前報の「切上り長兵衛が露頭の存在を告知した事は友俊の指示で記録された」の人物 友俊に興味を持ち調べた。
友俊 生没年 享保3年(1718)~寛政11年(1799)享年82才 法名 義泉院仁誉礼厚育斎居士 大阪実相寺に葬られている。1)2)
5代友昌は16才にして友芳のあとをついだが、生来病弱であったので、友芳のように恭倹、家政を統括できず、綱紀も弛緩していた。3)
友昌の異母弟友俊(権左衛門)は、寛保3年(1743)6月に豊後町・高間町・呉服町の家屋敷を分与され、同年12月に豊後町へ転居して分家として独立し、両替業を営んだ。翌年正月には権左衛門を理兵衛と改名した。先祖の旧姓入江を名乗り、育斎と号して、文化人としても有名であった。4)
幼い嗣子を抱え、病弱であった友昌は、寛延3年(1750)10月に友俊を家政の取締役に任じ、あわせて手代の協力を求めた。これを承けて友俊は、翌年に懸けて本家・豊後町家・別子銅山・江戸店など店部毎に詳細な家法を定め、手代が果たすべき役割について明確に規定した。4)6)
友昌は寛厚であり、これに対し友俊は「其形長高く健強にして音声高く、凛々たる風骨があった」と言われている。友俊について「東区史」には「育斎は幼にして頴悟、儒学を五井蘭洲の門に受け、5)和歌を冷泉為村に学び、山材闇斎の門流である原清茂に師事し、神道を修めた。人と為り篤信強記而も忘るる所あるを憂ひて、自ら之を筆記せるもの終に300巻の多きに達したという。茶道を嗜み、法を一灯宗室の門にうけて之を能くした。かつてその一族である住友家の家政を整理して能くその基礎を固め、後、分れて豊後町に居住した。」と記されている。さらに「資性義を重んじ、特に慈悲心に富んでいた。或時一友人旧債の為、憂色あるを憐み、自ら証文を焼却して、その苦痛を免れしめたることもあった。性来雷を恐怖すること甚だしく、常に雷に関する文献を蒐集し、深くその理を究むる所があったが、紫電一閃忽ち恐れ戦き、目を塞ぎ、耳を覆いて、色土の如く変じ、恰も喪心したもののようであった」という。3)
田向重右衛門らを別子に踏査見分に向かわせた原因(場所や露頭の有望性を示す情報元)を示さなければ、銅山開発の過程を正しく記したことにならない。論理的、科学的に考えれば当然なこととして、切り上がり長兵衛の告知を記録しなければならないと思い至ったのが友俊であった。友俊が懐徳堂に学んだ教養人でもあったことが、記録を正しくさせたことに影響したと筆者は思う。
注 引用文献など
1. 当主の生没年と家督期間
4代友芳 1670~1719 享年50才 家督期間 貞享2年(1685)~享保4年(1719)
5代友昌 1705~1758 享年54才 家督期間 享保5年(1720)~宝暦8年(1758)
6代友紀 1741~1816 享年76才 家督期間 宝暦9年(1759)~天明元年(1781)
2. ウェブサイト Tenyu Sinjo.jp 天祐神助>住友財閥史>実相寺
3. 宮本又次「懐徳堂と明誠舎と住友」-3友俊の教養と懐徳堂 上方の研究 第5巻 p205-213(清文堂 昭和52.3.15 1977)
4. 住友史料叢書「年々諸用留六番」安田良一 解題 p1(平成11.1.10 1999)
5. 懐徳堂は官許を得た大坂学問所であり、江戸の昌平黌に対抗するほどの実力ある漢学塾であった。五井蘭洲はその助教であった。
6. 寛延2年(1749)から立川銅山を手代名義で請け負い、実質的に、進んでは名義も友俊となった。宝暦12年(1762)の別子・立川銅山一手稼行になる直前頃に友俊は立川銅山から手を引いた。安永7年(1778)には十人両替になっている。
