伊予国の奈良時代の軍団制下の軍団と、平安時代の健児制下の健児所(こんでいどころ)について調べる。栗田寛(1890)は、伊予国の軍団数は3、その一つは国府のある越智郡にあると推定した。(←伊豫軍印(14))それらの軍団はどこに置かれていたのか。また健児所のあった国府は越智郡のどこにあったのか。
1. 軍団所在地を推定した説
(1)栗田寛の説を受けて、明治の歴史地理学者
原秀四郎が、明治44年(1911)に郷里波止浜での講演で(記録「越智郡郷土誌材」(1914))、
初めて伊予国の軍団所在地についての説を示した。1)2)
原秀四郎「越智郡郷土誌材」(1914)→写
「但し国府を守護する兵営なる軍団あり。すべて王朝の地方制度にては軍団は2郡3郡又は4郡を1区として1ヶ所づゝ設けられ今日の歩兵一大隊位の兵力ありし様なり。そのうちにても国府近くには必ずその1団あり。郡名まれには所在地の地名をその冠称とす。越智国府近くのは越智団と云いしならん。今日、
越智郡に「旦」と称する処ありて、之を「ダン」と訓ず。
周桑郡にも「旦の上」という村あり、
その隣村に兵庫山の城趾あり。
新居郡にも「旦の上」という村あり、「ダンノウヘ」と訓ず。
即ち皆「団」の遺名にして察する所、東伊予にては2郡づゝに1団を置きしものと思わる。兵庫は「ヘイコ」と読まずして「ヘウゴ」と訓ず。軍団の兵器を入れ置く庫なり。周桑郡には「旦」と「兵庫」と共に地名残るも越智団の兵庫の位置は不明なり。但し「旦」村の近くに霊山の故城趾あり。その城は後世のものなるも、早く烽燧(トブヒ 夜と昼ののろし)など設けられしやも知るべからず。長門の豊浦郡には火の山壇ノ浦(団ノ浦)など相近く存在せり。なお「旦」村近くの地方の諸君の研究を希望す。
又ご承知の通り、
軍団の制は奈良朝限りにて止み、平安朝には之に変わりて、健児という志願兵を以て、国府や関所や駅鈴を納めたる庫やを守らすこととなり。その屯所を健児所と云へり。健児は之を「コンデイ」と訓じ、健児所は之を「コニソ」と訛りて訓むなり。又警察的任務を執る諸国の検非違使の役所を検非違使所(ヒイソ)と訛り、税務を掌る役所を税所(サイソ)と訛りて唱ふ。又制度敗れたる後にもなお国府近傍に世襲的に土着する豪族ありて、之を在庁官人と云い、略して在庁(ザイチャウ)と云う。その役所を留守所(ルスソ)といへり。かかる名称が地名小字となりて国府趾近傍に遺存することあるべし。御気附きの方は御報知ありたし。
なお序に申さんに、当時制度のもっとも完全に行われたるは奈良朝の方なるが、その時代の出雲風土記を参考にするに、「国内において軍団の外に所々に烽燧(トブヒ)と戍(マモリ)とを置かれし如し。わが越智郡において風土記は残らざる故に仕方なきも、かゝる古蹟が地名となりて残りおらずやと考えおるなり。そのうち宮崎梶取岬の辺なる日山(ヒノヤマ)は出雲の例によれば或いは烽燧の遺蹟にあらずやとも思わる。烽燧は単に「ヒ」とも訓み、或いは別に狼煙(ノロシ)と云う名にて残ることもあり。」
(2)さらに昭和49年(1974)に、日野開三郎らは、道後平野にも2軍団、すなわち伊予郡と久米郡に軍団があったという説を提案した。3)
日野開三郎ら「伊豫市誌」(1974)
「従来、既に指摘せられている三軍団はいずれも東予、すなわち道前の地に限られていて、道後の地には関係がない。しかし、五郡がおかれ、大条里制が敷かれていた道後に、この重要地の治安をになう軍団が全くおかれていなかったとは考えられない。こうした考えに立って調査を進めたところ、果たして川上町と伊豫市の宮の下とに、その遺址が発見せられた。
久米郡川上町字北方にある「旦の上」は軍団の遺址とみて誤りはない。次に
