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気ままな推理帳

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伊豫軍印(4) 久米雅雄「倭の五王と将軍章」の研究に挙げられた劉宋の官印に、似たものはなかった

2023-03-26 08:29:06 | 趣味歴史推論
 印章に素人な筆者にとって、非常に参考になる本を見つけた。それは、久米雅雄「日本印章史の研究」(2004)である。1)
この書には、その時代の典型的な印として、鈕と共にサイズがわかる印影が掲載されているので非常に役立つ。
特に参考となる二つの具体例が論じられている。
1.「倭の五王」と将軍章
2.「紀伊国造印」の資料批判

久米雅雄「日本印章史の研究」(2004)の「倭の五王」と将軍章 より

1. 南北朝時代の官印は「北魏」(386~534)官印と「劉宋」(420~479)の官印とに分けることができる。代表例は図2のとおり。鎏金(りゅうきん 金メッキ)印面サイズは筆者が印影で測定した値。 
図2  上段 左 「北魏」 亀鈕  「冠軍将軍印」鎏金銅印  鑿印 印面方29mm
      中 「北魏」 亀鈕  「高城侯印」 鎏金銅印  鑿印 印面方29mm       
      右 「北魏」 環鈕  「懐州刺史印」鎏金銅印  鑿印 印面方29mm
   下段  左 「劉宋」 高鼻鈕 「盧陵郡丞之印」 銅印  鑿印 印面方21mm
      中 「劉宋」 高鼻鈕 「新豊長印」   銅印  鑿印 印面方23mm
      右 「劉宋」 高鼻鈕 「郫縣令印」   銅印  鑿印 印面方22mm
「伊豫軍印」が宋から授与されたものかを検証する基本資料としては、この下段の「劉宋」3つが相当する。

2.「倭の五王」への「征東」「鎮東」「安東」将軍への印章を推定するために、「倭の五王」と同じ「将軍章」を有する印を図3、4、5に示している。 梁(502~557)西晋(265~316)
図3 第1段 左      亀鈕  「安東将軍章」      鑿印 印面方25mm北朝系の書体
      中      亀鈕  「安東将軍章」      鑿印 印面方23mm南朝系の書体
      右      亀鈕  「安東将軍章」      鑿印 印面方23mm南朝系の書体
   第2段 左 「晋」  亀鈕  「平東将軍章」  金印  鑿印 印面方24mm
      右 「六朝」 亀鈕  「平東将軍章」  銅印  鑿印 印面方21mm草率な書体→図4下段左
   第3段 左 「魏晋?」亀鈕  「征盧将軍章」      鑿印 印面方24mm
      中      亀鈕  「征盧将軍章」  銅印  鑿印 印面方22mm
      右      亀鈕  「征盧将軍章」      鑿印 印面方22mm
   第4段 左        亀鈕   「冠軍将軍章」鎏金銅印   鑿印 印面方29mm     →図4上段左
      左中「北魏」      「冠軍将軍章」      鑿印 印面方29mm
      右中「北魏」 亀鈕  「冠軍将軍章」      鑿印 印面方31mm       →図4上段中
      右 「劉宋」 亀鈕  「冠軍将軍章」      鑿印 印面方24mm      →図4上段右
   第5段  中「南朝」亀鈕(欠損)「輔国将軍章」       鑿印 印面方24mm      →図4下段中
      右      亀鈕  「輔国将軍章」      鑿印 印面方23mm
図4 下段 右 「梁」  高鼻鈕  「伏義将軍之印」      鑿印 印面方22mm
   南朝特有の高鼻鈕の将軍印の例
図5      「西晋」 亀鈕  「鎮南将軍章」  金印   鑿印 印面方24mm
   「倭王武」の進号である「鎮東大将軍章」の金章をイメージするための参考に採り上げた

