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天満村寺尾九兵衛(6)「西条藩領内図八折屏風」に描かれた元禄の天満村

2024-07-28 08:09:25 | 趣味歴史推論
 寛永~寛文~元禄の天満村を描いた絵図を探していたら、加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」が、「西条藩領鳥瞰図屏風」を詳しく読み解いているのを見つけた。1)この屏風は、西条郷土博物館所蔵で「西条藩領内図八折屏風」と称するもので、西条誌指定有形文化財である。2)「歴史研究余話」では、この屏風と新居浜市所蔵(天保8年頃描)の屏風を対比して領内の様子・時代変遷を調べている。西条郷土館所蔵の屏風が元禄の天満村の状況と考えられるので、以下はこの屏風からの知見について述べる。
「西条藩領内図八折屏風」=「西条藩領鳥瞰図屏風」
紙本金砂粉著色 地名は朱筆書き 高さ122cm幅386cm。8つのパネル(扇)を連ねたもので、向かって左端の第8扇に天満村が描かれている。

加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」(2021)より
「1. 描かれた年代 一柳直興が寛文5年(1665)に改易となり、5年後の寛文10年(1670)紀州家初代徳川頼宣の次男松平頼純が西条三万石を就封した。西条藩主は定府大名で参勤交代の義務を免除され江戸に定住していたので領内の地形は不明である。従って、藩主頼純は領地の景観を把握する必要から屏風を作らせたと推察される。入部は寛文11年(1671)から宝永5年(1708)の間に5回あるが、2回目の元禄7~8年(1694~1695)(松平頼純53歳)に描かれたと推定される。その根拠は、「有田村」の名前の期間が入部時期(1回目、2回目)と重なること、第7扇右上部に「あかゝ祢山」(あかがねやま 銅山)と書かれていることである。(著者は「あかがね山」を元禄4年開坑の別子銅山とみている。西条藩領の立川銅山の可能性もあるのではと筆者は思うが)
 2. 絵師 紀州藩の御用絵師の可能性が高い。」

解説
第8扇の天満村近辺で朱筆された地名は、手前の海側から①新居郡境宇摩郡 ②本とけ崎 ③天満村 ④天神 ⑤大西山田村 ⑥天満の内西山田村 ⑦天己う である。
②「仏崎」は、右側の大きく突き出た岬の所に書かれるべきである。
「千々の木川」(ちちのき)の河口が広かったことが分る。
天満村 幕領である。西条藩領ではないが描かれている。
天神は現在の天満神社。白鳳2年(673)大地山の北面中腹に八幡神を鎮守化していた所へ、文明9年(1477)天満天神(菅原道真公)を勧請し合祀した。爾来、八幡宮・天満宮と称し、村名も「天満村」と改めた。本殿は、元禄8年(1695)11月焼失、大庄屋寺尾九兵衛の寄進により元禄11年(1698)再建された。3)
大西山田村 村の口伝によれば、幕領である。すなわち下天満村に属する。天満村と並んで人家が多かった。
天満の内西山田村 「天満の内」は大くぐりには天満村の内ということであろう。西山田村は、大西山田村の東に位置する原久保市場付近であり、西条藩領(上天満村)である。
天王(てんのう)は、旧称 牛頭天王宮(ごずてんのうぐう)。すさのをのみことを祭って、推古25年(617)に社殿建立と伝えられる。元徳2年(1330)北野・畑野・土居・上天満 4ケ村の氏子中初めて祭典を行った。文明15年(1483)近郷に疫病流行、村民祈願してその害をのがれ、大いに威徳を崇めて、翌春社殿を修補。天正15年(1587)宮山より現在の山麓に遷宮。明治2年(1869)八雲神社と改称した。4)
西山田村と天王宮周辺は西条藩領(上天満村)である。
 なお井源寺(旧清賢寺)は描かれていない。天正13年(1585)秀吉軍の侵攻で焼失し、寺尾九兵衛らにより再建されたのは正徳4年(1714)である。

まとめ
1. 元禄時代の西条藩領内図八折屏風には、仏崎・天満村・天神・大西山田村・天満の内西山田村・天王が描かれていた。
2. 千々の木川の河口が広かった。


 本屏風の写真掲載に当たっては、西条郷土博物館館長真鍋和年様、写真撮影(2014.5.8)の三浦聖様、写真所蔵の加藤栄子様のご協力をいただきました。お礼申し上げます。

