眞鍋家の月命日の過去帳に「海山利白信士 宝永5子3月 銅山ニ而切上り長兵衛ヿ濱井筒屋施主」と書き込まれた年は、29日命日の書かれた順から、寛保元年(1741)以降であることは確かである。基にあたる慈眼寺過去帳第一号には、「海山利白信士 宝永5子3月29日 銅山切上り長兵衛ヿ濱井筒屋施主」と書かれており、延宝~宝暦(1673~1763)の過去帳であったので、この期間に供養された可能性が高いと思い、宝暦7年(1757)の50回忌ではないかと筆者は推定していた。
宝暦7年は、慈眼寺天亮和尚の時代(隠居1年目だが)でもあり、井筒屋忠七船が難船したが打荷した荒銅も回収出来たという事故があった翌年にあたり、泉屋から供養を依頼されてもおかしくないし、また井筒屋が半鐘の寄進をした後でもある。「未来記」の作成を指示した泉屋の取締役友俊が実権を持っていた時でもある。よって可能性が一番高いと思っていた。
しかしここで、追善供養した年と過去帳に書き込まれた年について再度考察する。しかしここで問題がある。それは、2つの場合が考えられることである。
① 追善供養の直後に、過去帳に書き込まれた。普通はこれである。
② 追善供養の時から数年~数十年経った後に、過去帳に書き込まれた。
過去帳の書き込みから、①と②を識別することは、難しい。②の場合は、追善供養の年を推定することは難しい。
慈眼寺の過去帳に書き込まれた年を推定する。
慈眼寺ご住職によれば、第一号はその期間の数冊の過去帳が傷んだので、それらを基にして月命日毎にまとめ直したものである。(これに対して第二号以降は、亡くなった順に書かれたものである。)この第一号の最後に次のように書かれている。
「文化三丙寅夷則日」すなわち文化3年(1806)陰暦7月日
これはまとめて直して書かれた年月日と考えてよいであろう。
「海山利白信士 宝永5子3月29日 銅山切上り長兵衛ヿ濱井筒屋施主」は、余白とみられる行に書かれているので、書き込まれた時期は、このまとめた年より後であると推定できる。すなわち文化3年(1806)以降である。これを基に眞鍋家の過去帳には写された筈で、確かに寛保元年(1741)以降であるが65年も後に書き込まれたことになる。そのようなことがありうるのであろうか。
追善供養の年について①であるとして、考察する。
33回忌は元文5年(1740)であるので、寛保元年の前年である。よって除外される。
50回忌は宝暦7年(1757)であるので、可能性がある。
しかし文化3年以降に書き込まれたとすると、可能性が高いのは、文化4年(1807)の100回忌である。
100回忌の頃は、住友史料によれば、井筒屋の銅船は勇力丸で、荒銅を運んだ。また井筒屋年表によれば、井筒屋五兵衛が施主となったであろう。慈眼寺は第14世月泉義笑和尚である。
誰が切上り長兵衛の没年月日を正確に記録保管してきたのであろうか。井筒屋か泉屋か寺か他の人か。もしかしたら位牌は没後直ぐに作られたのであろうか。その場合には、戒名は誰が付けたのであろうか。繰り出し位牌であるから、井筒屋の仏様の位牌と同じく新居浜で作られたのであろう。繰り出し位牌の中の他の位牌と比べることにより、時期を特定できないか。できるならば位牌を調べさせて頂きたい。