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気ままな推理帳

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天満村寺尾九兵衛(14) 牛頭天王宮の鳥居と五代春清の事蹟

2024-09-29 08:26:04 | 趣味歴史推論
 八雲神社には、天満神社の鳥居に次いで、土居町で二番目に古い鳥居がある。1)

1. 牛頭天王宮鳥居(1686)→写真1,2,3

 願主 土居村・天満村 当氏子中
 貞享3年丙寅8月25日 石大工大坂 久右衛門


 八雲神社の由緒によれば2)、鳥居の建立年(1686)には、牛頭天王宮(ごずてんのうぐう)であった。願主は、土居村・天満村の当氏子中である。元禄の天満村を描いた「西条藩領内図八折屏風」 には、単に「天己う」(てんのう)と記されている。3)4) 
 天満神社に続いて、今度は大坂石工による鳥居が建てられたことから、天満村は、他との交流が盛んな土地であったことがわかる。
この時代の頃、西国では多くの飢饉・疫病が記録されている。5)6)
 ① 寛文11年(1671)水痘流行
 ② 延宝2~3年(1674~5)西国“延宝の大飢饉” 停滞した前線と台風により大水害、死人巷に満ちたり。 
 ③ 延宝7年(1679)疱瘡流行
 ④ 延宝9年(1681~2)第2次延宝の飢饉
 ⑤ 天和2年(1682)疱瘡流行
 ⑥ 貞享元年(1684)はしか?流行 長崎で7000人死亡。西国から東海、江戸に侵入?
これらの災害は土居、天満でもあり得たと推定する。牛頭天王宮や八幡宮に氏子中で鳥居を寄進して、無事息災を祈ったであろう。

2. 貞享元年(1684)八日市領中村、西条領土居間に水論起り、天満村庄屋寺尾九兵衛、蕪崎村庄屋加地新兵衛扱いでやっと内済解決(4~6月)7)8)
古文書に記載されている大庄屋寺尾九兵衛の事蹟は、非常に少ない。その中の一つである。
浦山川より取っている井手水に関しての水論(みずろん、すいろん 田に引く水の配分をめぐって争うこと)である。内済(ないさい 和解)の扱人(あつかいにん 仲裁者)となった。
この寺尾九兵衛は五代善三春清であったろう。田向重右衛門一行に会った人物である。
                                
まとめ
貞享3年牛頭天王宮に願主土居村・天満村の氏子中で大坂石工製作の鳥居が建立された。このころ寺尾九兵衛は、水論の扱人となった。


注 引用文献
1. 「天神・天満学問の里巡り」26番
2. 本ブログ「伊予軍印(3)八雲琴創始者の中山琴主が奉納した可能性が高い」
3. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(6)「西条藩領内図八折屏風」に描かれた元禄の天満村」
4. web.箕面市観光協会>牛頭天王信仰 より
「牛頭天王信仰:牛頭天王は京都祇園の八坂神社の祭神で、疫病を防ぐ神であり、薬師如来を本地仏とし、神道におけるスサノオ神と同体であるとされている。また、祇園精舎の守護神であるので、この神を祭った場所は、しばしば祇園と呼ばれる。京都祇園の八坂神社は、貞観年間(876)に円如が播磨国広峰から牛頭天王を遷してここに祀り、元慶年間(877)、摂政藤原基経が牛頭天王のために精舎を建て祇園社と呼んだのに始まる。天禄元年(970)、悪疫を鎮める祇園御霊会(祇園祭)が始まったと云われる。当時は医療技術が乏しかったので、疫病を防ぐ強い力を持つ牛頭天王に対する信仰は、平安時代末期から中世にかけて広範囲に広まっていった。牛頭天王は略して単に「天王」と呼ばれたが、民衆にとって、「てんのう」とは、天皇のことではなく牛頭天王のことであった。」
5. 富士川游「日本疾病史」上巻p46(吐鳳堂 明治45 1909) web. 国立国会図書館デジタルコレクション37/182コマ
6. WEB防災情報新聞>日本の災害・防災年表「感染症流行・飲食中毒・防疫・災害時・医療編」
7. 土居町郷土史料第8集 村上光信編「旗本八日市一柳氏関係史料集成」p91(土居町教育委員会 1994)
8. 土居町郷土史料第3集 村上光信編「西条藩土居組大庄屋加地家文書目録Ⅱ」p39-42(土居町教育委員会 1983)

