尾去沢銅山で「からめ」作業をする人は、なんと呼ばれていたのかを調べた。
1. 「銅山記」
明和4年(1767)雑書より書抜1)
12月晦日
・笊揚働並びに諸中間之のものども、今日迄相働、正月元日より3日迄は例年の通、休日の内に有之候えども、御抱えの者の事ゆえ、御扶持米3日分下され置き候、尤もその外休日等にて下され置き候、正月ばかり右の通り之相渡し下され候。
・三沢本番諸働諸中間御手宛御代かし左の通り
・---
・2貫900文 御台所中間働
・29貫800文 外中間働
・8貫800文 さる上はたらき(笊揚働)
・1貫500文 川原中間働
・92貫975文 とごや(床屋)はたらき
・8貫200文 内沢掫働2軒
・18貫450文 閖物働3軒
・72貫400文 御手代中通大工鍛冶おけや(桶屋)ともに
2. 「御銅山御定目並びに諸積大凡調」嘉永2年(1849)
(1)御支配人御山先諸御手代並びに役処附働人数 2)
・ ----
・ 鉑方役処 主役2人 手伝1人床屋手伝兼 升取1人 升見1人 中通4人
働人数 小使中間1人 山色取2人 笊揚31人
・床屋役所 主役2人 手伝2人 中通6人
働人数 大工並びに前働吹子指ともに 41人 閖物働 10人 内澤掫働15人
・ --------
(2)諸働御給代定目 3)
・鉑方働
・同1ヶ月1貫300文 山色取
・同1貫文 笊揚
(3)御銅山吹方入料凡積4)
・---
・233貫112文程
右素鉑423石5升 笊揚7064人御給代1日33文づつ 尤笊揚1人前6升位と見込
まとめ
尾去沢銅山の「からめ」作業者は、「笊揚働」「笊揚」と呼ばれており、「からめ」ではなかった。
注 引用文献
1. 鹿角市史資料編第26集 p50,55(鹿角市役所 平成6年 1994)
「銅山記」は、岩手県立図書館所蔵。解題によれば、本書の成立は寛政9年(1797)以降である。
2. 同上 p68
3. 同上 p73
4. 同上 p97
1. 「銅山記」
明和4年(1767)雑書より書抜1)
12月晦日
・笊揚働並びに諸中間之のものども、今日迄相働、正月元日より3日迄は例年の通、休日の内に有之候えども、御抱えの者の事ゆえ、御扶持米3日分下され置き候、尤もその外休日等にて下され置き候、正月ばかり右の通り之相渡し下され候。
・三沢本番諸働諸中間御手宛御代かし左の通り
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・2貫900文 御台所中間働
・29貫800文 外中間働
・8貫800文 さる上はたらき(笊揚働)
・1貫500文 川原中間働
・92貫975文 とごや(床屋)はたらき
・8貫200文 内沢掫働2軒
・18貫450文 閖物働3軒
・72貫400文 御手代中通大工鍛冶おけや(桶屋)ともに
2. 「御銅山御定目並びに諸積大凡調」嘉永2年(1849)
(1)御支配人御山先諸御手代並びに役処附働人数 2)
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・ 鉑方役処 主役2人 手伝1人床屋手伝兼 升取1人 升見1人 中通4人
働人数 小使中間1人 山色取2人 笊揚31人
・床屋役所 主役2人 手伝2人 中通6人
働人数 大工並びに前働吹子指ともに 41人 閖物働 10人 内澤掫働15人
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(2)諸働御給代定目 3)
・鉑方働
・同1ヶ月1貫300文 山色取
・同1貫文 笊揚
(3)御銅山吹方入料凡積4)
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・233貫112文程
右素鉑423石5升 笊揚7064人御給代1日33文づつ 尤笊揚1人前6升位と見込
まとめ
尾去沢銅山の「からめ」作業者は、「笊揚働」「笊揚」と呼ばれており、「からめ」ではなかった。
注 引用文献
1. 鹿角市史資料編第26集 p50,55(鹿角市役所 平成6年 1994)
「銅山記」は、岩手県立図書館所蔵。解題によれば、本書の成立は寛政9年(1797)以降である。
2. 同上 p68
3. 同上 p73
4. 同上 p97