気ままな推理帳

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切上り長兵衛の告知を記録させた住友(入江)友俊の学識

2019-08-20 19:44:57 | 趣味歴史推論
前報の「切上り長兵衛が露頭の存在を告知した事は友俊の指示で記録された」の人物 友俊に興味を持ち調べた。
友俊 生没年 享保3年(1718)~寛政11年(1799)享年82才 法名 義泉院仁誉礼厚育斎居士 大阪実相寺に葬られている。1)2)
 5代友昌は16才にして友芳のあとをついだが、生来病弱であったので、友芳のように恭倹、家政を統括できず、綱紀も弛緩していた。3)
友昌の異母弟友俊(権左衛門)は、寛保3年(1743)6月に豊後町・高間町・呉服町の家屋敷を分与され、同年12月に豊後町へ転居して分家として独立し、両替業を営んだ。翌年正月には権左衛門を理兵衛と改名した。先祖の旧姓入江を名乗り、育斎と号して、文化人としても有名であった。4)
 幼い嗣子を抱え、病弱であった友昌は、寛延3年(1750)10月に友俊を家政の取締役に任じ、あわせて手代の協力を求めた。これを承けて友俊は、翌年に懸けて本家・豊後町家・別子銅山・江戸店など店部毎に詳細な家法を定め、手代が果たすべき役割について明確に規定した。4)6)
 友昌は寛厚であり、これに対し友俊は「其形長高く健強にして音声高く、凛々たる風骨があった」と言われている。友俊について「東区史」には「育斎は幼にして頴悟、儒学を五井蘭洲の門に受け、5)和歌を冷泉為村に学び、山材闇斎の門流である原清茂に師事し、神道を修めた。人と為り篤信強記而も忘るる所あるを憂ひて、自ら之を筆記せるもの終に300巻の多きに達したという。茶道を嗜み、法を一灯宗室の門にうけて之を能くした。かつてその一族である住友家の家政を整理して能くその基礎を固め、後、分れて豊後町に居住した。」と記されている。さらに「資性義を重んじ、特に慈悲心に富んでいた。或時一友人旧債の為、憂色あるを憐み、自ら証文を焼却して、その苦痛を免れしめたることもあった。性来雷を恐怖すること甚だしく、常に雷に関する文献を蒐集し、深くその理を究むる所があったが、紫電一閃忽ち恐れ戦き、目を塞ぎ、耳を覆いて、色土の如く変じ、恰も喪心したもののようであった」という。3)

 田向重右衛門らを別子に踏査見分に向かわせた原因(場所や露頭の有望性を示す情報元)を示さなければ、銅山開発の過程を正しく記したことにならない。論理的、科学的に考えれば当然なこととして、切り上がり長兵衛の告知を記録しなければならないと思い至ったのが友俊であった。友俊が懐徳堂に学んだ教養人でもあったことが、記録を正しくさせたことに影響したと筆者は思う。

注 引用文献など
1. 当主の生没年と家督期間
   4代友芳 1670~1719 享年50才 家督期間 貞享2年(1685)~享保4年(1719)
   5代友昌 1705~1758 享年54才 家督期間 享保5年(1720)~宝暦8年(1758)
   6代友紀 1741~1816 享年76才 家督期間 宝暦9年(1759)~天明元年(1781)
2. ウェブサイト Tenyu Sinjo.jp 天祐神助>住友財閥史>実相寺
3. 宮本又次「懐徳堂と明誠舎と住友」-3友俊の教養と懐徳堂 上方の研究 第5巻 p205-213(清文堂 昭和52.3.15 1977)
4. 住友史料叢書「年々諸用留六番」安田良一 解題 p1(平成11.1.10 1999)
5. 懐徳堂は官許を得た大坂学問所であり、江戸の昌平黌に対抗するほどの実力ある漢学塾であった。五井蘭洲はその助教であった。
6. 寛延2年(1749)から立川銅山を手代名義で請け負い、実質的に、進んでは名義も友俊となった。宝暦12年(1762)の別子・立川銅山一手稼行になる直前頃に友俊は立川銅山から手を引いた。安永7年(1778)には十人両替になっている。

