気ままな推理帳

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天満村寺尾九兵衛(29)享保時代の天満村

2025-03-09 10:40:59 | 趣味歴史推論
 元禄4年(1691)から天満村を通って運ばれていた別子粗銅や米等は、元禄15年(1702)に新居浜への道(8月)と新居浜口屋(10月)ができたので、天満村を通らなくなった。その約20年後の天満村の様子を、享保6年(1721)に記された天満村明細帳(長野家文書)で調べてみる。この文書は明細帳の写しであり、写し間違いがありうる。
天満村は、延宝5年(1677)に幕府直轄領となり、大坂奉行所の任官する代官が川之江の旧一柳陣屋に常駐した。この代官支配が44年間続いた。その後徳川吉宗の享保の改革が実施される享保6年(1721)7月からは、松山藩御預所(藩主松平隠岐守定英)へと変更となった。御預所支配の範囲は、宇摩、新居両郡内幕僚30ヶ村、別子銅山、讃岐国那珂郡、小豆郡幕領約10ヶ村であった。陣屋は、川之江の旧一柳陣屋を継承し、宇摩郡内の幕領を東西に分けて、東を川之江組(10ヶ村)、西を天満組(13ヶ村)とし、各組に大庄屋と御用達をおいて、末端の実務機関とした。大庄屋と御用達が郡方役人といわれる。この天満組の大庄屋が寺尾九兵衛である。御預所の最大の任務は、別子銅山の稼働であった。2)

御料天満村享保6年(1721)明細帳 ( )内は筆者の書き込み
 天正15亥年 福嶋左衛門太夫様御検地の由、当時名寄帳を以て支配仕候
・高679石8斗3升3合 村惣辻高
  内  172石5斗5升3合 寛文10戌年松平左京大夫様御分地(西条領)
  残高 507石2斗8升   御蔵所(幕領)