「倭の五王」への「征東」「鎮東」「安東」将軍への印章はどのようなものであったかを、久米は以下のように推定している。
「「劉宋」が授与するのは、間違いなく「金章紫綬」の印であり、鈕はおそらく「蛇鈕」の「征東将軍章」「鎮東大将軍章」「安東大将軍章」であったろう。続く「平西(東)将軍章」「征盧将軍章」「冠軍将軍章」「輔国将軍章」などについては、「宋書」礼志通りにいけば「金章」であろうけれども、「倭国」内での秩序を配慮して「鎏金銅印」が頒給されている可能性も高い。であるとすれば、これら複数の「金章」や「鎏金銅章」は、今なお「履中系陵墓」の群在する百舌鳥古墳群や「允恭系陵墓」の密集する古市誉田古墳群など、いずれも大阪所在のいわゆる「河内王朝」の中核部に眠っている可能性が高いということになろう。」

検討
1.「伊豫軍印」と「劉宋の官印」を比較する。
         伊豫軍印         劉宋の官印
鈕        高鼻 薄い 孔大きい   高鼻 厚い 孔小さい
材質       銅            銅
印面サイズ    方36.8mm         方21~23mm
印面台厚み    薄い           厚い
印面       鋳造印          鑿印       
         陽刻 朱文        陰刻 白文
字体       六朝風          篆書体         
 伊豫軍印は、劉宋の官印に似たところが全くないことがわかった。

2. 想定される倭の五王への印でも印面の大きさは方22~24mmで 六朝尺の1寸(24.6mm)に近い。
 伊豫軍印のように、1.5寸(36.9mm)と大きな印は見当たらなかった。

まとめ
 久米雅雄「倭の五王と将軍章」の研究に挙げられた劉宋の官印には、伊豫軍印に似たものはなかった。
      

注 引用文献
1.  久米雅雄「日本印章史の研究」p135(雄山閣 2004) 
 久米雅雄(くめまさお)(1948~)日本の考古学者・歴史研究者・印学家。2001年に学位論文「日本印章史の研究」に対して立命館大学から文学博士号を授与された。(Wikipediaより)

写1. 「南北朝時代の官印、将軍章」 久米雅雄「日本印章史の研究」p135,137より


写2. 「南北朝時代の将軍章、鎮南将軍章」 久米雅雄「日本印章史の研究」p139,142より


補 筆者のメモ (web. 福岡市博物館>アーカイブズ>中国の古代印章 より)
①秦の時代 皇帝の印は「璽(じ)」、その他の官印私印は「印」、将軍の印は「章」と呼ばれた。
②漢の時代 印面は方一寸(約23mm)、鈕には長さ一丈二尺(約2.8m)の綬(じゅ)(組紐)を通し、機密を守る封泥に押印した。皇帝は虎鈕(こちゅう)の玉璽(ぎょくじ)、皇太子や列侯・丞相・将軍などは、亀鈕(きちゅう)の金印、中級官吏は亀鈕銀印で、下級官吏は鼻鈕(びちゅう)銅印とされ、綬(じゅ)の色も皇帝の朱綬(しゅじゅ)から黄綬(おうじゅ)まで細かく決められていた。

伊豫軍印(3)八雲琴創始者の中山琴主が奉納した可能性が高い

2023-03-19 08:00:00 | 趣味歴史推論
 この銅印を所蔵する土居町天満の八雲神社(やくもじんじゃ)に参拝し、宮司の近藤純夫氏に神社の由緒と銅印の由来について、お話を伺った。→写真1
1. 神社の由緒
 境内の石碑に八雲神社由緒が記されている。 →写真2

