goo blog サービス終了のお知らせ 

気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

からみ・鍰の由来(21) からめ節は、「打ち砕く」の意味の「から(絡)む」が語源

2021-06-27 08:31:21 | 趣味歴史推論
 「からめ節」の「からめ」の由来は、「打ち砕く」の意味の鹿角方言「から(絡)む」であることが明らかになった。まさに至宝要録(1691)に「銅の石鉑に、鉑にてなき石交りたるは、打ちくだき捨て、鉑ばかりにする、是をからめると云う」と記された動作によるのである。
尾去沢からめ節保存会」が、令和2年12月鹿角市民俗芸能フェスティバルで披露した尾去沢地区の「からめ節金山踊り」をYouTubeで見た。1)
鹿角市の資料をもとに2)、聞き取った歌詞を示した。

からめ節金山踊り
(前歌)
1. 押せや 押せ押せ 青ばん押せば ハァー ドッコイ ドッコイ
     押せば 直利に近くなる ハァー ドッコイ ドッコイ
2. 直利ァ 出てくる 坑夫は勇む ハァー ドッコイ ドッコイ
     まして 旦那さま お喜び ハァー ドッコイ ドッコイ
3. 直利ァ 親父の 金場を見れば ハァー ドッコイ ドッコイ
     鉑で山築(つ)く 富士の山 ハァー ドッコイ ドッコイ
(本唄・踊り唄)
4. からめ からめと 親父がせめる ハァー ドッコイ ドッコイ
     なんぼからんでも からめたてゃならぬ ハァー ドッコイ ドッコイ
5. 金カネが出る出る 銀シロがね黄金コガネ ハァー ドッコイ ドッコイ
     鉄も鉛も 銅アカがねも ハァー ドッコイ ドッコイ
6. からす鳴く鳴く 床屋の屋根で ハァー ドッコイ ドッコイ
     お山繁昌と 鳴くからす ハァー ドッコイ ドッコイ
7. 金キンの牛(べご)コに 錦の手綱 ハァー ドッコイ ドッコイ
     おらも引きたい 引かせたい  ハァー ドッコイ ドッコイ
8. 一に稲荷の鳥居が赤い ハァー ドッコイ ドッコイ
     まして直利の 金カネ赤い ハァー ドッコイ ドッコイ
9. 田舎なれども 鹿角の里は ハァー ドッコイ ドッコイ
     西も東も 金カネの山 ハァー ドッコイ ドッコイ
10. からめ からめと お山の唄は ハァー ドッコイ ドッコイ
     お山繁昌と なりひびく ハァー ドッコイ ドッコイ

・青ばん:あおばん 青磐 鉱床に密接して存在する青色の岩石の称(大辞典(平凡社1936))
・直利:なおり 鉱脈の特に品位の高いところ。富鉱体(帯)、富鉱脈と同義。鉱脈の交差部分や傾斜が変わるところなどに形成されていることが多い(web. 日本の鉱物標本館>鉱物鉱山用語辞典)。 動詞「直る」:鉱床の採掘で脈幅や鉱質が良くなる。
・からめからめと:砕け砕けと。
・親父:おやじ 親方 
・せめる:鹿角では、古来、「急(せ)かせる」の意と解されている。2)
・べご:牛3)

 作業唱「からめ節」は、明治になると、尾去沢から盛岡の花柳界へ伝わり、芸者衆などによって三味線太鼓のお囃子が付けられ、座敷歌の「からめ節金山踊り」となった。
明治以降は、生産様式の変化にともない、作業唱としてはだんだん唄われなくなりすたれていった。鹿角市は、昭和59年、尾去沢地区の文化財保存会を中心に「尾去沢からめ節保存会」を発足させ、保存伝承に努めてきている。鹿角市指定無形民俗文化財である。
 踊りの基本所作は、脈石の付いた鉑を鎚で打ち砕き笊に入れる所作と、笊を使って砂金を採る所作である。作業唱「からめ節」の鎚で鉑石を打ち砕く所作だけでは、踊りとしては映えないので、華やかにするために、笊で砂金を採る所作を加えて、金山(かなやま)踊りとしたと推測する。金山踊りの起源は、鹿角の白根金山(しらねきんざん)が関係しているのかもしれないが調べていない。
 では、「からめ からめと 親父がせめる なんぼからんでも からめたてゃならぬ」の特徴的な歌詞を、いつ誰が作ったのか、唄い始めたのであろうか。