   高294石5斗3升9合  田25町2反3畝20歩
   高212石7斗3升4合  畑23町8反5畝1歩
 (詳細は略)
(年貢の履歴)
 ・申年(享保元年)御取箇 109石3斗6升2合 高に2つ1分5厘6毛 毛付2つ4分
  但し半年御年貢米皆済已後、御加免仰付けられ候御付紙の趣
  ・申年取米(享保元年)111石8斗9升6合 本田畑 高2つ2分6毛 毛付2つ4分5厘6毛
 ・酉年(享保2年)御取箇 119石5斗7升1合 高2つ3分5厘7毛 毛付2つ2分6厘
 ・戌年(享保3年)御取箇 69石2斗6升 高1つ3分6厘5毛 毛付2つ6分6厘
 ・亥年(享保4年)御取箇 99石3斗4升7合 高に1つ9分5厘8毛 毛付2つ7分
 ・子年(享保5年)御取箇 105石4斗1升9合 高2つ7厘8毛 毛付2つ7分
・小物成
 ・銀94匁8歩4厘4毛  定納綿代 
    これは真綿1貫185匁5分4厘代 但し100目に付き銀8匁宛て
 ・同6匁8歩2厘4毛  定納苧(からむし)の代
    これは2巻729匁3分の代 但し100目に付き銀2分5厘宛
 ・同65匁6分7厘4毛   定納山手銀
    これは入会山内山へ古来より出し来申候
 ・同21匁3分2厘3毛  定納塩浜運上金
    これは塩主より出申候
 ・同5匁1歩1厘8毛   定納鉄炮役銀
    これは持主より出し申候
  右5口の内にて、銀17匁2分6厘松平左京大夫様へ御分地の節算用違い御座候て、年々村内より惑い申し候、内6匁2分3厘6毛は松平左京大夫様へ上納差上げ来申候
 ・同25匁       年々不同茶分一銀
    但し茶25俵分一銀茶30斤入1表に付き1匁宛
 ・同12匁       年々不同宿請銀
    但し船1艘に付き銀6匁宛船2艘分
 ・同24匁       年々不同樵木分一銀
    但し船3艘の分 7端帆1艘に付き銀8匁宛
 ・同12匁5分     年々不同小網運上銀
 ・米5斗6升8合    松実植定年貢
 ・銀77匁2分6厘    江戸御蔵米(蔵前の間違い)入用銀
 ・米1石3斗      御六尺給米
 ・同3斗6升8夕    御伝馬宿入用
  〆
・御年貢米津出の儀は当村浜まで道のり3町程新居郡新居浜山師両口屋まで船路3里程御座候
・堤川除沼当て井堰御普請所毎年被損御座候 但し松平左京大夫様御領分立合
・伏樋6ヶ所・指樋浜手御普請所御座候  右同断
・用水溜め池3ヶ所 板(坂の間違い)の内1ヶ所 54年以前御入用にて出来仕候
(この項は「天満村寺尾九兵衛(9)坂之内池自体は寛文7年に築造された」で既出)
     白井、小山田2ヶ所 131年以前出来申候 右同断
   但3ヶ所の小池は近辺の田地までの用水にて御座候
・とり池数60 但池一つに付き3坪より6坪まで百姓田地の内に御座候
・御高札10枚
  内1枚は忠孝の御札、1枚は浦方御札、1枚は切支丹御札、1枚は毒薬質素御札、一枚は海上船御札、1枚は人売買、1枚は放火の御札、1枚は伴天連御札、1枚は抜荷御札、1枚は異国船御札
(山林)
 ・西之山 松御林1ヶ所 たて970間 横900間 この反別291町歩 外野山39町歩 たて130間横900間
 ・宮山 松実植林 たて162間横70間 この反別3町7反8畝歩 但し古来より実植(みうえ)林にて氏宮破損の節は御願申上げ遣来申し候
 ・権現谷 松実植林 たて20間横15間 この反別1反歩 但し古来より実植林にて権現宮破損の節は御願申上げ遣来申し候
 ・大地山 松実植林 たて150間横65間 この反別3町2反5畝歩 林主 九兵衛
  右3ヶ所実植林は百姓実植に仕り、立木は川除並びに道橋等御用立ち置き、下枝下草は林主伐遣し申候
 ・ひしは 松実植林 定年貢地 この反別1町3畝10歩  林主 平左衛門
・当村に古来より常市御座候
・当村草刈場は御料浦山村津根山村にて薪肥草等苅来り申し候 道のり2里半より4里程御座候
・船6艘 但3反帆より15端帆まで
・家数176軒 内 92軒高持百姓、84軒家来水呑
・人数889人 内 男467人 女422人
・牛馬65疋 内 牛64疋 馬1疋
・正徳5未年御改 酒造株5軒
   1石1斗3升    平左衛門
   2石5斗5升    徳之丞
   1石6斗1升4合  喜左衛門
   3石4斗2升    九兵衛
   2石1斗3升    弥一右衛門
・(?)家数12軒 人数70人 内男36人 女34人
・百姓作間の稼ぎは、男は上方へ樵木(こりき)積み申し、並びに、日雇賃持または両銅山稼ぎに罷り出、女は木綿(わた)布(し)き並びに薪(たきぎ)こり申し候
(職人)
 医師2人、大工2人、桶屋3人、木挽2人、鍛冶2人、紺屋4軒
・天満村東西6町程南北12町程
  枝郷 大西山田 当村より6町ほど、塩屋 3町ほど
(給米用の年貢)
 ・米5石7升2合8夕   大庄屋一分米
 ・同1石3升8夕     同二厘米
 ・同1石5斗      紙筆墨代
 ・同3石        組頭2人給
 ・同2石5斗2升     小走給米 
 ・同1斗        御札場地敷米
 ・同3斗7升5合     坂ノ内樋守給
 ・同5石6斗       西ノ尾松林山守給
 ・同3斗        御蔵番人給
 (大庄屋寺尾九兵衛宅)
庄屋屋敷惣囲 長さ40間、横30間 (1200坪)
 本家梁行5間 棟行13間
 座敷 上の間 8畳鋪、次の間10畳鋪、同7畳鋪、同10畳鋪、玄関10畳鋪、広間15畳鋪、次の間6畳鋪、台所30畳鋪、竈屋梁行4間 棟行6間、門長屋梁行2間半棟行15間 外に、郡屋、石物蔵、酒蔵、土蔵あり。
 (寺社)
・真言宗雨宝山多聞院井源寺  境内長80間 横60間 
(この項は「天満村寺尾九兵衛(28) 井源寺の再建は元禄後期~宝永年間になされた」で既出)
 ・瓦葺 梁行4間、棟行6間 高さ4間半
    本尊 大日座像1尺3寸・不動立像3尺5寸・大師座像1尺3寸
 ・毘沙門堂 瓦葺 2間4方 本尊毘沙門天立像1尺9寸
 ・十王堂 瓦葺 梁行2間 棟行3間 高3間 本尊地蔵立像1尺4寸・脇立十王座像1尺1寸
 ・鐘楼 瓦葺 1間四方 高2間
・庵1軒 篠葺 2間四方 高2間半 境内 長7間 横4間  庵守道心良円
    これは実植林の内に御座候
 ・右庵地境内 観音堂  瓦葺 2間四方 高2間半
            本尊 観世音立像 1尺3寸
            脇立 阿弥陀立像 1尺9寸
               地蔵立像  1尺2寸
・真言宗庵1軒 篠葺 梁行2間 棟行3間半 高さ2間半 境内 長9間 横3間 庵守道心道清
 ・右庵地の内薬師堂 篠葺 1間半使用 高さ2間半
            本尊 薬師立像  1尺8寸
            脇立 地蔵立像  1尺
               大師座像  5寸
・真言宗庵1軒 篠葺 梁行2間 棟行3間半 高さ2間半 境内 長25間 横15間 庵守出家真任
 ・右庵地の内阿弥陀堂 瓦葺 2間四方 高さ2間半
             本尊 阿弥陀立像 1尺5寸
             脇立 大師座像  1尺5寸
                地蔵座像  1尺7寸
  これは墓所にて御座候
・氏宮 天神宮八幡宮 1社境内 長25間 横7間
    こけら葺 2間四方 高さ4間
     瓦葺 幣殿 梁行2間 棟行3間 高さ3間
     同  拝殿 梁行3間 棟行5間 高さ3間
     瓦葺 鐘楼 2間四方 高さ3間 神主塩見伊勢守
 当村より道のり
 ・江戸え海路 202里 東に当る
 ・大阪へ海路 68里  右同断
 ・讃州丸亀へ 13里  右同断
 ・同国高松へ 21里  右同断
 ・阿州徳嶋へ 27里  右同断
 ・土州高知へ 24里  南に当る
 ・当国西條へ  4里  西に当る
 ・同小松へ  5里  右同断
 ・同今治へ  10里  右同断
 ・同松山へ  19里  右同断