注 引用文献
1. 加藤正典「伊予西条藩の歴史研究余話」p134-190(発行加藤正典 2021.5)
加藤正典:郷土史家(1935-2021)主な著書「西条の手漉き和紙の歴史と文化」(2005)「別子銅山・炭の古道」(2019)
2. パンフレット「西条市立西条郷土博物館」 この屏風は田中大祐翁から昭和27年に郷土博物館へ寄贈された。西条市指定文化財(昭和39年)
3. 本ブログ「伊豫軍印(3)八雲琴創始者の中山琴主が奉納した可能性が高い」(2023.3.19)中の八雲神社由緒
4. パンフレット「天満神社沿革」

写1 「西条藩領内図八折屏風」の第8扇 天満村付近


写2 「西条藩領内図八折屏風」の第7扇 右上部に「あかがね山」あり


天満村寺尾九兵衛(5)上柏村寺尾家から出た尾張藩寺尾家の系図

2024-07-21 08:16:22 | 趣味歴史推論
 天満村寺尾家と尾張藩寺尾家の家紋が三つ扇で同じなので上柏村と天満村の寺尾家は血縁関係にあるとした。しかし 上柏村の寺尾家と尾張藩士寺尾家との繋がりが文献により異なり、筆者は混乱していた。はっきりさせるべく、筆者は2024年2~5月の間、ブログ「フクロウ日誌」著者のK氏と詳細なやりとりを行った。K氏の綿密な研究により納得のいく状態になったので、本報で要点を記させていただく。
 K 氏は「士林泝洄」と翻刻されている尾張藩の江戸初期「分限帳」8件と「伊予今村家物語」を調査し、系図を作成した。暫定版とのことであるが、以下に示す。

 筆者の疑問点は、①正俊と喜右衛門は同一人物ではないか②そうであれば、直政は喜右衛門が伊予から逃れるときに連れてきた二人の幼児の一人ではないか③福富覚書の幼児二人は、「士林泝洄」に系図の誰に相当するのか であった。それらが、K氏の上記系譜ではっきりしたのである。K氏には多大な時間と労力をおかけしました。お礼申し上げます。

