寺尾九兵衛家の六角形青銅燈籠は、坂上半兵衛正閑(さかうえはんべえまさやす)家の青銅燈籠と同時期の元禄9年に奉献されたのではないかと前報で記した。ここで、その坂上半兵衛正閑の青銅燈籠を見てみたい。
本宮まわりの三穂津姫社脇にあり、青銅本体高さ256cmの立派なもので、銘文(凸)は明確に読める。
六角形青銅燈籠W-267(1696)1) →図、写1、写2
竿 正面 上部 奉寄進金燈籠 下部 豫州宇摩郡中之庄村
金毘羅大権現 坂上半兵衛尉正閑
御寳前 同 半右衛門尉正清
同 伊之助
元禄九丙子歳
三月吉祥日
この燈籠は、金毘羅宮の青銅燈籠のうち、最古の燈籠である。また大名奉納の燈籠以外で、最古の燈籠である。
笠には法輪、火袋には天女、中台には唐草模様、節には五輪、基礎の格狭間には龍と波、獅子が鋳られている。
坂上半兵衛正閑(羨鳥)は、元禄時代の宇摩郡の著名人で記録が多く残され、経歴・業績が紹介されている。青銅燈籠の寄進に関係がありそうな所のみを文献から引用しておく。
1. 経歴
「坂上羨鳥(さかうえせんちょう)(1653~1730)(承応2年~享保15年)2)
俳人。庄屋。宇摩郡中之庄村出身。本名は半兵衛正閑。松山・今治・丸亀・高松など、諸藩の御用金調達方を務めており、仏道信仰と商用を兼ね上坂した際、池西言水・北条団水・椎本才麿ら上方談林派の指導を受ける。句集『簾(すだれ)』、『たかね』、『花橘』を刊行し、その親交は談林派のみならず、貞門派、新風の蕉門にまで広がる。また、信仰心も厚く、河内国清水村地蔵院の蓮体を尊敬し、中之庄村持福寺をはじめ、河内国地蔵院や讃岐国金刀比羅宮など、多くの寺社に寄進を続けた。」
石川士郎「伊予今村家物語」には以下のように記されている。3)
「坂上半兵衛正閑は承応2年中之庄村庄屋坂上半右衛門正吉の子として生まれる。延宝6年(1678)父の跡を継ぎ庄屋となる。この年26才、父と共に高野山佛心院へ燈籠寄進、讃州地蔵院へ観経曼荼羅(重文)大師自筆御影像寄進。元禄4年父没、同5年妻没、同6年妹没し、世の無常を感じ、庄屋職を嫡男正清に譲り、以後羨鳥と号し、自由に京洛に遊び財をなすが、大部分は神社仏閣に奉仕し、俳諧書を刊行して文化の発展に寄与する。
羨鳥寄進の社寺は次のようである。
元禄6年 中之庄持福寺へ梵鐘及び鐘楼寄進
同 7年 三角寺へ文殊堂寄進
同 8年 三島大明神に神門寄進
同 9年 讃岐金毘羅宮へ青銅燈籠寄進給田付、俳諧書「簾」を刊行
同14年 善通寺へ釣鐘寄進、鐘楼給田付、俳諧書「高根」3巻を刊行
宝永元年 中之庄持福寺へ客殿寄進
同 2年 讃岐金毘羅宮へ手水鉢寄進、給田付
同 4年 中之庄へ大師堂建立、給田付、河内に蓮体和尚を招き大供養会
以後正徳元年~享保10年の間に13件の寄進あり(詳細は省く)。」
2. 寺尾九兵衛との関係
「坂上家系図」によれば4)
「坂上正閑 室は今村義康の女、後室は飯尾氏の女 子は五男四女
長男 正清(半右衛門) 元禄14年(1701)没 元禄6年庄屋職襲名
次男 伊之助 (早世)
三男 正勝 室は寺尾九兵衛の女、後室は今村義堅の女 元禄16年庄屋職襲名、宝永6年大庄屋職襲名。」
三男正勝の妻が寺尾九兵衛春清の娘である。坂上半兵衛正閑と寺尾九兵衛春清とは、姻戚であった。春清は、生年、享年が不明のため年令が分らないが、元禄6年頃大庄屋職を宗清に譲っている。坂上半兵衛正閑とほぼ同じ年代であろう。金毘羅宮への青銅燈籠の奉献は互いに知っていたであろう。
3. 羨鳥が金毘羅宮へ青銅燈籠を寄進した理由5)
「寄進した元禄9年(1696)に発行した俳諧書「簾」に北条団水の序文が載せられている。北条団水6)は、坂上羨鳥が「飛花落葉、人生の無常を感じ或る年の春、高野山に上り先祖の霊をまつり、現世門葉の安泰を祈り、和歌浦、吉野、多武、泊瀬、奈良をへて得た多くの句や、京阪の士と風交した句々を選んで一集となし、これを予讃の神仏に奉納しようとして作ったのが、この「簾」である。」と述べている。ここでいう予讃の神仏とは、伊予の三角寺と讃岐の金毘羅宮である。羨鳥は、家族の死にあい、世の無常を感じ人生について深く思いをいたし、永遠の彼方に伝えるものとして、俳諧集の選集と奉納があった。金毘羅宮の燈籠は、このとき俳句と一緒に奉納したものである。」
