気ままな推理帳

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からみ・鍰の由来(1) 表記のいろいろ

2021-01-31 09:29:50 | 趣味歴史推論
 令和2年新居浜市立別子銅山記念図書館で、元別子銅山文化遺産課長 坪井利一郎氏の「別子銅山を読む」講座を受けた。1)明治43年発行の雑誌「遠鳴」(とおなる)に当時の別子銅山採鉱課長である新井琴次郎が昔話として銅製錬についてかなり詳しく書いていることなどが紹介された。2)そのなかに以下の文があった。

「絞り吹き叉は南蛮吹といふ飯を炊く竈の如き炉中に炭火にて銅を赤熱し、摂氏千度に近かしむれば銅は柔らかくなる。之を長柄の道具で押さへ付けて鉛を絞り出せば金銀も鉛にふくまれて出る。白目もあれば鉛の次に出る。其の後、水を打ちて銅を取る。之を絞り銅といひ住友家では、鍰と書き、他鉱山では鉸と書いた。今日、四阪島では製錬滓の「からみ」を、鍰と書くのは何の時代にか間違へたのである。「からみ」は他の山では鉱滓、空味等と書き、鉄山では「のろ」ともいふ。

 素吹・真吹で注目していた「からみ・鍰」の由来についてであったので、気になった。筆者が江戸期の吹方を調べ出したのは、5カ月前とまだ日が浅く、「からみ」は、脈石と不要な金属(鉄など)が絡まってできているので「絡み」(からみ)と云うのだなと思っていたのである。しかしこの文によれば、どうも違うようだ。また鍰は間違えて使われて、それが一般に使われるようになったとあるが、いつ、だれが使い始めたのか。
そこで、①「からみ」の語源 ②「鍰」を使いはじめた人と時代 を明らかにしたい。

 調べた「からみ」の表記は、原典から読み取られて活字にされたものがほとんどである。活字本の表記どおりの原典であるのかは確認できていない。原典の写真で確認できた表記は(筆書)と付けた。過去の当ブログを基に種々の「からみ」の表記を抽出した。表記 鉱山名 文書名 書かれた年 からみの部分 の順に記した。

1. からみ 吉岡銅山 「備中川上郡吹屋村御山用控」1685 3) 
 ゑり鏈100貫目焼申候を荒吹に仕候えば、
 ・床尻銅 3貫目
 ・かわ  13貫目
   此真吹銅 8貫60目
 〆 銅11貫60目
 残て 88貫940目 からみに成捨り申候。

2. からみ(筆書) 住友(別子銅山?) 「銅製造図記」(鼓銅図録に先行する稿本と考えられる) 1804頃以前? 4)
 ・真吹床は前段鈹1日に100貫目吹きおろし、未明より1吹に暮時まで吹詰め候えば、追々からみ等捨り、平荒銅に相成申候、4人かかり、はじめ2丁フイゴ、後1丁フイゴにて、床1軒出来銅30貫目ばかり、この吹床13軒ばかりござ候。
 なお「鼓銅図録」には、「からみ」に相当するものは「滓」(ふりがな どぶ、かす)と表記されている。

3. からミ 阿仁銅山 秋田金山旧記(1)秋田郡阿仁銀山之次第聞書 1725 5)
 ・寸吹(素吹)の事
  寸吹の節、上にからミという物出し候を流し取り、その下に銅皮という物出し候を、何枚も取り申し候、その外、床尻銅が4つ吹1仕舞に2,3枚、或いは4枚同じからず有り出申し候。右寸吹手伝、4人入り申し候。

4. からミ(筆書) 多田銀銅山 「吹屋之図」 17世紀初頭の可能性 6)
 素吹
 ・銀石は焼鉑目方18貫、銅焼鉑又はからミ目方36貫ばかり相交ぜ、銅鉑は焼鉑1駄半(54貫)ずつ1日に吹きたて申し候、吹き分け候品を鈹尻銅と唱え申し候」

