気ままな推理帳

本やネット情報から推理して楽しむブログ

慶安4年小松藩主一柳直頼が、市之川鉱山を発見したのか

2018-02-19 20:39:24 | 趣味歴史推論
1. 延宝7年(1679年)に曽我部親信が市之川鉱山を発見した。それ以前に発見、採掘されていたことを証明する記録、文献を探していたところ、「四国名所誌:古跡遊覧」(明治28、1895年)の白鑛山の項に 「慶安四辛卯年二月領主一柳式部少輔直頼侯狩中に発見せし跡なるが」と記載されていることを見つけた。1)
慶安4年(1651年)は、延宝7年の28年前であり、この記述の信憑性について検討する。

2. 一柳直頼について、Wikipediaや事典では、以下のように記されている。2)
一柳直頼(ひとつやなぎ なおより)は、伊予小松藩の初代藩主。慶長7年(1602年)7月23日、伊勢神戸藩主(のち伊予西条藩主)一柳直盛の三男として、伊勢神戸に生まれる。寛永13年(1636年)、西条に入封する途次に父が没し、遺領6万8600石が3人の子で分割された際に、直頼は1万石を相続。周布郡新屋敷村に陣屋(小松陣屋)を構え、小松藩を立藩した。正保2年(1645年)4月28日、江戸で死去。享年44。佛心寺に葬られた。跡を長男・直治が継いだ。
3. これによれば、直頼は1645年に死去して、慶安4年には生存していないので、直頼は間違いであることは明らかである。
そこで、慶安4年の藩主名を書くべきところを間違えて、前藩主名を記載した可能性も考えられるので、それを調べてみた。その時の藩主は、一柳直治である。
4. 一柳直治について、以下のように記されている。2)
一柳直治(ひとつやなぎ なおはる)は、伊予小松藩の第2代藩主。寛永19年(1642年)5月4日、初代藩主・一柳直頼の長男として江戸で生まれる。正保2年(1645年)、父の死去により、4歳で跡を継ぐ。慶安4年(1651年)、将軍徳川家綱に初謁。万治3年(1660年)12月、従五位下山城守に叙任。寛文元年(1661年)に初めて国入りを果たし、寛文4年(1664年)に封地の御朱印状を発給されている。宝永2年(1705年)閏4月15日、長男・頼徳に家督を譲って隠居。正徳6年(1716年)3月15日に小松にて死去した。享年75
5. 直治は、慶安4年には9歳で江戸におり、寛文元年(1661年)に初めて小松に来たとある。よって、慶安4年に白鑛山を発見することはできない。直治は、1705年まで在位しており、延宝7年(1679年)に曽我部親信が市之川鉱山を発見した時の藩主であり、事典によれば、「強ニ鷹狩ヲ好ミ、弊甚ダ多カリシガ」とあるので、曽我部親信が発見採掘後、鉱山を訪れた可能性は十分ある。
いづれにしても小松藩主が市之川鉱山を発見したというのは、誤りである。
6. 結論 
慶安4年 小松藩主一柳直頼が、市之川鉱山を発見したという記述は、全く信憑性がない。誤りである。


1)得能通義(星岳)編 四国名所誌:古跡遊覧(明治28.7、1895)国会図書館デジタルコレクション
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766478

2)Wikipedia(参考文献は寛政重修諸家譜 巻第六百四とある)
 工藤寛正「江戸時代 全大名家事典」p 756 (東京堂 2007.8.1)

寛永15年空性法親王御巡行記の白窟は、市之川鉱山か

2018-02-18 23:08:15 | 趣味歴史推論
1. 延宝7年(1679)に曽我部親信が市之川鉱山を発見した。それ以前に発見、採掘されていたことを証明する記録、文献を探したところ、喜代吉榮徳が、新居浜史談(2007)に以下のように書いているのを見つけた。1)

伊予史談会発行「四国遍路記集」に「空性法親王四国霊場御巡行記」というのがあり、その中に「---伊曾乃神は保国寺、尚司る白窟、西条館行き過ぎて---」と出てくる。近辺の事跡として無視できない事項なのである。この御巡行記は偽書として曰くつきのものであるが、市之川鉱山の存在を教えて呉れる貴重な活字には違いない。

この「白窟」は、喜代吉によってはじめて指摘されたと思われる。「空性法親王四国霊場御巡行記」は寛永15年8月(1638)に権少僧正 賢明のよって書かれたとある。2) これが真実なら、1679年以前に市之川鉱山の存在する証拠になる可能性があるので、御巡行記の信憑性について、調べた。

2. 信憑性の検討
偽書説
① 伊予史談で昭和3年、12年に2度取り上げられている。
② この御巡行記の信憑性を検討した最近の論文として、高知県歴史民俗資料館調査員の小松勝記「創作された四国ヘンロ資料[空性法親王四國霊場御巡行記]」(2009)が詳しい。3)
③ 武田和昭「四国へんろの歴史」(2016)のなかで、小松の指摘する時代的な矛盾を首肯し、さらに矛盾点を挙げている。4)