注釈・知見など
1. 村石高は天正検地の数値が、慶長、寛文、享保でずっと使われている。
寛文10年(1670)1/4が西条領へ分地され(上天満村)、3/4が幕領(天領、公料、御料)(下天満村)とされた。石高が、西条領0.2538:幕領0.7462 =1:3となっていることが確認できる。
2. 御取箇:江戸時代、田畑に課した年貢のこと。成箇(なりか)。物成(ものなり)。取り。
年貢の履歴
幕領の御取箇(年貢)は、石高に対し、2割2分5厘程度、毛付で2割4分程度である。(507.28石×0.225=114石)
享保3年(1718)の年貢は例年の約61%であり、享保4年(1719)は87%であった。この不作の原因を知るべく宇摩地方の天災の記録を調べると以下のとおりであった。3)
① 享保3年6月 大干ばつ、雨乞い
② 享保4年8月27日 雹が降り大干ばつ、飢饉

3. 苧(からむし):カラムシの茎(から)を蒸(む)して皮を剥ぎ、衣類の繊維を採った。繊維が丈夫だったことから、古代から衣類の原料として最もよく使われた。ここでは巻とあるので、編んだ布単位に対し課税。
4. 宿請銀:船1艘につきを単位としているので、船宿経営への課税であろう。
5. 「樵木分一銀」:樵木(こりき)とは、薪(まき)で燃料にする。上方へ船で運んだので、樵木の量を7端帆1船が年間に運ぶ単位で数え、課税したのであろう。
6. 江戸御蔵前入用銀:(おんくらまえにゅうようぎん)浅草米蔵の諸入用にあてるため、元禄2年以降高百姓(100石)につき永250文(上方は銀15匁)を徴収した。4)
7. 御六尺給米(おんろくしゃくきゅうまい):幕府の雑役夫の給米にあてるため直轄領諸村に対し賦課された租税で、享保6年以降石高100石につき2斗であった。4)
8. 御伝馬宿入用(ごてんましゅくにゅうよう):幕府の直轄地に賦課された役で、御蔵前入用、六尺給米とともに高掛物三役の一つ。高100石につき6升定納。4)
9. 「御年貢米津出の儀は当村浜まで道のり3町程」とある。1町=60間=109m よって3町=109×3=327mとなる。浜まで327mの場所に御蔵(おくら)があることを意味しており、御蔵は、「天満村寺尾九兵衛(8) 慶安には幕領の年貢米を貯蔵する御蔵を管理した」で推定した場所は妥当であるといえる。
10. 川除(かわよけ):江戸時代、堤防を堅固にし、川底をさらい、河川の氾濫を防ぐ工事をすること。
11. 「毒薬質素御札」:「毒薬札」という高札は、「毒薬ならびに似せ薬の売買の禁止を最初の条として、いろいろな条が列記されていた。質素の項は、吉宗の享保の改革で付け加えられたと思われる。毒薬とは、石見国笹ヶ谷鉱山から産出された硫砒鉄鉱から作られた殺鼠剤で、俗に「石見銀山」「猫いらず」という名前で流通していた。5)
12. 「 ひしは 松実植林」:「ひしは」は「ひじば」か。「ひじ」は洲(す)4)。洲場か、洲に近い所にある林か。
13. 常市:この市は別子銅山関係の物流で栄えた「市場」を指すのか。
14. 「大地山 松実植林」と「酒造株」を寺尾九兵衛は所有していた。
15. 百姓作間の稼ぎ:百姓が農業の傍ら、稼いでいた仕事として、男は、①上方へ送る樵木を船に積む仕事 ②日雇いで品物や荷物を運ぶ仕事 ③別子・立川両銅山での仕事、女は、①綿をつむぎ布を織る仕事 ②たきぎこり(薪樵):たきぎを伐り出す仕事 であった。
15. 木挽(こびき):木材を「大鋸」(おが/おおが)を使用して挽き切ること、およびそれを職業とする者。
16. 庄屋役料 貞享3年(1686)伊予代官は幕領の庄屋役料を、その村の石高の1分と決めた。これが定法となり、一分米といわれた。2)
 大庄屋には、組内村々から 村高の2厘が役料として追加される。大庄屋二厘米という。
17. 庄屋屋敷は、村役場でもある。
郡屋(ぐんや):郡内の村役人の集会所
18. 観音堂の本尊 観世音立像 1尺3寸は、49番「観音菩薩」立像 高さ39cm 台座11cmである。6)
19. 大阪へ海路:享保時代に大坂でなく大阪と書いているのは、めずらしいのではないか。

注 引用文献
1. 土居町郷土史料 第六集「村々明細帳」p17(村上光信編纂 土居町教育委員会 平成元年 1989)
御料天満村享保6年(1721)明細帳(原本 川之江市立郷土館蔵 長野家文書 横半帳の内)
2. 「川之江市誌」p175~179  p154(昭和59 1984)
大庄屋の役割について「川之江市誌」の記述。
「大庄屋と御用達が郡方役人といわれる。大庄屋は村方庄屋兼帯であり、原則としては世襲であり、子供も苗字帯刀御免の待遇である。大庄屋は近村の郡方御用を勤め、郡中割の決定に参加し、村方の年貢、小物成、運上等の取立案を作ったり、普請の地方負担分の割振りや、公事、御願事の取次ぎ、村々間の争いの調停、軽犯罪の処分等である。その他、他領大庄屋との交渉の責にもあたる。」
「御用達とは、川之江陣屋では、陣屋の年貢や夫食米、普請の出歩役等について、元締の考えを各村庄屋へ伝達する役目をいう。」
3. 「伊予三島市史」上 p368(1984)国会図書館デジタルコレクション
4. 日本国語大辞典(小学館 昭和48年1973)
5. ブログ「おかやまぷろむにゃーど」>毒藥札について(2016.12.28)
6. 「天満・天神 学問の里巡り」49番(天満公民館 令和3年 2021)
    