 各人について得られた情報や筆者が推定した情報を以下に記す。
寺尾壱岐守:具定村に居住、慶長9年(1604)新田の境争いの訴訟で敗れ、川之江の座敷牢に入れられた。喜右衛門は娘婿の福富半右衛門と謀り、壱岐守を奪い取り戻すべく、万一失敗したら自害なさるべく、紙中に脇差しを隠し壱岐守に届け、11月29日夜奪い取る作戦は決行直前にもれ、喜右衛門らは川之江城代に追われる身となった。壱岐守は自害した。1)2)
寺尾正俊:忠吉公(徳川家康の4男)に仕えるまでの経歴を記しているのは、今村家譜だけである。3)この家譜から推測すると、川之江城主河上但馬守安勝は天正10年(1582)に滅亡し、その頃の乱で寺尾正俊は友人が戦死したので上柏村を出て、本州へ渡った。その後は、「正俊は、松平忠吉卿の武州忍(おし)で召し出され、150石を賜り、清洲に移った後、倍150石を加えた。その後、敬公(徳川義直初代尾張藩主・徳川家康の9男)に仕え、押奉行、大坂役、川並奉行を勤めた。老いに及んで職を免じ寄合をした。寛永13年(1636)正月29日卒。」と記されている。2)
寺尾直政:正俊の長男。元和3年(1617)14才の時、義直公に召し出され小姓となり、小十人頭、同心頭、家老職と進み禄5千石。寛永9年(1632)尾張藩江戸屋敷において足軽頭佐々又左衛門を侮辱したため、付家老成瀬家に御領けとなる。佐々又左衛門は死罪になったが直政は百日で許され、寛永18年(1641)(39才)にはさらに3千石を加増された。正保2年(1645)従五位下弾正少弼に叙任、のち越前守、土佐守となる。慶安3年(1650)義直が病死すると殉死。享年48。法号は全順。2)4)
寺尾直龍:成瀬隼人正虎の次男である。殉死した直政に子がなく、2代藩主光友の命により、寺尾家を嗣いだ。遺領8千石を賜り大寄合となった。寛文3年(1663)老中となり実父成瀬正虎からも新田2千石を譲り受け1万石となった。延宝3年(1675)発狂し犬山に蟄居。享保9年(1724)卒。享年85。2)
 「フクロウ日誌」によれば「直龍の政治姿勢をみると、貧民に手厚い処置を施したり、新田開発に積極的であったり、減税などの温情ある政策を行い、ときには主君の好色、乱費を諫めてもいる。だが何度も藩主に政策の提言を出そうとしても反対派の妨害にあい、さらに藩と役人の不正を糺す試みなども挫折している。老獪な家臣、直政時代の旧臣下たちからすれば、世間知らずで融通の利かない一本調子の直龍に手を焼いていたということであろう。彼が精神的病(狂疾)によって蟄居させられたと記す者もあるが、むしろ彼の実直、清廉さが政治には向いておらず、その純粋な理想主義は濁世に溺れ挫折し、周囲に追い詰められて自ら身を引いたというのが事実に近いと思われる。---直龍が犬山に蟄居となったのはまだ30歳を過ぎたばかりのことである。それから50年ほど後に逝去しているから、その人生の大半は隠居生活だったことになる。」5)
寺尾喜右衛門:上柏村に居住。慶長9年(1604)壱岐守事件で妻・二子と共に、尾張藩士の兄を頼って尾張に逃げた。敬公(義直)御代に召し出され250石を賜る 寺尾左馬助(直政)に属す。2)
寺尾作右衛門:福島左衛門太夫正則に仕えた後、敬公(義直)に召し出され出され250石を賜い御供番となる。慶安3年(1650)卒。2)
寺尾仁左衛門:「福富覚書」には、寺尾喜右衛門が上柏村を去る時に連れて行った二人の幼児は、「今の寺尾次郎左衛門、同仁左衛門ことの外幼少にて御座候---」とあり、それぞれ家来に背負わせて逃げた。その幼児の一人である。
父の家領を嗣ぎ、直政組に属す。250石。1)2)
寺尾次郎左衛門:寺尾喜右衛門が上柏村を去る時に連れて行った幼児のひとり。
敬公(義直)の御代に召し出され50人組、俸禄を賜う。病により蟄居、後病癒えて直政同心となり、200石を賜う。その後熊谷与兵衛竹腰山城守に属す。延宝9年(1681)卒。1)2)
長女 福富半右衛門妻:(1589?-1604) 慶長6年(1601)に福富半右衛門に嫁ぎ、慶長9年出産直後、壱岐守事件で夫により涙ながらに刺殺された。1)
次女 今村又兵衛近秀妻:(1600?-1679) 寶樹院高妙大姉。3)
今村近秀(1585-1654)は、元和9年(1623)領主加藤左馬助より世々里正職を拝命した。妻は長男又兵衛義勝(1623-1682)を生んでおり、慶長9年事件時に5才とすれば、生年は1600年となる。慶長9年事件時にこの娘を連れて尾州へ逃げるのは難しいと判断した寺尾喜右衛門は、懇意であった今村家にこの娘を匿い育ててくれるように頼んだのではないか。そして娘は成人し、近秀と結婚したと推測する。娘を頼んだ際、寺尾家屋敷を今村家が引き継くように指示したのではなかろうか。もともと、喜右衛門は、父寺尾壱岐守を牢から力ずくで取り戻したにしても上柏村に住み続けることは出来なく、尾州に逃げ去ることを想定していたはずである。屋敷と娘を今村家に頼むことは最初から考えていたと思う。

