気ままな推理帳

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立川銅山(19) 宇摩郡土居の伊予鉱山も元禄2年頃の発見と伝えられる

2022-06-26 08:28:50 | 趣味歴史推論
 天領の(2023.1.15訂正)宇摩郡土居の伊予銅山も元禄2年発見と伝えられていると「四国鉱山誌」にあった。

「四国鉱山誌」(昭和32年 1957)1)
伊予鉱山
宇摩郡土居町 
鉱業権者 日本鉱業(株)
 元禄2年頃の発見と伝えられているが、確実な記録は残っていない。
明治30年(1897)に当地方の豪農山中好夫氏が鉱業権を得て、露頭付近の探鉱と採掘を始め、山元で製錬も行ったが、鉱量が少なく休止した。明治40年(1907)に徳島県の影山矩公、奥田某両氏が共同経営で採掘に当たり、露頭の下部およそ60m地点から延長130mの第1大切坑を開鑿し、鋭意開発に努めた。(以下略)

考察
 伊予鉱山は、浦山川(関川の支流)の最上流部で二ツ岳の北にあり、当時そこは天領八日市陣屋一柳権之丞領(2023.1.15訂正)であった。
元禄2年とはっきり発見年を伝えた史料はなにか。発見者や開坑者は誰か。山中好夫3)の文書や伝記に何か参考になる記載はないか。発見が別子開坑以前であることで、佐々連鉱山と同様に注目したい。

まとめ
 天領宇摩郡土居の伊予鉱山も元禄2年頃の発見と伝えられる。

注 引用文献
1. 四国通商産業局編「四国鉱山誌」p257(四国商工協会 昭和32年 1957)
2. 「伊予三島市史 下巻」p257(伊予三島市史編纂委員会編 昭和61年 1986)
3.  web. 愛媛県史 人物(平成元年)
山中好夫(やまなかよしお)嘉永5年~大正11年(1852~1922)
県会議員,三島銀行頭取。郡内一の資産家で,明治23年には国税地租1,009円を納めて貴族院多額納税議員の互選者に指名された。その資財を死蔵することなく,よく経済・産業・教育・公共などのために活用,広壮な晩翠館を私費で建設して村民の公共の用に充て,32年8月の関川大水害に私財を投じて復旧に役立て,小学校校舎の建築に多額の寄付をするなど,村の発展を資金面で援助した。

補 筆者のメモである。稼行者 
大正5年(1916)高田商会 第2大切坑開鑿
大正13年(1924)大坂の新居田直太郎 本格的操業着手
昭和10年(1935)日本鉱業(株)佐賀関製錬所へ送鉱 17年休山
昭和31年(1956)日本鉱業(株) 40年代廃鉱

立川銅山(18) 佐々連鉱山は坑口磐岩に「元禄2年大坂屋開坑」の彫刻があったと

2022-06-19 08:29:26 | 趣味歴史推論
 佐々連(さざれ)鉱山は、宇摩郡(現四国中央市金砂町小川山)にあって、四国で別子銅山に次いで2番目に総産銅量を誇った銅山であることを、筆者は最近になって知った。別子銅山に近く、同じ層状含銅硫化鉄鉱床であり、その開坑状況を知りたいと思った。ネット検索で3つのホームぺージが見つかった。
1) 田邊一郎「いちろうーたの別子銅山オタクサイト」>佐々連鉱山>キースラガー(2010頃)
2)石川順一「自分史」>佐々連鉱山小史(1997頃)
3)ゆずぽんず「気ままに鉱山炭鉱めぐり」>佐々連鉱山(2009)
 そこには「坑口の岩盤に「元禄二年大坂屋開坑」の彫があった」と興味深いことが書かれていた。この記述の初出は、「最新大日本鉱山史」4)と思われたので、以下にその部分を記す。

