気ままな推理帳

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からみ・鍰の由来(25) 尾去沢銅山の「からめ」作業者は「笊揚」と呼ばれた

2021-07-24 23:33:31 | 趣味歴史推論
 尾去沢銅山で「からめ」作業をする人は、なんと呼ばれていたのかを調べた。

1. 「銅山記」
 明和4年(1767)雑書
より書抜1)
 12月晦日
笊揚働並びに諸中間之のものども、今日迄相働、正月元日より3日迄は例年の通、休日の内に有之候えども、御抱えの者の事ゆえ、御扶持米3日分下され置き候、尤もその外休日等にて下され置き候、正月ばかり右の通り之相渡し下され候。
・三沢本番諸働諸中間御手宛御代かし左の通り
 ・---
 ・2貫900文   御台所中間働
 ・29貫800文   外中間働
 ・8貫800文   さる上はたらき(笊揚働)
 ・1貫500文   川原中間働
 ・92貫975文  とごや(床屋)はたらき
 ・8貫200文   内沢掫働2軒
 ・18貫450文  閖物働3軒
 ・72貫400文  御手代中通大工鍛冶おけや(桶屋)ともに

2. 「御銅山御定目並びに諸積大凡調」嘉永2年(1849)
(1)御支配人御山先諸御手代並びに役処附働人数 2)
 ・ ----
 ・ 鉑方役処 主役2人 手伝1人床屋手伝兼 升取1人 升見1人 中通4人
   働人数 小使中間1人 山色取2人 笊揚31人
 ・床屋役所  主役2人 手伝2人 中通6人
   働人数 大工並びに前働吹子指ともに 41人 閖物働 10人 内澤掫働15人
 ・ --------
(2)諸働御給代定目 3)
 ・鉑方働
  ・同1ヶ月1貫300文    山色取
  ・同1貫文        笊揚
(3)御銅山吹方入料凡積4)
  ・---
  ・233貫112文程
   右素鉑423石5升 笊揚7064人御給代1日33文づつ 尤笊揚1人前6升位と見込

まとめ
 尾去沢銅山の「からめ」作業者は、「笊揚働」「笊揚」と呼ばれており、「からめ」ではなかった。

注 引用文献
1. 鹿角市史資料編第26集 p50,55(鹿角市役所 平成6年 1994)
「銅山記」は、岩手県立図書館所蔵。解題によれば、本書の成立は寛政9年(1797)以降である。
2. 同上 p68
3. 同上 p73
4. 同上 p97

からみ・鍰の由来(24) 「かなめ」と「からめ」

2021-07-18 08:33:05 | 趣味歴史推論
 「からめ」「からめる」を調べているうちに、「かなめ」は、この「からめ」が転訛してできた言葉ではないかと筆者は考えるようになった。そこでまず過去の「かなめ」の由来についての説を検索したところ、二つの文があったので、本報で紹介、考察する。

1. 無機顔料の研究者で多田銀銅山に詳しい鶴田栄一は、随筆「砕女石(かなめいし)について」(1993)の中で以下のように述べている。
鉱石を砕き選鉱する作業を砕女(かなめ)と云っておりました。同じ砕女と書き関東以西ではかなめですが、関東以北ではからめと云っておりました。また砕女と漢字を当てますが、砕(かなめ)と一字で書いている場合もあります。資料によりますと、佐渡ケ島では両方の呼称がありました。これは両地区からの技術移転の歴史を残す証左と云うことが出来ると思います。事実、技術集団の移動が行われるのは鉱山の常態でした。鉱山の盛衰により、その移動の行われた例が多かったようです。この作業種が通常かなめ、からめでありましたが、またこれに従事する人達もかなめ、からめと呼ばれていました。そのとき鉱石粉砕の台として使用された石がかなめ石、からめ石であった訳です。」