まとめ
上柏村寺尾家から出た尾張藩寺尾家の系図を明らかにした。


注 引用文献
1. 改定史籍集覧第15冊所収「福富半右衛門親政法名浄安覚書」p394-407(近藤活版所 明治35年1902)編纂近藤圭造(瓶城)
  web. 国会図書館デジタルコレクション コマ数202-280
福富半右衛門(ふくとめはんえもん 伝右衛門とも称した)は、寛永4年(1627)尾張藩主徳川義直公(徳川家康の9男)の前で馬上戦闘の駆け引きを披露、寺尾直政組として500石の武人であった。その武功を問われたので、覚書として差し出した。その覚書を貞享元年(1684)6月引馬野八が書き写した。
2. 松平秀雲「士林泝洄」尾張藩士の系譜を集めた系図資料。延享4年(1747年)ときの書物奉行松平秀雲(君山)らによって完成した。
web. 名古屋叢書 続編 第18巻 「士林泝洄 第2」巻第37 p233-239(名古屋市教育委員会編 1967) 国会図書館デジタルコレクション コマ数123-126
3. 石川士郎「伊予今村家物語」(2006)中の今村家系図と「今村家家譜 坤」この家譜は、宝暦7年(1757)後裔今村義忠謹記と書かれている。
今村又兵衛近秀について
「今村近秀 今村甚兵衛秀之次男也 今村又兵衛 上柏辻に住す 本辻と云-----
君為人恭謹温順有器忠量甚深自施人日本於村中哉 豊後国宇佐八幡宮旧臣寺尾土佐守直政家移豫州宇摩郡真庄山口郷 其後裔喜右衛門尉正俊天正之比 川之江城主川上但馬守常運乱興時 友人村中石川弥右衛門尉戦死終打負而遂于尾州大納言義直公為執事家老 其寺尾旧園別居今辻唱 元和九癸亥(1623)時領主加藤左馬助応召世々里正職命上哉----承応三甲午(1654)二月一日天年七十歳而病没 法諡号行樹院薫窓精笹居士 曽娶寺尾喜右衛門尉正俊女 延宝七丑未(1679)秋九月十二日卒 号寶樹院高妙大姉」
 この家譜は、寺尾喜右衛門と寺尾正俊が同一人物であるように記しているが間違いであるので注意が必要である。また寺尾土佐守直政の先祖が宇摩に移ってきたのであろう。家譜の「後裔喜右衛門尉正俊」は、「後裔寺尾正俊」が、「曽娶寺尾喜右衛門尉正俊女」は「曽娶寺尾喜右衛門女」が正しいのであろう。
因みに、近秀の腹違いの従兄である今村勝義は、別子銅山を試掘したと言われる三島今村祇太夫義元の父である。6)
4. web. 日本掃苔禄>掃苔帳>寺尾直政
5. フクロウ日誌(2017.7.29)>寺尾直龍 ①
6. 本ブログ「三島村今村祇太夫は「油屋」で46才の貞享4年に別子の露頭を源次郎に試掘させた」(2022.7.17)

補足:福富半右衛門「福富覚書」より
福富(ふくとめ 福留とも書かれる)半右衛門は土佐の人で、祖父の福富飛騨守親政は長宗我部元親の重臣であり、父の儀重は豊後府内陣(戸次川の戦い)で天正14年(1586)戦死した。半右衛門は文禄の役(1592)・慶長の役(1597)で戦功をあげ、関ケ原の役(1600)では西軍に就き敗れた長宗我部盛親を守って土佐に帰り閑居していた。半右衛門は、文禄元年(1592)の朝鮮攻め時には福富七郎兵衛と称し17才と記されていることから、生年は天正4年(1576)である。
 慶長6年(1601)前田久衛門と共に土佐を発ち、働き口として伊予正木(松前)の加藤左馬助の家老畑二郎兵衛に仕官を頼んだ。丁度川之江に新城を取り立てて、川村権七を城代(6500石)としたので、半右衛門は、川村権七組として職を得、4月26日川之江に着いた。慶長6年(1601)暮に秋山嘉兵衛の仲人にて、寺尾喜右衛門の娘と結婚した。半右衛門は寺尾喜右衛門の娘婿となったのである。以下略

天満村寺尾九兵衛(4) 家紋は「三つ扇」で上柏村寺尾家と同じなので同族である

2024-07-14 08:19:40 | 趣味歴史推論
 寺尾家の位牌および分家若竹屋寺尾家の家紋は「三つ扇」(みつおうぎ)であった。「三つ扇」にも日の丸の有無、扇の骨の本数の違いがある。より詳しく観察すると、写真1のように、貞享2年(1685)や元禄5年(1692)では日の丸のない「三つ扇」であり、文化元年(1804)は「日の丸三つ扇」であった。古い方の本家は「三つ扇」で、分家は「日の丸三つ扇」のようにも見える。
 この家紋から出自が推定できるのではないかと考え、インターネットで「寺尾 三つ扇」の検索をした。その結果、ブログ「フクロウ日誌」で、尾張藩家老寺尾直龍が修復した知多市の慈雲寺の寺紋が「三つ扇」であることが分った。1)そして、この寺紋は万治3年(1660)再建を援助した寺尾家の家紋なのである。
「フクロウ日誌」著者K氏の了解を得てブログより抜き出して作成したのが、写真2である。
慈雲寺の「寺紋」は全て「日の丸三つ扇」であり、鬼瓦・棟瓦では扇の骨5本である。塀の瓦(笠木瓦)・手水舎・庫裡では、骨3本である。「士林泝洄」の寺尾家の家紋は「日の丸三つ扇」で骨4本である。2)本堂内でお祀りされている寺尾直龍の位牌は「日の丸三つ扇」で骨5本、父直政の位牌は「日の丸三つ扇」で骨3本である。骨の本数に微妙な違いはあるが、全て「日の丸三つ扇」であることに間違いない。
「士林泝洄」によれば、尾張藩寺尾家の系図は以下の通り。(数字は生年-没年)2)
祖寺尾壱岐守―――寺尾正俊―――寺尾直政―――寺尾直龍
(?-1604) (?-1636) (1603-1650) (1640-1724)