最新大日本鉱山史(昭和15年 1940)
 佐々連鉱山

愛媛県宇摩郡 鉱業権者 岩城鉱業株式会社 校区面積1,029,610坪
沿革
(前略)
 佐々連、金砂両鉱床は、発見者及び発見の年代は不明であるが、別子銅山と前後して開坑されたものと言われ、現存旧坑中には、掘鑿に際して火薬を使用しない個所が在る程である。相當古く開坑されたものの如く、金山谷旧坑口附近の磐岩に「元禄二年大阪屋開坑」との字句彫刻があったが、坑口加背(かせ)拡げの為、破壊されたとの説が有力であるが、その眞偽は確かなものとは言えない。右鉱床は、明治31年前後迄は何人が経営していたか、前記程度の口碑口伝に過ぎず、正確な記録を残していない。金砂天長坑上部の旧坑は、明治31年頃に至り、東宇和郡中筋村の人*三好春善が稼行した。その後、北宇和郡成好村の人、渡辺祐常が経営に加わり、両者共同して試掘中、明治40年頃現金砂坑通洞の露頭を発見した。(以下略)
*原文は、宇和島市の人三好某とあるが、訂正した。

考察
1. 「元禄二年大阪屋開坑」の彫刻があったという事の真偽は、確かなものとは言えない とある。「最新大日本鉱山史」の著者が、もとにした史料は何か。探せばわかるかもしれない。彫刻の存在を証明できるものが見出されることを願う。三好春善が稼行開始時には彫刻はあったのか、三好春善の書き物でもあればよいのだが、郷土史家は知らないであろうか。「三好春善は、明治44年(1911)9月、愛媛県会議員(定員36)に当選し、政友会と対立する進歩派と提携したが、大正元年(1912)7月に死去」とあった。5)郷土の名士のようであるので、何かわかるかもしれない。
また、「佐々連鉱山は別子銅山と前後して開坑されたもの」の根拠になる古文書は何か。大坂屋の古文書に「元禄2年宇摩郡さざれの銅山を開坑した」というような記述はないであろうか。6)
2. 以下は、彫刻はあったとして、筆者の推理を記す。
「大阪屋」は、「おおさかや」であり、彫刻字は「大坂屋」であったに違いない。元禄2年(1689)は、別子開坑元禄4年(1691)の2年前である。立川銅山はこの時期大坂屋が稼行していた可能性が非常に高い。立川銅山の大坂屋手代たちが絡んで佐々連坑を開坑したと推理する。立川銅山からかなり距離があるにも拘わらず、新しい坑を開発するのである。可能性のある鉱山に早く手をつけておきたいというのであろうか。立川銅山は、期待した程銅が出なかったのであろう。ではなぜすぐ近くの峰越しの別子を探さなかったのであろうか。立川のあまりに近くでは、期待できないと考えたのではないか。当然、元禄8年の抜合事件まで、一枚板の鉱床であるとは、考えもしなかったのではないか。
 宇摩郡佐々連鉱山付近の村々は、延宝六年(1678)から享保六年(1721)までは、天領であった。別子と同じ天領である。川之江代官所への銅山問堀・開発申請は、別子と同じはず。大坂屋は、峰越しの別子を、期待薄として探さなかったのか、露頭は見つけたが、有望とみなかったのか、または、露頭はそう簡単に見つけられなかったのか。当時大坂屋は、泉屋に次ぐ銅商、銅吹屋、銅山経営者であったので、もし、大坂屋が別子の開発願を出していれば、受理されたのではないか。同じ天領にある佐々連銅山は、受理され開坑できているからそう考えてもおかしくない。川之江代官が、各々の露頭の有望性をわかるはずがない。本業でもわからないのだから。別子では、裏で泉屋に肩入れしたという説は、筆者は疑問に思う。別子を半年、1年と掘ってみて、すごい銅山に当たったということがわかったのである。
 このように推理すると、この彫刻が本当にあったかどうかを知ることは、別子銅山開発の経緯を知る上で参考になる。