切上り長兵衛が露頭の存在を告知した事は友俊の指示で記録された

2019-08-02 16:33:12 | 趣味歴史推論
立川銅山で働いていた切上り長兵衛が別子露頭の存在を吉岡銅山田向重右衛門に告知した事の記録の歴史を検討する。
「別子銅山出来事と長兵衛の記録書」の年表
・元禄2~3年(1689~1690)切上り長兵衛が露頭の存在を田向重右衛門へ告知(以下単に告知と記す)
・元禄3年(1690)田向重右衛門らによる見分
・元禄4年(1691)別子銅山開坑
・元禄5年頃(1692)長兵衛が別子銅山で鋪庄屋として働く
・元禄7年(1694)大火
・宝永5年(1708)切上り長兵衛死去
・宝永末~元文5年(1710~1740)記録:「宝の山(本店手代記)」に各地の鉱山で切上り、切上り長兵衛で記録された。別子銅山は、重右衛門らの足谷見分のみであり、告知の記載はなく、長兵衛は出てこない。
・享保9年(1724)記録:「別子銅山初発之書付(重右衛門記→5代当主友昌)」重右衛門らの見立から始っており、告知の記載はなく、長兵衛は全く出てこない。
・享保10年(1725)記録:「宝の山」中、「手代平左衛門・重助の石州山所見分之覚書」に別子銅山にいた庄屋長兵衛として記録あり。
・寛延2年(1749)泉屋が立川銅山を手代名義で請け負う
・宝暦7年頃(1757)50回忌(推定)供養(施主濱井筒屋)記録:慈眼寺過去帳、加藤家に位牌あり。
・宝暦8年(1758)記録:「別子立川両銅山開発覚書(友俊→往阿坊記)」下財が重右衛門へ告知。 
・宝暦9年(1759)記録:「足谷御銅山新見立之覚(本店手代記)」下財長兵衛が重右衛門へ告知。
・宝暦12年(1762)泉屋による別子・立川両銅山一手稼行を出願し許可
・明和3年(1766)記録:「別子御銅山未来記(泉屋傳右衛門記←友俊が手記させた)阿波生まれ 山留切り揚り長兵衛が重右衛門へ告知、山の将来の遺言を金十郎が傳えた。

1. 享保10年「手代平左衛門・重助の石州見分之覚書」中の庄屋長兵衛が別子銅山との関りの最初の記録である。 
泉屋叢考によれば、「足谷御銅山新見立之覚に初めて長兵衛の名が見える。」とある。1)しかし告知のことには触れていないが、それよりかなり前に「手代平左衛門・重助の石州山所見分之覚書」中に別子銅山にいた庄屋長兵衛として記録されている。住友史料館としては、この庄屋長兵衛を切上り長兵衛と認めていないようであるが、認めるべきであると筆者はブログ「切上り長兵衛は、開坑時の別子銅山で働いていた」で書いた。
鋪庄屋の記録の例としては、「別子銅山賃金計量等大概」にある。2)→写し参照
・鋪庄屋吉郎兵衛甚右衛門 但朝夕役所にて鋪油わた役所より
給銀1カ月50匁 外に大の月42匁、小の月40匁6部
・山留12人       給銀は鋪庄屋に同じ

2. 切上り長兵衛が露頭の存在を告知した事は友俊の指示で記録された。
宝暦8年(1758)友俊(ともとし)は、立川銅山の泉屋による請負も8年経ち、立川銅山で働いていた者による露頭の告知の事実を記録に残すべきであると判断したに違いない。そうしないと重右衛門らが見分に行ったきっかけが未来永劫分からないことになる。情報が大事であることを友俊は知っていた。今まで内々にしてきたが、長兵衛への感謝の意味もあったであろう。いずれにしろ、5代当主友昌の弟である友俊の指示により告知の記録が始まったのである。別子銅山の庄屋長兵衛と書くのはよいが、告知したと書くのは、その当時の手代ではできなかった。重右衛門でさえ書かなかったのだから。重右衛門から口頭では長兵衛の告知があったことを伝えたはずだが、立川銅山で働いていた者の言であったので、記録され後世に残るは好ましくないと思って文書では残さなかったと筆者は推定する。

注 引用文献など
1. 泉屋叢考 第13輯「別子銅山の発見と開発」解題p4(昭和42.10 1967)
2. 同上 p2 「別子銅山賃金計量等大概」元禄末年から宝永年間にかけての別子銅山に於ける吹床の寸法・容量、選鉱・精錬に用いる計量器具の寸法・容量、板材の直段、鉑吹賃・眞吹賃の推移、吹床用土運搬費、鋪庄屋・山留・手伝・手子・得歩引・水引・鉑番の賃金その他、鉑石・焼鉑・諸物品の別子山内横持賃規定並に運搬路規定などが記されている。別子初期の具体的稼行を知る上に貴重な史料である。(諸国銅山記の中「山のいかさら(五笳佐良)」所収)
写し 「別子銅山賃金計量等大概」の鋪庄屋の項