり。その嫡子同苗六郎右衛門 寛永16年(1639)誕生より享保6年(1721)辛丑秋9月5日没 齢83。」
 **世家(せいか) 官吏として代々俸禄を受け継いでいる家柄

検討と考察
1. 松平頼純の就封は寛文10年であるが、書込者は、寛文9年と記憶違いをしている。六郎右衛門が28才(数え年)の時は、(1639+27=1666)寛文6年となるが、西條藩主の一柳直興が改易されたのは、寛文5年である。書込者は、一柳改易と松平就封を勘違いしている。なお28才と「御銅山口屋仕なり」とは、無関係である。
 近藤六郎右衛門は、御銅山口屋仕(くちやつかえ)であった。別子銅山開坑の元禄4年(1691)に、六郎右衛門は53才であったが、その歳でも活力十分であったことは、83才まで生きたことから推定できる。別子銅山開坑に向けて、六郎右衛門は持てる知力・財力・人脈などで川之江代官所や大庄屋寺尾九兵衛に協力したのではないか。そして、開坑後に「口屋仕」として働いたのではないか。
 忰の近藤嘉兵衛も御銅山御用口家(屋)とあるので、父の六郎右衛門が天満の口屋で数年勤めた後、退職し、息子の嘉兵衛が継いだと思われる。
 「寛永通宝銭をゐる」とは、「銭を鋳る」かと思い、四国内の寛永通宝鋳造所の存在を調べた。その結果、鋳造所はないことがわかったので、「鋳る」ではない。「率る」が正解で「携える、添えて持つ」意味であろう。すなわち、「寛永通宝銭を持っていた、時代の先端を生き裕福であった」ことを表していると思われる。薄黒塗り部分が「宴を楽しみ求む豊富」と読めることもそれを裏付ける。金勘定だけでなく、俳諧などを嗜む風流人でもあったようである。
 家は、寛文10年に松平西条藩初代藩主松平左京頼純の領地となった上天満村の、後に出店と呼ばれる地区にあった。「出店」は泉屋の支店であるが、その中又は隣に川之江代官所の役所「口屋」があったと筆者は推測するので、もしそうであれば、勤め先は家の直ぐ近くである。
 近藤家初代は小林村近藤日向守儀信で、その弟の将監が、天正の陣の直後、天正13年8月に天満村に移り住んだ。小林渋柿城が落城したので逃れてきたのか、秀吉側について乗り込んできたのかはわからない。世家とあるので、官吏として代々俸禄を受け継いでいる家柄である。五代六郎右衛門は絵図から判断すると、最も勢力があった当主のように見受けられる。

2. 「口屋仕」とは何か
 六郎右衛門の過去帳への記載は、没年の享保7年(1722)以降である。さらに余白に「御銅山口屋仕」と書き込まれたのはそれ以降になる。一方、享保7年には、既に新居浜で口屋と称している。よって、この過去帳は、天満村で「口屋」と称していたという証拠にはならない。書込者が、新居浜の例を知っていて、口屋仕と記した可能性があるからである。
 しかし前報で記したように、川之江代官所が産銅や米などからの税を算定するための役所として「口屋」と称していた可能性がある。これは元禄時代の川之江代官所の文書の中に「口屋」があればその存在を証明出来るのであるが。
 六郎右衛門および嘉兵衛の名は、泉屋の天満出店の4名の手代の中にはない。よって泉屋に仕えたのではない。ではどこに仕えたのか。口屋仕は、川之江代官所の現場詰「口屋」に仕えたのではないか。
 なお六郎右衛門の曾孫が伊予聖人「近藤篤山」(1766-1846)である。2)
近藤六郎右衛門――高橋徳右衛門正方(小林村高橋家の養嗣子となる)――高橋甚内春房――近藤篤山(近藤姓に復した)。

まとめ
天満村の住人で元禄時代を生きた、近藤六郎右衛門およびその忰嘉兵衛の過去帳には、御銅山口屋仕と書き込みがあった。泉屋の出店の手代ではない。川之江代官所の現場詰「口屋」の役人であったと推定した。


