元禄4年(1691)から天満村を通って運ばれていた別子粗銅や米等は、元禄15年(1702)に新居浜への道(8月)と新居浜口屋(10月)ができたので、天満村を通らなくなった。その約20年後の天満村の様子を、享保6年(1721)に記された天満村明細帳(長野家文書)で調べてみる。この文書は明細帳の写しであり、写し間違いがありうる。
天満村は、延宝5年(1677)に幕府直轄領となり、大坂奉行所の任官する代官が川之江の旧一柳陣屋に常駐した。この代官支配が44年間続いた。その後徳川吉宗の享保の改革が実施される享保6年(1721)7月からは、松山藩御預所(藩主松平隠岐守定英)へと変更となった。御預所支配の範囲は、宇摩、新居両郡内幕僚30ヶ村、別子銅山、讃岐国那珂郡、小豆郡幕領約10ヶ村であった。陣屋は、川之江の旧一柳陣屋を継承し、宇摩郡内の幕領を東西に分けて、東を川之江組(10ヶ村)、西を天満組(13ヶ村)とし、各組に大庄屋と御用達をおいて、末端の実務機関とした。大庄屋と御用達が郡方役人といわれる。この天満組の大庄屋が寺尾九兵衛である。御預所の最大の任務は、別子銅山の稼働であった。2)
御料天満村享保6年(1721)明細帳 ( )内は筆者の書き込み
天正15亥年 福嶋左衛門太夫様御検地の由、当時名寄帳を以て支配仕候
・高679石8斗3升3合 村惣辻高
内 172石5斗5升3合 寛文10戌年松平左京大夫様御分地(西条領)
残高 507石2斗8升 御蔵所(幕領)
高294石5斗3升9合 田25町2反3畝20歩
高212石7斗3升4合 畑23町8反5畝1歩
(詳細は略)
(年貢の履歴)
・申年(享保元年)御取箇 109石3斗6升2合 高に2つ1分5厘6毛 毛付2つ4分
但し半年御年貢米皆済已後、御加免仰付けられ候御付紙の趣
・申年取米(享保元年)111石8斗9升6合 本田畑 高2つ2分6毛 毛付2つ4分5厘6毛
・酉年(享保2年)御取箇 119石5斗7升1合 高2つ3分5厘7毛 毛付2つ2分6厘
・戌年(享保3年)御取箇 69石2斗6升 高1つ3分6厘5毛 毛付2つ6分6厘
・亥年(享保4年)御取箇 99石3斗4升7合 高に1つ9分5厘8毛 毛付2つ7分
・子年(享保5年)御取箇 105石4斗1升9合 高2つ7厘8毛 毛付2つ7分
・小物成
・銀94匁8歩4厘4毛 定納綿代
これは真綿1貫185匁5分4厘代 但し100目に付き銀8匁宛て
・同6匁8歩2厘4毛 定納苧(からむし)の代
これは2巻729匁3分の代 但し100目に付き銀2分5厘宛
・同65匁6分7厘4毛 定納山手銀
これは入会山内山へ古来より出し来申候
・同21匁3分2厘3毛 定納塩浜運上金
これは塩主より出申候
・同5匁1歩1厘8毛 定納鉄炮役銀
これは持主より出し申候
右5口の内にて、銀17匁2分6厘松平左京大夫様へ御分地の節算用違い御座候て、年々村内より惑い申し候、内6匁2分3厘6毛は松平左京大夫様へ上納差上げ来申候
・同25匁 年々不同茶分一銀
但し茶25俵分一銀茶30斤入1表に付き1匁宛
・同12匁 年々不同宿請銀
但し船1艘に付き銀6匁宛船2艘分
・同24匁 年々不同樵木分一銀
但し船3艘の分 7端帆1艘に付き銀8匁宛
・同12匁5分 年々不同小網運上銀
・米5斗6升8合 松実植定年貢
・銀77匁2分6厘 江戸御蔵米(蔵前の間違い)入用銀
・米1石3斗 御六尺給米
・同3斗6升8夕 御伝馬宿入用
〆
