気ままな推理帳

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天満村寺尾九兵衛(2) 大庄屋寺尾九兵衛当主年表

2024-06-30 08:03:18 | 趣味歴史推論
 幕領天満村の大庄屋寺尾九兵衛は、当主のほとんどが「九兵衛」を襲名しているので、個人や代替わりがわかりにくい。そこで、文献・墓・燈籠・位牌の調査をして、当主年表を作成した。             
寺尾本家の後裔は海外に移住したので、墓と位牌のお守りをしているのは、分家の若竹屋寺尾家である。仏壇に祀られた江戸時代の40余りの位牌を若竹屋の寺尾清和様・順子様のご厚意で調べさせていただいた(2024.1.17)。その際天満神社総代の岸幸雄様に手助けいただいた。天満神社北側の観音堂墓地にある墓は、岸幸雄様と友人桑原忠勝様と調査した(2023.9.2)。皆様にお礼申し上げます。調査内容は追々時期に合わせて書きます。
 この当主年表はあくまで現時点の暫定版(2024.6)である。初代~十一代および当主期間は筆者の推定である。根拠がある確実な部分は太字にしている。また妻は、〇〇室と書かれていたのは少ないので、没年、享年などからの推定である。今後、過去帳等の記載から、修正や追加ができることを望んでいる。



天満村寺尾九兵衛(1) 寛文6年(1666)には大庄屋であった

2024-06-23 08:45:45 | 趣味歴史推論
 伊予国宇摩郡天満村(現愛媛県四国中央市土居町天満)は、別子銅山開坑の元禄4年(1691)から元禄15年(1702)の間、別子粗銅を大坂に送り出した物流の基地であった。粗銅の量は、元禄11年(1698)には1521トンという驚異的なものであった。粗銅や米の物流で問題があれば、泉屋の記録に残るはずであるが、記録がないということは、大きな問題は起こらずうまく経営していたと推測される。天満村の大庄屋寺尾九兵衛の貢献も大きかったに違いない。
このブログでは、別子銅山開坑前後の天満村の状況や大庄屋寺尾九兵衛の業績を、残された遺産・遺物・文書をもとに時系列で追っていきたい。
切り上り長兵衛が生きていた時期が重なるので、調査の中で、彼に関する新情報に出会えないかとわずかな期待を持っている。

 大庄屋寺尾家当主は、全てが「九兵衛」を襲名したかは確認できていない。
九兵衛の読み方は、くへえ、くへい、きゅうべえ、きゅうべい等のどれであろうか。江戸時代では、「くへえ」が多いようである。「きゅうべえ」だったら久兵衛が宛てられたか。
別子銅山公用帳一番・二番の索引では、「く」の項に、九兵衛(天満村)とあるので、ここでは「くへえ」としておこう。
Ⅰ. 泉屋の記録に「天満村九兵衛」が見られるのは、わずか2カ所しかない。
第1は、元禄3年見立てに行く田向重右衛門一行が面会した、よく知られた箇所である。
 豫州別子銅山初発之書付(1724)1)
この書付は踏査人田向十右衛門が、踏査より35年後の享保9年(1724)正月、住友家当主友昌が別子を視察するにつき、参考資料として手記して差し出したものである(ここでは読み易くしている)。

1. 別子銅山の山見立は、元緑3年(1690)(4年は間違い)未9月、十右衛門・原田為右衛門・山留メ治右衛門・男1人、備中吉岡銅山より備後の鞆へ出て、それより船にて豫州川之江阿波屋六郎兵衛方へ着、翌日川之江御陣屋後藤覺右衛門様御手代衆に御目にかかり、右山見立の断り致し、それより天満村へ3里、大庄屋九兵衛方へ参り、翌日天満村よりおばこ峠へ登り乙地の近くに宿致し、夜の七ッに松明にて山入り致し候所に、乙地より唯今の勘場所までおよそ3里余りの所材木山にて夥しく生え茂り、道もなく獣の声増すにて人の通ひたる所にては無しの所、ここかしこと尋ね廻りようやく尋当たり、夜中かがりを燒き、只今の歓喜間符に掘入り、2,3尺も切り入り候ほど、次第に鏈太く成り候故、石色萬端山の情分見届け、鏈持参致し大坂へ登せ候て、江戸願には助七指下し、首尾能く訴訟相叶い、山師助七・請負人中橋泉屋七右衛門と御裏判出し申し候。山見立元禄3年より享保9年まで35年(34年は間違い)になる。段々山栄え2,3年の内めっきりと御蔵入りこれ有り、これにより友信公ご機嫌にて十右衛門・助七に家督下され、助七・十右衛門今一両年備中豫州相勤め申す筈にて、助七は豫州へ下り駆け引き致し候内に。2. 以下略