5. 辛味 多田銀銅山 「鉑石吹様之次第」 1749 7) 
 鉑吹(素吹)
 ・炭を粉にいたし白土汁にて練り、地を窪め吹床を拵え、夜八つ時より炭をくべ焼立て、翌朝六つ時より吹掛け申候、床の内へ炭を1杯入れ吹立、その上へ鉑石を乗せ吹き候えば、湯に成り床の内へ流れ入り申候、1時余り吹候て辛味と申すかすをかき捨て申候、そのあと鈹と申す物に成り候、これを1枚ずつ剥ぎ上げ申候、底に床尻と申候て銅1枚出来候、またはこれ無き事も御座候、これは鉑石の善悪により不同御座候

6. からみ 生野銀銅山 銀山秘録 1843 8)
 素吹
 ・床と申候て、口差渡し1尺2,3寸深さ1尺ばかりなる湯坪を堀り、炭火を入れ、その上に右鉑石を置き、フイゴ2挺にて強く為吹候。これを素吹と唱来候。
 ・右の通り吹かせ候えば自然と鉑石吹熔けし候。炭の儀も段々入れ次ぎ吹かせ熔し候。よく吹熔候時分、吹大工の者相考、火を除き候えば火の上に「皮」と申す物出来申候。これは銀気等無之物にて流し捨て申候。からみと名付け候。如此段々石の鉑石を吹き次ぎ、荒吹仕候。

7. からみ 秋田藩「鉱山至宝要録」1691 9)
(素吹)右焼たる鉑を床にて吹き、よい頃と思ふ時、上の火を除き、からみをかき除け、銅ばかりに成たる時、竿の先へ鍵を付たる物にて、銅の湯の上の氷りたるを、鍵にかけてあくれば、薄くへぎ取らるゝなり。其の如く、10枚も15枚も、へぎ取らるゝ内は取り、へがれぬ残りを床尻と云ひ、へぎ取りたるを皮(鈹)と云、この床を寸吹(すぶき)床と云ふ。

8. 柄実、からみ 佐渡金銀山 「独歩行(ひとりあるき)」1804~1829頃 10)
 焼汰物荷吹之事
   焼汰物     4貫目
   鉛       400目
   銅       200目
   柄実      1貫500目
よく吹き解け候えば火をはね、箒にて水を打ち、炉の中へ浮み候どぶからみをどぶ掻きにて掻き捨て候えば、地銅は湯に成り残り申候。

9. 柄実、からみ、カラミ(筆書) 佐渡金銀山 「金銀山敷岡稼方図」 1700年代後半11)→図
 荷吹床にて焼汰物の吹方 須灰(すばい)にて炉を作り、地銅を入れ吹き熔かし湯に成り候節、焼汰物・アイ柄実・鉛を入れ、どぶと申すからみを取り揚げ申し候。そのあと、銅皮を剥ぎ取り、そのあとに、地銅に鉛と銀と交じり湯に成り残り候を、取り揚げ、水に冷やし、南蛮床ヘ遣わす。
  アイカラミ  (筆者は、あへからみ、鉿からみ 鉛鉱石からのからみと推理したが、正しくは、「阿け柄実」とのことである。13))

10. (筆書) 尾去沢銅山 御銅山傳書 1849写し 12)
「素吹一枚入方積」のうち
 ・1文5厘    板7(枚)分 1枚に付き15厘積

まとめ
1. からみ からミ 辛味 柄実 カラミ 鍰 の表記があった。
2. 鍰は、尾去沢銅山の「御銅山傳書」(1849写し)に既にあった。
3. 空味は、見つからなかった。