注 引用文献
1. YouTube [令和2年度鹿角市民俗芸能フェスティバル① 「からめ節金山踊り」]
 令和2年12月6日(日)鹿角市文化の杜交流館コモッセ文化ホールにて開催 鹿角市生涯学習課 映像4K 
2. 鹿角市文化財調査資料82集 鹿角市指定無形民俗文化財「からめ節金山踊り」無形民俗文化財記録作成調査報告書三(鹿角市教育委員会発行 平成17年 2005)
・web. GLNからこんにちは>13 からめ節金山踊り>第3章芸能の歴史>第2節芸能の沿革(1)作業唱としてのからめ節金山踊り
3. 大里武八郎「鹿角方言考」p238(鹿角方言考刊行会 昭和28年 1953)
 「べご  牛(ごは鼻音にあらず)アイヌ語の「ぺこ」又は「べこ」なりとは、通俗の説なり。杜陵(とりょう もりおか)方言考に、摂播あたりの博労詞に児牛を「べいこ」というを引きて「鶏の雛のひよひよと鳴く故、「ひよこ」という如く、児牛の啼声によりて「べー子」と言えるならん」と説かれたるは面白し。この語東北地方のみに限らず仔牛を「べこ」、牝牛を「めべこ」など呼ぶ例近畿地方にもなきにあらず、又甲州辺にも牛を「べこ」と唱うる地方ありと聞く、その他、仔牛の「べこ」は中国九州にも及ぶ由にて、(以下略)」

からみ・鍰の由来(20) 「から(絡)む」は南部藩鹿角方言で「打つ、叩く、殴る」

2021-06-20 08:51:06 | 趣味歴史推論
 「からむ」は、方言で「物で打つ」を意味するという「からみ・鍰の由来(18)」中の情報の根拠を探した。
1. 内田武志著「鹿角方言集」(1936)1)
 カラム ①鉱石を鎚で叩き砕く(尾去沢)
     ②綱や棒で殴る
 カラメル なし

2.  大里武八郎「鹿角方言考」(1953)2)→図
 から-む 絡む(他動) 打つ 
 普通の意味「巻きつける、からめる」の外に、ここにては、打つ、たたく、殴るの意に常用す。けだし、弾力の強く細き杖や綱の先端などにて強く打てば、絡はり付く様になるより、転用するに至りたるなるべし。「からみつける」ともいうことあり。更に語勢を強むるときは、「ぶっからむ」、「ぶからむ」、「ふからむ」などという。この「ぶ」は「ひっぱたく」の「ひ」と同様の接頭語なり。
 尾去沢鉱山にて今の様に機械力を利用せざりし頃には、鉱石を鉄鎚にて叩き砕きこれを「からむ」といえり、この作業に唄いしは有名なる「からめ節」なり。「からめからめとおやぢがせめる、何ぼからンでもからみたてアならぬ」 

3. 日本国語大辞典(2001)3)
 から・む [絡・搦]
      ①[自マ五(四)] からまる
      ②[他マ五(四)] からめる
      ③[他マ下二]→からめる
     「方言」①結ぶ。包む。縛る。 青森県三戸郡 新潟県佐渡
         ②畑を耕す。 岩手県上閉伊郡 気仙郡
         ③タバコ畑の二回目の耕作をする。 山形県東村山郡・北村山郡
         ④作物に土寄せをする。山形県東村山郡・西村山郡
         ⑤打つ。殴る。 青森県南部 秋田県鹿角郡
         ⑥麦などの実を打ち落とす。 青森県三戸郡 岩手県気仙郡
         ⑦山の斜面を横に行く。また、谷に降りずに斜面を迂回する。 秋田県雄勝郡 福島県耶麻郡 新潟県中蒲原郡・北