・御年貢米津出の儀は当村浜まで道のり3町程新居郡新居浜山師両口屋まで船路3里程御座候
・堤川除沼当て井堰御普請所毎年被損御座候 但し松平左京大夫様御領分立合
・伏樋6ヶ所・指樋浜手御普請所御座候 右同断
・用水溜め池3ヶ所 板(坂の間違い)の内1ヶ所 54年以前御入用にて出来仕候
(この項は「天満村寺尾九兵衛(9)坂之内池自体は寛文7年に築造された」で既出)
白井、小山田2ヶ所 131年以前出来申候 右同断
但3ヶ所の小池は近辺の田地までの用水にて御座候
・とり池数60 但池一つに付き3坪より6坪まで百姓田地の内に御座候
・御高札10枚
内1枚は忠孝の御札、1枚は浦方御札、1枚は切支丹御札、1枚は毒薬質素御札、一枚は海上船御札、1枚は人売買、1枚は放火の御札、1枚は伴天連御札、1枚は抜荷御札、1枚は異国船御札
(山林)
・西之山 松御林1ヶ所 たて970間 横900間 この反別291町歩 外野山39町歩 たて130間横900間
・宮山 松実植林 たて162間横70間 この反別3町7反8畝歩 但し古来より実植(みうえ)林にて氏宮破損の節は御願申上げ遣来申し候
・権現谷 松実植林 たて20間横15間 この反別1反歩 但し古来より実植林にて権現宮破損の節は御願申上げ遣来申し候
・大地山 松実植林 たて150間横65間 この反別3町2反5畝歩 林主 九兵衛
右3ヶ所実植林は百姓実植に仕り、立木は川除並びに道橋等御用立ち置き、下枝下草は林主伐遣し申候
・ひしは 松実植林 定年貢地 この反別1町3畝10歩 林主 平左衛門
・当村に古来より常市御座候
・当村草刈場は御料浦山村津根山村にて薪肥草等苅来り申し候 道のり2里半より4里程御座候
・船6艘 但3反帆より15端帆まで
・家数176軒 内 92軒高持百姓、84軒家来水呑
・人数889人 内 男467人 女422人
・牛馬65疋 内 牛64疋 馬1疋
・正徳5未年御改 酒造株5軒
1石1斗3升 平左衛門
2石5斗5升 徳之丞
1石6斗1升4合 喜左衛門
3石4斗2升 九兵衛
2石1斗3升 弥一右衛門
・(?)家数12軒 人数70人 内男36人 女34人
・百姓作間の稼ぎは、男は上方へ樵木(こりき)積み申し、並びに、日雇賃持または両銅山稼ぎに罷り出、女は木綿(わた)布(し)き並びに薪(たきぎ)こり申し候
(職人)
医師2人、大工2人、桶屋3人、木挽2人、鍛冶2人、紺屋4軒
・天満村東西6町程南北12町程
枝郷 大西山田 当村より6町ほど、塩屋 3町ほど
(給米用の年貢)
・米5石7升2合8夕 大庄屋一分米
・同1石3升8夕 同二厘米
・同1石5斗 紙筆墨代
・同3石 組頭2人給
・同2石5斗2升 小走給米
・同1斗 御札場地敷米
・同3斗7升5合 坂ノ内樋守給
・同5石6斗 西ノ尾松林山守給
・同3斗 御蔵番人給
(大庄屋寺尾九兵衛宅)
・庄屋屋敷惣囲 長さ40間、横30間 (1200坪)
本家梁行5間 棟行13間
座敷 上の間 8畳鋪、次の間10畳鋪、同7畳鋪、同10畳鋪、玄関10畳鋪、広間15畳鋪、次の間6畳鋪、台所30畳鋪、竈屋梁行4間 棟行6間、門長屋梁行2間半棟行15間 外に、郡屋、石物蔵、酒蔵、土蔵あり。
(寺社)
・真言宗雨宝山多聞院井源寺 境内長80間 横60間
(この項は「天満村寺尾九兵衛(28) 井源寺の再建は元禄後期~宝永年間になされた」で既出)
・瓦葺 梁行4間、棟行6間 高さ4間半