2. 石見銀山の郷土史家鳥谷芳雄は、覚書「かなめ石のかなめについて」(2006)の中で、以下の説を提示している。
「岡山県の方言では、かなこは単に鉱夫のことを指していた事例も知られている。この例から類推すれば、かなめは、男性名詞であるかなこと対になる、鉱山労働に従事した女性を呼ぶ用語であったとも考えられる。いずれにしても、もともとかなめは女性名詞であって、これに漢字をあてるとすれば、金女(銀女・銅女)と書いたのではなかろうか。かなめが鉱山で働く女性を言ったのであれば、なにも選鉱作業に限って呼ぶことはなかったようにも思われる。しかし鉱山のおける女性の役割が選鉱作業に最もよく表れていたとすれば、ごく自然の流れであったと考えたい。
 つまり、本来鉱山で働く女性を言ったはずのものがのちに変化し、女性の代表的な作業行為である選鉱作業を指して言うようになった。その結果、かなめはかなめすと動詞化するとともに、用字も金女から離れて、砕石する女性の具体的な姿から砕女の字を充てて表現するようになったと推定する。

考察
1. 鶴田説では、既に知られたことを確認しているので、なぜ「かなめ」が「砕女」と書かれるようになったのかについては言及していない。ただ東北の「からめ」と関西の「かなめ」が同じ作業を表していると指摘していることは重要である。これについては、鳥谷も注(10)で、「また、本文では触れなかったが、同種の選鉱作業を「かなめ」とは言わず「からむ・からめて」と表現したものがある。17世紀後半の黒澤元重著「鉱山至宝要録」にみえる例や、秋田県院内銀山の「からめ石」と解説した文献があるのを付記しておく。」と記している。

鶴田は「これに従事する人達もかなめ、からめと呼ばれていました」と書いているが、筆者が調べた範囲では、佐渡や奥羽地方の鉱山で、作業者が「からめ」と呼ばれたという記録はなかった。前報の佐渡の「石撰・いしより・いしえり」や続報の尾去沢の「笊揚・ざるあげ」などである。

2. 鶴田は、「かなめ・砕女・かなめ石」の史料での初出、または例示として、宝暦4年(1754)の「日本山海名物図会」や、享和元年~文化2年(1801~1805)の「鼓銅図録・鼓銅録」を挙げている。大規模の銅山開発では先駆けとなった多田銀銅山の古い史料には、かなめ・砕女は見られないようである。古い記録として、「佐渡金銀山の鶴子間歩の製煉(宝永年間(1704~1710)の報告)の研究では、鏈(鉱石)642荷(1荷は、22.5kg)を処理するのに、荒割30人工、砕女321人工を要したと述べられています。」を挙げ、佐渡にも砕女の存在があったことを述べている。
よって鶴田によれば、「砕女」の初出は、宝永年間(1704~1710)である。

3. 鳥谷は、「かなめ・砕女、かなめ石」の史料での初出について、次のように記している。
別子銅山の史料で、元禄7年(1694)の「覚書」には、砕女小屋の記載が見える。砕女小屋は、大工小屋・鍛冶小屋などと併記されるから、大工・鍛冶仕事と並び、かなめ仕事、すなわち選鉱作業をするための施設であったと推測できる。管見ではこれが「砕女」の字を充てた今のところ最も古い史料であり、この用例が少なくとも17世紀の終わり頃までは遡れる。
かなめ石の確実な史料は、延享4年(1747)の「銀山覚書」で、これには「かなめ石 鏈をくだき候石」「かなめるとは 石を去り鏈を細かにくたき候を申候」とみえる。」
鳥谷によれば、「砕女」の初出は、元禄7年(1694)別子銅山の「砕女小屋」である。
石見銀山では、古い史料がたくさんあるにもかかわらず、延享以前に「かなめ」の記録がなかったということである。