近藤嘉豊様には、史料のブログ公開を許可していただきお礼申しあげます。

注 引用文献
1.「天満・天神学問の里巡り」(2021)70番「近藤六郎右衛門」(岡本圭二郎著 館報199号(2007))
2. web.データベース「えひめの記憶」(愛媛県史(昭和60年3月31日発行)) 愛媛県史>学問・宗教>学問>漢学・漢詩文>朱子学派>昌平黌派①>近藤篤山

写1 近藤六郎右衛門夫妻の過去帳


写2 近藤六郎右衛門夫妻の墓碑


写3 近藤家先祖三人の絵図


天満村寺尾九兵衛(17) 出店(でみせ)と口屋(くちや)

2024-10-20 08:46:12 | 趣味歴史推論
 「出店」は、住友史料館によると、江戸時代の通例で「でみせ」または「でだな」と呼ぶ。1)支店、出張所である。「出店」は泉屋が付けた呼称であろう。ただ天満の出店の仕事状況については、活字になって公表されている住友史料中に見つけられなかった。天満村では「でみせ」と呼ばれていたことは、現在でも出店があったとされる地区は「出店」(でみせ)と呼ばれていることから推定できる。
「元禄8年8月覚留帳」によれば、1)2)の天満にいた泉屋手代は4人で、庄右衛門(阿州)、徳右衛門(大坂)、惣兵衛(紀州)、作兵衛であった。「出店」に常駐していたのであろう。また「11月中頃外財人数改覚」には、乙地中持180人、天満中持200人と書かれている。

 「口屋」とは、本ブログで明らかにしたように3)、石見銀山の柵の出入り口に設けた家屋のことで、人の出入りを厳重に管理すると共に、幕府(大久保長安)が「銀・米」の量をチェックし税を算定する役目を担わせたことに由来する(元和年間(1615-1623)の絵図)。その後佐渡金山では港に「口屋」が設けられたのである(天和年間(1681-1684)の絵図)。これが別子銅山にも適用された。よって「口屋」は、幕府側の仕事からつけられた呼称であり、銀金銅山に出入りする銀金銅・米・炭などの数量をチェックし、課税算定をするのが第一の最も大切な仕事である。
 しばしば「口屋(浜宿)」と書かれるが、宿は口屋に付随した建物であり、泉屋などの民間がしたのである。筆者としては、「口屋(浜宿)」の表示は、口屋本来の仕事を誤解させるので好ましくないと思う。石見銀山では、柵の出入り口だけでなく、そこに行く道筋にも口屋が設けられて、物流、人流から税をとったのである。なお時代を経て、「口屋」から「番所」に名称が変わったところもある。
 新居浜口屋(口家)の初出は宝永7年(1710)である。この時は、「立川口家」も書かれている。4)それ以前の宝永4年(1707)では「新ゐ浜役所」と記録されている。このことから、元禄の天満村で「口屋」と呼ばれていたかはわからない。
 しかし、川之江代官所の現場詰役人の1~2人が天満村にいたはずで、その場所および役職を本報では「口屋」と仮に呼ぶことにする。

1. 出店はどこにあったか。
 寺尾勉氏の娘さんが「父から聞いた話」では、出店は寺尾勉氏宅(天満451)に南北の道路に面してあった。 →図1
大きさは、5間×3間位。証拠になる遺物はない。荷馬の両側に粗銅を掛けて運び、出店で銅量をチェックし、押印したと伝わる。向かいにも関連施設があったかもしれない。
この四辻には、水神地蔵(寛政元年(1789)己酉4月吉日)と水神祠、「金 奉燈」の常夜燈(江戸末期~明治?)があるが、5)元禄当時のものではない。→写
なお図1には、筆者が推定する粗銅が運ばれた道を赤線で示したが、詳細な検討は後日にしたい。
 これらのことを参考にして筆者の推理は以下のとおり。
「泉屋の出店において、荷馬で運んできた粗銅を泉屋手代がチェックし押印した。道路を挟んで東向かいの屋敷には、物品倉庫、宿、飯屋があり、荷馬を停め、人が集まる広場があった。」→図2