本尊 大日座像1尺3寸・不動立像3尺5寸・大師座像1尺3寸
・毘沙門堂 瓦葺 2間4方 本尊毘沙門天立像1尺9寸
・十王堂 瓦葺 梁行2間 棟行3間 高3間 本尊地蔵立像1尺4寸・脇立十王座像1尺1寸
・鐘楼 瓦葺 1間四方 高2間
・庵1軒 篠葺 2間四方 高2間半 境内 長7間 横4間 庵守道心良円
これは実植林の内に御座候
・右庵地境内 観音堂 瓦葺 2間四方 高2間半
本尊 観世音立像 1尺3寸
脇立 阿弥陀立像 1尺9寸
地蔵立像 1尺2寸
・真言宗庵1軒 篠葺 梁行2間 棟行3間半 高さ2間半 境内 長9間 横3間 庵守道心道清
・右庵地の内薬師堂 篠葺 1間半使用 高さ2間半
本尊 薬師立像 1尺8寸
脇立 地蔵立像 1尺
大師座像 5寸
・真言宗庵1軒 篠葺 梁行2間 棟行3間半 高さ2間半 境内 長25間 横15間 庵守出家真任
・右庵地の内阿弥陀堂 瓦葺 2間四方 高さ2間半
本尊 阿弥陀立像 1尺5寸
脇立 大師座像 1尺5寸
地蔵座像 1尺7寸
これは墓所にて御座候
・氏宮 天神宮八幡宮 1社境内 長25間 横7間
こけら葺 2間四方 高さ4間
瓦葺 幣殿 梁行2間 棟行3間 高さ3間
同 拝殿 梁行3間 棟行5間 高さ3間
瓦葺 鐘楼 2間四方 高さ3間 神主塩見伊勢守
当村より道のり
・江戸え海路 202里 東に当る
・大阪へ海路 68里 右同断
・讃州丸亀へ 13里 右同断
・同国高松へ 21里 右同断
・阿州徳嶋へ 27里 右同断
・土州高知へ 24里 南に当る
・当国西條へ 4里 西に当る
・同小松へ 5里 右同断
・同今治へ 10里 右同断
・同松山へ 19里 右同断
注釈・知見など
1. 村石高は天正検地の数値が、慶長、寛文、享保でずっと使われている。
寛文10年(1670)1/4が西条領へ分地され(上天満村)、3/4が幕領(天領、公料、御料)(下天満村)とされた。石高が、西条領0.2538:幕領0.7462 =1:3となっていることが確認できる。
2. 御取箇:江戸時代、田畑に課した年貢のこと。成箇(なりか)。物成(ものなり)。取り。
年貢の履歴
幕領の御取箇(年貢)は、石高に対し、2割2分5厘程度、毛付で2割4分程度である。(507.28石×0.225=114石)
享保3年(1718)の年貢は例年の約61%であり、享保4年(1719)は87%であった。この不作の原因を知るべく宇摩地方の天災の記録を調べると以下のとおりであった。3)
① 享保3年6月 大干ばつ、雨乞い
② 享保4年8月27日 雹が降り大干ばつ、飢饉
3. 苧(からむし):カラムシの茎(から)を蒸(む)して皮を剥ぎ、衣類の繊維を採った。繊維が丈夫だったことから、古代から衣類の原料として最もよく使われた。ここでは巻とあるので、編んだ布単位に対し課税。
4. 宿請銀:船1艘につきを単位としているので、船宿経営への課税であろう。
5. 「樵木分一銀」:樵木(こりき)とは、薪(まき)で燃料にする。上方へ船で運んだので、樵木の量を7端帆1船が年間に運ぶ単位で数え、課税したのであろう。
6. 江戸御蔵前入用銀:(おんくらまえにゅうようぎん)浅草米蔵の諸入用にあてるため、元禄2年以降高百姓(100石)につき永250文(上方は銀15匁)を徴収した。4)
7. 御六尺給米(おんろくしゃくきゅうまい):幕府の雑役夫の給米にあてるため直轄領諸村に対し賦課された租税で、享保6年以降石高100石につき2斗であった。4)