天満村寺尾九兵衛(28) 井源寺の再建は元禄後期~宝永年間になされた

2025-03-02 08:49:13 | 趣味歴史推論
1. 井源寺縁起1)によれば、清賢寺は、弘仁6年(816)弘法大師が四国八十八ヶ所開創のおり、この地に創建したと伝えられている。本尊は毘沙門天(福徳神・武運神)で、雨寳山多聞院清賢寺と命名された。宝蔵寺・円蔵寺・地蔵寺(地名のみ現存)等の青年僧修行寺を直轄した。古来皇室の信仰厚く、延喜年間(900年頃)伊予国司が訪れ寺の興隆をはかったと伝えられる。中世では武将・守護職が武運を祈願したと伝えられる。南北朝から天正の約200年間は当地方も荒れた。清賢寺は天正13年(1585)7月秀吉の四国征伐軍の侵攻で焼失した。

2. 再建
 寺の再建は、天満村が別子銅山の粗銅・米等の道として繁栄していた元禄後期~宝永になされたと伝えられるが、史料がないようで、正確に決めがたい。正徳4年(1714)に、豊かな水を願って、清賢寺から井源寺への改称が、京都大覚寺より許可されているので、この時には遅くとも再建されていたであろう。元禄~宝永以降、寺は火災にあわなかったので、再建についての史料が見つかることを期待したい。
 井源寺縁起によれば、現在境内に残る元禄前後の墓石名より考えて、寺尾家・山中家・近藤家・岸家等の檀家が再建に大きく与力したと考えられるとのことである。
当時の大庄屋寺尾家当主は六代宗清(1712没)であり、先代(五代)春清(1709没)は隠居していたが金毘羅宮への青銅燈籠奉献(元禄9年頃1696,宝永3年1706)や天満神社本殿再建(元禄11年1698)に活動していたと考えられる。二人の存命時(元禄~宝永)に寺の再建がなされたのであろう。 

3. 再建された寺の様子が、享保6年の長野家文書2)に記されている。

長野家文書 御料天満村享保6年(1721)明細帳
真言宗雨宝山多聞院井源寺   境内 長80間 横60間
          瓦葺 梁行4間 棟行6間 高さ4間半
                       本尊 大日座像 1尺3寸
                          不動立像 3尺5寸
                          大師座像 1尺3寸
  毘沙門堂    瓦葺 2間四方 高さ3間
                       本尊 毘沙門天立像 1尺9寸
  十王堂     瓦葺 梁行2間 棟行3間 高3間
                       本尊 地蔵立像 1尺4寸
                       脇立 十王座像 1尺1寸
  鐘楼      瓦葺 1間四方 高2間


これから、当時の堂宇が境内のどこに配置されていたかを推理する。
(1)一番目の堂宇の名称が書かれていないが、最も重要な堂宇のはずであり、筆者は(本堂+客殿)を指していると推測する。その根拠は、以下のとおりである。
 ① 3尊の本尊(すなわち大日如来・不動明王・弘法大師)があること。
 ② 毘沙門天は毘沙門堂にあること。毘沙門天のいる堂宇が本堂と書かれていないこと。
これから、その当時の寺の本尊は、3尊(大日如来・不動明王・弘法大師)であった可能性が高い。
 ③ 本堂と並んで、客殿は必須である。
 この堂宇の場所は現在の客殿の位置と推定する。なぜなら、最も大きな堂宇であり、中腹にあるより客殿の使い勝手が良いからである。→写1
(2)毘沙門堂
 毘沙門堂は、現在の護摩堂(2.2間四方)の位置と推定する。
 その根拠は、
 ① 護摩堂脇に「護摩堂新建立 平成3年1月 旧毘沙門堂」の石碑がある。→写6
 ② 明治初年の記録がある。1)
   本尊 毘沙門天 
   本堂 2間四方
   客殿 7間と5間 
   庫裡 5間四方 
   鐘楼 1間半四方
   仏堂 2棟
 
 これから、明治初年には、本尊毘沙門天が祀られた2間四方の堂宇を本堂と呼んでいることがわかる。毘沙門堂を本堂とも呼んでいたのではないか。
(3)十王堂3)
 十王堂は毘沙門堂より大きくて、役割や境内の平地を考えると中腹の現在の本堂の位置にあったと推定する。
 現在の本堂(5間四方)は昭和12年1月に建立された(住職長良栄・副住恵敞)。十王堂に代わってそこに本堂が建てられたと推理する。その時に、毘沙門天・大日如来・不動明王・弘法大師の像が本堂に集められたのだろう。その後不動明王像は護摩堂に移されたのであろう。本堂の瓦紋は九曜紋(九曜星紋)と右三つ巴紋の両方が見られる。→写2,3
(4)鐘楼 
 現在の鐘楼(1間半)の位置と推定する。
現鐘楼(1間半四方)の竣工は、柱や瓦の新しさから、現在の客殿と同じ頃と推定される。瓦紋は九曜紋である。→写7
 梵鐘は、初鋳は元禄~宝永時代に、二鋳は文化14年(1817)寺尾九兵衛米次郎富清4)寄進により、(これは昭和16年(1941)戦時供出)、三鋳は昭和36年(1961)総檀徒中によりなされた。→写8