小松は、寛永15年にはありえない言葉や事項を多数とりあげその証拠を出し、法親王の四国における滞在記録を調べ、違っていることを詳しく論じ、御巡行記は創作紀行文であるとした。
小松の結論は、筆者の理解で分かりやすく表すと以下のようになる。
① 寛永15年に巡行したのは、大覚寺門跡の尊性法親王である。前任の空性法親王もそのころ巡行しており、「四国巡覧」Aが記された。
② Aを元に、誰かが大きく改竄し、創作紀行文Bを書いた。
③ Bの写本C(昭和4年)では、「嵯峨御所大覚寺宮二名洲御巡行略記」と内題された。5)
④ Bを改竄、巡行時期を寛永15年とし、表題を「空性法親王四國霊場御巡行記」Dとして、「国文東方佛教叢書」第7巻で、世に初めて出た(大正14年)。6)
 
 結尾には「誰がどのような意図を持って書いたのかは確証がないので、それを提示することは差し控えるが、[御巡行記]としたものは、明治時代後期以降、大正14年までに世に出されたと考えるのが妥当であろう」と記している。

さらに小松は、「記述される内容を検討していけば、[四国名所誌:古跡遊覧(明治28、1895)]や[愛媛面影(慶応2、1866)]、[四國遍路道指南(1687)]、[四国遍礼功徳記]など、地誌やヘンロ案内書から引用した雰囲気を強く感じる」とも書いている。

これらの4誌は全て延宝7年(1679)に曽我部親信が市之川鉱山を発見した後に発行されたものである。筆者は、4誌での白や市之川鉱山近傍の記述を調べた結果、四国名所誌:古跡遊覧と愛媛面影によく似た記述があり、あとの二つにはないことがわかった。

御巡行記と四国名所誌:古跡遊覧および愛媛面影を以下に比較する。

写本 御巡行略記C 
梅檀山の司とる周敷の六郷総鎮守加茂の神社と新宮の三島の神を司とる七堂伽藍の古へを確に拝む保安寺瑠璃の光は菊桐の陵の古墳は南方の末の泪と消し露大国主の一の宮小松新舘吉祥を皆祈らんと氷見芝井新居の舘の趾守る土居石岡の神垣を賢こく誓ふ大小市命倭迹々日百襲比賣狹挾鳴女命品陀和気命合遷須高尾の城趾遠く高峯新月を今茲に拝まん為めの前神寺高外木の城墟高し伊曽乃の神は保国寺尚司とる白窟西條舘行き過きて新居の島山千鳥鳴く金子の城墟灼然の庵の跡や王円の濱邊に立る一の宮三島の神の古へを拝む為の御輿の島神宮寺の司とる本地大日弥陀地蔵智勝院とそ名附けたり南に高き銅の山古へ鑿つ窟の跡暫時詠して宇摩の関入野の薄き宇摩の舘古への趾土居構へ屈蟠む松や千歳経る村山の神津根の里安養三福神宮寺寶の塚は謂れある古趾を遺す所あり


御巡行記D ( )は筆者 赤字はCと異なるところを示す。
梅檀山(香園寺)の司なる、周敷の六里総鎮守、加茂の神社と新宮の、三島の神を司どる、七堂伽藍の古へを、確に拝む保安寺(法安寺)。瑠璃の光は、菊桐の陵の古墳は、南朝の末の泪と消えし露、大国主ノ一ノ宮(宝寿寺)、小松新宮、吉祥を祈らんと氷水、芝井新居の館の跡守る土居(林唱寺)、石岡の神垣は賢く誓ふ。大小市命、倭迹々日百襲比売挾鳴女命、品陀和気命、合遷須高尾の城跡遠く、高峰の月を今茲に、拝まん為めの前神寺、高外木の城墟高し。伊曽乃神は保国寺、尚司どる白窟、西条館行き過ぎて、新居の島山千鳥鳴く金子の城、灼然の庵の跡や王円の、浜辺に立る一之宮、三島の神の御輿の島、神宮寺の本地大日蟠阿弥陀地蔵、智勝院とぞ名けたり。南に高き銅の山、古へ鑿つ窟の趾、暫時詠じて宇摩の関、入野の薄宇摩の館。古へは土居構へ窟蟠る松や千歳経る、村上の神津根の里、安養三福神宮寺、宝の塚は謂れある、古趾を遺す所なり。名も面白き滝の糸繰り返しつゝ詠ずれば、皇子の御墓一の宮、川島の神の鎮座ます、石戸八幡神宮寺、谷の有る寒川新長谷寺、---

四国名所誌:古跡遊覧
この部分の複写を国会図書館デジタルコレクションより抜粋して添付した。8)
以下の順序でかなり詳しく記述されている。

第61番礼拝場 香苑寺→第62番礼拝場 一の宮→小松館跡→林昌寺→高尾古城跡→第63番礼拝場 吉祥寺→石岡八幡社→第64番礼拝場 前神寺→高外木古城墟→伊曾乃神社→保國寺→白鉱山→西條館跡→一宮大明神の社→御輿島→高僧灼然古蹟→金子山古城墟→別子山足谷銅山→古關の蹟→入野の薄→土居老松→伊太祁神社→中尾山古城墟→國吉古城墟→横尾古城墟→澁柿古城墟→三島神社→面白の瀧→村山神社→石戸八幡社→寒川→金山→新長谷寺→