8. 御伝馬宿入用(ごてんましゅくにゅうよう):幕府の直轄地に賦課された役で、御蔵前入用、六尺給米とともに高掛物三役の一つ。高100石につき6升定納。4)
9. 「御年貢米津出の儀は当村浜まで道のり3町程」とある。1町=60間=109m よって3町=109×3=327mとなる。浜まで327mの場所に御蔵(おくら)があることを意味しており、御蔵は、「天満村寺尾九兵衛(8) 慶安には幕領の年貢米を貯蔵する御蔵を管理した」で推定した場所は妥当であるといえる。
10. 川除(かわよけ):江戸時代、堤防を堅固にし、川底をさらい、河川の氾濫を防ぐ工事をすること。
11. 「毒薬質素御札」:「毒薬札」という高札は、「毒薬ならびに似せ薬の売買の禁止を最初の条として、いろいろな条が列記されていた。質素の項は、吉宗の享保の改革で付け加えられたと思われる。毒薬とは、石見国笹ヶ谷鉱山から産出された硫砒鉄鉱から作られた殺鼠剤で、俗に「石見銀山」「猫いらず」という名前で流通していた。5)
12. 「 ひしは 松実植林」:「ひしは」は「ひじば」か。「ひじ」は洲(す)4)。洲場か、洲に近い所にある林か。
13. 常市:この市は別子銅山関係の物流で栄えた「市場」を指すのか。
14. 「大地山 松実植林」と「酒造株」を寺尾九兵衛は所有していた。
15. 百姓作間の稼ぎ:百姓が農業の傍ら、稼いでいた仕事として、男は、①上方へ送る樵木を船に積む仕事 ②日雇いで品物や荷物を運ぶ仕事 ③別子・立川両銅山での仕事、女は、①綿をつむぎ布を織る仕事 ②たきぎこり(薪樵):たきぎを伐り出す仕事 であった。
15. 木挽(こびき):木材を「大鋸」(おが/おおが)を使用して挽き切ること、およびそれを職業とする者。
16. 庄屋役料 貞享3年(1686)伊予代官は幕領の庄屋役料を、その村の石高の1分と決めた。これが定法となり、一分米といわれた。2)
大庄屋には、組内村々から 村高の2厘が役料として追加される。大庄屋二厘米という。
17. 庄屋屋敷は、村役場でもある。
郡屋(ぐんや):郡内の村役人の集会所
18. 観音堂の本尊 観世音立像 1尺3寸は、49番「観音菩薩」立像 高さ39cm 台座11cmである。6)
19. 大阪へ海路:享保時代に大坂でなく大阪と書いているのは、めずらしいのではないか。
注 引用文献
1. 土居町郷土史料 第六集「村々明細帳」p17(村上光信編纂 土居町教育委員会 平成元年 1989)
御料天満村享保6年(1721)明細帳(原本 川之江市立郷土館蔵 長野家文書 横半帳の内)
2. 「川之江市誌」p175~179 p154(昭和59 1984)
大庄屋の役割について「川之江市誌」の記述。
「大庄屋と御用達が郡方役人といわれる。大庄屋は村方庄屋兼帯であり、原則としては世襲であり、子供も苗字帯刀御免の待遇である。大庄屋は近村の郡方御用を勤め、郡中割の決定に参加し、村方の年貢、小物成、運上等の取立案を作ったり、普請の地方負担分の割振りや、公事、御願事の取次ぎ、村々間の争いの調停、軽犯罪の処分等である。その他、他領大庄屋との交渉の責にもあたる。」
「御用達とは、川之江陣屋では、陣屋の年貢や夫食米、普請の出歩役等について、元締の考えを各村庄屋へ伝達する役目をいう。」
3. 「伊予三島市史」上 p368(1984)国会図書館デジタルコレクション
4. 日本国語大辞典(小学館 昭和48年1973)