 由来を知るには、もっと古く、広く探してみる必要がある。

注 引用文献
1. ホームぺージ「新居浜市立別子銅山記念図書館」>別子銅山・住友>講座「別子銅山を読む」>坪井利一郎「 雑誌「遠鳴」の続き」p4 (令和2年7月5日)
新井琴次郎「昔話(二のつづき)」遠鳴 30号(明治43年2月5日発行)
雑誌「遠鳴」(とおなる): 住友家に奉じた退職者・現職者の傭員・準傭員の文筆を楽しむ人による遠鳴会が発行した雑誌。発行日は不規則で毎月1回発行。事務所は東平(とおなる)にあった。
2. 新井琴次郎の経歴は、同講座令和元年5月 雑誌「遠鳴」の昔話p7にあり。
明治33年東京帝国大学工科大学採鉱冶金科卒業し農商務省任官、明治38年住友入社、明治40年~大正2年(1907~1913)別子銅山勤務。
3. 当ブログ 江戸期の別子銅山の素吹は----(5)
4. 当ブログ 「別子荒銅の製法」 引用文献2. 安岡良一「鼓銅図録の研究」p30 第6図(住友史料館報 別報 平成27.6.30 2005)
5. 当ブログ 山下吹(22)「阿仁銅山は享保10年(1725)に真吹であった。」
6. 当ブログ 江戸期の別子銅山の素吹は----(7)
7. 当ブログ 山下吹(5)多田銀銅山の寛延2年「鉑石吹様之次第」は、かたけ吹か
8. 当ブログ 山下吹(3)生野銀山の「かたけ吹」とは?
9. 当ブログ  江戸期の別子銅山の素吹は----(15)
10. 当ブログ 江戸期の別子銅山の素吹は----(16)
11. 秋田大学鉱山デジタルギャラリー>佐渡金銀山>金銀山敷岡稼方図(絵巻)(秋田大学附属図書館所蔵)→図
  年代 1700年代後半 作者は佐渡奉行所絵図師 山尾章政(やまおあきまさ)の可能性がある。山尾章政(1742~1822)(國學院大學デジタルミュージアムの国学関連人物データベースによる)
12. 当ブログ 江戸期の別子銅山の素吹は----(10)
13. ホームページ佐渡恋来いSADO-KOI>絵巻で見る相川金銀山佐渡の錬金術師たち>21.寄床屋(大吹床)>汰物>5. どぶ柄実、阿け柄実(アイカラミ)、赤湯からみ

図 金銀山敷岡稼方図の荷吹床の部分

山下吹(27) 真吹における「すばい」の役割

2021-01-24 09:00:07 | 趣味歴史推論
 銅製錬の床吹法では、炉の内壁を「すばい」(素灰 炭灰 す灰 寸灰 須灰)で固めている。素吹床、真吹床の両方で用いられる。このすばい層の役割は、炉の形状維持と鍰(からみ)形成の原料となることである。
すばいは、炭(粉に砕いたもの)と粘土を、水(粘土汁)で練ったものである。その比率の1例は、炭7:粘土3 (枡で計った体積と推定)であった。強固な床壁、良い性状の鍰をつくるためには、良い粘土が必要であったはずである。粘土の性状、成分、粒度、採取場所などについての記録は少ない。粘土が鍰の性状に影響を及ぼすと気づいていたであろう。
 江戸期の素吹において、鍰の原料となるSiO2源は、当ブログで以前調べた限りでは、特に珪石として添加されていたことはなかった。鉑に付いていた脈石が主なSiO2源であったと推定された。壁のすばいからも少し加わったであろう。
真吹では、鈹(Cu2S-FeS)中のFe分を鍰として除くためには、そのもとになるSiO2源が必要になり、それがすばいの粘土である。壁のすばいから、鍰形成に必要な分量だけ反応して取り出されることになる。すなわち
真吹の主反応は Cu2S+O2→2Cu+SO2 であるが、鈹Cu2S-FeS のFeSを、主に前半に、以下の反応で、鍰Fe2SiO4として取り除く。
 FeS+3/2O2→FeO+SO2  2FeO+SiO2 →Fe2SiO4  
このSiO2の源がすばいの粘土である。

 江戸幕末まで、日本では煉瓦は使われていなかったので、焼いた煉瓦を作り、それで炉をつくるという発想がなかった。粘土質(珪酸質)の煉瓦が出来て炉を作ったとしても、融液と反応して、鍰となり、侵食され、すぐに駄目になってしまっただろう。逆に侵食量が少ない場合には、鍰形成が不十分となるので、別途適当な量の珪石の添加が必要になる。
これに対して、床壁は侵食されるが毎日修繕して新しい壁とすることが容易であるという利点があった。このことが、江戸期に大量の銅生産に都合よく作用したのである。