まとめ
1. 坂上半兵衛正閑(羨鳥)は、金比羅宮へ元禄9年青銅燈籠を寄進した。併せて俳諧集「簾」を奉納した。
2. この燈籠は、金毘羅宮の青銅燈籠のうち、最古の燈籠である。また大名奉納の燈籠以外で、最古の燈籠である。
3. 坂上半兵衛正閑は寺尾九兵衛春清と姻戚であった。
注 引用文献
1. 金毘羅庶民信仰資料集第3巻p216 御本宮まわりの燈籠W-267(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和59年 1984) web.国会図書館デジタルコレクション →図
2. web. データベース「えひめの記憶」>四国中央市>坂上羨鳥
3. 石川士郎「伊予今村家物語」p89,p328(今村武彦発行 2006)伊予三島市史及び村上光信「福生庵と羨鳥の福業」を参考にしたとある。
4. 石川士郎「伊予今村家物語」 p351第4図「今村家と坂上家系図」(今村武彦発行 2006)
5. 「伊予三島市史」上巻p354(昭和59年 1984)(主筆合田正良、該当箇所執筆石川士郎) web.国会図書館デジタルコレクション
6. web.名古屋大学付属図書館「古書は語る」
北条団水(寛文3年-宝永8年)(1663-1711) :西鶴の一番弟子で京の人。西鶴から発句「団(まどか)なるはちすや水の器(うつわもの)」を贈られ、号を団水とする。他に白眼居士・滑稽堂の号がある。西鶴の死後、大阪に移住して西鶴庵を守りつつ、誠実に西鶴遺稿を整理して世の中に送り出した。団水自身の浮世草子作家、俳諧師としての著作活動は25歳ころからはじまり、晩年までに数多くの作品を上梓する。
図 坂上半兵衛正閑(羨鳥)奉献の青銅燈籠W-267(金毘羅庶民信仰資料集より)
写1 坂上半兵衛正閑(羨鳥)奉献の六角形青銅燈籠
写2 燈籠の竿の銘文
本宮まわりの三穂津姫社脇にあり、青銅本体高さ256cmの立派なもので、銘文(凸)は明確に読める。
六角形青銅燈籠W-267(1696)1) →図、写1、写2
竿 正面 上部 奉寄進金燈籠 下部 豫州宇摩郡中之庄村
金毘羅大権現 坂上半兵衛尉正閑
御寳前 同 半右衛門尉正清
同 伊之助
元禄九丙子歳
三月吉祥日
この燈籠は、金毘羅宮の青銅燈籠のうち、最古の燈籠である。また大名奉納の燈籠以外で、最古の燈籠である。
笠には法輪、火袋には天女、中台には唐草模様、節には五輪、基礎の格狭間には龍と波、獅子が鋳られている。
坂上半兵衛正閑(羨鳥)は、元禄時代の宇摩郡の著名人で記録が多く残され、経歴・業績が紹介されている。青銅燈籠の寄進に関係がありそうな所のみを文献から引用しておく。
1. 経歴
「坂上羨鳥(さかうえせんちょう)(1653~1730)(承応2年~享保15年)2)
俳人。庄屋。宇摩郡中之庄村出身。本名は半兵衛正閑。松山・今治・丸亀・高松など、諸藩の御用金調達方を務めており、仏道信仰と商用を兼ね上坂した際、池西言水・北条団水・椎本才麿ら上方談林派の指導を受ける。句集『簾(すだれ)』、『たかね』、『花橘』を刊行し、その親交は談林派のみならず、貞門派、新風の蕉門にまで広がる。また、信仰心も厚く、河内国清水村地蔵院の蓮体を尊敬し、中之庄村持福寺をはじめ、河内国地蔵院や讃岐国金刀比羅宮など、多くの寺社に寄進を続けた。」
石川士郎「伊予今村家物語」には以下のように記されている。3)
「坂上半兵衛正閑は承応2年中之庄村庄屋坂上半右衛門正吉の子として生まれる。延宝6年(1678)父の跡を継ぎ庄屋となる。この年26才、父と共に高野山佛心院へ燈籠寄進、讃州地蔵院へ観経曼荼羅(重文)大師自筆御影像寄進。元禄4年父没、同5年妻没、同6年妹没し、世の無常を感じ、庄屋職を嫡男正清に譲り、以後羨鳥と号し、自由に京洛に遊び財をなすが、大部分は神社仏閣に奉仕し、俳諧書を刊行して文化の発展に寄与する。
