
現界の修行といっては寒天(さむぞら)にじゅばん一枚となって前後一週間水一杯飲まず、一食もせず、岩の上に正座して無言でおったことである。
その間には降雨もあり、寒風も吹ききたり、夜中になっても狐狸の声も聞かず、虫の音も無く、ときどき山も崩れむばかりの怪音や、なんとも言へぬ厭らしい身の毛の震慄する怪声が耳朶を打つ。寂しいとも、恐ろしいなんとも形容のできぬ光景であった。
(出口王任三郎)
分けていって、どんどん増やしていく。つまり知識を増やしていく。知識というものは一つ一つ細分化したものを人間が持っているもので、その細分化を最後の最後までとことんやっていくと、その分別がなくなってしまう。
(松沢宥)
だから、個人的な発話は、ごく低いつぶやきから理論的な言説、さらには一篇の小説といった「作品」にいたるまで、たえず体系を凌駕すべき必然を担っている。
(蓮実重彦)
肉体の生命としての全体機能をゼロ度にまで低下させることによって、一種の聖なる呪力や霊力を獲得していく過程であるとみなすことができるであろう。
(山折哲雄)
人の憂喜うつ佛たるに声をあげて歌哭し非笑すればすなわち暢ぶるがごとし
(智大師)
智が目指す「止観」の法悦境は、精神の集中にもとづく瞑想と徹底的な観想によって実現されるが、その前提としてまず身心の状態を統御して条件をととのえることが要請され、ひきつづいて仏菩薩への礼拝供養と賛嘆、行道、誦経が行われる。
(山折哲雄)
それはことばでは表現されなかった。その背後に何があるのか。それは時を越えたものだ。しかし一切が前代未聞だ。私の思いだしたそのすばらしいもの、それをどのように表現できようか。色はついていなかった。しかしはっきりみえた。甘美ではないが、恍惚の体験。欲望ではなく、充実感。情熱ではなく平安だった。
(R・ジェファ-ズ)
この意識的な自我の下に、無意識的で本能的で感情的な諸傾向の縺れ、つまりあれもあります。
(M・トゥルニェ)
特定の構造が現実化するとき、その他のありうるべき構造はのりこえられ、潜在的構造として抑止される。あるタイプの構造はくりかえし現実化して定型的な表出や反応や行動を形成する。またあるタイプの構造やあるレベルの統合は、まれにしか、たとえば危機的状況や特権的状況においてしか生成しない。
(市川浩)
ですから人間にはなに一つ外部から持ち込む必要はありません。自分の中に秘められていたものが蔽いをはがれ繰りひろげられ、一つ一つのものがその姿を明らかにされるだけでよいのです。
(コメニウス)
神がかりや忘我脱魂などの宗教現象をうるために、アルコールやタバコ、また麻薬や音楽が自覚的に使用されたことがあるが、仏教の修行においては山林トソウ、独居、禅定、などと並んで木食――断食や焼身の行が超人間的な験力や聖者的な呪力を獲得するうえで不可欠の手段であると考えられてきた。
(山折哲雄)
「戦きは人間性の最良の部分である」といったゲーテの言葉を繰り返し味わってみよう。
(H・カロッサ)
ちょうど、新しい音楽を聴きに音楽会へ行ったときのように相手の表現することを先入観をすてて一度は聞こうとする態度をとることが問題なのです。
(高橋巌)
KJ法のラベルには物理的なワクがあっても、そこで訴えているものごとは、中心性はあるが周辺は宇宙の果てまでひろがっている。だから、まわりから規定していこうというのと違うのです。中心性だけあってまわりはフワーとしている。だからこそ、二枚三枚のラベルがお互いに親和力を発揮して、そこになにかの渦が起こりうるのだと思うのです。
(川喜田二郎)
物事を一定期間継続することは<量から質への転換>をもたらしある一定の結論を導き出す。
(山田一彰)
まだよく理解できないでいる哲学書の場合でも、それを読んでいるうちにすくなくとも或る種のスタイル――スピノザ風のスタイルとか、批判主義のスタイルとか、現象学風のスタイルとか――が解ってくるようになり、それがその哲学書の意味の最初の粗描となるわけで、こうして或る一つの哲学を理解するのに、その哲学者の調子とかアクセントとかを自分で再読してみることから始めるのである。
(M・ポンティ)