 現在の客殿(8間×7間)と庫裡は昭和63年3月27日(1988)に竣工し、落慶法要が平成元年3月28日(1991)に行われた。→写4,10 
瓦紋は寺紋の九曜紋である。→写5 
山門は昭和48年(1973)に再建された。→写9
結局、元禄~宝永時代に再建された堂宇は残っていない

4. 現在の仏像との比較
 享保6年の仏像と「天満・天神 学問の里巡り」記載(54番~58番)5)の現存する仏像とを比べてみる。
 享保6年                現在                    同一性
大日座像 1尺3寸(39cm)   56番本堂  大日如来座像 座高62cm 台座12cm    異なる
不動立像 3尺5寸(105cm)   57番護摩堂 不動明王立像 像高111cm 台座13cm    一致
大師座像 1尺3寸(39cm)   58番本堂  弘法大師座蔵 座高29.5cm        ほぼ一致
毘沙門天立像 1尺9寸(57cm) 54番本堂  毘沙門天立像 像高61cm 台座9cm     一致
-----------            55番本堂  吉祥天立像  像高41cm 台座7cm
地蔵立像 1尺4寸(42cm)   -----------
十王座像 1尺1寸(33cm)   -----------

 像の大きさと座像立像からだけの判断であるが、両者が同一であるかどうかを推定した。
昔の大日座像の座高1尺3寸が正しいければ、現在の大日如来座像は、異なることになる。ただ昔の記載値の間違いという可能性もあるので、断定はできない。
現在、毘沙門天立像は厨子に安置され、その妃の吉祥天立像と息子の善膩師童子(ぜんにしどうじ)を伴っているが、享保の文書では、吉祥天、善膩師童子を書き忘れたのか。
その他の仏像は、享保6年当時の仏像であるといえよう。
地蔵立像と十王座像(閻魔王)は未確認であるが、本堂にあるのではないだろうか。

まとめ
1. 井源寺の再建は、別子銅山が開坑して粗銅・米などの輸送で天満村が賑わっていた元禄~宝永の時代に、多くの檀家の与力によってなされたようだが、直接の史料がない。再建後の正徳4年に清賢寺から井源寺へ改称された。
2. 当時の寺尾家当主は六代宗清であり、先代春清も存命していた。
3. 長野家文書(享保6年)によれば、本堂に3尊の本尊(大日如来・不動明王・弘法大師)、毘沙門堂に本尊毘沙門天、十王堂に本尊地蔵菩薩・閻魔王座像が祀られていた。
4. 現在の仏像は多くがその頃のものであることがわかった。
5. 再建当時の堂宇は残ってないが、その位置を推定した。


注 引用文献
1. 「井源寺縁起」(口述22世住職長恵敞 編集岸政彦 昭和48年2月 1973)
2. 土居町郷土史料 第六集「村々明細帳」p17(村上光信編纂 土居町教育委員会 平成元年 1989)の内「御料天満村享保6年(1721)明細帳(原本 川之江市立郷土館蔵 長野家文書)
3. 十王(じゅうおう)は冥界にあって死者の罪業を裁判する10人の王で、閻魔王(えんまおう)は没後五七日(35日)に裁きを行う。閻魔王は地蔵菩薩と組になるが、ここでは本尊が地蔵菩薩で、脇立が閻魔王となっている。
4. 第10代寺尾九兵衛米次郎は、貞治郎、貞次郎の名もある。1704生年~1804没年。生前に寄進し、梵鐘が鋳られたのは、文化14年(1817)である。
5. 「天満・天神 学問の里巡り」54番~58番(天満公民館 令和3年 2021)

写1 井源寺全景(左から山門、本堂(中腹)、客殿、庫裡 2025.2.27)


写2 本堂


写3 本堂の瓦


写4 客殿


写5 客殿の瓦


写6 護摩堂


写7 鐘楼


写8 梵鐘


写9 山門


写10 庫裡


天満村寺尾九兵衛(27) 天満神社本殿は元禄11年に第六代宗清が寄進した

2025-02-23 08:34:02 | 趣味歴史推論
 天満神社の由緒によれば、1)元禄8年(1695)11月、天満宮本殿が焼失したので、菅公縁の地なりし宮山を清浄の地と選び、大庄屋寺尾九兵衛の寄進によって元禄11年(1698)9月社殿を建立し天満宮・八幡宮を奉斉し、明治40年(1907)に天満神社と改称し現在に至った。→写1
この天満神社本殿は、令和2年(2020)2月に愛媛県指定有形文化財(建造物)に指定された。「江戸時代の東予を代表する貴重な建築であり、江戸時代の優れた建築意匠を示す重要な建造物」として評価された。2)
 元禄11年(1698)は別子粗銅が天満村を通っている時期であり、大庄屋の当主は六代宗清であり、先代の春清は隠居していた。寺尾家としては、最も多忙で繁栄した時期であり、本殿の寄進はこうした時期になされたのである。
(1)建立年
神社の由緒には、元禄11年9月建立したとあるが、建築当初の棟札や資料は残されておらず、確認された棟札は安永4年(1778)「御正殿修繕」以降のものである。由緒に「元禄11年9月」と月まで詳しく書かれていることより、その根拠となる史料がどこかにあるはずである。本殿の屋根裏にあるのか、庄屋の文書にあるのか、関係ありそうな所はないだろうか。 
(2)大工 郷土史家の高橋暉洋は、「宇摩史談」において、竣工した大工を川之江村の宮崎家であると根拠を挙げて特定している。3)その箇所を以下に示した。