4. 「秋田方言」(1929)4)
 からむ、からめる   記載なし

考察
 鹿角出身の大里武八郎が、「からむは、ここ鹿角にては、打つ、たたく、殴る の意に常用す」と記していることから、広く使われていた方言であることがわかる。
 内田武志は、「綱や棒で殴る」としているが、「綱で殴る」とは、特徴的な行為である。それを受けて、大里武八郎は、弾力の強く細き杖や綱の先端などにて強く打てば、絡はり付く様になるので、「絡む」を転用するに至ったに違いないと由来を推定している。
 日本国語大辞典の「からむ」において、細字で書かれた「方言」の項を、筆者は今まで見落としていた。「絡む」の方言例としては、奥羽地方ばかりで、関西にはない。「絡む」が「打つ、殴る、麦などの実を打ち落とす」の意味で使われた地域は、南部藩である。
 麦、大豆、小豆、菜種、粟などの穀物を収穫乾燥させた後、むしろの上に広げて殻竿(からさお・唐竿ともいう)で打ち、実を落とす脱穀作業をする。この打つ動作を「からむ」と言うと理解される。殻竿は、長い竹竿の先端に、回転する短い棒を取り付けた形状をした農機具である。殻竿が発明される前は、綱や細棒などで、この動作をしていたのではないだろうか。
 この農作業は、「からむ」が鉱山用語となった江戸初期よりはるか昔から行われていたから、「からむ」は鉱山用語が元ではないことは明らかである。
よって、鉱山用語「からむ、からめる」は、南部藩の方言を元として、南部藩鹿角の尾去沢銅山から全国に伝わったと推定できる
「至宝要録」は秋田藩の院内、阿仁鉱山をもとに元禄に書かれたものである。「秋田方言」には、「からむ・からめる」は記載されていなかったが、元禄期には、南部藩から鉱山関係者には伝わっていたのではなかろうか。

まとめ
 「からむ、からめる」は、「打つ、叩く、殴る」を表す南部藩鹿角の方言である

注 引用文献 
1. 内田武志著「鹿角方言集」p51(刀江書院 昭和11年1936)
web. 国会図書館デジタルコレクション 35コマ
web. 鹿角人物事典 p34(鹿角市教育委員会 2020)より
「内田武志(うちだたけし)」(1909~1980) 民俗学と菅江真澄の研究者
 尾去沢鉱山の修三とサトの二男として八幡平宮川村に生まれる。本名は武。内田家の先祖は尾去沢鉱山が盛岡藩直営となった際の山内支配人の内田九平衛富涛である。武は幼少の頃、父修三の勤務地・碇発電所社宅に住んでいた。大正12年鎌倉に転居するが、関東大震災で家が全壊し、1年後に静岡へ移転した。まもなく静岡商業学校に入学するも血友病を発病して退学、この頃詩人の蒲原有明の知遇を得て、柳田国男・渋沢敬三の指導の下に民俗学の研究を続ける。昭和5年『民俗学』に「年中行事・鹿角郡宮川村地方」を初めて発表し、昭和11年『鹿角方言集』を刊行した。20年戦争の激化により、母方の大叔母の嫁ぎ先である郷里毛馬内の高橋家に疎開、毛馬内町長の伊藤良三と出会い、菅江真澄研究に没頭したという。昭和21年妹ハチとともに秋田市に転居、柳田国男・渋沢敬三の賛助を得て「菅江真澄研究会」を設立した。のち真澄研究の集大成ともいわれる『菅江真澄全集』(全13巻)、『菅江真澄遊覧記』などを出版、真澄研究の第一人者と評される。武志が病床に伏したまま研究を続けられたのは、妹ハチの献身的援助によるところが大きいといわれる。昭和29年ハチとともに秋田市文化章、42年県の文化功労章、50年柳田国男賞を受賞。享年71歳。
2. 大里武八郎「鹿角方言考」p78(鹿角方言考刊行会 昭和28年 1953)→図
web. 鹿角人物事典p37(鹿角市教育委員会 2020)より
「大里武八郎(おおさとぶはちろう)」(1872~1972)名著『鹿角方言考』の著者
 花輪町長大里寿の四男として生まれる。花輪小学校卒業後上京、一高、東京帝大に進み法学士となった。一高時代、民俗学者柳田国男と同窓で、親交があった。明治38~41年の3回、内藤湖南に随行し清国調査に当たった。42年臨時台湾旧慣調査員となり台湾に渡り、大正元年には台湾総督府法院判官に任ぜられ、台湾の各地方法院を歴任した。昭和8年には台北地方法院長になり、10年に退官した。退官後は花輪に帰郷し、若年より関心の高かった鹿角方言の研究に没頭した。そして、昭和28年花輪を中心とする鹿角地方の方言の意味・語源等を調べて、学術的・民俗的に評価の高い『鹿角方言考』を発刊した。小学館の『日本国語大辞典』には『鹿角方言考』から多くが収録されている。享年100歳。花輪町名誉町民第一号の栄誉を受けた。
3. 日本国語大辞典第二版(小学館 2001)
4. 秋田県学務部学務課編「秋田方言」(出版 秋田県学務部学務課 昭和4年 1929)
web. 国会図書館デジタルコレクション