伊豫郡字宮ノ下のホノギに「段ノ上」(長泉寺付近)がある。ここは断層線の北側に展開する扇状地の扇の頂付近にあって、道後平野の南部を展望できる好位置の高地である。段ノ上の段は旦と同じく団の転訛で、伊予国の遺址とみるべきである。付近に式内社の伊曽能、伊予、高忍日売の諸神社がある。また、伊予郡の郡家の所在にも近く、こうした一帯の要地を押え、西瀬戸内海の交通安全に、にらみをきかす大きな役割をになって設置せられた軍団であろう。」
2. 検討
原、日野両説の根拠は、「団」が転訛して「旦」「段」になったという字名によっている。考古学的に軍団遺蹟を見つけることは、難しいことであろう。記録にある軍団でも遺蹟の発見に至った所は検索する限りなかった。よって今のところ、この字名によって推量するしかない。
軍団は国府や郡衙(郡家)の所在地にさほど遠くない軍事的要地に設置されたと考えられる。南海道から近い距離の土地や、見通しが良い扇状地上の扇頂部や段丘上の小高い土地は移動や軍事訓練に好適である。
「旦」「旦之上」は愛媛県に特徴的な転訛なのであろうか。四国の他の国では地名に「旦」は見当たらない。軍団が制度上なくなった後、ある伊予国司がその土地を「旦」と記すように指示したのではないだろうか。土地の形状が似ている場所は多数あるが、数か所だけ「旦」「旦之上」と名が付いているのは、意味があるのであろう。
両説をまとめると栗田寛の説の3軍団より多いが、以下のようになる。
軍団の推定所在地 →図
推定軍団名 郡名 推定地
原秀四郎説 1. 越智団 越智郡 櫻井村字
旦(今治市)
2. 桑村団 桑村郡 庄内村字
旦之上(西条市)
3. 新居団(神野団) 新居郡 中萩村
旦之上(新居浜市)
日野開三郎説 4. 伊予団 伊予郡 宮ノ下
段ノ上(長泉寺付近)(伊予市)
5. 久米団 久米郡 川上村北方
旦之上(東温市)
健児所の推定所在地 伊予国府の直近 越智郡蒼社川右岸の四村-中寺-八町周辺(今治市)4)
以下に各所について考察する。
①越智郡櫻井村字旦(今治市)
「旦」は、国分寺、国分尼寺跡に近く、眼の前を南海道が通っている土地である。国府、郡衙の所在地は、未確定であるが、蒼社川右岸の四村-中寺-八町周辺が有力のようである。4) 国府、郡衙地の他説も含めて、「旦」から皆、数kmの範囲である。慶安元年(1648)伊予国知行高郷村数帳には「
越智郡 旦村・高544石4斗3升、内 田方527石9斗1升7合、畠方16石5斗1升3合 日損所、芝山有」とある。5)
②桑村郡庄内村字旦之上(西条市)
扇状地の扇頂に位置する。「旦之上」の「旦」に軍団があったとすると、東0.5km程度の距離に兵庫山城址がある。すぐ近くを南海道が通っている。郡衙は検索するも不明である。慶安元年(1648)伊予国知行高郷村数帳には「
桑村郡 旦ノ上村・高765石7斗8升 内 田方716石8斗3升6合、畠方48石9斗4升4合、日損所、小川有、芝山有」とある。
③新居郡中萩村旦之上(新居浜市)
「旦之上」は、筆者宅2階から見える見通しのよい緩やかな斜面の平地である。新居郡衙(郡家)は中村本郷にあったとされており、東2km程の近い距離である。また眼の前を南海道が通っている。西1km(大生院)には正法寺があり、奈良時代から開けていた。
「旦之上」の「旦」が軍団跡と関係があるかもしれないとは、筆者は今迄知らなかった。「中萩の歴史探訪」によれば、「旦ノ上」の地名の由来については「この字地は、渦井川と小河谷川による扇状台地にあり、岡村断層の上にあることから付いた地名である」と書かれている。なお岡村断層の下側の地名は「岸の下」である(岸は崖の意味か)。6)今回の推定からすると「旦」すなわち「団」は「岸ノ下」にあったのかもしれない。
慶安元年(1648)伊予国知行高郷村数帳には「