5. ブログ「おかやまぷろむにゃーど」>毒藥札について(2016.12.28)
6. 「天満・天神 学問の里巡り」49番(天満公民館 令和3年 2021)
天満村は、延宝5年(1677)に幕府直轄領となり、大坂奉行所の任官する代官が川之江の旧一柳陣屋に常駐した。この代官支配が44年間続いた。その後徳川吉宗の享保の改革が実施される享保6年(1721)7月からは、松山藩御預所(藩主松平隠岐守定英)へと変更となった。御預所支配の範囲は、宇摩、新居両郡内幕僚30ヶ村、別子銅山、讃岐国那珂郡、小豆郡幕領約10ヶ村であった。陣屋は、川之江の旧一柳陣屋を継承し、宇摩郡内の幕領を東西に分けて、東を川之江組(10ヶ村)、西を天満組(13ヶ村)とし、各組に大庄屋と御用達をおいて、末端の実務機関とした。大庄屋と御用達が郡方役人といわれる。この天満組の大庄屋が寺尾九兵衛である。御預所の最大の任務は、別子銅山の稼働であった。2)
御料天満村享保6年(1721)明細帳 ( )内は筆者の書き込み
天正15亥年 福嶋左衛門太夫様御検地の由、当時名寄帳を以て支配仕候
・高679石8斗3升3合 村惣辻高
内 172石5斗5升3合 寛文10戌年松平左京大夫様御分地(西条領)
残高 507石2斗8升 御蔵所(幕領)
高294石5斗3升9合 田25町2反3畝20歩
高212石7斗3升4合 畑23町8反5畝1歩
(詳細は略)
(年貢の履歴)
・申年(享保元年)御取箇 109石3斗6升2合 高に2つ1分5厘6毛 毛付2つ4分
但し半年御年貢米皆済已後、御加免仰付けられ候御付紙の趣
・申年取米(享保元年)111石8斗9升6合 本田畑 高2つ2分6毛 毛付2つ4分5厘6毛
・酉年(享保2年)御取箇 119石5斗7升1合 高2つ3分5厘7毛 毛付2つ2分6厘
・戌年(享保3年)御取箇 69石2斗6升 高1つ3分6厘5毛 毛付2つ6分6厘
・亥年(享保4年)御取箇 99石3斗4升7合 高に1つ9分5厘8毛 毛付2つ7分
・子年(享保5年)御取箇 105石4斗1升9合 高2つ7厘8毛 毛付2つ7分
・小物成
・銀94匁8歩4厘4毛 定納綿代
これは真綿1貫185匁5分4厘代 但し100目に付き銀8匁宛て
・同6匁8歩2厘4毛 定納苧(からむし)の代
これは2巻729匁3分の代 但し100目に付き銀2分5厘宛
・同65匁6分7厘4毛 定納山手銀
これは入会山内山へ古来より出し来申候
・同21匁3分2厘3毛 定納塩浜運上金
これは塩主より出申候
・同5匁1歩1厘8毛 定納鉄炮役銀
これは持主より出し申候
右5口の内にて、銀17匁2分6厘松平左京大夫様へ御分地の節算用違い御座候て、年々村内より惑い申し候、内6匁2分3厘6毛は松平左京大夫様へ上納差上げ来申候
・同25匁 年々不同茶分一銀
但し茶25俵分一銀茶30斤入1表に付き1匁宛
・同12匁 年々不同宿請銀
但し船1艘に付き銀6匁宛船2艘分
・同24匁 年々不同樵木分一銀
但し船3艘の分 7端帆1艘に付き銀8匁宛
・同12匁5分 年々不同小網運上銀
・米5斗6升8合 松実植定年貢
・銀77匁2分6厘 江戸御蔵米(蔵前の間違い)入用銀
・米1石3斗 御六尺給米
・同3斗6升8夕 御伝馬宿入用
〆
・御年貢米津出の儀は当村浜まで道のり3町程新居郡新居浜山師両口屋まで船路3里程御座候
・堤川除沼当て井堰御普請所毎年被損御座候 但し松平左京大夫様御領分立合