注 引用文献
1.  鶴田栄一「江戸期鉱山で使われた粉砕道具--砕女石(かなめいし)について」粉砕 37号 p115~123(1993)
 web. FunsaiNo.037-1993.pdf - Hosokawa Micron
2. 鳥谷芳雄「かなめ石のかなめについて」季刊文化財112号 p54~62(島根県文化財愛護協会 2006)

からみ・鍰の由来(23) 佐渡金銀山で、元和2年「からめ鏈」、天保に「からみ鏈」あり

2021-07-11 09:35:47 | 趣味歴史推論
 佐渡金銀山における「からむ」「からめる」「からめ」の記録について、田中圭一「佐渡金銀山の史的研究」を調べた。その結果、元和2年(1616)とかなり古い時期に「からめ鏈」があったので、以下に示した。

1. 「元和2年 諸間歩出鏈高」(1616)1)
各間歩のひととおか(一十日)実質9日分の鉱石産出高の記録である。1荷は鉱石5貫入りである。
(1)~(3)略
(4)滝上越中仁兵衛間歩出鏈之事
 ・60荷は    本敷  集鏈
 ・36荷は        中鏈
 右は辰の3月中10日分に出候者也 以上
 辰の3月21日     草間 宇右衛門
         山主  山根弥三右衛門
  御奉行様
(5)下松平明石文右衛門間歩出鏈之事
 ・90荷は     からめ鏈
 ・24荷は     なかし(流し)土辺(どべ)
 右は辰3月中10日分出申処実正也 
 辰の3月21日     田中□兵衛
         山主 早川筑後
  御奉行様
(6)下松源左衛門間歩出鏈之事
 ・102荷は    集鏈
 ・30荷は    ざるとおしどべ
 右は辰の3月中10日出申処実正也、但分前は3ヶ山主に被下候、以上
 辰の3月21日      井上 猪兵衛
          山主 大坂惣右衛門
 御奉行様
(7)もちや大横相本□間分出鏈之事
 ・合62荷    集鏈
 右は辰の3月中10日に出申候処実正也
 たつ3月21日       鈴木茂左衛門
           山主 石見角右衛門
 御奉行様
(8)采女平越中次兵衛間歩出鏈之事
 ・46荷は      但からめ鏈
 ・26荷は      但ながしどべ
 右は辰の3月中10日に出申候処実正也
 辰の3月21日      市川孫兵衛
           山主 石田太兵衛
 御奉行様
(9)~(46)略

2. 「ひとりあるき」上(1830~1843)2)
 右建場(たてば)一件鏈撰方之訳並びに遺道具図末に記
・鏈石撰候者を石撰(いしより)と云、女の業也。かなこ之もの雇い入れ候て鏈撰を候者也。賃金は鏈石多少に構いなく1日に3時ばかり32文より26文位まで撰也。明6つより暮6つ迄撰詰候えば、2枚肩とて右の1倍遣わす。尤も右賃銭時々増減有之。
・----
・鏈石撰候内、白石勝なるをばからみ石とて除置外、鏈撰仕舞候跡にて、白き石を鎚にて打落し、上中下を撰分候、これをからむという。右白き石打落し候鏈を、からみ鏈という。
・-----

考察
1. 元和2年の46ヶ所間歩の出鏈高の事には、鏈としては、からめ鏈の他に、あらい鏈 洗鏈 あつめ鏈 われと集鏈 洗集鏈 などが記されている。
「からめ鏈」とは、砕いて小さくした鏈や砕いて脈石部分を捨て去った鏈を指すものと推定される。かなり後の「ひとりあるき」によれば、脈石が多く付いているので「からむ」作業にまわし白石を打ち落とすべき鏈石を「からみ石」と云い、この白石を取り除いた鏈を「からみ鏈」と云う。「ひとりあるき」には、「からめ鏈」がなくなっているので、時代とともに「からめ鏈」→「からみ鏈」へ変化したと思われる。
「からみ石」は、全てが脈石ではなく、何割かの鏈がくっ付いているのであり、「からめ」作業に廻し、良い鏈を処理した後、処理される。ここにも「鍰」と同じ発音の「からみ」が見られる。
2. 「からめ鏈」という語は、「佐渡金銀山の史的研究」およびその付録史料には、上記の他は見当たらなかった。しかし、たしかに「からめ鏈」という語は佐渡で1616年と古い時代に使われていたのである。「からむ、からめる」を南部藩鹿角の方言としていたが、佐渡でも「打つ、叩く、殴る」の意味の方言としてあったのではなかろうか。鉱山で使われたのは、佐渡の方が南部藩より早かった可能性がでてきた。