「  八雲神社由緒
     旧称 牛頭天王宮
(ごずてんのうぐう)
御祭神 素盞嗚尊(すさのをのみこと)奇稲田姫命(くしいなだひめのみこと)手摩乳命(てなづちのみこと)
往古素盞嗚尊がこの地に来られ、社林の山上に仮殿を營み給うた旧蹟地に、後人修補を加え、尊を祭ってきたが、推古帝25年(617)に社殿を建て永く後世に遺し奉ったと伝えられる。元徳2年(1330)旧8月25日、北野・畑野・土居・上天満 四ケ村の氏子一致して、初めて祭典を執行し、爾来この日を大祭日としてきた。文明15年(1483)近郷に疫病流行、村民等祈願してその害をのがれ、大いに御威徳を崇めて、翌春社殿を修補。天正15年*1(1587)に至って宮山より現在の山麓に遷宮。創建以来牛頭天王宮と称してきたが明治2年八雲神社と改称する。古来悪病除け並びに牛馬の守護神として尊崇され、正月7日までに参詣すればその年家内の悪病が除かれると云われてきた。八雲琴の創始者中山八雲琴主*3は当社に参籠して眼病治癒を祈り快復したというその御神徳を感謝して琴主は京都の公卿一條忠香公*4筆の「牛頭天王」の額を奉納している。
  境内社  春玉神社 天王宮龍蛇神社
  例祭   正月7日 厄除悪病除祈願祭
       10月15日 秋季大祭
  県指定有形文化財*2  伊予軍印
   平成元年4月吉日  行星謹書   」

*1 碑の正保3年は間違い *2 碑の県指定重要文化財は間違い
*3 中山琴主(なかやまことぬし) (1803~1880)土居町天満の出身。17才で出雲大社を訪れた時、風にそよぐ竹の美しい調べに心打たれ二絃琴(別名・八雲琴)を創り出したと言われる。その後、京都で公家などに二絃琴を教授したほか、諸国の神社へ二絃琴の演奏とともに奉納する旅を続けた。晩年は帰郷し、道や橋を整備するなど地域の発展に尽くして人々から慕われた。1)
*4 一條忠香(いちじょう ただよし) (1812~1863)官位は従一位・左大臣。一条家22代当主。14代将軍継嗣問題では一橋派を支持。公武合体派で、尊王攘夷派の公家と対立した。余技で絵を能くしたほか、鹿背山焼で好みの煎茶器を作らせた。明治天皇の皇后・昭憲皇太后の実父にあたる。2)

2. 宮司近藤家の由緒
 近藤家の先祖が、ここの神主に最初に奉職したのは、正徳3年(1713)である。神祇管領長上(じんぎかんれいちょうじょう)卜部朝臣(うらべあそん)兼敬(かねゆき)からの神道裁許状を拝見した。

「豫州宇摩郡天満村牛頭天王の神主 近藤丹羽守藤原屋冨 恒例の神事参勤之時 風折烏帽子(かざおりえぼし)狩衣(かりぎぬ)を着すべきは、神道裁許の状 如件
 正徳3癸巳年5月21日
 神祇管領長上従二位卜部朝臣兼敬* 印  」

*卜部氏嫡流吉田兼敬(1652~1731)

3. 銅印に関しての宮司の話
(1)銅印に関する文書記録はない。
(2)口伝によると、銅印は、中山琴主が奉納したか、奉納に中山琴主が関係しているという。神社の宝物の多くが中山琴主の奉納したものである。琴主は、出雲大社および京都の公家と非常に蜜な関係があった。拝殿に掲げている左大臣一条忠香公筆「牛頭天王」の額や、有栖川宮熾仁親王3)筆「八雲神社」の額は、琴主が奉納したものである。→写真3
(3)綬(組紐)は古くからなかった。
(4)印を納めた箱は古いものではない。
(5)神社は火災に遭ったという記録はない。風水害はあったかもしれない。

まとめ
 伊豫軍印は、中山琴主が奉納した可能性が高いことがわかった。銅印の由来を知るには、中山琴主の経歴を知ることが重要である。


宮司の近藤純夫様にはご丁寧に説明を頂き、お礼を申し上げます。
  
注 引用文献
1.  暁雨館「宇摩の先人ゆかりの地マップ」p5(2022.10)
2.  Wikipedia「一條忠香」
3.  日本大百科全書(ニッポニカ)「有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王」
(1835~1895)幕末・明治時代の皇族。日米修好通商条約の調印に反対して尊王攘夷運動を支持。元治元年(1864)国事御用掛に任ぜられたが、同年の蛤御門の変で長州藩士に荷担したゆえをもって謹慎を命ぜられた。慶応3年(1867)王政復古とともに総裁職に就任。翌年の戊辰戦争では東征大総督となり官軍を率いて東下、江戸に入った。のち、兵部卿、福岡県知事、元老院議長を務め、明治10年(1877)の西南戦争には征討総督として出征した。戦後、陸軍大将となり、左大臣、参謀本部長、参謀総長を歴任。日清戦争中に没した。
写真1. 八雲神社