人類の歴史を通じて、神秘家たちや呪術師たちは啓発と啓発を得るために荒野に孤独を求めてきた。精神的復活は隔離によって得られるとする概念は、多くの文化の中に信仰として根を下ろしているし、「聖書」を含めた数多くの宗教的な偉大な書物にも認められるところである。
(ムーディジュニアー)
実際、ごく一般的な世間のなかにいてその実験をするのは、現実問題としてさまざまな問題を巻き起こして大変でしょう。実験のなかには、試行錯誤ですから錯誤がずいぶん含まれるわけですよね。必要のない波を立てたり傷をつけ合ったりということが多いわけですから、実験に伴う危険性を考えると、あまり一般的な世間のなかでやるよりは囲いこまれたっていうか、ある限定された場のなかでやる方が安全であり、迷惑もかからないだろう、そういうことなんですね。
(S・P・プラブッダ)
われわれはいままで、対象から自分をもぎ離そうとするデカルト的伝統に慣らされてきた。
(M・ポンティ)
われわれは、文明化された生活において、観念の持つ情動的なエネルギーのほとんどを剥ぎとってしまったので、もはやそれらに心から反応することはない。
(C・G・ユング)
わたしは常々、先験的なものから奇抜なものへの、エリザベス朝演劇からグノーシス主義への、そして、プラトン学派から鍼術への飛躍を愛していた。
(カルペンティーエ-ル)
諸想念の連鎖は、現実の継起の論理的秩序とはまったく異質な連想という手段によって行われる。
(E・ド・サンドーニ)
『マルドールの歌』の或る種のくだりは、精確さへの異様な心づかいをもってこの過剰感覚の状態を表現しており、そこでは言語の響きとリズムが答え合って、その呪文によって詩人を催眠に近い夢想に引きさらってゆくように思われる。
(J・M・クレジオ)
しかし、そこにはなにもない――とらえ、とらえられ、一つになってころげまわるごったがえしの渦巻きばかり。
(ゴンブロヴィッチ)
詩的インスピレーションとは、まったく稀有のチャンス、天からの一時的な贈り物であるように思えた。詩人にはそれを受けいれられるような状態に自分を置くことが問題であり……
(M・レリス)
座禅の経験のおありの方はどなたもご承知でしょうが、座禅で観想状態が深まってまいりますと、意識の深層が次第に活発に働き出します。そしてそれと同時に凝結していた世界がだんだん溶けて生きます。いわば流動的になっていきます。今まで峻別されていたあらゆる事物の形象はその尖鋭な存在性を失って微かになり、ついにはいまにも消滅せんばかりのかそけさとなります。いわゆる「本質」なるものによって造り出されていた事物相互の境界線は取り除かれ、いろいろな事物の輪郭はぼやけてきます。そして今ではほとんど区別し難くなったものたちが相互に浸透し合い、とうとう最後には全く一つに帰してしまいます。
(井筒俊彦)
だから私なんかは、変化にまかせるって言うか、心をときほぐして自分の知覚とその不連続性を観察することが、浄化の基礎だって確信してるくらいだ。
(A・ギンスバ-グ)
ひとつの知覚はまたたく間に、また直接的にさらなる知覚へと変化していく。
(C・オルスン)
何も考えるな、ただ事実につけ。
(W・C・ウィリアムズ)
条件づけられたできあいの概念に寄りかかる態度を棄てること。自分が今受けている衝撃やそのつど浮かび上がる思考をすなおに受け入れる寛容性。自分自身の心を知覚するのに欠かせないおだやかさ。意識の中でたえまなく生起する「プロセス」や何の加工も加えられていない生の心的内容をやさしく受け入れることのできる思いやり。「放棄」をとおして、「自分の頭のなかで起っていること」を見抜いていく能力が、身についてくる、これはたしかなことだ。
(A・ギンスバーク)
人が、内的に外的に、絶えず何かを経験する、その一つ一つの印象が、無意識的に心を染めていく、丁度、香のかおりが、知らず知らず、衣に薫きこめられていくように。人間の経験の一片一片は、必ず心の奥に意味の匂いを残さないではいない。意識深層に薫きこめられた匂いは、「意味可能体」を生む。その一つ一つを「種子」と呼ぶのだ。こうして生まれた「種子」は、潜在的意味の形で言語アラヤ識のなかに貯えられ、条件がととのえば、顕在的意味形象となって意識表層に浮かび上がってくる。そして、この経験そのものが、またアラヤ識を「薫重」して、新しい「種子」を生む。
(井筒俊彦)