「天満神社の元禄の棟札が見つかっていませんが、当時の近隣の寺社棟札と建築の特徴をみると、(当時近隣の有力な寺社を一手に引き受けていた川之江村の)宮崎家の仕事であることが明らかになります。
 ・慶安2年(1649) 宮崎弥三右衞門  川之江八幡宮本殿
 ・寛文6年(1666) 宮崎弥五右衞門  今宮大明神一宇
 ・寛文8年(1668) 宮崎弥五右衞門  八幡神社宝殿
 ・天和3年(1683) 宮崎弥五右衞門  三角寺両澤権現社
 ・貞享4年(1687) 宮崎弥五右衞門  三角寺弥勒堂
 ・元禄5年(1692) 大工宮崎吉右衞門 小工宮崎与右衞門 大島八幡宮本殿
とあり、上記のような記録から、火事で焼失した本殿の再興にあたり「大島八幡宮の様に」との寺尾家の要望があったという地元の言い伝えや、さらに大島八幡宮と天満神社を比較すると、様式、彫物が一致する箇所が多いため、大島八幡宮の棟梁の宮崎家の仕事と判断できます。

(3)本殿の特徴・すばらしさ・すごさは、以下に記されている。
①四国中央市の広報4)
②天満公民館報5)→写2,3
(4)彫物 高橋暉洋は、興味深いことを指摘している。3)
 ①向拝蟇股の彫物 西行松 赤星山を望んで歌を詠む西行 関戸の西行岩
 ②唐破風の彫物  唐松 琴を弾く天女
 ③虹梁持送の彫物 象 獏 籠彫り
 ④向拝虹梁の木鼻 龍(後補)
 ⑤妻飾の彫物 三葉懸魚(後補) 牡丹 当社八幡神紋の五三桐 鬼の顔
 ⑥脇障子の彫物 松竹梅
 ⑦隠された彫刻 菊
 ⑧手挟の彫物 犀 鯉に乗る琴高仙人 蓑亀に乗る黄安仙人
 ⑨向拝の降懸魚 山鵲

まとめ
1. 天満神社本殿は元禄11年に第六代宗清が寄進したものである。
2. 大工は川之江村の宮崎家であることが、高橋暉洋により明らかにされた。
3. 天満神社本殿は、令和2年に愛媛県指定有形文化財(建造物)に指定された。「江戸時代の東予を代表する貴重な建築であり、江戸時代の優れた建築意匠を示す重要な建造物」として評価された。


注 引用文献
1. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(12)文明9年高橋太郎衛門が天満宮を建て天満村と名付けた」
2. web. 「愛媛県の文化財 - 愛媛県教育委員会」>県指定有形文化財>建造物>天満神社本殿
3. 高橋暉洋「旧天満村の天満神社本殿について」宇摩史談第107号p116(令和2年5月 2020)
4. web. 「広報四国中央」>令和2年6月号>「天満神社本殿が県指定有形文化財に指定」
5. 「天満・天神 学問の里巡り」巻末(天満公民館 令和3年 2021):郷土史家岡本圭次郎が公民館報「てんま」に(2001.11~2011.3)執筆した文をまとめたもの

写1. 天満神社本殿


写2. 天満神社本殿 愛媛県指定有形文化財に指定「天満・天神 学問の里巡り」より


写3. 天満神社本殿 技光る装飾彫刻 「天満・天神 学問の里巡り」より


天満村寺尾九兵衛(26) 宗清と貞之進英清の間に二代の当主がいた

2024-12-22 08:46:54 | 趣味歴史推論
  寺尾九兵衛家の位牌のなかに、没年が享保で続柄の不明な位牌が二柱あった。九兵衛とか〇清とか九兵衛室と書かれていないので、当主やその室でないと判断していた次の二柱である。

 位牌
  享保9甲辰歳9月29日(1724)
  梵字ア 法玉理然居士霊位
 裏面
  俗名 寺尾彌市右衞門

 (推定)妻の位牌
  享保13戊申年10月4日(1728)
  梵字ア 観智恵照大姉霊位


 金毘羅宮奉献八角形青銅燈籠 宝永3年10月吉日 寺尾春清 同九兵衛尉宗清 同十郎右衛門尉貞清1)