写1 八雲神社の鳥居


写2 鳥居の右柱


写3 鳥居の左柱


天満村寺尾九兵衛(13) 天満神社の鳥居と三代成清寄進の石燈籠

2024-09-22 08:39:55 | 趣味歴史推論
 天満神社には、土居町で最古の鳥居と石燈籠がある。
1. 八幡宮鳥居(1674) →写真1,2,3

  奉寄進石鳥居 願主 惣氏子中
   旹延寶2甲寅年6月25日  
  備州御調郡尾道住大工
          徳右衛門
          七三郎 
          次郎


 前報の由緒によれば、鳥居の建立年(1674)には、まだ天満宮は円蔵地にあったので、この鳥居は、八幡宮の鳥居として建てられた事になる。願主惣氏子中とあるので、氏子全員が費用を出し合い、大庄屋寺尾九兵衛成清がまとめて、尾道の石工に製作を依頼したのであろう。明神鳥居である。「天神・天満の里巡り」1)によると、土居町内で最古の鳥居である。石工は尾道の徳右衛門・七三郎・次郎であるが、3人の名は、「尾道の石造物と石工」2)の17世紀(江戸時代前期)の石工11人の中には、見つけられない。この鳥居は、尾道石工の製作した鳥居の中でも古い方に属する。昭和43年(1968)参道を緩やかな道に付け替えた際に、石段を登る手前にあった鳥居を現在地に移した。柱の高さ3.6m、笠木5.0mの一枚岩の花崗岩で、反りがあり、柱は地面に対して少し傾斜(転び)をつけて建てられている。貫と額束は移設の際、損傷したので新たな石に代えられた。
 寛文7年(1667)には、坂之内池自体は築造できたので、その水を山のこちら側に導けるよう村人は祈願したであろう。延宝2年(1674)には、大庄屋役は三代成清から四代明清へ引き継いでいると思われる。

2. 八幡宮手水舎脇の石燈籠(1681) →写4

   延寶辛酉9年6月25日 
  奉寄進 石燈籠
   寺尾成清

 
 隠居した三代成清が没する3年前に寄進した石燈籠で、土居町で最古の石燈籠である。3) 花崗岩で、下台も含めて180cm(6尺)の立派な燈籠で、刻字は整っており劣化も少ない。石工の名はないが、これもやはり尾道石工であろう。
 寺尾大庄屋の墓守の庵として創建されたという観音堂(宮山の裾にある)にも似た石燈籠があるが、刻字は劣化して読めない。
                                
まとめ
天満神社には、土居町で最古の鳥居と石燈籠がある。
鳥居は願主氏子中で尾道石工の製作であり、石燈籠は三代成清の寄進である。


注 引用文献
1. 「天神・天満学問の里巡り」26番
2. web. 尾道市日本遺産調査報告書「尾道の石造物と石工」(平成28年 2016) 
3. 「天神・天満学問の里巡り」27番

写1 天満神社の鳥居


写2 鳥居の右柱


写3 鳥居の左柱


写4 寺尾成清寄進の石燈籠


天満村寺尾九兵衛(12) 文明9年高橋太郎衛門が天満宮を建て天満村と名付けた

2024-09-15 08:27:07 | 趣味歴史推論
 天満神社の由緒と天満村の名の由来を探る。
1. 天満神社の由緒
 社伝によると、以下のとおりである。1)
八幡宮:白鳳2年(673)2月第40代天武天皇御代に応神天皇(八幡神)を産土神(うぶすなかみ)として、王地山(おうじやま 大地山、宮山(みやま)、縁山とも言う)に鎮祭せり。
天満宮:延喜元年(901)菅原道真公太宰府に赴く途中、海上波荒く植松の海岸(現在の天神浜)に船を停め宮山に登り憩い給ひしに、一日一夜にして風浪静まり御西下されたと云う。その翌年延喜2年(902)道真公の木像が植松の海岸に漂着し給ひしを、高橋太郎衛門これを拝し天暦2年(948)6月橋ノ川の地(円蔵地2117)に小社(御所神社)を造り、天満大神と崇め祀りしが、後戦火により焼失す。(後裔の)高橋太郎衛門、村人と謀り、文明9年(1477)6月25日社殿を再建し氏神と称え、また村名も天満と改め、爾来八幡宮・天満宮と称し両者各社殿を構えたり。元禄8年(1695)11月、本殿焼失せしをもって再建に当たり、菅公縁の地なりし宮山を清浄の地と選び、大庄屋寺尾九兵衛の寄進によって元禄11年(1698)9月社殿を建立し両社を奉斉し現在に至る。
                                