真の交合は至上のシャクティ(クンダリニー)と自我のアートマンとの結合であり、そういった結合でなければ、それはただ女性の奴隷にすぎぬ。
『ワラールナヴァ・タントラ』
神秘学へ深く参入すればする程、人はますます謙虚になる、そして特定の認識内容を受けとるためには、極くゆっくりと自分をそれにふさわしく成熟させていくしかないことを認めるようになる。そして人間の誇りとか傲慢とかは、結局、特定の認識段階に達してしまったら、もはや何の意味ももたなくなる。
(R・シュタイナー)
今、文献を読んでいて、僕は馬鹿になりそうだ。文献を読むというのは、ものを書く者に課せられる恐るべき難行苦行です。その過程で、僕自身のものはすべて枯渇してしまいます。僕がもっている新しい考えを思い出させなくなることがしばしばあります。それでも、それはまったく新しい。現在、僕に見えている限りでは、読まねばならない文献は無限に広がっています。
(フロイド)
読むことによって、書物それ自体を作るのは読者でしかない。彼にはある行為が要請されることになる。
(F・ポンジュ)
どこで言葉が見つかるだろうか、どこで言葉が鳴り響くだろうか? ここではない、それだけの沈黙がない。
(T・S・エリオット)
世界は観念である。
(ヴァスヴァンドウ)
キリスト教が到達したものとか、ルネッサンスがなし遂げたものなどはさほど重要な事件ではありません。なぜかといえば、それらはまだ、ギリシャに端を発する幾何学や修辞学の内部(つまり西欧文明の内部)におかれていたからです。われわれは、はるかに深刻な激動のときを生きているのです。
(F・ポンジュ)
アイデンティティ、すなわち同一性とはどういうことなのか。同一性、それは不変ということであろう。だが私は日頃身に沁みて感ずるのだが、如何なる現実も不変ではありえない。すべては変わるのだ。この流動変化の現実にどうして固定的な名辞をつけることが出来るのだろう。アイデンティティ、それは動的な現実に応ずるに余りに静的な概念である。
(M・デ・プラダ)
言葉は類推系統図とでもいうもの、すなわち、そういった言葉が読者の心の内部に拡げてゆく、概念の連合にかかわる系統図をもっているのです。
(F・ポンジュ)
ポリクロニックな民族は互いの問題に非常に深くかかわり合っているので、常に接触を保ちつづけていなければ不安を感じる。したがって、どんなに脈略のない情報の断片も集められ、記憶される。お互いについての彼らの知識はまさに驚くべきものがある。ひとが互いにかかわり合うことこそ、彼らの存在の核心にほかならない。
(T・E・ホール)
一つの思考なり情緒なりが、線的に展開するのではなく、いくつかの思考が同時に展開するわけである。
(秋山澄夫)
欧米の世界は、時間について継続的・線型的なイメージに親しんできた。……それは過去を非合理の墓として死に追いやり、未来を完全性への約束として賞賛した。
(フェンテス)
概念というのは線である。
(G・ドウルーズ、F・ガタリ)
日本の庭園を構造化する論理は、部分の接続のしかたという点を措いて他に求められないのではないか。隣接しあう他の部分と補完し合い、また逆に妨害しあう相互の関係はどのようであるか、景物のとり合わせ、トポスの連鎖、空間の連辞はどうなっているか、これらの点をこそ探求すべきではないだろうか。
(持田公子)
求仏求法、即是造地獄業。求菩薩、亦造業、看経看教、亦是造業。
(臨済義玄)
精神は徹頭徹尾、能動的な活動の主体であるべきで、ものごとに受身になるのは恥辱である、というのが近代的自我の主張であった。それが大きく変わって、現代の自我はより謙虚になり、自分自身の内部にも外界にも、自分の力で支配しきれないものがある、という現実を認めつつある。
(山崎正和)
マハーマティよ、言語は究極の真理ではない。言語によって獲得できるのは、究極の真理ではないのだ。なぜか? 話すことによって、人は真理に入ることができるが、言語自体は真理ではない。真理とは、非二元的洞察を介した知恵によって、内的に体験される自己実現であり、言葉、二元性、ならびに知性の領域には属さない……。世界は心以外の何ものでもない……すべてが心なのである。
(「楞伽経」)
われわれが提案しようとしているのは証明すべき議論ではなく、直接的に体験されるべきリアリティであること。