図 大里武八郎「鹿角方言考」の「からむ」の項


からみ・鍰の由来(19)中岳山頂の赤穂氏奉斎の石碑で、「満矩」の確認はできず

2021-06-13 08:08:38 | 趣味歴史推論
 「鉱山聞書」の著者赤穂満矩が奉斎したと思われる中岳山頂の猿田彦大神命碑の刻字を確認したかったので、八戸市の登山ガイド阿保彰司氏にお願いしたところ、2021年5月30日(日)に行く際に確認しましょうと快く受けていただいた。その結果である。1)写真
 「仲間との山行で予定どおり中岳に登って来ました。生憎雨模様の天気で山頂で長居は出来ませんでした。石碑の刻字は浅く不鮮明で判読が難しく、また埋まっている部分については周りに大きな石が埋まっており簡単ではなく、十分な確認は出来ませんでした。」
推測するに、石碑が動かないように周囲をしっかり石を埋めて固めたので、以前よりさらに埋まった状態になり、「赤穂」までしか地上に出ていない。風化と苔で、判読が以前より困難になっているようである。
・いただいた写真より新に分かった刻字は、
 側面  癸卯 天明三年
     不老倉山中頭(?)□

・「安代の石碑」2)に掲載されている写真から新に分かったことは、
 背面 出鉑増

である。
よって 背面は以下のとおり。

    出鉑増進
 中嶽   赤穂氏
    山内安全


注 引用文献
1. web. ブログ「私の山登りⅡ」登山ガイド阿保彰司2021年5月31日 (月)雨の四角岳・中岳
2.「安代の石碑 石碑調査報告書 平成9年度」安代町教育委員会∥編集 安代町教育委員会 1997.12 p37 石碑の写真 岩手県立図書館からコピーを入手した。

写真 中岳山頂の猿田彦大神命石碑(背面)と八戸山水会の皆様


からみ・鍰の由来(18) 「からめる」は、奥羽の方言が源か?

2021-06-06 08:00:40 | 趣味歴史推論
1. 真崎文庫の「至宝要録」(1691)1)には「からめる」1ヶ所と「からめて吹」1ヶ所がある。
銅の石鉑に、鉑にてなき石交りたるは、打ちくだき捨て、鉑ばかりにする、是をからめると云う事、銀鉑に同じ。又土気交りたるは、水にて洗いて鉑ばかり取り、焼竈へ入れる。是は皆能なき銅山の事也。数年よかりし銅山もおとろえたる時はかくのごとし水にて洗うを洗い箔と云。
・金銀石鉑を掘出し、其のままにて吹くを石おろしと云。又吹物とも云。其の石のうちに、かねにならぬ所をば、打ちくだき捨てるを、からめて吹と云。石鉑にはあれども、石おろしには吹かれぬを、うすにてはたき、それを板に取りて、かねにならぬ物はゆり捨て、かねに成る物ばかり板にとりて吹を、はたき物鉑と云う也。土の鉑をくさり鉑と云。是は、はたかずに板に取りて吹きゆり物鉑という也。

ここで、からめて吹の定義は、 「石を打ち砕き捨ててしまって、精製した鉑を吹くことを」、からめて吹ということであろう。「精製した鉑を吹くことを」の文には欠けていると思う。吹とあるので、床でフイゴを吹いて鉑を熔かす操作のことであるから。
「からめる」「からめて吹」と「からみ」の語源は同じ可能性はないか。「からめる」は、奥羽地方で使われ始めたのか、あるいは石見から伝わってきたのか。