山下吹(26) 真吹における炭の役割

2021-01-17 08:43:07 | 趣味歴史推論
 銅製錬の炭には、①燃料 ②還元剤 の二つの作用がある。
① 燃料としては、C+O2→CO2 +発熱 の熱で、鉑、鈹、鍰、銅を反応温度や、融液状態に保つ。
② 還元剤としては、Cや(C+O2→COで生成した)COにより、(C, CO) + (Cu2O,CuO)→Cu+CO2 の反応を起こし、酸化銅を還元して銅Cuとする。

 真吹法にしても還元法にしても、反応は、1100℃付近の高温状態にする必要があり、そのため、先ず炭は燃料として作用するする必要がある。
高温になった後、真吹では、炭は放熱分を補う燃料として作用すればよい。鈹(Cu2S)が酸素(O2)と反応し Cu2S+O2 →Cu+ SO2 銅が生成する。しかもこの反応は発熱なので熱の補給に役立つ。
一方、還元法(奥州吹)では、鈹(Cu2S)を焙焼して酸化銅(CuO,Cu2O)とした後、炭はこの酸化銅に還元剤として作用し銅を生成させる
   
 二つの製法を分かりにくくしているのは、 炭が燃料と還元剤の二つの作用をするからである。どちらも炭を使うのであるが、炭の作用としては違うのである。ただ炭を大量に使うのは、前段の素吹である。素吹で得られる床尻銅も、還元が起きて生成したのであろう。
古代、中世の製煉では、銅鉱石として酸化銅鉱(孔雀石(Cu2(CO3)(OH)2)、藍銅鉱(Cu3(CO3)2(OH)2)など)が用いられ、還元法で銅としていた。

 真吹法は、江戸初期に山下町(下財屋敷)の吹大工が発明したと推定される。なんともすごいことである。ドイツなど欧州では、ベッセマー法が発明される約250年後まで、還元法をしていたのである。そして、約270年後の明治人が、真吹は日本の大発明であると再発見したのである。明治の技術者、学者は、欧州に比べ約250年も前に日本人が真吹を発明し、多量の銅生産に寄与していたことに、驚きと誇りを持ったと思う。しかし同時に、これを近代的な大量製造方法に進化できなかったのを残念に思ったであろう。

注 
 まふき(まぶき)の漢字表記は当ブログでは、現在、住友史料館はじめ一般的に使われている表記をしている。
真吹-----鈹(Cu2S)を吹いて荒銅(Cu)を得る工程を指す
間吹-----荒銅(Cu)を吹いて精銅(Cu)を得る工程を指す
住友史料叢書の年々帳や別子銅山公用帳の古文書でも、江戸期には、間吹と書いて真吹をさす場合がしばしばあり、その指す意味を内容から判断する必要がある。ま吹というのもあり、これで、真吹を指したり、間吹を指したりしている。
また各地の銅山でも統一されていない。

山下吹(25) 真吹年表と最初の真吹記録は?

2021-01-10 09:09:50 | 趣味歴史推論
 真吹が山下吹の核心の技術である。この真吹は日本の大発明であり、外国(中国、朝鮮、南蛮など)から伝来したものではない。江戸初期に摂津国多田の山下町下財屋敷で発明されて山下吹といわれてきた。このブログでは、真吹が江戸期の主要銅山でいつから実施されていたかを明らかにしてきた。ここでそれらの時期を比較して、技術の伝搬がどうであったかを見てみたい。特に東北の銅山の吹き方は、素吹で得られた鈹を煆焼(酸化銅にする)する工程があり、真吹でなかったという説があったが、それもあわせて確認したい。真吹の実施年について書かれた過去の当ブログに基づいて整理した。1)

次の基準で各銅山の真吹開始年を特定し、真吹年表を作成した。→図
① 真吹をしていると記した文書や本の著作年を真吹記録年とした。過去にさかのぼって、いついつ真吹したという記述は、信頼性が下がるのでその年は採用しなかった。その場合は、その記述の文書や本の著作年を真吹記録年とした。
② 真吹推定年は、種々の事柄から筆者が真吹をしていたのではないかと推理した年を挙げた。推定根拠も簡単に記した。
 図 真吹年表 
  太線----------真吹(記録年→)
  中細線-------真吹推定(推定年→)
  細線----------銅山稼行(開坑→)
 