(K・ウィルバー)
われわれはこれまでに聞き方を学んだことのないものは聞かないのです。
(J・ラカン)
礼儀には礼儀を返すほかない。かくして再び偽装のはじまり。
(R・クレヴェル)
そのあるものは、修練の方法として直ちに没我状態に入るよりも、むしろ心知の観察、やたらにかけめぐる放浪癖のある思考習慣の消耗を避ける訓練として心知を沈黙状態に入るや、その放浪癖から一切の是認、目的、関係が後退するのを感取し、一切の外向的思惟が除去される強力、迅速、有効なかのものを感じ、心の絶対静寂のなかで心がただ純粋清浄な「存在」だけを写し、あるいは超意識的存在のなかへ移入する。
(シュリ・オーロビンド)
だが、王の麗しい御姿を見るに値しない者は、門のところで天使たちによって意識を狂わせられた。
(ヘハロース・テキスト ミュンヘン手稿本)
散逸システムを通して流れるエネルギーや物質にゆらぎが生じても、そのゆらぎが特定の限界内にとどまる限り内部組織は維持される。そのシステムは些細な物理的傷害で苦しむこともあるが、自己組織化する性質を通して自らを「癒す」。けれども、ゆらぎが特定の限界以上に大きくなると、システムは安定性を失う。
(P・ラッセル)
人は自らを閉ざしてしまったため、自分の洞窟の狭い隙間を通してすべてのものを見てしまう。
(W・ブレイク)
老荘的対話にあっては、話者のしばしばしたたかに攻撃的である高燥な心情は自在なフモールとなって諧謔的言説を投げつけ、対する聴者はいまだ完璧に老荘的人間に成熟していないために、浴びせかけられる言説にたじろいで、狼狽、驚愕、不安、怪訝、不快あるいは不気味さ等々といったすこぶる負性の印象によって対応するしかないのであった。
(大室幹雄)
というのは医学は患者に現れたある一つの徴候から病気を診断しなければならないからである。この一つの徴候から全体を見きわめようとする医学的な考え方は、対象を量的にとらえ分析しようとする近代科学の方法(ガリレオの方法)に対立すると著者(C・ギンスブルグ)は考える。彼はこうした考え方の起源を、原始時代、狩人が足跡を見て獲物のことを推定し追いかけた能力に見ている。
(竹山博英)
死が狩人である世界ではだな、おい、後悔したり疑ったりするひまなぞないんだよ。あるのは決心する時間だけだ。
(カスタネダ)
これらの要素は一つ一つ別なものではなく、一つの態度であり、一つの経験の側面であるため、切り離しがたい点も多々あることを断っておく。したがって、一つ一つの要素を見るとき、重複する点も多くなることは避けられない。
(田辺菫)
西洋近代の自我は神の座を乗っ取りつつ、一神教のパタ-ンを継承しているので、彼らは自我のシステム内に矛盾の存在を許容できない。西洋近代の自我はその統合性の維持のため、それと共存できぬものをシステム外に追い出すより仕方がなかった。
(河合隼雄)
わしの言っている変化は、少しずつ起こるなんてことは絶対似ない。突然起こるんだ。おまえにはまだ、ガラッとひっくりかえる変化の準備ができておらん。
(カスタネダ)
しかし、これらの一方を賞賛するためには、もう一方をけなすことが本当に必要なのであろうか。一方がもう一つとは全然違うとしても、それぞれがそれなりに偉大で賞賛すべきあると認めることができないのであろうか。……世界は広く、その中では多くのものが相並んで共存できる。
(F・シュレーゲル)
甘えがあるだけだ。なんでもかんでも説明しようとして、自分に甘えとるのさ。お前の場合、説明なぞ金輪際不必要だ。
(カスタネダ)
生きる技術とは、あらゆる瞬間に敏感になりきることだ。その瞬間をまったく新しい唯一のものとしてとらえ、心を開き、完全に受容的になるのである。
(A・ワッツ)
そして現前する万象だけが読むべき唯一の書物となる。
(トゥルンパ)
西洋式の学問の伝統ではノートを取るということが重要な役割を果たしている。そして、その人の知識のほとんどが教科書の両扉の間に閉じ込められてしまう。私たちの場合、その知識の蓄えは暗記を通じて私たちの心に入りこんでいる。
(ゲシェー・ラプテン)
海のものおと。海と空とを隔てる曲線。葉陰をゆく風。鳥の鳴き声。こういったすべてがわれわれのうちに多様な印象をもたらす。そして突然、こちらの思いとはおおよそなんのかかわりもなしに、それらの記憶のひとつひとつがわれわれの外にひろがり、音楽として表現されるのです。それは己のうちに自らの和音を秘めています。