まとめ
 佐渡金銀山の元和2年(1616)に「からめ鏈」があり、「からむ・からめる」が使われていたと推定される

注 引用文献
1. 田中圭一「佐渡金銀山の史的研究」付録史料3 p484~492(刀水書房 1986)
  相川郷土博物館所蔵文書
2. 「ひとりあるき上」(独歩行) 同上 付録史料11 p588~589 佐渡高校船崎文庫所蔵文書
  史料解説(p463)によれば、「上巻は金銀山稼方で、天保年間(1830~1843)の相川金銀山立合名、稼方諸入用品、鏈撰方、鉱石の名称、仕分け勘定、相川の山師、銀山間歩、1ヶ年入用を記録する。」

からみ・鍰の由来(22) 万延元年南部藩主に尾去沢銅山で鉑つぶしの女たちが披露した「石からみ節」

2021-07-04 08:45:47 | 趣味歴史推論
 万延元年(1860)南部藩主利剛に尾去沢銅山の金場(かなば)で働く女性たちが、唄いながら「からめ」作業を披露した様子を、随行者の上山守古が、「両鹿角扈従(こしょう)日記」に「石からみ節」として記している。1)

「両鹿角扈従(こしょう)日記」(1860)
万延元年8月9日
・田郡沢(たごおりさわ)人家77軒ばかり 金場長さ15、6間 幅3間ばかりの長屋にて、上の方に役人出役処高くこれ在り中土間にて、両側に1間ずつ仕切りを付け、その内に山石二つずつ据えてこれ有り。ここにて1仕切り2人ずつ入りて、掘り出しせ上山しままの鉑を脇に置き、それの上にて大なる金槌にて砕く、自ら善悪を分け、又は先に尾去沢の所に書し如く、ゆり流しもここにてする。尾去沢にてはここより運びたるを精製することなり。
 何れの沢もかくのごとく由、この鉑つぶしも女どもの業なり。暁より取り付き、夕七つに休むと云う。その一人前の賃いささか5、60銭なりと聞けり。一人前の定めは、5合ばかりなり。この升目は、珍しきものなり。鉑の1枡は、米にて3斗5、6升のかさなりという。その者の働き次第、二人分も三人分も働きてその賃を取り候由、当世天下に有るまじき下直なる日雇いなり。これらをもって銅山を一世界とはいうならむ。
今日は上様の御出とてそれぞれ相応の晴れ着物、皆婦人の働きは丈短き踏み込み様の物を着けり。皆粧い、40人ばかりも有るべし、御免有りて常の通り働き申すべく旨仰せられ出候ところ、敷内改め役差図して、唄いながら鉑を打つに調子に合わせて槌音よく揃えり、いと面白き事なり。その唱を石からみ節という。数々これ有り由なり。聞しまま1、2を記せり。
   西は台所 東は床屋 いつもとんとん音がする
   赤沢山より元山よりも 鉑の出る山 田ごおり山
   親父大黒 かかあ恵比寿顔 一人娘は弁才天
   直り親父の金場を見れば 鉑で山築(つ)く富士の山
   金のべごこに錦の手綱 我も我もと引きたがる
 この節、直りに相成り候えばかくのごとく鉑出来候由にて、重さ5、6貫目も有るべしと見ゆる大塊、実に汚物なき物と見ゆ。
・尾去沢御役処よりこの金場まで都合25丁程。
 ・尾去沢にて床屋働きの者へ200疋、ここの金場へ100疋下されし由、然るにこの金場にては数人ゆい偶(を)上様より頂きとて唯遣い捨てにてはもったいなしとて小さき堂を造りその金を祭りし由なり。2)
 ・この度上様御通行に付きお目通りに働きとて、その日の粧は元よりの事、衣服用意せし者もあり、及ばず者は借用等致し候よし、奉行の計らいにて容顔余り見苦しからぬ者を択び、中には金場へ出候事無きものも容顔のよき者択びしよしなり。何者なるかこの度出るとていささか衣類等用意せしが、容顔宜しからずとて除かれ出るようなしと悔しける者有りという、この二ヶ条は後に聞きしままこれを記す。