羨鳥寄進の社寺は次のようである。
元禄6年 中之庄持福寺へ梵鐘及び鐘楼寄進
同 7年 三角寺へ文殊堂寄進
同 8年 三島大明神に神門寄進
同 9年 讃岐金毘羅宮へ青銅燈籠寄進給田付、俳諧書「簾」を刊行
同14年 善通寺へ釣鐘寄進、鐘楼給田付、俳諧書「高根」3巻を刊行
宝永元年 中之庄持福寺へ客殿寄進
同 2年 讃岐金毘羅宮へ手水鉢寄進、給田付
同 4年 中之庄へ大師堂建立、給田付、河内に蓮体和尚を招き大供養会
以後正徳元年~享保10年の間に13件の寄進あり(詳細は省く)。」
2. 寺尾九兵衛との関係
「坂上家系図」によれば4)
「坂上正閑 室は今村義康の女、後室は飯尾氏の女 子は五男四女
長男 正清(半右衛門) 元禄14年(1701)没 元禄6年庄屋職襲名
次男 伊之助 (早世)
三男 正勝 室は寺尾九兵衛の女、後室は今村義堅の女 元禄16年庄屋職襲名、宝永6年大庄屋職襲名。」
三男正勝の妻が寺尾九兵衛春清の娘である。坂上半兵衛正閑と寺尾九兵衛春清とは、姻戚であった。春清は、生年、享年が不明のため年令が分らないが、元禄6年頃大庄屋職を宗清に譲っている。坂上半兵衛正閑とほぼ同じ年代であろう。金毘羅宮への青銅燈籠の奉献は互いに知っていたであろう。
3. 羨鳥が金毘羅宮へ青銅燈籠を寄進した理由5)
「寄進した元禄9年(1696)に発行した俳諧書「簾」に北条団水の序文が載せられている。北条団水6)は、坂上羨鳥が「飛花落葉、人生の無常を感じ或る年の春、高野山に上り先祖の霊をまつり、現世門葉の安泰を祈り、和歌浦、吉野、多武、泊瀬、奈良をへて得た多くの句や、京阪の士と風交した句々を選んで一集となし、これを予讃の神仏に奉納しようとして作ったのが、この「簾」である。」と述べている。ここでいう予讃の神仏とは、伊予の三角寺と讃岐の金毘羅宮である。羨鳥は、家族の死にあい、世の無常を感じ人生について深く思いをいたし、永遠の彼方に伝えるものとして、俳諧集の選集と奉納があった。金毘羅宮の燈籠は、このとき俳句と一緒に奉納したものである。」
まとめ
1. 坂上半兵衛正閑(羨鳥)は、金比羅宮へ元禄9年青銅燈籠を寄進した。併せて俳諧集「簾」を奉納した。
2. この燈籠は、金毘羅宮の青銅燈籠のうち、最古の燈籠である。また大名奉納の燈籠以外で、最古の燈籠である。
3. 坂上半兵衛正閑は寺尾九兵衛春清と姻戚であった。
注 引用文献
1. 金毘羅庶民信仰資料集第3巻p216 御本宮まわりの燈籠W-267(日本観光文化研究所編 金刀比羅宮社務所、昭和59年 1984) web.国会図書館デジタルコレクション →図
2. web. データベース「えひめの記憶」>四国中央市>坂上羨鳥
3. 石川士郎「伊予今村家物語」p89,p328(今村武彦発行 2006)伊予三島市史及び村上光信「福生庵と羨鳥の福業」を参考にしたとある。
4. 石川士郎「伊予今村家物語」 p351第4図「今村家と坂上家系図」(今村武彦発行 2006)
5. 「伊予三島市史」上巻p354(昭和59年 1984)(主筆合田正良、該当箇所執筆石川士郎) web.国会図書館デジタルコレクション
6. web.名古屋大学付属図書館「古書は語る」
北条団水(寛文3年-宝永8年)(1663-1711) :西鶴の一番弟子で京の人。西鶴から発句「団(まどか)なるはちすや水の器(うつわもの)」を贈られ、号を団水とする。他に白眼居士・滑稽堂の号がある。西鶴の死後、大阪に移住して西鶴庵を守りつつ、誠実に西鶴遺稿を整理して世の中に送り出した。団水自身の浮世草子作家、俳諧師としての著作活動は25歳ころからはじまり、晩年までに数多くの作品を上梓する。
図 坂上半兵衛正閑(羨鳥)奉献の青銅燈籠W-267(金毘羅庶民信仰資料集より)
写1 坂上半兵衛正閑(羨鳥)奉献の六角形青銅燈籠
写2 燈籠の竿の銘文