2. 口屋はあったか、どこにあったか。
 地名としては残っていない。川之江代官所の現場詰役人が、徴税のための粗銅や米などの物流をチェックするには、出店近くにいるのが一番便利で確実である。数量調べなどの実務は泉屋手代がやるので脇でそれをチェックすればよいからである。よって口屋は、出店の家屋の一室又は隣にあったと筆者は推測する。→図2
 1~2人の役人詰め所は小さいので、有名ではなく、出店の名前だけが残ったのであろう。天満浦に口屋を設けて常駐するのは役人にとって負担が大きすぎる。

3. 粗銅倉庫はあったのか。
 粗銅倉庫が海岸沿いにあったという話もあるが、証拠がない。
出店から伝馬船に載せる天満浦まで約1.8kmある。元禄14年(1701)の産銅量1322トンなので一日あたり1322トン/365日=3622kg/日となる。荷馬に掛けて運べる重量は一駄(2丸 36貫=135kg)であるので、6)一日あたり(3622/135=)27駄となる。大坂への銅廻船(弁財船)の大きさには2種類あるようで、積んだ粗銅の重さが8~9トンの船と15~16トンの船である。7) 銅廻船に粗銅15トン積むには(15000/135=)111駄必要となる。日数でいえば、(111/27=)4.1日分である。
 筆者は、銅廻船が出帆するまでの流れを以下のように推測する。
出店で通過する荷馬に積んだ粗銅の重さ(紙に書かれている)を記録→そのまま荷馬で天満浦に到着→伝馬船に積み込む→銅廻船に運ぶ→銅廻船で所定重量に到達→大坂へ向けて出帆
銅廻船そのものを、粗銅倉庫とすると最も効率がよいのである。よって、海岸には粗銅倉庫はなかったと推測する悪天候や突発事情発生の場合は、粗銅を一時保管する小さな倉庫は必要なので、それは、出店の向かいに設けていたのではないかと推測する。

まとめ
1. 元禄8年天満の出店には泉屋の手代が4人いた。天満中持は200人いた。
2. 川之江代官所の現場詰役人1~2が、課税算定の銅量をチェックするため、出店隣の口屋にいたと推測した。
3. 粗銅倉庫は海岸にはなく、小倉庫が出店近くにあったと推測した。


住友史料館様には、回答をいただきお礼申しあげます。

注 引用文献
1. 住友史料館よりの回答(2023.7.25)
2. 「別子銅山図録」p29「元禄8年亥8月覚留帳」の豫州手代覚の内・天満(別子銅山記念出版委員会編集・発行 昭和49年 1974)
3. 本ブログ「口屋の名の由来」(2019-3-24)
4. 本ブログ「新居浜口屋といつから呼ばれたか」(2019-4-17)
5. 「天満・天神学問の里巡り」(2021)44番(岡本圭二郎 館報173号(2005))
6. 本ブログ「別子荒銅1丸の荷姿は?」(2020-1-16)
7. 本ブログ「元禄期に別子銅を天満浦から大坂へ運んだ銅船の船主は?」(2020-8-23)

図1 天満の出店の位置(明治39年測図41年発行の5万分1地形図(国土地理院)に記入した。赤線は粗銅が運ばれた道)