考察
1. この文書がからめ節に関する最も古いものと見られているようである。そのためか、この中の「石からみ節」が「からめ節」の元とされている
藩主が見たのは、踊りではなく、からめ作業そのものである。それを唄いながらしたということである。踊りは付いていない。
選にもれた女の人は、さぞ悔しかったろう。辛い日になってしまった。
2. 1,2を記せりとして、5節を記しているが、特徴的な1節「からめからめとおやじがせめる-----」が記されていない。特徴的で名称のもとになっている節を書かずに済ますことはないのではないか。当日その節は唄われなかったか、その節は、当時はなかったかである。
「石からみ節」と記されている。「からむ」が名詞形になっている名称である。「石からめ節」であれば、「からめ」は命令形であり、「からめからめとおやじがせめる-----」の節があったからこそ「からめ節」の名称になったのだと思う。当時には、「からめ」が「からみ」に変化していたのか、もともと「からみ節」だったのか、あるいは、「め」を「み」に聞き間違ったのか。しかし上山は、現場の人に確認して日記を書いているはずで、現場でも「からみ」と言われていた可能性が高い。ということは、鉱滓の「からみ・鍰」と鉑石を砕く選鉱の「からみ」があったことになる。一つの語「からみ」で二つの意味を表すので、注意する必要がある。
3. 「からめ節」と書かれた江戸初期、中期の古文書、唱の本はないのだろうか。

まとめ
 鉑を打ち砕くことに由来する「からみ」という語があった。

注 引用文献
1. 郷土史学習会編「両鹿角扈従日記」p27~28(鹿角市立花輪図書館 1978)
岩手県立図書館より入手。日記の原本は、もりおか歴史文化館所蔵 
日記解説を解読学習会の郷土史家安村二郎が記しており、抜粋して以下に示した。
「この「両鹿角扈従日記」は、万延元年(1860)庚申8月、南部藩主第40世利剛公が鹿角地方を親しく巡視した際、中奥御小性として終始側近に侍した上山守古が、約1ヶ月に及ぶその間の記録を詳細に綴ったものである。両鹿角としたのは、鹿角一郡が花輪通・毛馬内通の両通に分かれていたからで、扈従はこじゅうともこしょうとも訓ずる。利剛は嘉永2年の襲封、相次ぐ天災飢饉や百姓一揆、蝦夷地出兵、戊辰戦争と物情騒然たる裡に、治政20年で南部藩最後の藩主となった人である。上山守古については今のところよく知らない。万延元年御城下身帯帳をみると、上山氏はただ一家で、225石 上山半右衛門とあるから、守古はその嫡男ででもあろうか。表紙の扈従日記と題した傍らに廣崇扣と記しているので、諱をかく称したものと思われる。(以下略)」
2. web.「言葉を面白狩る」>金百疋
【疋】(岩波日本史辞典)
 江戸時代の金の貨幣単位。主に儀礼の際に用いた。銭10文を1疋と称したが、金1両が銭4貫文と公定されたことから、小判・一分判をそれぞれ金400疋・金100疋と称して授受した。

図 「両鹿角扈従日記」尾去沢銅山の部分