2. 円蔵地の天満宮
 応仁の乱が終息した文明9年(1477)に再建され元禄8年(1695)に焼失した天満宮社殿はどこにあったのか。文面から解釈すると、橋ノ川の地(円蔵地2117)となる。直線距離にして天満神社から400mの真東にあたる。この天満宮が元禄8年(1695)に焼失したので、元禄11年(1698)に現在の宮山(大地山)に再建されたと推定できる。
円蔵地2117の御所神社の場所は、現在畑中でエノキの大木が茂っている所で、新しい小社が建てられている。
 平成6年(1994)10月吉日 高橋家一同建立    →写1
 御所とは、天皇、親王、将軍、大臣以上の公卿またはその人たちの住居を指す言葉なので、ここでは、菅原道真公を指している。天満宮が宮山へ移された(元禄)後、円蔵地に残った神社の地を御所神社と呼んだのか、明治17年の地図にあるように、明治になってから、そこを御所神社と名付けたのであろうか2)。なお円蔵地とは、清賢寺(現井源寺)に属した円蔵寺(青年僧の寄宿寺)に由来する。3)
 由緒によると、文明9年(1477)当時の村の長は高橋家であったであろう。まだ寺尾家は居なかったと思われる。

3. 故高橋太郎衛門霊碑と旭社 →写2、3
 故高橋太郎衛門霊碑と旭社が、宮山の天満神社本殿の右脇にある。
石碑は自然石(青石)で 台+柱=137cm 柱幅60cm 厚み25cmである。戒名や没年月日が記されていないことから、後世の人が故人の霊を祀るために建立したのではないかと思う。建立年も刻まれていない。
 故高橋太郎衛門霊
「翁ハ菅原道真公ノ木像槌松ト唱ス海岸ニ漂流シ給シヲ拝シ所有ナル地所ニ小社ヲ造リ天満天神ト崇メ奉リシヲ文明九年六月本殿建築村民ト謀リ氏神と称へ遷床ノ后村名モ天満ト改メリ」
① 木像が漂着した海岸名がこの石碑では「槌松」(槌のようだが少し違うようだ、しかし辶があるので植ではない)、天満神社沿革の御由緒では「植松」とあり、異なる。天神の浜付近は昔なんと呼ばれていたのか。 
② 文明9年(1477)の「遷床」(刻字は「床」の木が水となっているが、木として読んだ)とは、木像が円蔵地の小社から円蔵地の本殿(同じ敷地)へ遷ったと解した。
 旭社
 旭社は、地域の守護神を祀る神社のようである。現在の社殿は新しい。
 旭社の脇に横たえられていた石燈籠の竿(径20cm 長さ60cm)には、→写4
   宝永元甲申年九月吉日(1704)
   寄進石燈籠
   寺尾十右衛門
 とある。この石灯籠が旭社の創建時に建てられたとすると、宝永元年(1704)創建となるが、正しいかどうか分からない。
 
まとめ
1. 文明9年(1477)高橋太郎衛門が円蔵地に天満宮を建て、村名を天満と名付けた。
2. その当時には、寺尾家は居なかったと思われる。


 天満の岸幸男様、大久保繁昭様に多くを教えていただきました。お礼申し上げます。

注 引用文献
1. 「天満神社沿革」
2. 本ブログ 天満村寺尾九兵衛(8)「慶安には幕領の年貢米を貯蔵する御蔵を管理した」中の写1 宇摩郡地図(明治17年 1884)
3.  長恵敞「井源寺縁起」p2(昭和48年 1973)

写1 円蔵地の小社(御所神社)


写2 故高橋太郎衛門霊碑と旭社


写3 故高橋太郎衛門霊碑の背面の銘文


写4 旭社の脇に横たえられていた石灯籠の竿


天満村寺尾九兵衛(11) 初代の五輪塔も観音堂墓地にあり

2024-09-08 08:17:03 | 趣味歴史推論
 初代九兵衛の墓は観音堂墓地にはなかったと本ブログ天満村寺尾九兵衛(7)に記したが、その後詳しく調べたら、該当するものがあったので、追記しておく。