写真2. 八雲神社由緒


写真3. 八雲神社の額と牛頭天王の額


伊豫軍印(2) 印の外観は 重厚さ精緻さに欠けていると感じた

2023-03-12 08:18:23 | 趣味歴史推論
 銅印「伊豫軍印」は、四国中央市歴史考古博物館-高原ミュージアム-で展示中であった(2023年3月)。館のご厚意で、ケースから取り出していただき、観察撮影をさせて頂いた。→写真
気づいた点を以下に記した。
1. 印面のある方形の台の厚みが薄い
2. 鈕(ちゅう つまみ)の厚みが薄い
3. 鈕の孔の形がくずれている
4. 印面の背には、文字はなかった。
5. 外観からは、腐食した様子はなく、なめらかな面であった。

中国や日本の朝廷が授与する官印にしては、権威を示す重厚さ(1,2より)、精緻さ(3より)に欠けていると筆者は感じた。

まとめ
印の外観は、重厚さ精緻さに欠けていると感じた。 

高原ミュージアムの館員、学芸員の方々にお世話になりました。お礼を申し上げます。

写真 伊豫軍印の様々な角度からの写真

伊豫軍印(1) 土居町天満八雲神社の銅印の由来を探る

2023-03-05 21:13:20 | 趣味歴史推論
 四国中央市土居町天満(てんま)の八雲神社(やくもじんじゃ)には、先祖伝来の銅印「伊豫軍印」がある。天満は、別子銅山開坑後、荒銅を運んだ(一次)泉屋道の終点で、荒銅の積み出し港があった所である。この銅印は、愛媛県の県指定有形文化財(昭和31年指定)であり、県のweb上の紹介文は、以下のとおりである。1)

1. 「伊予軍団の印、土居町天満の八雲神社伝来品である。銅製鋳造印で印面は、方36.9mm、全高24.6mm、重さ50.8gで、背面中央部に直立した高さ19.6mm、幅16.3~17.2mm、中央上部に6.2mm×8.3mmの楕円形の穴のある把手がある。印面は角がやや丸みをもち、右肩部及び左右の辺に鋳崩れした欠損部が少し見られる。印面両端部の厚さは3.6mm、中央部では約5mmとなっている。文字は六朝風(りくちょうふう)の温雅な書体で「伊豫軍印」と鋳込まれている。文字の高さは約1.4mm程度である。大和時代律令制によって諸国に配置された軍団は、延暦11(792)年に廃止され、一部を除き健児(こんでい)の制となる。この印は、他に現存する軍団印とは様式を異にしている。理由は不明であるが、何らかの時代背景が想定される。」
由来がはっきりせず、現物の観察からでは、何時の時代のものかも決められないようである。

2. インターネット検索によれば、最初の記録報文は、大正8年(1919)の景浦稚桃「伊予史談」であった。2)→写
それによると、印影と共に、
「先般(大正8年5月)本会(伊予史談会)の主催によりて県立松山農業学校に於て開かれたる伊予史料展覧会は江湖の深厚なる同情を辱うし、陳列品数約5千点の多きに及び予想外の好果を収めたるは吾人の感謝に耐えざる所なり。-----就中、吾人を驚異せしめしものは、---八雲神社の出品にかゝる伊豫軍印なりき。---」として、持統天皇期~平安時代の軍団について考察し、伊豫軍印との関係を論じている。