2. 「からめる」に対する従来の解釈は以下に代表される。
 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」によれば、2)
「坑内から搬出された鉱石は三沢(元山沢、田郡沢、赤沢)それぞれに設けられた金場に集められる。ここで金工の女房など金場働きの婦人の手によって鉑ごしらえをする。鉑ごしらえというのは、鉱石に交った岩石を取除いたり、粗石の部分を鉄槌で砕き取ったりして精製することで、この操作を「石鍰(から)め」」とも単に「からめる」ともいった。この時謡われる労働歌がいま民謡として伝えられる「からめ節」である。

しかし筆者は以下のような疑問を持った。
「石鍰め」と「鍰」を使ったのは、麓三郎の勇み足ではないか。「鍰」(からみ)との直接的関係はないと思うので。また「からめる」は、動詞である。それの名詞化で「石からめ」と言ったはずである。もとが「絡む」(からむ)という自動詞であれば、他動詞化して「絡める」や名詞化して「絡み」(からみ)や完了形で「絡めて」(からめて)、命令形で「からめ」の言い方はある。しかし「絡む」「絡める」には、上記のような意味はない。

3. なぜ「からめる」「からめ節」というのかを、調べていたら、その由来がわかる可能性がある記述があった。
 鹿角市文化財調査資料82集「からめ節金山踊り」(2005)
『・大正10年7月28日発行の「鹿角」(発行編輯人大里周蔵)に、次のような記述がある。
からめ節について本場というべき尾去沢元山の古老は、次のように語った。「金鉱を見出して尾去沢繁栄の基を作ったのは、慶長10年(1605)南部十左衛門という人と伝えているけれど、それ以前に元山方面において、銅を吹き出した(銅鉱を溶かして粗銅を造ること)のであった。当時、石を台として鉱石を上げ(載せ)、鎚をもって打ち砕くことを「からむ」と言った」のであった。すなわち、からめ節は、鉱石を砕くときの唄というべきであろう。因みに、物を叩きつけることを、今も(鹿角では)ブッカラムという。
秋田県あたりの方言で、①からめる=物で打つこと。「ぶつ」ことを「ぶっからむ」という。②からむ=物で打つの意で、鉱石を金槌でたたき砕くこと、である。
このように、「からむ」とは、「物を叩きつける」と解すると納得する。あるいは、鉱石鉱物と脈石鉱物とが絡み合っている鉱石を、ブッカラムことによって、鉱物鉱石のみを選り分け得ると解すれば、なお納得しやすいと思われる。』

4. はじめて「からめる」でなく、「からむ」と言う語が出てきた。「からむ」があれば、種々の変化ができる。「からむ」から名詞「からみ」、命令形「からめ」が、「からめる」から名詞「からめ」これが訛って「からみ」に変化できる。よって、「からみ」には、上記「からみ」と鉱滓の「鍰」の2系統があることになる。
 古老のいう「当時、石を台として鉱石を上げ(載せ)、鎚をもって打ち砕くことを「からむ」と言った」のは、正しい伝承であるのか。この古老説は、慶長以前の古文書に、「からむ」という動詞が「物で打つ」意味で使われていたら、ほぼ正しいと証明できる。ただなぜ「からむ」というのか、語源はわからない
また、石を砕くという意味の「からむ」「からめる」という方言ができたのは、至宝要録が書かれた時代(元禄)の鉱山でその操作が行われる以前であったのか。

注 引用文献
1. 「至宝要録」 秋田県大館市立栗盛記念図書館所蔵 真崎文庫 写真帳、落合直聴写
2. 麓三郎「尾去沢・白根鉱山史」p228(勁草書房 1964)
3. 鹿角市文化財調査資料82集 鹿角市指定無形民俗文化財「からめ節金山踊り」無形民俗文化財記録作成調査報告書三(鹿角市教育委員会発行 平成17年 2005)
・web. GLNからこんにちは>13 からめ節金山踊り>第3章芸能の歴史>第2節芸能の沿革(1)作業唱としてのからめ節金山踊り  より