壱岐守は前報の上柏村の屋敷主で、「福富半右衛門覚書」の寺尾喜右衛門は、寺尾正俊の弟である。
 これにより、上柏村寺尾家の家紋は尾張藩家老寺尾直政、直龍の家紋であるといえよう。天満村寺尾九兵衛本家の家紋は位牌によれば、「三つ扇」であり、尾張藩寺尾家の家紋は「日の丸三つ扇」であり、同系列と見なせる。よって両家は同族であったと考えられる。尾張に移った際、「日の丸」を付け加えたのではないだろうか。
なお上柏村寺尾家と尾張藩寺尾家の家系については、次報で述べる。
慈雲寺は、観応元年(1350)、宮山城主であった足利一族の一色修理太夫範光を開基、夢窓国師(夢窓 疎石)を開山として創建された臨済宗妙心寺派のお寺である。3)上柏村の寺尾家の屋敷の庭は、夢窓国師が築造したと伝わっており、不思議な縁を感じる。

まとめ
 天満村寺尾九兵衛家の家紋「三つ扇」は、尾張藩寺尾家すなわち上柏村寺尾家の家紋と同系であることより、天満村寺尾九兵衛家は、上柏村寺尾家と同族である。


注 引用文献
1. 「フクロウ日誌」(2017.8. 1)>寺尾直龍 ② 知多と直龍
2. 松平秀雲「士林泝洄」延享4年(1747年)完成。
web. 名古屋叢書 続編 第18巻 「士林泝洄 第2」巻第37 p233(名古屋市教育委員会編 1967)コマ数123
3. 「岡田ブログ」知多>岡田のみどころ>街並>慈雲寺