図2 出店まわりの配置想像図

写 出店四辻の水神地蔵と常夜燈


天満村寺尾九兵衛(16) 見世野墓地の大きな五輪塔は五代善三春清のではないか

2024-10-13 08:36:31 | 趣味歴史推論
 別子銅山と関わりのあった五代、六代寺尾九兵衛の墓碑を2年間探してきたが、発見できなかった。ところが上天満江戸屋一統の寺尾家の墓守り庵である見世野庵のある墓地(以下見世野墓地と呼ぶ)にお参りして(2024.9.6)、発見があった。墓地中央奥(南側)には、天満村で最大と思われる古い五輪塔があったのである。天満村大庄屋寺尾九兵衛当主より大きな五輪塔を他の人は格式上建てられなかったと推測するので、この五輪塔は、繁栄した五代か六代の墓碑の可能性が高いと思った。刻字はほとんど読めず、地輪のどの面に戒名が書かれているかもわからなかった。これより少し小さく、刻字が読めない五輪塔が他に5基あり、合計6基は、丁重な配置がなされお祀りされていた。→図 
主な3基の大きさを計測した。→図
 見1は、最も大きく、水輪(玉)の径48cm(1.6尺)、高さ(五輪+上台=)228cmであった。観音堂墓地の観5の五輪塔(二代貞清)玉径45cm(1.5尺)高さ(五輪+上台=)183cmより一回り大きい。6基の五輪塔は、観音堂墓地のものより、刻字が風化していてよく読めない。石材の違い、彫った石工の違いが出たのだろうか。
 見1,2,3の地輪の各面を写真に撮り、判読できそうな刻字を探し、四代~八代寺尾九兵衛の戒名と比べた。見1にわずかな刻字の手がかりがあったので、その結果を示す。

見1 五輪塔 →写1
 地輪西面の戒名に相当する位置(第2字)に「穹」と読める穴部(あなかんむり)の字がある。→写2

四代~九代寺尾九兵衛位牌の俗名と戒名は次の通りである。
四代九兵衛  明春     凉月浄慶居士
五代九兵衛  善三春清   明穹法欽居士
六代九兵衛  宗清     一白浄卯居士
七代九兵衛  庸清     實嚴道怒居士
八代(九兵衛)貞之進英清  松嶺慈雲居士
九代(九兵衛)米次郎富清  隆興院貞翁了観居士

戒名の第2字が「穹」なのは、五代九兵衛 善三春清のみである。
このことから、見1五輪塔は、五代春清の墓碑とみてほぼ間違いはないと思うが、「穹」の読み取りに全く問題がないともいえない。春清は、田向重右衛門と会見した別子銅山開坑時の天満村大庄屋で、寺尾家にとっても最重要人物である。五輪塔の大きさと保持した力の大きさから判断して、妥当と思うが、より確実にするために他の証拠も見つけたい。
 見2,見3の五輪塔地輪の刻字ははっきり読める字がない。戒名と見比べてなんとなくそのようにも読めるかなという頼りない程度のものである。それであれば、見2は六代宗清(ツタの夫)、見3は四代明春とも思えるが、今後の検討が必要である。
 見4,見5、見6に至っては、全く読めない。しかし墓碑が据えられている位置から、本家の当主のではないかと推測する。
 江戸屋一統の寺尾家が、本家大庄屋寺尾九兵衛五輪塔を大事にお守りすべくこの見世野墓地に移設したと思われる。その時期は古老の話では昔からここにあったというから、少なくとも昭和25年以前である。昭和初期~大正の時代かもしれない。坂之内池を築造したツタの五輪塔が井源寺へ移設された時期ではないかと思われるので、それがいつかを知ればわかるのではなかろうか。

まとめ
見世野墓地の大きな五輪塔は、五代善三春清の墓碑と推定した。
あとの5基の五輪塔は、四代~九代のものではないかと推測する。


調査を一緒にして頂いた岸幸男様に感謝申しあげます。

図 見世野墓地における古い五輪塔の配置と見1、見2、見3の大きさ


写1 見1五輪塔(五代春清か)


写2 見1五輪塔の地輪(西面) 囲んだのは「穹」と読める字


写3 見2、見3五輪塔 高い方が見2


写4 見4、見5、見6五輪塔 (背面(南)からの写真)


天満村寺尾九兵衛(15)天正陣の時天満村に住み 薦田氏の幼子を守り育てた

2024-10-06 08:29:45 | 趣味歴史推論
 見世野庵は上天満江戸屋一統の寺尾家の墓守り庵である。1)→写1 そこの墓地(井源寺の400m西の丘)におまいりし調べさせていただいた(9月6日、19日)。高さ4m超の五輪卒塔婆が建ち、その右脇に「乳母の墓」がある。→写2