(ドビュッシー)
答は簡単さ。逃げないことだ。恐怖なぞものともせずに次のステップへ進むんだ。それからつぎ、つぎへとな。きっと恐怖でいっぱいになるにちがいない。だが止まってはいかんのだ。これがルールだ!
(カスタネダ)
日本の不動明王などの恐れる仏は、その怒りが内面化されている。情緒をあからさまに外に露出することを控える。
(松永有慶)
というのも、諸君が現実と呼んでいるものは、実は現実ではないからである。
(クルト・ピントゥス)
詩人はあらゆる物の傍観者である。いな、彼はその隠れた同志であり、無口な兄弟なのである。
(ホフマンスタール)
けれども礼拝式で経典を読誦するということは、やはり次のような観念を伴っている。つまり一同のおごそかな読経によって、経典の精神的意味内容を生動させ、そのはたらきを発動させようというのである。
(E・ベンツ)
絶対無限は決して論理的に証明されるものにあらざるなり。
(清沢満之)
具象物こそ、玄妙なるものの抽象形なり
(D・ボーム)
言語にもとづかず、たとえばイコンだの音符だのといった、言語以外の伝達力にもとづく叡智的感覚的実在のありかたもある。沈黙に根ざす精神活動もある。この活動を〈口で語る〉ことは困難だ。沈黙のすがたと活力を、どうして弁舌などが正確に伝えることができよう。
(G・スタイナー)
かかる経験において音楽の調べの特異なる暗在的構造が有する全体的意味は、人をして情緒的反応を起こさしめるという意味において作動的なものである。
(D・ボーム)
生きている真理だけが言葉にならないのである。
(イオネスコ)
ぼくたちが読んでいる本が、ゲンコツで頭をブンなぐるように、ぼくたちの目を醒まさせないのなら、なんでそんな本を読むのか。
(カフカ)
たがいに寄り集まって次の瞬間を構成するであろう全ファクタ-集合体は、総合的状況のなかに巻き込まれて〔暗在化されて〕いる。そして、このような事物の全体的状況が内にはらむ必然性の力をとおしてこれらのファクタ-は「巻き込まれ」ながら(暗在的に)結合されて、新しい事物の状況を産みだすにいたるのである。
(D・ボーム)
タブローの形象のひとつひとつはこうして一連の範列の圧縮であり、形象のひとつひとつが意味を帯びるのは連合の領域からそれが受けとるあの多元的決定によってなのだ。
(M・マラン)
日本人は話の核心には触れないで、そのまわりで話す。日本人は、知性のあるひとなら、問題点を、コンテクスト――彼らは細心の注意を払ってそれを提示している――から把握できるはずだと考える。
(E・T・ホール)
だから詩的言語においては、しばしば文法はずれが試みられる。というのは文法通り線状(リニア)に統合された文章は、どうしても一義的に意味を限定する作用が強いので、それを壊すことによってさまざまの潜在的な統合可能性の海の中へ読者を放り出すわけです。
(市川浩)
人は誰しも、他人の目に映った自分を見つけると、それを受け入れ、それにもとづいて自分を作っていく。他人が考える自分と本来の自分とを混同し、この居もしない架空の存在にたいする周囲の期待に沿って行動するようになるんだ。
(J・C・オネッティ)
日本人が庭を作るのに巧みな理由の一つは、彼らは空間の知覚に視覚ばかりでなく、その他あらゆる感覚を用いることにある。嗅覚、温度の変化、湿度、光、影、色などが協同して身体全体を感覚器官として用いるように促す。ルネッサンスとバロックの画家の単一点遠近法に対して日本の庭は多くの視点から眺められるように設計してある。
(E・T・ホール)
生きることのなかで、たえず新たな結合が生まれ、気づかれない癒合が起こっているような、たえず生成する星雲状複合体ともいうべきものです。
(市川浩)
モノクロニックな時間は、われわれを、われわれ自身から疎外し、広義のコンテクスト(文脈)のなかで物事を見るという機会を与えてはくれない。こうしてモノクロニックな時間は、厚紙を丸めた筒でものを見るのに似て、視野を狭めてしまうのである。
(E・T・ホール)
しかし、プランをたてるなど、いったい人間とは何者なのでしょうか?