写真1 天満村寺尾九兵衛家の家紋


写真2 知多市慈雲寺の寺紋・尾張藩寺尾家の家紋


天満村寺尾九兵衛(3) 先祖は鎌倉北条氏の家臣寺尾氏ではないか

2024-07-07 14:09:49 | 趣味歴史推論
 天満村大庄屋寺尾九兵衛家の先祖について、公表された資料を調査した。
以下の3つの説が見つかった。
第1の説「寺尾九兵衛家は、500年前まで常磐(ときわ)の武士であった」
「土居町誌」(山上統一郎執筆 1984)に以下の記述がある。
「寺尾家は、今から500年程前まで常磐(ときわ)の武士であったが、戦いに敗れ、所々を経て天満に落ち着いて、郷士になった。郷士は、平時は農をしているが、事があれば地方人を従えて大名の戦列に加わるので、大名と庄屋の中間に地位にあった。宇摩郡では、豊田の秋山、川之江の長野が郷士であった。寺尾はまた天領の大庄屋でもあった。宇摩郡では、土居組の加地、川之江の猪川などがそれであったが、寺尾と猪川は天領の大庄屋、加地は西條領の大庄屋であった。寺尾家は農にも従ったが、運送業が主であった。天満港は仏崎で西風を防ぎ、海が深い、東風が強い時は近くの大島が避難港となる。」
 郷土史家の記述なので、何らかの調査結果に基づいているはずであるが、出自の根拠は書かれていない。寺尾家の口伝であろうか。500年前は、(1984-500=)1484年で文明16年に相当し、応仁の乱(1468~1477)頃である。戦いに敗れ、所々を経てとあるので、3世代が渡り歩いたと仮定すると(1484+20×3=)1544年(天文13年)頃に天満に落ち着いたことなる。これは天正元年(1573)の29年前となる。
 では常盤(ときわ)の武士とはなんであろうか。
筆者は、常盤家(ときわけ)の家臣を意味していると推測した。常盤家は、桓武天皇を祖とする鎌倉北条氏の一派で「吾妻鏡」や「太平記」にも登場する相模国の名家である。常盤家の祖は北条時茂(ときもち/ときしげ 1240~1270)であり、北条義時(鎌倉幕府第2代執権、北条政子の弟)の孫である。屋敷を鎌倉郡常盤郷に構えたため「常盤殿」と呼ばれ、常盤(ときわ)を称した。この常盤北条氏の家臣として寺尾家があったのではないだろうか。ではその寺尾家はどこに居たのか。寺尾の地名が付く場所を相模国(神奈川県)に探すと3ヶ所ある。2)3)→図
①寺尾村(高座郡渋谷荘 綾瀬市)
 鎌倉幕府の御家人渋谷重国(しぶやしげくに)は相模国高座郡渋谷荘を本拠とした(~1194~)。現在の東京都渋谷区から神奈川県綾瀬市の地域である。長子の光重(地頭職)は、宝治合戦(1247)の恩賞として薩摩国川内川流域を下賜され、光重は長男の重直を相模国の渋谷荘に留め、他の5人の男子に薩摩の各領地(地頭職)を与え、それぞれ東郷氏、祁答院氏、薩摩鶴田氏、入来院氏、高城氏となった。領地は美作、伊勢にも及んだ。入来院祖となった定心(じょうしん)の次男重経(しげつね ~1277)は、綾瀬市寺尾村を本領とし、地名をとって寺尾氏と名乗った。綾瀬市史によれば、文永/弘安の役を経て、重経は、渋谷氏一党の鎌倉幕府における役割の中心を担っていたようだ。9)この寺尾重経の後裔が、薩摩国と相模国の寺尾氏となった。相模国寺尾氏の情報は、鎌倉幕府と執権北条氏が亡んだ頃(1333)以降の文書に見つからないようである。
筆者の推理は「常盤北条氏の家臣としてあった寺尾氏一族は、相模国にいたが、常盤北条氏の没落と共に勢力を失い、応仁の乱(~1477)頃には後北条氏に敗れ、一部が伊予国宇摩郡にやってきた」である。
寺尾城が2ヶ所ある。
②川崎市多摩区菅馬場 寺尾城(菅(すげ)寺尾城) 室町時代に寺尾若狭守によって築造されたと言われる。若狭守はその後、後北条氏(小田原北条氏、北条早雲を祖とする北条氏)の家臣となって、諏訪氏を称したと言われている。
③横浜市鶴見区馬場 寺尾城 室町時代の諏訪三河守の居城とされる。後北条氏の旗本であった。この諏訪氏は、信濃の諏訪氏の支流とのことである。
 名字の由来を検索すると、4)「寺尾氏は信濃国埴科郡寺尾(現長野県松代町)発祥。諏訪神党関屋氏の支流という。」とある。上記の②③の寺尾城主も先祖は、諏訪の名称から推測すると信濃国寺尾発祥と思われる。②③のケースは、後北条氏(祖は北条早雲(1456~1519)~5代)の家臣であったので、後北条氏が1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で滅びるまで、両寺尾城の家臣(その中に寺尾氏を名乗ったものがいたのではないか)は、力があったと考えられる。一方、天満村寺尾家はその時には既に天満村で力を持っていたと思われるので、この両寺尾城の家臣の後裔ではないと筆者は推理した。
2. 「天満村郷土誌」(1912)によれば、5)
「寺尾九兵衛は、今を去る300有余年天正年間前より天満村に居住し、家主代々九兵衛を襲称し 明治年代に至り 求馬 貫一 和 を経て現代助二郎まで系統連綿たり」とある。
天正元年(1573)より前、即ち秀吉時代より前から天満村に居住していたとある。この証拠は示されていない。口伝か? 出自については記されておらず、第1の説を否定するものではない。