 五輪卒塔婆
  為故寺尾嘉兵衛宅清三百週年記念供養塔
  昭和53年8月吉日 施主子孫一統建之 (1978)
  六大無礙常瑜伽 四種曼荼各不離 三密加持速疾顕 重々帝網名即身

 乳母の墓  寺尾嘉兵衛宅清幼時の恩人を偲ぶ


 五輪卒塔婆は、江戸屋一統寺尾家の祖である寺尾嘉兵衛宅清の300周年記念の供養塔である。家紋は日の丸三つ扇である。塔には、「即身成仏義」に出る偈(げ 仏の徳をたたえた韻文体の経文)が刻まれている。2)
「ろくだいむげじょうゆが ししゅまんだかくふり さんみつかじそくしっけん じゅうじゅうたいもうみょうそくしん」[ 六大(地・水・火・風・空・識)は無礙(むげ)にして常に瑜伽(ゆが)である。四種の曼荼羅は各々離れず関係を持ち、三密を加持すれば速やかに顕れ、帝網の如く無尽に働く、これを即身と名付ける ]
江戸屋一統は結束が堅く、年に1回集まって先祖の法要供養をしている。

1.  江戸屋一統の人から聞いた話では、「天正の陣(1585)の時、寺尾九兵衛の先祖の家人が渋柿城主薦田氏の子の乳母となっていて、落城の際その子を天満村に連れてきて、寺尾家で育て、成人した後、寺尾家の分家として独立させた。その後裔が江戸屋一統にあたる。」とのことである。五輪卒塔婆と乳母の墓の存在からみると、この話はほぼ史実だと納得する。寺尾嘉兵衛宅清は、その時の幼子である。寺尾嘉兵衛の年齢をチェックすると、没年は(1978-300=1678)延宝6年となる。幼子が天正13年(1585)生まれとすると(1678-1585+1=)享年94となる。あり得る。
 この史実から、天正13年(1585)には、寺尾家は薦田家と交流があり、天満村で力を持っていたことが分る。そして寺尾家は天正の陣より前に天満村に住んで居たという証拠であり、また秀吉側ではないと分る。
天正の陣の頃の家主は、初代寺尾九兵衛の父(または祖父)であったと推測する。そして寺尾家は天正13年より2~3世代位前に天満村に来たのではないかと推測する。(20年×(2~3)=(40~60)年即ち1585-(40~60)=)1525~1545年頃となる。

2.  豊臣秀吉の四国攻めの命を受けた小早川隆景軍によって西条の野々市原の合戦(天正の陣)で討死したのは、渋柿城主薦田市之丞国行であることは、予陽河野家譜、澄水記、天正陣実記で示されている。3)4)5)6)7)8) 薦田治部進義清としたものがあるが、渋柿城主であった義清は、天授5年(1379)に北朝方の細川頼之氏との戦いで南朝方の河野氏と共に戦い、討死しており、時代が200年も違うので、これは誤りである。
よって、寺尾嘉兵衛宅清は、渋柿城主薦田市之丞国行の子の可能性が高い。