1. 位牌には寺尾弥市右衞門と俗名だけが書かれているので、春清、宗清との続柄が分らなかった。ここに至って筆者は次のように推理する。
 ① 八角形青銅燈籠(宝永3年)の寺尾十郎右衛門尉貞清は宗清の弟である。
 ② 寺尾彌市右衞門と十郎右衛門尉貞清は同一人物である。
 ③ この人物が、宗清亡き後、七代当主寺尾貞清となった。そして貞清亡き後、享保9年(1724)に(1724-1697+1=)28歳となった庸清が八代当主となった。
2. 九代当主貞之進英清は、宗清とツタの子供ではないことは、生年から分ると前報で指摘した。英清は七代当主寺尾貞清の子と推理した。名に貞之進と「貞」が付くこともそれを示唆している。ツタの義甥にあたる。
 宗清、貞清、貞清の妻、貞之進の年令考から、この推理の妥当性をチェックしてみる。
 各人の生年と没年は以下の通り。
 宗清 (1670)~1712
 貞清   ? ~1724
 貞清の妻 ? ~1728
 貞之進 1720 ~1759
 ここで、貞清は兄宗清より10才若いと仮定すると、生年は1680年となる。弟の結婚は30才と遅かったと仮定すると結婚は1709年となる。貞清の妻はやや遅く20才で結婚したとすると妻の生年は1690年となる。貞之進を生んだ妻の年令は31才となる。あり得ることである。
なお、以前本ブログ1)では、「寺尾十郎右衛門尉貞清とは、上天満村庄屋(西条藩)の名は「九郎兵衛」と古文書にあるが、その人の名でもあるのか」と記したが取り消したい。
 これまでの情報だけでは、間違いがありうるので、今後過去帳の調査でより正確になることを期待したい。
3. 寺尾九兵衛家系図(5代~9代)は次のように修正した。


4. 寺尾九兵衛当主年表 暫定版(2024.6)を修正し、寺尾九兵衛当主年表 修正版(2024.12)として示した。→表

まとめ
1. 八角形青銅燈籠(宝永3年)の寺尾十郎右衛門尉貞清は宗清の弟であり、位牌の俗名彌市右衞門と同一人物であると推定した。
2. 貞清は宗清亡き後七代当主寺尾貞清となり、貞清亡き後、宗清ツタの子庸清が八代当主となった。
3. 庸清亡き後、貞清の子貞之進英清が九代当主となった。貞之進英清はツタの義甥にあたる。


注 引用文献
1)本ブログ「天満村寺尾九兵衛(24) 春清・宗清は金毘羅宮へ八角形青銅燈籠を宝永3年に奉献した」
(2024-12-08)

表 寺尾九兵衛当主年表 修正版(2024.12)


天満村寺尾九兵衛(25) 第六代九兵衛宗清とツタの結婚及び子供たち

2024-12-15 09:11:33 | 趣味歴史推論
 天満村大庄屋五代寺尾九兵衛春清が田向重右衛門と会談し、別子銅山稼働後に当主を継いだのが六代宗清である。宗清の妻がツタであり、夫亡き後、坂之内池を(築造し)水を引いた女傑であった。ツタを中心に一家を追っていきたい。

1. ツタは新居郡大島浦の上野庄左衞門家から嫁いできた。土居町誌によれば 1)「上野家は代々伊賀の国上野の城主であったが、豊臣秀吉に攻略せられ、大島の豪族村上氏を頼って土着したが、男がなくて、村上氏から養子を迎えたその子孫である。従ってツタには武将と伊予水軍の地が流れていた。」

 ツタの位牌
   寛延4辛未年2月16日(1751)
  梵字ア 實乗妙空大姉霊位

 位牌を納めた観音開きの厨子の背裏に
   施主 寺尾新兵衛
   出所大嶋浦上野庄左衞門娘
      俗名 寺尾おつた
      行年 七十四歳


 施主の寺尾新兵衛は、立場から云えば、八代当主貞之助英清と推定される。
 その当時の行年は数え年であったので、ツタの生年は、(1751-73=)1678年延宝6年である。
(1)いつ結婚したか
 ①豊かな家同士だったので、娘は数え年15~16で嫁いだ可能性がある。数え年15で嫁いだとすると、(1678+14=1692)元禄5年となる。
 ②寺尾九兵衛本家の位牌調査の結果、判明した事の一つに次のことがある。
 暫定当主年表2)に七代九兵衛として挙げた「寺尾庸清」(つねきよ)の存在がわかったことである。庸清は、宗清とツタの間に生まれた子に間違いなく、九兵衛とあるから当主を継いだことも確かである。
  庸清の位牌
   元文4己未歳10月29日
  梵字ア 實嚴道恕居士霊位

 裏面に
   俗名寺尾九兵衛庸清
   春秋43歳卒


 庸清の没年は1739年であり生年は(1739-42=1697)元禄10年である。ということは、ツタの結婚は元禄9年以前である。
 ③金毘羅宮への奉献燈籠の願主から
  石燈籠 元禄7年(1694) 寺尾氏春清
  六角形青銅燈籠 元禄9年(1696)頃 奉献者 寺尾善三春清 同九兵衛尉宗清 同十郎右衛門 
 六角形青銅燈籠の奉献年は1696年頃と筆者は推定しており、この年には、九兵衛宗清となっているので当主は宗清であることがわかる。この時には結婚していたと言える。
 一方、石燈籠には宗清の名がないことから宗清は当主でない可能性がある。同時に九兵衛春清と書かれていないことから、春清はすでに隠居している可能性もある。元禄7年には結婚していたかどうかは決められない。
 以上のことから、ツタの結婚は、位牌の情報からは元禄5~9年であり、燈籠の情報からは、元禄7~9年頃である。
(2)生んだ子供たちの育ち
 夫の宗清は正徳2年(1712)に亡くなっているので、最も遅い子供の生年は、正徳3年(1713)以前である。またツタの出産年令は数え年で31歳までと予想すると位牌の次の人たちが、ツタの子供に該当する。
 ① 庸清  元禄10年(1697)~元文4年(1739)
 ② 童女  没年月日 元禄13年正月15日(1700) 
 ③ 童子  没年月日 元禄13年6月28日(1700)
 ④ 童女  没年月日 宝永7年9月22日(1710)