観音堂墓地の五輪塔
 観7 五輪塔 →写1,2

      〇〇〇〇
       乃〇浩〇
(アーク)為月〇常〇禅定門
       〇〇〇〇
      〇月四日

 対応する初代九兵衛の位牌は、以下のとおりである。
    寛永16年8月4日
   月窓常祐禅定門

検討と考察
1. 観7は、空輪、風輪の2石がなく、火輪、水輪、地輪(基壇)の3石がある。墓地が土砂崩れにあって、墓石を置き直した時に、完全に復元できなかったのであろう。
基壇(地輪)の刻字がかすかに読めた。
 ・アーク、月、禅定門は二代貞清と同じである。月、禅定門は位牌にもある。
 ・乃〇浩〇 は三代成清と同じである。
 ・当主の位牌で禅定門なのは、初代と二代だけである。
 以上のことから、観7は初代九兵衛の五輪塔であると比定した。
2. 観7の隣に観8があるが、これは火輪-火輪-地輪という寄せ集めである。地輪の刻字は読めない。
 また、観8の隣に、二つの台のみが並んでいる。ここにも五輪塔があったことがわかる。
3. 今回で、初代、二代、三代の五輪塔が確認された。台のみが二つあり、五輪塔の並びの空地から、さらに多くの五輪塔が存在していたであろうと推定される。別子銅山に関係した4代、5代、6代の五輪塔はかなり立派な五輪塔であろうと推定され、崩壊・破棄されたとは考えがたい。どこか別の墓地に移設された可能性がある。6代宗清の妻ツタの五輪塔が井源寺に移設されたように。

まとめ
 初代九兵衛の五輪塔も観音堂墓地にある。


注 引用文献
1. 本ブログ天満村寺尾九兵衛(7)「二代貞清・三代成清の五輪塔が観音堂墓地にあり」

写1 観7 真ん中の五輪塔(初代九兵衛) 手前が観6三代成清五輪塔


写2 観7の地輪(初代九兵衛)


天満村寺尾九兵衛(10) 寛文7年に家50軒250石積廻船があった

2024-09-01 08:41:36 | 趣味歴史推論
 慶安から寛文までの天満村の様子を古文書から見てみる。
1. 慶安元年伊予国知行高郷村数帳(1648)1)
・高679石8斗3升3合   天満村
 内 田方 394石5斗9升1合  日損所
   畠方 285石2斗4升2合  松林有

2.「西海巡見志」(寛文7年(1667))2)
伊予国
 御預所 松平隠岐守、 御代官所 小島孫右衛門、
 一柳山城守、一柳権之丞領、松平美作守領、松平隠岐守領、加藤出羽守領、加藤綾部領、伊達遠江守領、同宮内小輔領
4月晦日
宇摩郡 
・余木村(略) 御預所 是より松平隠岐守
・長須村(略)
・河野江村 
・御高札有 ・舟番所有 ・片浜 ・高1600石 ・家数250軒 ・舟数29艘 内9艘は150石積より250石積まで、20艘は猟舟 ・加子数121人
・三島村(略)
・寒川村(略)
・八日市村(略) 是は一柳権之丞領
・天満村  御預所 是まで松平隠岐守
  ・御高札有 ・舟番所有 ・片浜 ・高680石 ・家数50軒 ・舟数14艘 40石積より250石積まで ・加子数22人役加子

4月晦日の晩
新居郡
・大島浦 御代官所 是より小島孫右衛門
  ・御高札有 ・舟番所有 ・湊有 ・高350石1斗5升 ・家数154軒 ・舟数65艘 内17艘は200石積より300石積まで、48艘は猟舟 ・加子数123人 内43人役加子
・黒島浦
  ・湊有 ・高88石6斗1升 ・家数70軒 ・舟数47艘 内6艘は200石積より300石積まで、41艘は猟舟 ・加子数54人 内14人役加子
・松神子浦(略)
・垣生村(略)
・宇高村(略)
・沢津村(略)
(以下省略)

3. 寛文10年(1670)分村 
 御勘定職が、天満村の高1/4を上天満村(西条領)と、高3/4を(下)天満村(幕領)とに分けた。下天満村(幕領)の大庄屋は九兵衛であり、上天満村(西条領)の庄屋は九郎兵衛であった。