白鉱山の項前後の文は以下のとおりである。

◎保國寺
 ---------又當山の築山は足利義満公宗阿彌に命じて當寺四世太愚和尚の代に築かれしと縁起に見る 此地より川に添うて登る一の川しろめ山迄一里
◎白鑛山
 新居郡大生院村一の川山にあり 慶安四辛卯年二月領主一柳式部少輔直頼侯狩中に発見せし跡なるが近年盛大に開て概一箇年に出る處の収穫高二百萬斤の多きに平均す 此頃萬國アンチモニー産出所の比考評を閲るに多額の地は此地を指て世界第一と評せり 故にや西洋の人日本をアンチモニー國なりといへり○此山より西條町迄二里
◎西條館跡
 新居郡西條市街にあり----
◎一宮大明神の社あり祭神は大山積の命----
◎高僧灼然古蹟及高僧上仙の居古寺址あり----
◎金子山古城墟 河野家幕下新居郡旗頭金子傳兵衛尉基家居處----
◎別子山足谷銅山
 宇摩郡の部なり此地は元禄四年開発銅石の出る日々に増隆盛なり又新居郡立川山長谷と云地も銅石の出る事前に同じ總て昔一柳家の領地なるに----


旅で、訪れたり遠望したり思いをはせる場所の順番はある程度同じようになるのは当然として、取り上げて記す寺社や名所旧跡が 御巡行記と四国名所誌でほとんど一致している。
御巡行記では、遍路に来たのに、霊場八十八ヵ所の61番から64番までの間、寺の描写は、ほんの一言ずつで少なく、本当に訪れていたとは思えないのである。
すなわち、御巡行記の少なくともこの部分は、詳細な記述がある「四国名所誌:古跡遊覧」(1895)を参考にして、書かれたと筆者は推定する。逆ではないと思う。
 改竄者は、寛永15年に市之川鉱山は採掘されていたと勘違いして、間違って記述してしまったと推測する。
 「南に高き銅の山」とあるが、四国名所誌に書かれた別子銅山は元禄4年(1691)開坑なので、寛永15年には発見されていない。ただ近くの立川銅山は寛永13~20年(1636~1643)頃の開坑でぎりぎり存在した可能性があるが、寛永15年に有名になっていたとは思えず、銅山は改竄者が間違って記述してしまったと推測する。

伊予史談第92号(昭和12年)で西園寺源透は、Bについて、得能桑洲(四国名所誌:古跡遊覧の著者)等が改竄したと推定している。
なお 四国名所誌:古跡遊覧の国会図書館デジタルコレクションには著者:得能通義(星仙)編 とあり、得能桑洲と同一人物なのかは、筆者はわからない。

また「愛媛面影」(1866)には、7)
「 白 大生院村大野山一川と云う所より出す。上品なり。俗に伊予白と名づく。続日本紀文武巻に曰く、大宝元年七月伊予国献白。同乙酉伊予国献鉱。」
とある。しかし献上された白が市之川鉱山産であるという証拠はなく、願望をこめて記載したと推測する。


3. 結論
 この御巡行記は、信憑性がないので、「寛永15年には既に、市之川鉱山が発見され、採掘されていた」という証拠にはならない。 


「四国名所誌:古跡遊覧」の白鑛山の項には 「慶安四辛卯年(1651)二月領主一柳式部少輔直頼侯狩中に発見せし跡なるが」と記載されている。これの信憑性については 次報で検討する。


1)喜代吉榮徳 「白味・白目・アンチモニーの話」新居浜史談 367号 p35(2007.3)

2)賢明 「空性法親王四国霊場御巡行記」 四国遍路記集 p14 (伊予史談会双書第3集、1981.8)

3) 小松勝記「創作された四国ヘンロ資料[空性法親王四國霊場御巡行記]」第1回四国地域史研究大会-四国遍路研究前進のために-公開シンポジウム・研究集会報告書p23(2009.3)
http://henro.ll.ehime-u.ac.jp/wp-content/uploads/2009/03/7d7d377870ea5fca6b1fbfe27362a85d.pdf
4) 武田和昭「四国へんろの歴史」p115 (美巧社 2016.11)

5) 伊予史談会文庫 「伊予書籍要集16 大覚寺宮四国御巡行略記(内題:嵯峨御所大覚寺宮二名洲御巡行略記」(伊予史談会 昭和4年6月製本)

6)國文東方佛教叢第七巻・紀行部「空性法親王四国霊場御巡行記」 編集者、鷲尾順敬(大正14年発行、東方書院)

7) 半井梧菴 「愛媛面影」(伊予史談会双書第1集 昭和55.7)

8)得能通義(星岳)編 四国名所誌:古跡遊覧(明治28.7、1895)国会図書館デジタルコレクション コマ95-102
dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766478