友俊 生没年 享保3年(1718)~寛政11年(1799)享年82才 法名 義泉院仁誉礼厚育斎居士 大阪実相寺に葬られている。1)2)
5代友昌は16才にして友芳のあとをついだが、生来病弱であったので、友芳のように恭倹、家政を統括できず、綱紀も弛緩していた。3)
友昌の異母弟友俊(権左衛門)は、寛保3年(1743)6月に豊後町・高間町・呉服町の家屋敷を分与され、同年12月に豊後町へ転居して分家として独立し、両替業を営んだ。翌年正月には権左衛門を理兵衛と改名した。先祖の旧姓入江を名乗り、育斎と号して、文化人としても有名であった。4)
幼い嗣子を抱え、病弱であった友昌は、寛延3年(1750)10月に友俊を家政の取締役に任じ、あわせて手代の協力を求めた。これを承けて友俊は、翌年に懸けて本家・豊後町家・別子銅山・江戸店など店部毎に詳細な家法を定め、手代が果たすべき役割について明確に規定した。4)6)
友昌は寛厚であり、これに対し友俊は「其形長高く健強にして音声高く、凛々たる風骨があった」と言われている。友俊について「東区史」には「育斎は幼にして頴悟、儒学を五井蘭洲の門に受け、5)和歌を冷泉為村に学び、山材闇斎の門流である原清茂に師事し、神道を修めた。人と為り篤信強記而も忘るる所あるを憂ひて、自ら之を筆記せるもの終に300巻の多きに達したという。茶道を嗜み、法を一灯宗室の門にうけて之を能くした。かつてその一族である住友家の家政を整理して能くその基礎を固め、後、分れて豊後町に居住した。」と記されている。さらに「資性義を重んじ、特に慈悲心に富んでいた。或時一友人旧債の為、憂色あるを憐み、自ら証文を焼却して、その苦痛を免れしめたることもあった。性来雷を恐怖すること甚だしく、常に雷に関する文献を蒐集し、深くその理を究むる所があったが、紫電一閃忽ち恐れ戦き、目を塞ぎ、耳を覆いて、色土の如く変じ、恰も喪心したもののようであった」という。3)
田向重右衛門らを別子に踏査見分に向かわせた原因(場所や露頭の有望性を示す情報元)を示さなければ、銅山開発の過程を正しく記したことにならない。論理的、科学的に考えれば当然なこととして、切り上がり長兵衛の告知を記録しなければならないと思い至ったのが友俊であった。友俊が懐徳堂に学んだ教養人でもあったことが、記録を正しくさせたことに影響したと筆者は思う。
注 引用文献など
1. 当主の生没年と家督期間
4代友芳 1670~1719 享年50才 家督期間 貞享2年(1685)~享保4年(1719)
5代友昌 1705~1758 享年54才 家督期間 享保5年(1720)~宝暦8年(1758)
6代友紀 1741~1816 享年76才 家督期間 宝暦9年(1759)~天明元年(1781)
2. ウェブサイト Tenyu Sinjo.jp 天祐神助>住友財閥史>実相寺
3. 宮本又次「懐徳堂と明誠舎と住友」-3友俊の教養と懐徳堂 上方の研究 第5巻 p205-213(清文堂 昭和52.3.15 1977)
4. 住友史料叢書「年々諸用留六番」安田良一 解題 p1(平成11.1.10 1999)
5. 懐徳堂は官許を得た大坂学問所であり、江戸の昌平黌に対抗するほどの実力ある漢学塾であった。五井蘭洲はその助教であった。
6. 寛延2年(1749)から立川銅山を手代名義で請け負い、実質的に、進んでは名義も友俊となった。宝暦12年(1762)の別子・立川銅山一手稼行になる直前頃に友俊は立川銅山から手を引いた。安永7年(1778)には十人両替になっている。