・伏樋6ヶ所・指樋浜手御普請所御座候 右同断
・用水溜め池3ヶ所 板(坂の間違い)の内1ヶ所 54年以前御入用にて出来仕候
(この項は「天満村寺尾九兵衛(9)坂之内池自体は寛文7年に築造された」で既出)
白井、小山田2ヶ所 131年以前出来申候 右同断
但3ヶ所の小池は近辺の田地までの用水にて御座候
・とり池数60 但池一つに付き3坪より6坪まで百姓田地の内に御座候
・御高札10枚
内1枚は忠孝の御札、1枚は浦方御札、1枚は切支丹御札、1枚は毒薬質素御札、一枚は海上船御札、1枚は人売買、1枚は放火の御札、1枚は伴天連御札、1枚は抜荷御札、1枚は異国船御札
(山林)
・西之山 松御林1ヶ所 たて970間 横900間 この反別291町歩 外野山39町歩 たて130間横900間
・宮山 松実植林 たて162間横70間 この反別3町7反8畝歩 但し古来より実植(みうえ)林にて氏宮破損の節は御願申上げ遣来申し候
・権現谷 松実植林 たて20間横15間 この反別1反歩 但し古来より実植林にて権現宮破損の節は御願申上げ遣来申し候
・大地山 松実植林 たて150間横65間 この反別3町2反5畝歩 林主 九兵衛
右3ヶ所実植林は百姓実植に仕り、立木は川除並びに道橋等御用立ち置き、下枝下草は林主伐遣し申候
・ひしは 松実植林 定年貢地 この反別1町3畝10歩 林主 平左衛門
・当村に古来より常市御座候
・当村草刈場は御料浦山村津根山村にて薪肥草等苅来り申し候 道のり2里半より4里程御座候
・船6艘 但3反帆より15端帆まで
・家数176軒 内 92軒高持百姓、84軒家来水呑
・人数889人 内 男467人 女422人
・牛馬65疋 内 牛64疋 馬1疋
・正徳5未年御改 酒造株5軒
1石1斗3升 平左衛門
2石5斗5升 徳之丞
1石6斗1升4合 喜左衛門
3石4斗2升 九兵衛
2石1斗3升 弥一右衛門
・(?)家数12軒 人数70人 内男36人 女34人
・百姓作間の稼ぎは、男は上方へ樵木(こりき)積み申し、並びに、日雇賃持または両銅山稼ぎに罷り出、女は木綿(わた)布(し)き並びに薪(たきぎ)こり申し候
(職人)
医師2人、大工2人、桶屋3人、木挽2人、鍛冶2人、紺屋4軒
・天満村東西6町程南北12町程
枝郷 大西山田 当村より6町ほど、塩屋 3町ほど
(給米用の年貢)
・米5石7升2合8夕 大庄屋一分米
・同1石3升8夕 同二厘米
・同1石5斗 紙筆墨代
・同3石 組頭2人給
・同2石5斗2升 小走給米
・同1斗 御札場地敷米
・同3斗7升5合 坂ノ内樋守給
・同5石6斗 西ノ尾松林山守給
・同3斗 御蔵番人給
(大庄屋寺尾九兵衛宅)
・庄屋屋敷惣囲 長さ40間、横30間 (1200坪)
本家梁行5間 棟行13間
座敷 上の間 8畳鋪、次の間10畳鋪、同7畳鋪、同10畳鋪、玄関10畳鋪、広間15畳鋪、次の間6畳鋪、台所30畳鋪、竈屋梁行4間 棟行6間、門長屋梁行2間半棟行15間 外に、郡屋、石物蔵、酒蔵、土蔵あり。
(寺社)
・真言宗雨宝山多聞院井源寺 境内長80間 横60間
(この項は「天満村寺尾九兵衛(28) 井源寺の再建は元禄後期~宝永年間になされた」で既出)
・瓦葺 梁行4間、棟行6間 高さ4間半
本尊 大日座像1尺3寸・不動立像3尺5寸・大師座像1尺3寸
・毘沙門堂 瓦葺 2間4方 本尊毘沙門天立像1尺9寸
・十王堂 瓦葺 梁行2間 棟行3間 高3間 本尊地蔵立像1尺4寸・脇立十王座像1尺1寸