3. またネット上で、筆者は由来について興味ある仮説を見つけた。それが本当なら、歴史上の重要な証拠となると思ったので、先ずこの仮説を検証することにした。それは、阿部周一の仮説で、2015年にgooブログ「古田史学とMe」で提示され、2017年のホームぺージで最終更新されている。3)
 阿部説は、「印の大きさ、方1辺36.9mm、全高24.6mmが中国の南朝(六朝)時代の南朝尺(1尺246mm)で、それぞれ1.5寸、1寸に相当し、推測する南朝の規格に合致し*1、銅印環鈕(かんちゅう 綬*2を通す孔あり)である*3ことなどから、南朝(宋)のものではないか。「宋書」倭國伝には、5世紀に「倭の五王」の遣使が来たことが記されており、五王の配下の将軍や軍郡も南朝から印綬を授けられたのではないか。伊豫軍印はそのうちの一つである。」というものである。
「倭の五王が、「印綬」の規格に合わせて「倭国」で作成し配布したものの可能性もある」としている。
詳しく正確には、引用文献3に記したホームぺージを見てください。

*1「隋書」後周 には「北朝」の印の規格は、「方一寸五分,高寸」とある。「北朝」は基本的にその制度や朝服等を「魏晋朝」及びその後継たる「南朝」に学んだと考えられるので、「伊豫軍印」が「南朝」の規格に沿ったものと考えることができる。北周(北朝)556~581年、宋(南朝)420~479年
*2「隋書」陳には、「銅印環鈕」が将軍や司馬、都督など軍を率いる立場の者達に授けられるとある。陳(南朝)557~589年
*3 綬(じゅ):古代中国で、官吏の身分を表す印の鈕(ちゅう つまみ)の穴に通して身におびるための組紐。官位によってその色が異なる。

4. 「伊豫軍印」は、紙の文書へ押印して、文字が朱文となる陽刻である。秦漢晋の官印は、封泥(貴重品を収めた箱や竹簡・木簡文書の封緘 (ふうかん) に用いた粘土)に押印する用ものであり、陰刻である。朱肉を付けて、紙に押印すると、文字が白文となる。「漢委奴国王」金印は封泥印であり、古代中国の印のほとんどはこの陰刻である。

・ブログ「sanmaoの暦歴徒然草」によれば、南朝尺グループの宋氏尺は、24.568cm、唐の小尺は、24.691cm、唐の大尺は29.630cmである。4) 
天平尺は奈良時代に常用された尺で、唐の大尺に等しい。約29.6cm。

まとめ
 阿部周一は、銅印環鈕の「伊豫軍印」が南朝尺の規格で作られていることを見付け、「印は5世紀「倭の五王」時代に南朝(宋)から、伊予軍に授けられた」という仮説を提示した(2015)。


今後の検討
1.  鈕の部分の写真がないので、先ず 現物を見る。(現在 神社から四国中央市歴史考古博物館-高原ミュージアム-へ貸し出し、展示中)
2. 博物館の中国古印コレクションの図鑑や印譜をネット上で探す。南朝尺の印が実際にあるか。「印」の字体が正字なのはあるか(おおくは篆書体)。同じような鈕の印はあるか。
3. 神社の宮司様に出所の情報を伺う。

注 引用文献
1.  Web. 愛媛県の文化財>県指定文化財>有形文化財>工芸品>銅印(伊予軍印) 印面の写真あり。
2.  景浦稚桃「伊豫軍印に就て」伊予史談 第5巻2号(18号)p1(大正8年9月 1919)
3.  ホームページ:「「倭国」から「日本国」へ ~ 九州王朝を中核にして ~」>五世紀の真実>「倭の五王」について>「伊豫軍印」について (作成日 2015/03/21、最終更新 2017/02/19)
著者:阿部周一 札幌在住の技術者(1955年生) gooブログ「古田史学とMe」の著者である。
4. ブログ「sanmaoの暦歴徒然草」>古代尺を考える(2021.8.20)

写.  伊豫軍印の印影、景浦稚桃「伊豫軍印に就て」伊予史談(大正8年9月 1919)より