第2は、別子銅山公用帳一番の中の別子山村御林札建替に関するものである。2)
 ① 大町村金右衛門口書(1695)
3年以前酉の年(元禄6年(1693)、別子山村御林札建替候時分、庄屋長右衛門相煩申し候故、私儀山へ立合候様にと、御役人様方仰せら候由、天満村九兵衛申し渡し候に付き、立合申し候。その節銅山役人河野又兵衛どのへ、-----以下略。
    元禄8年(1695)亥2月10日
 ② 別子山村庄屋・組頭口書(1695)
 ------前略
 右の通り相違なく御座候、右御札場の儀、5年以前未年(元禄4年(1691)、初めて御建替なられ候場所へこの度も御札建て申し候てば、先規よりの札場違い申しに付き、立川村より何角と申す儀御座候、御林の木伐採申さず候様にとの御札の儀に御座候えば、何方に御建なされ候ても、別子山村の百姓、申し分は無御座候、以上
    元禄8年(1695)亥2月9日
             予州宇摩郡別子山村庄や  伝吉 印
                    同所組頭  仁兵衛 印
                    同所組頭  権三郎 印
右の通別子山村組頭口書差上げ候通り、相違無御座候、以上
                  天満村大庄や  九兵衛 印
                  大町村庄や   金右衛門 印
 平岡吉左衛門様
     御手代中

Ⅱ. 次に広く宇摩郡の古文書に探した結果、「寺尾九兵衛」の初出は以下の文書であった。
 土居組大庄屋加地文書(1666)3)
 一柳半弥様(直照)へ御引渡の節、入山の儀、松山御役人衆・一柳御役人衆立会仰合せられの証書也、寛文6年(1666)吉安右近右衛門殿、中嶋又右衛門殿入山稼方の証文(包紙表書)
 ・浦山にて樵木仕村 (但し川なかし共) 入野村 畑野村 土居村 天満村 
 ・上野村にて樵木仕村          北野村
 ・津祢山にて樵木仕村          藤原村
 ・3ヶ村(浦山、津根山、北野) 種子借し米当秋取納の事 
 ・北野村井水の儀先規の通り
 ・巳年(寛文5年)米大坂上納入用割符銀宇摩郡一所の事
 右は先規の通り互に相談申し置き候 以上
 寛文6年(1666)午8月27日      中嶋又右衛門(花押)
                    吉安右近右衛門(同)
 宇摩郡天満村大庄屋   九兵衛殿 (寺尾氏)
    土居村大庄屋   仁右衛門殿(加地氏)
    中曽根村大庄屋  小左衛門殿(今村氏)
    河之江村大庄屋  彦右衛門殿(三宅氏)

 これにより、寛文6年(1666)に寺尾九兵衛は天満村大庄屋当主であったことがわかった。

まとめ 
1. 天満村は、別子銅山開坑の元禄4年(1691)から元禄15年(1702)の間、別子粗銅を大坂に送り出した物流の基地であった。
2. 寺尾九兵衛は寛文6年(1666)には、天満村大庄屋当主であった。


 本ブログ2023.8で中山琴主の墓について記した際、その近くで、探していた墓を見つけたようだと書いた。それは別子銅山開坑時の寺尾九兵衛の墓と思ったのだが、その後の調査で違うことがわかった。そこでより詳しく調べることにした。
天満村・寺尾九兵衛・別子銅山については、次の文献を参考にして調査を行っていく。
 ①  岡本圭二郎執筆「天満・天神学問の里巡り」冊子(天満公民館・天満自治協議会発行 2021)4)
 ② 坪井利一郎「第一次泉屋道」益友 第60巻1号p15(2009)

注 引用文献
1. 泉屋叢考第13輯 附録(住友修史室 昭和42年 1967)
  web. 住友史料館>刊行物案内・泉屋叢考>13輯
2. 住友史料叢書「別子銅山公用帳一番・二番」p37,39(住友史料館 昭和62年 1987)
3. 土居町郷土史料第8集 村上光信著「旗本八日市一柳氏関係史料集成」p37加地文書No.10(土居町教育委員会 平成6年 1994) 
4. 天満公民館(近藤三千代編集)「天満・天神学問の里巡り」(天満公民館・天満自治協議会発行 令和3年8月 2021)本冊子は、郷土史家岡本圭二郎が執筆し、平成13~23年(2001~2011)の間、公民館報「てんま」に計100回掲載されたものをまとめたものである。地域の歴史や文化、風景、先人たちなどを紹介している。

写 「天満・天神学問の里巡り」製作:天満公民館