新居郡 萩生村・高1,173石7斗9升 内 田方396石4斗9升4合、畠方777石2斗9升6合、柴山有、日損所」とある。
④伊予郡宮ノ下段ノ上(長泉寺付近)(伊予市)
ここは「段ノ上」であるが、「団」の転訛としている。断層線の北側に展開する扇状地の扇の頂付近にあって、道後平野の南部を展望できる好位置の高地である。郡衙に近いと書かれているが、筆者が検索するも郡衙跡は不明である。
宮ノ下村は古くは南神崎村といわれ、慶安元年(1648)伊予国知行高郷村数帳には「
伊予郡 南神崎村・高2,023石5斗6升5合 内 田方1,034石2斗5升、畠方989石3斗1升5合、日損所、松林山少有、芝山有」とある。
⑤久米郡川上村北方旦之上(東温市)
「旦之上」には遺址が発見せられたとあるが、筆者はその情報にたどり着けなかった。「旦の上」は軍団の遺址とみて誤りはないとのこと。久米郡衙は、2006年の報告書によれば、現松山市来住(きし)町(来住廃寺跡)にあったことがわかってきた。7)「旦之上」は、この郡衙から東10kmとかなり遠くにあるので、現時点で判断すると、立地としては少し問題がある。慶安元年(1648)伊予国知行高郷村数帳には「
久米郡 北方村・高1,279石1斗9升 内 田方1,132石2斗1升、畠方146石9斗8升 林有、小川有」とある。
健児所
伊予国府は、越智郡蒼社川右岸の四村-中寺-八町周辺である可能性が高い。4) 軍団のあった櫻井村字旦とは4km程離れているので、国府・兵庫・駅鈴庫の守衛を少数でするには不便である。健児所は軍団のあった旦から、国府のすぐ近くに移されたのではなかろうか。その方が国司の命令が伝わり管理監督しやすくなる。
まとめ
1. 原秀四郎説:伊予国軍団跡は、「団」の訛った「旦・旦之上」にあり、越智郡旦、桑村郡旦之上、新居郡旦之上の3ヶ所である。越智郡旦は国府のある郡にあること、桑村郡旦之上は、近くに兵庫の地名があることから、妥当と思われる。
2. 日野開三郎説:道後平野の伊予郡段ノ上、久米郡旦之上の2ヶ所も候補としたい。
3. 健児所は、伊予国府のすぐ近くに設けられたはずである。
注 文献
1. 原秀四郎講述「越智郡郷土誌材」p38(東予新聞社 1914)→写
原秀四郎(1872~ 1913):越智郡波止浜町出身、明治時代の歴史地理学者、帝国大学で坪井九馬三に学び、東北地方古代史の研究で文学博士号を得、國學院大學等で地理、歴史を教えた。(Wikipediaより)
web. 川合一郎「原 秀四郎 ―その伝記書誌的考察―」『歴史地理学』51(3)(2009)
2. 景浦稚桃「伊豫軍印に就て」伊予史談 第5巻2号(18号)p6(大正8年9月 1919)
3. 日野開三郎、日野尚志「古代の伊豫市とその周辺」伊予市誌 特別寄稿(昭和49年 1974) web.データベース「えひめの記憶」>書籍一覧(市町村誌)> 伊予市誌
日野開三郎(1908 - 1989):愛媛県伊予郡出身、昭和期の東洋史学者、文学博士、九州帝国大学教授(1946~1972)(Wikipediaより)
日野尚志:愛媛県伊予郡出身、歴史地理学者、佐賀大学教授
4. web. 愛媛県埋蔵文化財センター「第1章 伊予国府研究史-推定地諸説と研究の現状」p3(2018.4)
5. 愛媛県立図書館編集 愛媛県史料1「伊予国旧石高調帳」(昭和49年 1974)
6. 中萩古文書を読む会編集(主筆内藤雅行)「中萩の歴史探訪」p158(2011)
7. 史跡久米官衙遺跡群調査報告書(松山市 埋蔵文化財センター 2006)
・伊予国軍団推定地の図は、「愛媛県史 古代Ⅱ・中世」p233(1984)の図(郡境)を転用し、南海道は、p72~80の条理図を参考にして書き入れた。
図 伊予国軍団推定地
写 原秀四郎の伊予国軍団所在地推定 (原秀四郎「越智郡郷土誌材」より)