まとめ
1. 佐々連鉱山は 坑口磐岩に「元禄2年大坂屋開坑」の彫刻があったといわれていた

注 引用文献
1. web.田邊一郎「いちろうーたの別子銅山オタクサイト」>愛媛の鉱物・鉱山のページ>東予地域>赤石・宇摩地域>佐々連鉱山>キースラガー(2010頃)
2. web. http://www.shibasks.co.jp › machhapu › jibunshi 石川順一「自分史」 58 佐々連鉱山小史(1997頃)
3. web. 「気ままに鉱山炭鉱めぐり」>佐々連鉱山(2009)
4. 日本産業調査会編「最新大日本鉱山史」p59~65(日本産業調査会 昭和15年 1940)
 web.国会図書館デジタルコレクション「最新大日本鉱山史」コマ67
5.  web.データベース「えひめの記憶」 資料「愛媛県史 近代 上」(昭和61年発行) 第2章 地方自治制度の成立と愛媛県 第3節 国会開設と政党>2.明治後期の国政選挙と県政界
6. 本ブログ「立川銅山(4)大坂屋吉兵衛は豪商大坂屋久左衛門の手代ではないか」 

補:筆者のメモ 明治30年(1987)以降の稼行者と事項。
明治30年(1897)東宇和郡中筋村の三好春善
明治36年(1903)北宇和郡成好村の渡辺祐常 明治40年頃金砂坑発見
明治43年(1910) 田村宇(卯?)之助
大正5年(1916)富郷村の加藤善右衛門が金立(きんりつ)坑発見
大正7年(1918)神戸市の岩城商会 岩城卯吉 全部の坑を合わせて「佐々連鉱山」と改称し、岩城鉱業(株)を設立
大正13年(1924)宇摩郡寒川村江之元港との間に鉱石搬出の索道(10.9km)を架設し、経営を軌道に乗せた。以後第2、第3の鉱床を発見し、出鉱量は増加した。
昭和16年(1941) 住友鉱業(株)経営に参加、17年佐々連鉱業(株)と改称、住友鉱業の子会社となった。
昭和25年(1950)別子鉱業(株)の佐々連鉱業所。27年住友金属鉱山(株)の佐々連鉱業所
昭和28年(1953)金泉抗発見。34年金剛坑発見。36年新泉坑発見。
昭和37年(1962)中央立坑完成。39年300斜坑延長完成。40年 第一先進斜坑完成。42年 下部立坑33L完成。44年 第二先進斜坑完成。46年 新風洞完成。51年 下部立坑完成。
昭和54年(1979)8月鉱山全面廃業

立川銅山(17)寺西喜助は尾州海東郡寺西村出身で土佐に移った商人ではないか

2022-06-12 08:30:28 | 趣味歴史推論
 明暦元年(1655)~万治~寛文5年(1665)頃の寺西喜助が見つかりそうな古文書類は何かを推理することにした。

1. 寺西姓の始まり
①現代の寺西姓がどこに多いかを検索した。「日本姓氏語源辞典」1) によれば、「寺西」の小地域順位は以下の通りである。
 1 愛知県 海部郡蟹江町 須成川西上(43.6% / 約70人)
 2 愛知県 海部郡蟹江町 須成川西下(27% / 約40人)
 3 愛知県 稲沢市 大矢町村内下(26.5% / 約40人)
 4 愛知県 海部郡蟹江町 須成門屋敷上(22.2% / 約30人)
 5 富山県 射水市 若林(21.4% / 約40人)
 なんと愛知県海部郡蟹江町須成では、2~5軒に1軒が寺西姓である。ここを「寺西」発祥の地とにらんで、「寺西村」が存在したのではないかと推理した。