解説と考察
1. 天満村の石高
 慶安元年(1648)郷村数帳には、高679石8斗3升3合とある。長野家文書「御料天満村享保6年(1721)明細帳」には、
「天正15亥年(1587)福嶋左衛門太夫様御検地の由、当時の名寄帳を以て支配仕り候 高679石8斗3升3合 村惣辻高」とある。
よって、この石高は、天正15年(1587)の検地で定められたものであり、それが、慶安、享保でも使われたということである。福嶋正則は、天正15年九州征伐の功により、伊予国で宇摩・新居・周敷・桑村・越智の五郡11万3200石を受領した。正則は入国早々、秀吉の趣旨に添って領内の検地を実施したのである。
2. 川之江村、天満村について
 川之江藩主一柳直家は、寛永19年(1642)に病没し、後嗣がいなかったので、川之江藩の知行地は没収されて幕領となった。幕府は、松山藩松平定行隠岐守に預けて支配させた。御預所体制は、延宝5年(1677)に幕府直轄と変更になるまで34年間続いた。松山藩では、一柳直家の旧屋敷を御預所川之江陣屋として、頭取1人、代官1人、手付4人、手代6人の役人を駐在させて、幕領内の行政と貢租徴収を行わせた。3)
 今回の巡見にあたっては、天満村大庄屋の3代寺尾九兵衛成清が対応していたであろう。 
 大島浦、黒島浦について:
 寛文5年(1665)西条藩主一柳直興の改易後、一先ず阿波藩の預り後、西条陣屋代官所の代官小島孫右衛門が支配した。この体制は、寛文10年(1670)松平頼純が西条藩3万石初代藩主に封ぜられるまで続いた。
3. 寛文7年(1667)天満村は家数50軒で、舟数14艘は40石積より250石積までの廻船と記されている。しかし舟14艘の全てが廻船であるとは、役加子数22から判断すると考えにくい。役加子22人なので22/2.4=9 すなわち廻船が9艘で、残りの5艘が猟舟と考えられる。(役加子人数/廻船艘数=2.4の根拠は、以下のとおり 大島浦 43人/17艘=2.5 黒島浦14人/6艘=2.3 平均2.4)
 250石積の廻船の船主が寺尾九兵衛であった可能性は高いが、記録がないので分らない。寛文10年大島浦の廻船については、船主、船頭の名(〇〇船)と反帆数が指出帳に記録されている。4)
250石積船は、13反帆程度の弁才船(べざいせん)であったろう。
4. 廻船が多くあった村を比較すると以下のようになり、天満村は川之江村に続く立場にあった。
1番 大島浦   17艘    200~300石積
2番 川之江村  9艘    150~250石積
3番 天満村 (推定)9艘  40~250石積
4番 黒島浦   6艘    200~300石積
 大島浦は、村上海賊関連の歴史ある地であり、格段に廻船数は多かった。古くはもっと多くの船を所有していた。
5. 分村
(1)寛文10年(1670)松平頼純3万石を得て西条に入封した際、石高を調整するため、天満村で切り合わせ分村した。(明治8年(1875)上・下を合併して天満村の一村に復した)
(2)長野家文書「御料天満村享保6年(1721)明細帳」には、
「・高679石8斗3升3合 村惣辻高
  内    172石5斗5升3合 寛文10戌年(1670)松平左京太夫様御分地
   残高  507石2斗8升   御蔵所」
とある。
(計算確認 西条領172.553/679.833=0.2538≒1/4  幕領507.280/679.833=0.7462≒3/4)
(3)上天満村の庄屋九郎兵衛の先祖は天満村の組頭で、寛文10年以降代々庄屋職を勤めた。その名は大庄屋加地文書に見える。
① No.239 (寛文11年4月19日(1671))浦山村炭釜山論文書5)
② No.243 (寛文11年6月2日(1671))浦山村炭焼山論文書5)
③ No.246 (延宝8年11月(1680))浦山村の炭釜之覚6)
④ No.249 (元禄4年12月(1691))浦山村に御林設定 入会村の誓約書5)
⑤ No.251 (享保20年正月(1735))浦山村銅山炭山に不被為仰付候様の願出6)

まとめ
寛文7年天満村に家50軒250石積廻船があった。


注 引用文献
1. 「慶安元年伊予国知行高郷村数帳」p2:愛媛県立図書館編「伊予国旧石高調帳」(昭和49年 1974)
2. 「西海巡見志」(寛文7年) 伊予史談会編「西海巡見志・予陽塵芥集」p26-29(1985)
西海巡見志(さいかいじゅんけんし)は、 四代徳川家綱の寛文7年、山陽道・南海道・西海道の沿海各地域の政情、民情の調査を命ぜられた幕府巡見使の報告書である。
3. 川之江市誌 p150(1984)
4. 黒川裕直「予州新居浜浦」p4(1975)
5. 土居町郷土史料第8集 村上光信編述「旗本八日市一柳氏関係史料集成」 p63、p63、p75(1994)
6. 土居町郷土史料第3集 村上光信編述「西条藩土居組大庄屋加地家文書目録Ⅱ」 p60、p62(1989)