・鐘楼 瓦葺 1間四方 高2間
・庵1軒 篠葺 2間四方 高2間半 境内 長7間 横4間 庵守道心良円
これは実植林の内に御座候
・右庵地境内 観音堂 瓦葺 2間四方 高2間半
本尊 観世音立像 1尺3寸
脇立 阿弥陀立像 1尺9寸
地蔵立像 1尺2寸
・真言宗庵1軒 篠葺 梁行2間 棟行3間半 高さ2間半 境内 長9間 横3間 庵守道心道清
・右庵地の内薬師堂 篠葺 1間半使用 高さ2間半
本尊 薬師立像 1尺8寸
脇立 地蔵立像 1尺
大師座像 5寸
・真言宗庵1軒 篠葺 梁行2間 棟行3間半 高さ2間半 境内 長25間 横15間 庵守出家真任
・右庵地の内阿弥陀堂 瓦葺 2間四方 高さ2間半
本尊 阿弥陀立像 1尺5寸
脇立 大師座像 1尺5寸
地蔵座像 1尺7寸
これは墓所にて御座候
・氏宮 天神宮八幡宮 1社境内 長25間 横7間
こけら葺 2間四方 高さ4間
瓦葺 幣殿 梁行2間 棟行3間 高さ3間
同 拝殿 梁行3間 棟行5間 高さ3間
瓦葺 鐘楼 2間四方 高さ3間 神主塩見伊勢守
当村より道のり
・江戸え海路 202里 東に当る
・大阪へ海路 68里 右同断
・讃州丸亀へ 13里 右同断
・同国高松へ 21里 右同断
・阿州徳嶋へ 27里 右同断
・土州高知へ 24里 南に当る
・当国西條へ 4里 西に当る
・同小松へ 5里 右同断
・同今治へ 10里 右同断
・同松山へ 19里 右同断
注釈・知見など
1. 村石高は天正検地の数値が、慶長、寛文、享保でずっと使われている。
寛文10年(1670)1/4が西条領へ分地され(上天満村)、3/4が幕領(天領、公料、御料)(下天満村)とされた。石高が、西条領0.2538:幕領0.7462 =1:3となっていることが確認できる。
2. 御取箇:江戸時代、田畑に課した年貢のこと。成箇(なりか)。物成(ものなり)。取り。
年貢の履歴
幕領の御取箇(年貢)は、石高に対し、2割2分5厘程度、毛付で2割4分程度である。(507.28石×0.225=114石)
享保3年(1718)の年貢は例年の約61%であり、享保4年(1719)は87%であった。この不作の原因を知るべく宇摩地方の天災の記録を調べると以下のとおりであった。3)
① 享保3年6月 大干ばつ、雨乞い
② 享保4年8月27日 雹が降り大干ばつ、飢饉
3. 苧(からむし):カラムシの茎(から)を蒸(む)して皮を剥ぎ、衣類の繊維を採った。繊維が丈夫だったことから、古代から衣類の原料として最もよく使われた。ここでは巻とあるので、編んだ布単位に対し課税。
4. 宿請銀:船1艘につきを単位としているので、船宿経営への課税であろう。
5. 「樵木分一銀」:樵木(こりき)とは、薪(まき)で燃料にする。上方へ船で運んだので、樵木の量を7端帆1船が年間に運ぶ単位で数え、課税したのであろう。
6. 江戸御蔵前入用銀:(おんくらまえにゅうようぎん)浅草米蔵の諸入用にあてるため、元禄2年以降高百姓(100石)につき永250文(上方は銀15匁)を徴収した。4)
7. 御六尺給米(おんろくしゃくきゅうまい):幕府の雑役夫の給米にあてるため直轄領諸村に対し賦課された租税で、享保6年以降石高100石につき2斗であった。4)
8. 御伝馬宿入用(ごてんましゅくにゅうよう):幕府の直轄地に賦課された役で、御蔵前入用、六尺給米とともに高掛物三役の一つ。高100石につき6升定納。4)