②「愛知県の地名」2)によれば、海部(あま)郡(江戸期は海東郡といわれた)蟹江本町村は、室町期から成立した大村で伊勢湾岸にあり、江戸期は直接海に臨んでいた。「寛文覚書」には戸数355、人数1587、漁舟62艘とある。「徇行記」は、「概高1976石余 高に准じては戸数多く農商を兼生産とす、舟入は民戸蟹江新田の地も入交り、漁事船稼ぎを以て専ら生産とし、舟入間の川村中にあり、民戸織の如く軒を連ね、戸口多き所なり」と記し、支村舟入れでの鰻・蛤蜆の採漁、津島祭礼車船に毎年4艘ずつ出したことなどを伝える。享保には、魚、青物の市、六斎市が開かれていた。須成村は、「寛文覚書」には戸数158、人数776とあり、「徇行記」によれば概高2140石余は一円蔵入地(藩直轄地)。

③古文書として「寛文覚書」と「徇行記」が参考になりそうなことがわかった。さらに調べると正確には、「寛文村々覚書」(かんぶんむらむらおぼえがき)3)といい、この覚書は、「寛文末年(1672年前後)に成った尾張8郡内にある村々の歴史や現状を書き留めたもので、一種の“国勢調査”とも言える史料集。各村々の村名・庄名・田畑・石高・戸数・人口・寺社・城跡・橋・杁・牛馬・船・夫役などが記されており、当時の各村々の様子を知るうえで最も信頼できる史料の一つとなっている。」とのことであった。また、江戸後期の同様な調査史料が、尾張藩士樋口好古がまとめた「尾張徇行記」(文政5年 1822)である。

「尾張徇行記」(文政5年 1822)は、愛知県図書館の貴重和本デジタルライブラリーで原本が読めた。4) 
 同記は、海東郡の村として、1. 蟹江本町村 2. 蟹江新町村 3. 今村 4. 須成村 5. 徳眞村 ---と58村が挙げて詳細を記しているが、「寺西村」はなかった。
ただ、須成村の項に、「・社2ヶ所堂宇3ヶ所 祠官寺西伊豆守書上に八剱宮草建年紀不詳、天正7卯年修営す、天王祠も草創年紀不詳慶長19寅年修営す、両社境内1段2畝歩前に除、外に神田3段2畝村除、御蘆山8段7畝12歩年貢地是は大宝新田前にあり」の記述が見える。

⑤「寛文村々覚書」3)は、見られなかったので、それに代わるものを探していたら、偶然前記デジタルライブラリーに、「寛文村々覚書」とほぼ同時期の村高付を記した「尾陽八郡村高付」5)があることがわかった。海東郡の220余の村・新田名とその高が記されている。その中に、「寺西村」があった。→写

「尾陽八郡村高付」
・高547石8斗3升 寺西村


 手元に寛文時代の古地図がないので位置を確認できていないが、寺西村は寛文以降に須成村に併合されたと推測する。
寺西喜助またはその先祖が寺西村出身ではないかと推理した。

⑥ 「姓氏家系大辞典」6)によれば、寺西姓は「尾張の豪族なり」とある。寺西直次備中守は、海東郡万場村の出である。7) 万場村も、「尾張徇行記」には記載がないが、「尾陽八郡村高付」にはあった。さらに同時代の武将として、寺西正勝筑後守がいた。8)

2. 寺西喜助が寺西村の出身として、なぜ土佐に移住したかを推測する。
①土佐藩主が尾張から移ってきたことに関係があるのではないか。
 山内一豊の父 盛豊は尾張国黒田城(愛知県一宮市(いちのみやし)木曽川町)の城代として、主君の岩倉城主織田信安に仕えた。永禄2年(1559年)織田信長の襲撃により岩倉城が落城し、盛豊も戦死した。一豊は母とわずかな家臣とともに流浪した後、豊臣秀吉に仕え、関ヶ原合戦では徳川家康にくみし、慶長6年(1601)土佐一国を領する土佐藩主に任じられた。慶長8年(1603)高知城を築城し、城下町の整備を行った。土佐山内家は江戸時代を通じて16代にわたり土佐藩主を勤めた。9)
黒田城は、寺西村の北方23kmの所にある。一豊は尾張国中を廻っていたに違いない。