第2の説「周布郡寺尾村の発祥」
3. 信藤英敏「宇摩の苗字」(1983)には、以下の記載がある。6)
「寺尾: 伊予三島・川之江市両市と土居町に百戸ほど。宇摩地方としては多い部類にはいる。周布郡に寺尾村、村高285石7斗7合の地があるから、ここを発祥の地とする族かと思う。」と記している。
この説の信憑性を調べた。「日本地名大辞典」(1981)7)には「寺尾の地名の由来は弘安4年6月北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之が故あってこの地に病歿したと言い伝えられることによる(中川村誌)。」とある。この記述を検討した。
「中川村郷土誌」(1914)の大字の名称由来の項には以下の記載があった。8)→写
「大字寺尾:弘安4年6月(今より620年前*)元寇筑紫に来襲の際北條氏の家臣寺尾三郎右衛門義之故あって此地に病歿せしものなりと言い伝う。墓跡等據(よ)るべきものなければ詳ならざれども、按(あん)ずるに或いは之より寺尾と称ぶに至りしものならずや」
*正しくは、弘安4年(1281)は今(1914)より633年前である。
 鎌倉幕府第8代執権北条時宗が御家人を統率して元寇と戦った。郷土誌の「弘安4年6月」は、元寇襲来の月日を記しているのであって、寺尾が没した日ではないと筆者は読んだ。北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之は、関東から博多への行きがけか帰りがけかに何等かの理由(急病?)でこの地に留まったと思われる。そしてこの地で病歿したのではなかろうか。この地に寺尾の名がついたとすれば、没するに当たり、この地の寺に大きな寄進をしたのではなかろうか。以下は筆者の推理であるが、安養寺の山下六院の一つ地蔵寺への寄進がある。堂坂の地蔵さんの三墓や、鎌倉時代建立と推測される五輪塔(五輪さん)があることも、鎌倉時代との関連が想定される。9)この北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之は、上述した寺尾重経の一族である可能性がある。
 もし寺尾家が地頭職等としてこの地に居住していたのであれば、その一族が残り、「寺尾」姓がこの地にあってもよさそうなものであるが、現在、丹原町寺尾とその周辺には、「寺尾」姓は1軒もない。10)
よって長期間寺尾家がこの地に住んで居たのではないと思う。もし、一族がすぐに天満村に移住したとすると、天正時代の300年程前になり、寺尾九兵衛家にとっては、古すぎる。
 
 次報で述べるが、天満村寺尾家と上柏村寺尾家が同じ家紋(三つ扇)であることが分った。よって同族であったと思われる。そこで上柏村寺尾家の出自を調べた。
第3の説 「上柏村寺尾家は、豊後国宇佐八幡宮旧臣であった」
4. 石川士郎「伊予今村家物語」(2006)で引用している「今村家家譜坤の巻」には今村又兵衛近秀について記した中に
「豊後国宇佐八幡宮旧臣寺尾土佐守直政家が豫洲宇摩郡真庄山口郷に移り---」とある。11)
すなわち上柏村寺尾家は豊後国宇佐八幡宮旧臣であったという。この家譜は、他の記述をみると信憑性に少々問題があるので、そのまま信じることはできない。筆者は、豊後国宇佐八幡宮の氏の姓に寺尾がないか、および付近に寺尾の地名がないかを調べたが、見つけられなかった。よって八幡宮旧臣であったという記述は今のところ肯定できない。
5. 宮脇通赫「伊豫温故録」(1893)によれば12)
「寺尾土佐守直政宅跡: 上柏村字居屋敷にあり。土佐守は天正以前当村の地頭にしてこの地に館す。天正年中その家亡ぶ。今の住人今村喆逸の祖その館跡に移住し子孫世襲して現今に至る。この宅内の築山は夢窓国師行脚の時この館に留錫して自ら築く所なりと云ふ。」
 次次報で述べるが、「福富半右衛門覚書」「士林泝洄」等によれば、「寺尾土佐守直政宅跡、天正年中その家亡ぶ」の記述は間違っている。正しくは「尾張藩家老寺尾土佐守直政の祖父寺尾壱岐守(父寺尾正俊も青年まで居たようだ)や叔父寺尾喜右衛門の住宅跡で、慶長9年(1604)にその家亡ぶ」である。また、寺尾土佐守が地頭であったのではなくその祖先が天正以前に地頭であったということであろうか。地頭の直接的な証拠を筆者は見つけられなかったが、その可能性は上柏村にある瀧神社の由緒から伺うことができる。13)
 瀧神社の由緒によれば、「室町時代に細川頼之が寺尾氏に命じ社殿を建立させ、この頃から神社としての信仰が始まったといわれている。江戸時代になると今村家が当社を管理するようになり、境内に薬師堂を建立した。」とある。細川頼之(よりゆき)(1329年生-1392年歿)は、室町時代初期の守護大名で室町幕府2代管領であった。
 細川頼之は、貞治元年(1362年)四国を平定した。管領となった頼之は足利義満を補佐していたが、政変があり、敗れた頼之は、領国の四国へ落ちて行き、河野通堯らを破り、永徳元年(1381)、河野氏と和睦した。以後細川氏が宇摩新居郡を支配した。この事から、瀧神社の由緒が事実なら、社殿は、1381年以降に寺尾氏によって建立されたことになる
 夢窓国師(1275生~1351歿)は、禅僧で禅庭・枯山水の最高の完成者でありその庭があるということは、細川氏と寺尾氏の緊密な関係があったからではないかと想像する。
 今の住人今村喆逸の祖とは、八代前の今村又兵衛近秀(初代義親の孫)であり、近秀の妻が寺尾喜右衛門の娘であった。11)
 上柏村は天満村から直線距離で東15kmにある。筆者が調べた限りでは、両寺尾家が親戚関係を示す証拠は、家紋以外には見つけられなかった。