特記事項
(1)阿仁銅山 
 秋山喜右衛門光春が享保10年(1725)に著した秋田金山(かねやま)旧記の中の「秋田郡阿仁銀山之次第聞書」によれば、阿仁銅山は享保10年(1725)に真吹であった。元禄4年著の「鉱山至宝要録」には、「素吹したる鈹を真吹して銅を得る」とある。著者の黒澤元重は、秋田藩士で延宝2年(1674)に「かね山」の役を申付けられ、同4年(1676)まで一人で惣山奉行となっている。「鉱山至宝要録」は主に、秋田藩院内銀山について書かれていて、銅山についての記述は簡単である。しかし銅の吹方についての記述は、秋田藩の阿仁銅山などのやり方を聞いているから書けたことであるに違いない。延宝2年から元禄4年の間に、吹方に変更があったとは記されていないので、延宝2年(1674)から真吹を実施していると推定しもよいのではないか。阿仁銅山の開坑は寛文10年(1670)であることと、黒澤元重の「かね山」役就任年が延宝2年(1674)であることから、両者の年は、非常に近く、このことから、阿仁銅山は開坑当時から真吹を実施していた可能性が高い。
(2)足尾銅山
 享保15年(1730)の足尾吹が、素吹して真吹していることから、1730年を真吹記録年とした。開坑当時に間吹銅が徳川幕府に献上されたと文書にあるが、この間吹銅が、真吹で得られた真吹銅(荒銅)か、真吹あるいは還元法で得られた荒銅を、間吹して得られた間吹銅(精銅)か判定できない。献上したとあるので見栄えをよくするために、荒銅を間吹して得た間吹銅(精銅)であった可能性が高い。またその文書が120~180年後に書かれたこともあり、真吹推定年ともし難い。開坑年(1610)から1730年の間に吹き方を記録した文書を見たい。
(3)生野銀銅山
 銀山旧記(著述年1690)に寛永9年(1632)にかたけ吹きが伝えられたと記録があるが、かたけ吹に真吹があるとは書かれていない。かたけ吹の工程の中に真吹が記されたものは、銀山秘録(天保14年(1843))である。
(4)多田銀銅山
 寛文6年(1666)にほとんどの吹屋が、かたけ吹をしており、真吹を含んでいた可能性が高いので真吹推定年とした。1749年には、真吹が含まれていたことが記録されている。
(5)吉岡銅山
 筆者が調査した限りでは、貞享2年(1685)の吉岡銅山の真吹が真吹記録年として最初である。

まとめ
1. 江戸期の主要銅山について真吹年表を作成した。最初の真吹記録年は、吉岡銅山の貞享2年(1685)であった。
2. 阿仁銅山は寛文の開坑時から真吹をしていた可能性が高い。それ以外の吹き方の記載は見つからなかった。
3. 記録のない足尾銅山を除いて、元禄(1700)前後には、どこも真吹をしていたと言ってもよい状況であった。
4. 輸出で銅生産高の大幅に増大した寛文年間(1670年代)から、銅山は真吹であった可能性が高い。
5. 初期のかたけ吹に、真吹が含まれていた可能性は高い。そうならば寛永(1630)頃に真吹がなされていたことになる。
6. 真吹は慶長元年~10年(1596~1605)頃に発明されたとの推定は妥当である。


注 引用文献
1. 関連する当ブログは以下のとおりである。
 山下吹(24) 別子銅山は、元禄12年(1699)に真吹であった
 山下吹(23) 熊野永野銅山は宝永頃(1704~)に真吹であった
 山下吹(22) 阿仁銅山は享保10年(1725)に真吹であった
 山下吹(21) 享保15年(1730)の足尾吹は、真吹であった
 山下吹(20) 尾去沢銅山は、宝永2年(1705)に真吹であった
 山下吹(19) 鉱山至宝要録(元禄4年1691)は、真吹であった
 山下吹(18) 別子銅山の山下吹
 山下吹(11) 山下吹の発明者は?
 山下吹(10) 西尾銈次郎の山下吹
 山下吹(8) 渡邊渡の山下吹
 山下吹(7) 足尾銅山(維新前)の山下吹
 山下吹(5) 多田銀銅山は寛延2年(1749)「鉑石吹様之次第」は、かたけ吹か
 山下吹(4) 多田銀銅山のかたけ吹
 山下吹(3) 生野銀山の「かたけ吹」とは?
 山下吹(2) 山下吹の初出は「宝の山」か
 山下吹(1) 発祥の地とされる摂津国多田山下町
 江戸期の---(5)の中に 「吉岡銅山は、貞享2年(1685)に真吹であった」