3.  一方、江戸屋一統の墓碑の中に次の銘文を見つけた。

 故寺尾百太郎翁夫妻之墓
 「故寺尾百太郎翁考篤次之嫡男而小林渋柿城主薦田備中守之末裔也」


 寺尾百太郎翁(昭和14年9月6日没 行年80才)は、明治39年(1906)に柑橘栽培を始めて、天満の蜜柑栽培の礎を築いた。9)翁の墓碑に「小林渋柿城主薦田備中守の末裔なり」の銘文がある。これはすなわち寺尾嘉兵衛宅清は、薦田備中守の子であるということである。
そこで、薦田備中守について調べると、薦田備中守は、天正の陣の当時、土居畑野の中尾城主薦田備中守儀定のことである。小林の渋柿城主と同族である。小林渋柿城は、天満神社から直線距離にして4km南東にあり、畑野中尾城は、天満神社から直線距離にして5km南にある。
 ここから話が複雑であるので、薦田錦一作成の薦田氏略系図によることにする。10)→図1 
 儀定の没年は天正15年8月とあり、天正の陣の2年後である。儀定のいとこの四郎兵衛吉清が、天正の陣で高尾城討死した。儀定は、天正の陣で中尾城から追われて、幼子がいれば、運良くどこかに逃れたかもしれない。その幼子らが戦いの前に、渋柿城に集められていたかもしれない。
ただ、墓碑の「小林渋柿城主薦田備中守」という書き方は、上記の系図とは異なる。薦田備中守を立てるなら、畑野中尾城主薦田備中守と書かれるべきであるが、渋柿城主としたのは何か根拠があるのであろう。300周年記念の供養をしたということは、寺尾嘉兵衛宅清の位牌か過去帳で没年や出自が分っているのかもしれない。
 筆者には、寺尾嘉兵衛宅清が、小林渋柿城主薦田市之丞国行の子か、畑野中尾城主薦田備中守儀定の子かをはっきりすることはできない。いづれにしても薦田氏の血を引いた子であることは、寺尾家の示した処遇から間違いないと思われる。

まとめ
初代寺尾九兵衛の父(または祖父)は、天正陣の時天満村に住み 薦田氏の幼子を守り育てた。その幼子が上天満の江戸屋一統の寺尾家の祖である。


 江戸屋一統の4人の方々にお話を伺いました。暁雨館の石川様には渋柿城主についてヒントを頂きました。皆様にお礼申しあげます。

注 引用文献
1. 「天満・天神学問の里めぐり」51番「天満の仏像 見世野庵の地蔵菩薩」→写1
2. ホームページ web.「石造美術の偈頌(げじゅ)」>ろ
3. ホームページ「四国中央市立小富士小学校」>小富士の歴史と風景>薦田義清墓所(薦田神社)
4. 「澄水記」(宝蓮寺尊清法師著 貞享元年1684)国会図書館デジタルコレクション「四国史料集」の中にあり。p382(山本大校注1966 人物往来社)
「畑野の城に薦田四郎兵衛、渋柿の城に薦田市之丞--」とあり。
5. 「予陽河野家譜」巻6(天正15年までの河野家譜)「渋柿城主薦田市之允(じょう)」とあり。
6. 「天正陣実記」(海部光顕写1856)中萩古文書を読む会の現代文訳(解読 松本俊清 1991)
「畑野の城に薦田右兵衛吉清-----渋柿の城には薦田市助-----」とあり。
7. 日野和煦「西條誌」(1842)には、「天正陣実記には渋柿城主薦田市之丞国行」とあり。
8. 信藤英敏「川之江の城と武将」(1970)「渋柿城主薦田市之丞国行」とあり。
9. 「天神・天満学問の里めぐり」66番「天満の先人 寺尾百太郎(1859-1939)」
10. 薦田錦一「武蔵七党児玉党 薦田氏の展開」(昭和56 1981)国会図書館デジタルコレクション
 巻頭に略系図→図1
 p9に「薦田氏は徽証に乏しいが、伊予土居に西遷した幕府御家人であり、児玉庄大夫家弘の後裔で、南北朝時代既に東予の豪族であった。」とある。先祖は武蔵薦田(埼玉県児玉郡美里町小茂田)に住し、薦田と称す。
 p61に 引用した「天正之陣実記」には「高尾城へ入城した軍将は、-----畑野城主=木山砦東禅寺城主薦田四郎兵衛吉清-----畑野中尾城主薦田備中守儀定-----渋柿城主薦田市之丞国行-----」とあり。

写1 「天満・天神学問の里めぐり」51番「天満の仏像 見世野庵の地蔵菩薩」


写2 寺尾嘉兵衛宅清三百週年記念供養塔と乳母の墓


図1 薦田氏略系図(薦田錦一「武蔵七党児玉党 薦田氏の展開」より)