9. 「御年貢米津出の儀は当村浜まで道のり3町程」とある。1町=60間=109m よって3町=109×3=327mとなる。浜まで327mの場所に御蔵(おくら)があることを意味しており、御蔵は、「天満村寺尾九兵衛(8) 慶安には幕領の年貢米を貯蔵する御蔵を管理した」で推定した場所は妥当であるといえる。
10. 川除(かわよけ):江戸時代、堤防を堅固にし、川底をさらい、河川の氾濫を防ぐ工事をすること。
11. 「毒薬質素御札」:「毒薬札」という高札は、「毒薬ならびに似せ薬の売買の禁止を最初の条として、いろいろな条が列記されていた。質素の項は、吉宗の享保の改革で付け加えられたと思われる。毒薬とは、石見国笹ヶ谷鉱山から産出された硫砒鉄鉱から作られた殺鼠剤で、俗に「石見銀山」「猫いらず」という名前で流通していた。5)
12. 「 ひしは 松実植林」:「ひしは」は「ひじば」か。「ひじ」は洲(す)4)。洲場か、洲に近い所にある林か。
13. 常市:この市は別子銅山関係の物流で栄えた「市場」を指すのか。
14. 「大地山 松実植林」と「酒造株」を寺尾九兵衛は所有していた。
15. 百姓作間の稼ぎ:百姓が農業の傍ら、稼いでいた仕事として、男は、①上方へ送る樵木を船に積む仕事 ②日雇いで品物や荷物を運ぶ仕事 ③別子・立川両銅山での仕事、女は、①綿をつむぎ布を織る仕事 ②たきぎこり(薪樵):たきぎを伐り出す仕事 であった。
15. 木挽(こびき):木材を「大鋸」(おが/おおが)を使用して挽き切ること、およびそれを職業とする者。
16. 庄屋役料 貞享3年(1686)伊予代官は幕領の庄屋役料を、その村の石高の1分と決めた。これが定法となり、一分米といわれた。2)
大庄屋には、組内村々から 村高の2厘が役料として追加される。大庄屋二厘米という。
17. 庄屋屋敷は、村役場でもある。
郡屋(ぐんや):郡内の村役人の集会所
18. 観音堂の本尊 観世音立像 1尺3寸は、49番「観音菩薩」立像 高さ39cm 台座11cmである。6)
19. 大阪へ海路:享保時代に大坂でなく大阪と書いているのは、めずらしいのではないか。
注 引用文献
1. 土居町郷土史料 第六集「村々明細帳」p17(村上光信編纂 土居町教育委員会 平成元年 1989)
御料天満村享保6年(1721)明細帳(原本 川之江市立郷土館蔵 長野家文書 横半帳の内)
2. 「川之江市誌」p175~179 p154(昭和59 1984)
大庄屋の役割について「川之江市誌」の記述。
「大庄屋と御用達が郡方役人といわれる。大庄屋は村方庄屋兼帯であり、原則としては世襲であり、子供も苗字帯刀御免の待遇である。大庄屋は近村の郡方御用を勤め、郡中割の決定に参加し、村方の年貢、小物成、運上等の取立案を作ったり、普請の地方負担分の割振りや、公事、御願事の取次ぎ、村々間の争いの調停、軽犯罪の処分等である。その他、他領大庄屋との交渉の責にもあたる。」
「御用達とは、川之江陣屋では、陣屋の年貢や夫食米、普請の出歩役等について、元締の考えを各村庄屋へ伝達する役目をいう。」
3. 「伊予三島市史」上 p368(1984)国会図書館デジタルコレクション
4. 日本国語大辞典(小学館 昭和48年1973)
5. ブログ「おかやまぷろむにゃーど」>毒藥札について(2016.12.28)
6. 「天満・天神 学問の里巡り」49番(天満公民館 令和3年 2021)