寺西喜助またはその先祖は、雄飛する初代藩主一豊または、二代忠義に引かれて新天地の土佐へ移住したのではないか。そして二代藩主の時の執政野中兼山の土木工事や材木商とし財をなした可能性がある。
承応3年(1654)藩主忠義が兼山らにあてた文書に、土佐郡高川、安芸郡佐喜浜に「銅之在よし」と書かれてあることから、藩は銅山開発をもくろんでいたことがわかる。ただ銅山経営は高い技術と大資本を必要とし、幕府の許可を得なければなかったので、容易には着手できなかった。10) そこで、隣藩にある立川銅山で、寺西喜助が試みるのを後押ししたのではないかと筆者は考えた。寺西喜助が鉱山技術を持っていたかは、気になるところである。

まとめ
1. 山師「土佐の寺西喜助」は、本人または先祖が尾州海東郡寺西村出身であり、山内家の東海から土佐への移封に引かれて土佐に移住した商人ではないかとの仮説を提案した。
2. 明暦~寛文頃の土佐藩の古文書や高知城下の町人町の地図で寺西を探してみよう。


注 引用文献
1.  web. -名字の由来、語源、分布-「日本姓氏語源辞典」>寺西姓
2. 日本歴史地名大系第23巻「愛知県の地名」p453 (平凡社 1981)
3. 名古屋市教育委員会編「名古屋叢書続編第2巻(寛文村々覚書 中)」(名古屋市教育委員会発行 1965)
4. 「尾張徇行記」web.愛知県図書館貴重和本デジタルライブラリー「尾張徇行記」p1-2,19
5. 「尾陽八郡村高付」 web.愛知県図書館貴重和本デジタルライブラリー「尾陽八郡村高付」p50 →写
6. 「姓氏家系大辞典」太田亮著p3866(角川 昭和38年 1963)
7. Wikipedia:「 寺西直次備中守」(1557~1649)は、安土桃山時代の武将、大名。美濃本田(ほんでん)城主。江戸初期の加賀藩家老。尾張国海東郡万場村の人。天正14年(1586)九州征伐の後方支援の功で、秀吉から美濃国本田城を拝領した。父は斉藤氏の家臣だった寺西駿河守。斉藤龍興滅亡後から秀吉に仕え、主に後方支援(食料・武器調達、兵員確保など)や占領地の統治等で活躍した。美濃本田(ほんでん)城以外にも越前や近江などで領地をもらい、豊臣政権下で1万石を領する大名となった。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に属し、敗れ、徳川家康によって改易とされた。その後、加賀の前田利長(1562~1614、利家の長男)に家臣として誘われ1,500石(能登の鹿島郡津向)の家臣となった。
8. Wikipedia:「 寺西正勝筑後守」(?~1600)美濃国の出身 天正10年(1582年)、織田信長の部将として近江二郡を治めていた丹羽長秀の家臣となり翌年の賤ヶ岳の戦いにおける柳瀬合戦で活躍。その功で長秀が越前に封じられたときに知行1万石を授かる。天正13年(1585年)4月に長秀が亡くなると、その子の長重に仕えていたが、丹羽家の家内騒動で出奔し、豊臣秀吉の家臣となり、加増あって1万3,000石を知行。晩年は秀吉の御伽衆となった。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの前に亡くなった。
尾張国海東郡の土豪の寺西駿河守とその子の寺西直次(備中守)とは同族と考えられるが続柄は不明。
9. web. 高知城歴史博物館 > 城博コラム > 山内家の歴史 > 山内家の由来
10. 「大川村史」p244(大川村史編纂委員会 昭和37年 1962)
補.  一柳直盛は、慶長6年(1601年)、尾張国黒田城(愛知県一宮市木曽川町)3万5000石の城主だったが、5万石で伊勢国へ入部し、神戸藩((かんべはん)伊勢国河曲郡周辺を領有した。寛永13年(1636年)に直盛は更に加増を受け、6万8000石で伊予国西条藩に転封となった。