山下吹(24) 別子銅山は、元禄12年(1699)に真吹であった

2021-01-03 09:20:32 | 趣味歴史推論
 別子銅山の真吹の記録は、山下吹(18)「別子銅山の山下吹」に記したように、「別子銅山公用記」所収の「別子銅山覚書」の元文4年(1739)が、筆者が探したうちで最も古いものであった。しかし開坑(元禄4年(1691))から真吹をしていたと思われるので、より古いものを住友史料で探した。その結果、別子銅山公用帳一番「銅改めの風袋引き・欠立に付き出願」に真吹銅が出ていた。1)→図 以下に示した。(句読点、送り仮名、字の変更を筆者がした)

 書付を以って奉り願い候御事
銅御改めの儀、前方は風袋縄1秤にて500目ずつ御引き下され候ところに、去る寅(1698)10月より直掛に仰せ付けられ、大分欠が立ち*(かんがたち)申しに付き、御了簡の上仰せ上げられ、風袋600目ずつ御引き下され、今直掛に御改め請申候御事。
・右銅の儀、真吹銅は水に冷やし申すに付き濡れおり申す、床尻は寸灰(すばい)多く付き候故、干し候えば大分欠が立ち、迷惑仕り候に付き、去る寅11月御願い申し上げ、御吟味遊ばされ候ところ、真吹銅68貫目内にて5貫800目欠が立ち、床尻銅12貫100目内にて600目欠が立ち申し候御事。
・右御改め御覧遊ばされ候とおり、大分減り申す物にて御座候間、何とぞ直掛銅1秤に付き、1貫200目ずつ減り代御引き遊ばされ下され候様に奉り願い候御事。
右のとおりに御座候故、毎日銅大分欠が立ち、迷惑仕り候間、御慈悲の上 願いのとおり仰せ付けられ下され候はば、忝く存じ奉るべく候、以上。
 元禄12年卯(1699)5月2日      泉屋平七
    矢部城介殿
    今西藤蔵殿
    花房丈右衛門殿

考察
 真吹銅と床尻銅の秤量の際の縄風袋、水、寸灰の付着による減り代を変えてほしいと役人に願い出ている文書である。
*欠が立つ(かんがたつ):(近世語)めべりする(旺文社 古語辞典)
床尻銅は素吹で得られ、真吹銅は真吹で得られることから、別子銅山では素吹して真吹していたことが明らかである。
銅改めは中持背負い単位の約30kg(8貫目)を縄で縛って秤量したであろう。2)
真吹銅の場合 68貫目/8貫目≒8秤となる。正味銅68貫目に付着水が5貫800目と多かった。真吹銅の付着水はなかなか乾燥しにくいようである。真吹銅の表面には、細かな凹部がかなりあったのであろう。
1秤に付き付着水は5800目/8=725目となる。そこで、1秤に付き 縄+付着水=600目+725目=1貫325目 のところを1貫200目の減り代としてお願したことになる。
床尻銅の場合 12貫100目=1秤とすると、縄600目+付着寸灰600目=1貫200目の減り代をお願いしたことになる。
この元禄12年の前年元禄11年(1698)でも既に真吹銅の改めであったことから、その時から真吹であったといえる。

まとめ
 別子銅山は、元禄12年(1699)に真吹であった 

注 引用文献
1. 住友史料館編 「別子銅山公用帳一番・二番」p68(思文閣 昭和62 1987)→図
2. 本ブログ「別子荒銅の荷姿は?」2020.1.16
図 別子銅山公用帳一番 銅御改之儀