まとめ
1. 天満村大庄屋寺尾九兵衛の先祖は、鎌倉北条氏の家臣寺尾氏ではないか。
2. 同族の上柏村寺尾家は豊後国宇佐八幡宮旧臣であったと今村家譜に記載されているが信用し難い。
3. 上柏村寺尾家は、永徳元年(1381)頃に室町幕府2代管領細川頼之の命で、瀧神社を建立しているので上柏村の地頭であったと推測できる。


 中川村郷土誌では、丹原史談会長今井義親様と中川公民館様にお世話になりました。お礼申し上げます。

注 引用文献
1.「土居町誌」(寺尾つた女の項)p832(1984)執筆山上統一郎の経歴:土居町藤原(天満神社から東南約4km)に居住。第6代の豊岡小学校校長。著書に、「書による星山先生研究」(1986 尾崎星山は、土居町北野村出身の勤王家・教育者である)、「安藤正楽遺墨集」(1978)、「土居町誌」人物編などがある。
2. web. 「MARO参上」寺尾城(川崎市)、寺尾城(横浜市)
3. web. 「埋文よこはま」33号(2016) 横浜の中世城郭「寺尾城の堀跡を発見」
4. web. 「名字由来net」
5. 「土居町誌」p89(1984)近世史部分執筆は郷土史家の真鍋充親 
6. 信藤英敏「宇摩の苗字」(昭和58年1983)信藤英敏は、昭和48年「宇摩史談会」創立初代会長 「角川日本地名大辞典」38愛媛県分担執筆 「川之江城の研究」など
7. 「日本地名大辞典」38愛媛県(角川 1981)の寺尾<丹原町>の項
「寺尾:高縄半島南部、中山川の南岸に位置し、中央構造線の断層崖の麓一帯。地名の由来は弘安4年6月北条氏の家臣寺尾三郎右衛門義之が故あってこの地に病歿したと言い伝えられることによる(中川村誌)。
[近世]寺尾村:江戸期~明治22年の村名。周布郡のうち。松山藩領。「慶安(1648)郷村数帳」では、高285石余、うち田215石余・畑69石余、「元禄村浦記」285石余、「天保郷帳」300石余、「旧国旧領」305石余。「周布郡大手鑑」による宝永7年(1710)の家数50軒・人口166、牛22・宇摩8、田16町余・畑13町余。神社は日吉神社。用水堰は中山川にかかる寺尾堰がある。以下略。
8. 「中川村郷土誌」第一篇p55(中川村 大正3年 1914)編者 三毎柏東 →写
9. 「中川村 歴史と文化財」p12~18(郷土を見直す会 平成21年 2009)
10.「ゼンリン住宅地図」愛媛県 西条市 2 東予・丹原・小松(2022)
11. 石川士郎「伊予今村家物語」p58(今村武彦発行 2006)
12. 宮脇通赫「伊豫温故録」p365(松山向陽社 大正4 1915)明治26年(1893)書の再版である。
国会図書館デジタルコレクション「伊豫温故録再版」コマ196/335
13. web. 瀧神社ホームページ>由緒
「御祭神は素戔嗚尊・稲田姫尊・大巳貴尊の三柱。室町時代に細川頼之が寺尾氏に命じ社殿を建立させ、この頃から神社としての信仰が始まったといわれています。江戸時代になると今村家が当社を管理するようになり、境内に薬師堂を建立しました。御祭神が素戔嗚尊ということもあり災厄を封じる神様として多くの人に参拝され、牛頭天王にあやかった牛馬の病気平癒・厄除祈願は三郡の信仰を集め、農家の人々が連れてくる牛馬が後を絶たなかったといわれています。明治時代の神仏分離令により薬師堂は廃止され、松柏町内の神社がこの地に合祀されました。現在の本殿は貞享3年(1686)再建の社で現存する市内最古の神社本殿です。拝殿天井に描かれている龍の絵は、中曽根村今村伊八郎幽山斉が描いたもので、おそらくは薬師堂の天井に描かれていたものだといわれています。」
図. 相模国の常盤・寺尾村・寺尾城(鎌倉幕府~室町幕府時代)

写.「中川村郷土誌」(1914)名称由来「大字寺尾」