 童子、童女は数え年5~15歳に付けられる戒名なので、その生年は
 ① 生年1697 ツタの年令(数え年)20に相当
 ② 生年1700-(4~14)=(1686~1696) ツタの年令(数え年)9~19に相当
 ③ 生年1700-(4~14)=(1686~1696) ツタの年令(数え年)9~19に相当
 ④ 生年1710-(4~14)=(1696~1706) ツタの年令(数え年)19~28に相当         
 これから考えられるケースとして、第1子②女児1695生、第2子③男児1696生、第3子①庸清1697生、第4子④(1698~1706)生。 または、第1子と第2子が入れ違うケースである。
 結局4人の子供が5歳以上に育ったが、成人したのは庸清一人だけであった。
 ケースから推測すると結婚は元禄7年(1694)頃でツタ17才である。その時、宗清が25才(数え年)とすると、宗清の生年は(1694-24=)1670年寛文10年となり、享年は43となる。ツタは(1712-1678+1=)35歳で寡婦となった。

(3)庸清は八代九兵衛であろう。
 当主年表 暫定版(2024.6)より2)
 五代九兵衛 春清 推定当主期間1680~1693  ~1709(宝永6年12月17日卒) 明穹法欽居士   
       妻               ~1715(正徳5年2月19日卒) 久山性永信尼 
 六代九兵衛 宗清       1693~1712  ~1712(正徳2年12月4日卒) 一白浄卯居士
       妻ツタ           1678~1751(寛延4年2月16日卒) 實乗妙空大姉 
 当主年表には、七代九兵衛として、庸清を挙げていたが、宗清が亡くなった正徳2年に、庸清は(1712-1697+1=)16歳にしかなっていない。大庄屋職が直ぐ務まるとは思えず、庸清の前に別の当主が一人いたと考えるのが妥当である。新たに七代当主を推定したので、次報でこの事を記したい。また貞之助英清は、ツタの実子でないことも貞之助英清の生年が享保5年(1720)であることから明らかである。

2. 大島浦吉祥寺の金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅(享保4年 1719)
 ツタの出身地の新居浜大島の真言宗吉祥寺には、二幅の曼荼羅がお祀りされている。(年二回春秋のみ開帳)それには次のように書かれている。3)4)
享保4年7月 両界曼陀羅 施主井筒屋上野庄左衛門 為天満寺尾九兵衛母儀 絵師東寺絵所大法印姉崎永喜(京都室町)」昭和48年再表装。
これによれば、大島の井筒屋上野庄左衞門は、娘ツタの姑(夫宗清の母=春清の妻)「久山性永信尼」をお祀りするために両界曼荼羅(絵師姉崎永喜 姑没後5年(1720)描)を寺尾家に納めた。そして江戸~明治の時代に 寺尾家から、この曼荼羅が縁のある吉祥寺に寄進されたと思われる。5)

まとめ
1. 新居郡大嶋浦上野庄左衛門の娘ツタは、六代九兵衛宗清と元禄7年頃結婚した。
2. 4人の子供が5歳以上に育ったが、成人したのは庸清一人だけであり、八代当主となった。
3. 夫宗清は正徳2年に(推定享年43)に没し、ツタは35歳で寡婦となった。
4. 上野家は、ツタの姑のお祀りに姉崎永喜作の両界曼荼羅を寺尾家に納めた。


注 引用文献
1. 土居町誌p832「坂之内池を築いた寺尾つた女」(執筆山上統一郎)(昭和59年 1984)
2. 本ブログ「天満村寺尾九兵衛(2) 大庄屋寺尾九兵衛当主年表」(2024-6-30)
3. ホームページ「新居浜市大島の毘沙門天・吉祥寺」>陽向山吉祥寺のご案内>両界曼陀羅図
→両界(金剛界・胎蔵法)曼荼羅の画像がある。
4. 姉崎永喜作の仏画について
兵庫県多可町政記者発表資料(令和5年) 「金蔵寺所蔵の姉崎永喜作仏画「薬師師三尊十二神将像図」「五大明王像図」「仏涅槃図」の3点を多可町指定文化財に指定した(2023.2.22)。」
姉崎永喜(?-1729)は、江戸時代の姉崎派ともいわれる仏画の絵師の一派の初祖。 延宝年間に当時より「絵所」辞令を受け、その後、真宗仏光寺派の本山である仏光寺の絵所を務める。
【姉崎永喜 作例】
・大宝寺 仏涅槃図 (長野県駒ケ根市指定文化財) 享保3年(1718)
・吉祥寺 金剛界曼荼羅・胎蔵界曼荼羅 (愛媛県新居浜市大島)享保4年(1719)
5. 土居町誌p89(執筆真鍋充親)「新居郡大島村の吉祥寺には寺尾家寄進の曼荼羅一対が秘蔵されている。まことに立派なものである。(ヲツタは大島村上野家の出であった)―参考明治45年天満村郷土誌―