写 「尾陽八郡村高付」の寺西村部分


立川銅山(16)元禄12年土佐藩大北川銅山の山師が海部屋助右衛門だった

2022-06-05 08:21:23 | 趣味歴史推論
 大川村史、本川村史を読んでいたら、別子山村から藩境の峠を超えて別子銅山の南東15km付近で、大北川銅山が元禄に開発され、山師として、海部屋助右衛門がいたことを、偶然見つけた。これは、土佐藩本川郷大川村の大北川山(大喜多川山)にあった銅山で、大北川銅山、大喜多川銅山、本川銅山などと呼ばれ、別子銅山と同じ層状含銅硫化鉄鉱床である。この銅山が土佐藩にとって本格的な銅山開発の最初であった。当時の記録文書を以下に示した。1)3)
 
1. 元禄12年(1699)土佐藩四代藩主山内豊昌は、西野総右衛門を使者として、幕府の老中阿部豊後守正成に次の文書を出し、大北川山試掘の承認を求めた(「山内家記録」)。

 私領国土佐郡大北川村之山に銅山可有之由申候条、為掘可申と奉存候。私領国之内に金銀銅山於有之は見立為掘可申旨、去年春被仰出候得共、御自分様之御儀に付、此段申上候。以上
     2月10日        松平土佐守使者 西野総右衛門

 幕府の政策と合致していたので、すぐに承認され、藩では、4月には上方から請負いの山師(海部屋助右衛門)が大川村に入り採鉱が開始された。

2. 土佐藩の仕置役松平長兵衛高継がこの銅山を元禄13年(1700)に視察して、その結果を報告した文書「節録」の記録

大喜多川銅掘所、銅吹屋其外箔石割場等見分仕候。葛目太郎兵衛召連候に付、銅山様子承候処箔石次第に能成、銅山之者共きおい申体御座候
・大喜多川山の弘さ大体8,9里廻程の山にて御座候。
・東山鋪 ・西山鋪 ・栄鋪 ・本谷鋪 ・大西山鋪 ・右の外 鋪1ヶ所唯今掘立申候。
銅箔石荒焼釜117
須吹釜3ヶ所
真吹釜2ヶ所
・家数51軒 銅請之者共仕
外に
・家数9軒 銅山に被仕置候諸役人役所並番所共
男女526人 内 男471人 女55人
   右の内 他国者 469人 御国者 57人
・銅山請之手代4人罷在候。
・銅支配所より銅石掘所鋪迄14町半之道大木石をふせ往来自由能様に仕候。
・大喜多川銅山より東汗見川之内さかせ御用木山へは5,6里御座候。西桑瀬之内一ノ谷黒滝御用山へは銅山より6,7里程御座候に付、火用心危儀無御座由申候。大喜多川山分先達而阿州上松屋武左衛門材木請に伐取申候に付、仕跡山にて御座候。乍然銅山入用之炭薪之浅木分、並小屋掛材木等は御座候。
・小麦畝之銀山御座候所へも罷越見分仕候。唯今長8間余、高さ3尺余、横2尺余掘入申候。本弦に当り不申候へども、唯今出申箔石之もやう宜御座候間、追付弦に逢可申由、かね掘共申候。右銀石かね掘之者に割せ少々吹申候処銀御座候。
・同所東谷平石金石之鋪大体見分仕候。此所之儀は但州より功者成者追付罷下見合せ申筈に付、其内鋪掘申儀差止置申故未治定不仕候。
    3月28日          松下長兵衛

3. 幕府勘定奉行荻原重秀に土佐藩江戸留守居役野本平左衛門が大北川銅山の出銅量を報告した。
   土佐国銅掘出申候覚
・銅高13,050貫目余
  内
   6,969貫目余      元禄12年分
   6,085貫目余      元禄13年分
      以上
            松平民部大輔内
                野本平左衛門

4. この銅山の稼行は、山師海部屋助右衛門請けで、4年4ヶ月続いたことが、本川郷の大庄屋和田庄右衛門から提出した覚書に書かれている(「山内家記録」)。予想に反して、銅があまり採れなかった。→写

  覚
・本川之内大北川銅山、元禄12年4月より海部屋助右衛門御請仕、去8月迄年数4ヶ年掘申候へども、不勝手之由にて指止申処相違無御座候。 以上 
元禄16年未11月28日   和田庄右衛門

  岩井十郎兵衛殿

なお海部屋の子孫は、山内家の御目見商人として土佐藩から扶持などをうけている
。2)

考察
1. 大北川銅山は、土佐藩の肝煎で開発された銅山である。藩は、山師として海部屋に目を付けたのであろう。海部屋助右衛門と海部屋平右衛門との関係はわからないが、助右衛門は、平右衛門の1世代後になるのではないか。調べたが、この大北川銅山以外には情報はなかった。
2. 土佐藩の仕置役松平長兵衛高継が元禄13年(1700)に書いた記録は、的確であり貴重である。
荒焼釜117、素吹釜3、真吹釜2 と製法がわかる。それは別子銅山と同じである。別子銅山の記録で、「真吹」の初出は、元禄12年であったが4)、ここ大北川銅山では、元禄13年とほぼ同時期である。鉱山や山師が違っても山下吹であったことが確認できた。
3. 産銅量は、元禄12年6,969貫目余であった。(別子銅山は、元禄5年95,405貫目、元禄12年405,511貫目であった。)

まとめ
 元禄12年(1699)土佐藩大北川銅山の山師が海部屋助右衛門だった。 

注 引用文献
1. 「大川村史」p244~252(大川村史編纂委員会 1962) p252 →写
2. 「本川村史」p225 (本川村 1980)
3. 進藤正信「土佐白滝鉱山史の研究」p1~5(進藤正信 1988)
4. 本ブログ「山下吹(24) 別子銅山は、元禄12年(1699)に真吹であった」

写 大川村史の海部屋助右衛門のページ



 筆者は、この大北川銅山を今回はじめて知り、この周辺のいくつかの鉱山が大正時代に白滝鉱山としてまとめられ、昭和47年まで操業したという歴史を知った。以下は筆者のメモである。
「1699(元禄12)年2月に土佐藩により開坑した大北川銅山を始めとして、その後、閉坑と再開坑を繰り返す。明治4 年に樅之木鉱山開坑。明治20年住友は、樅之木鉱業所を開設し、操業したが、鉱石品位が低く採算が取れず、明治29年売却した。愛媛県西宇和郡出身の宇都宮壮十郎が大正2年から諸鉱山を手に入れ、宇宝合名会社を設立、大正5年に大北川、樅の木、大川、白滝、中蔵、喜多賀和、朝谷の7鉱山を統一名称「白滝鉱山」として、発電所や機械化など近代化を進めた。大正4年の産銅高は、143,923貫目と急激に増加した。その結果、樅之木製錬所を中心に煙害が付近一帯に発生した。会社は、製錬所の廃止を決意し、山元より鉱石をそのまま瀬戸内海へ搬出するため、宇摩郡中之庄村具定(旧三島市)まで延長21kmの索道を大正6年に敷設した。山元製錬法式から 鉱石売却方式への転換であった。大正8年久原鉱業(日本鉱業)が経営を引き継ぐと、樅之木製錬所を完全に廃止し、全て鉱石のまま自社の大分県佐賀関製錬所ほかに送り製錬を行った。昭和20年代後半から昭和30年代にかけて非常に栄えたが、昭和47年(1972)3月、閉山した。
「白瀧鉱山」は、元禄時代以来、土佐国(高知県)随一の出銅量を誇り、四国でも別子、佐々連鉱山に次いで第3位の産銅量を示した大鉱山だった。」
参考文献 ・大川村史p480~495 ・谷脇雅文「白滝鉱山が地域にもたらしたもの」『まてりあ』45(4)p259(2006) ・web.「鉱山札の研究(本川鉱山札)」-Mineralhunters ・web. 「気ままに鉱山炭鉱めぐり」>白滝鉱山(2009) ・Wikipedia「白滝鉱山」