(ホフマンスタール)
道高ければ即ち魔盛んなリ。
(『天台小止観』)
これまで精神病だとして精神病院に送り込まれてきた人の大半が、本当はいわゆる精神病ではなくて、ただ単に現在の自己像、自己イメージというものを脱皮して、よりひろい自己イメージを獲得するための途中の〈ゆらぎの状態〉のなかにいるんだということですね。
(吉福伸逸)
肝心なのは、生活を一転させることで、あとのことはどれも大したことじゃない。
(チェーホフ)
彼(滑稽)もまた一身に体現した過剰の境界逸脱性すなわち偏異性を武器に世界の中心に闖入し、日常生活の秩序を攪乱し、通常人の安固な世界感覚を混乱に陥れて無気味な怪訝と新鮮な驚愕によって彼らにもう一つの世界の所在を開示する鏡の創造者にほかならなかった。
(大室幹雄)
バイファーケーションとは、臨界点で物質に新しい状態が現れることです。
(ブリゴジン)
だから、よくトランスパーソナル心理学やゲシュタルト・セラピーでは、よく「症状を高める」といいます。
(吉福伸逸)
ということは行き着くところまで行き着くと、だいたい全部おさまるんです。で、まわりの人は、その「旅」を当人が完了することを支援してあげればいいんです。
(吉福伸逸)
よき人のおほせをかぶりて、信ずる他に別の子細なきなり。
(親鸞)
このようにヨーガの本質は、ある何かの対象に精神集中することによって、暴れ馬のように散漫に移り変わっていく心の働き(雑念状態)を制御し、統一して、心のより深い高次元の内面の世界の発動を促進することにあったのである。
(番場一雄)
三昧においては、心が不動となって対象と一つになる。名称や概念、連想などによって汚されていない事物の実在と直接的に結合した状態である。このとき対象は私の意識の対象として現れるのではなくて、意識が対象自体と一つとなり、主体と客体の二元性は消え去り、心は自ら集中している対象そのものに変容してしまうのである。
(S・N・ダスグプタ)
人間が現状のアイデンティティの幅とか、現状の意識のレベルから上昇するにしろ下降するにしろ、違うレベルに移行する場合には、ある種の錯乱状態は不可欠なものであって、逆にいえば、もしかすると、なんらかの錯乱状態がないままで意識レベルやアイデンティティが変わるということはありえない。
(J・ペリー)
だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。
(ヨハネ福音書)
チベット神秘思想は、瞑想の実習を通して得られる五つの異なった「眼」、或いは段階的認識能力を挙げている。
(E・バーンバウム)
断片的なアプローチに対応して必ず断片的反応が返ってくるのは、実在が全体的なものだからである。
(D・ボーム)
心理療法家としては、このような退行現象に耐えていると、その頂点に達したと思われるところ、エネルギーの流れの反転が生じ、それは無意識内の心的内容を意識内へもたらし、そこに新しい創造的な生き方が開示されてくるのを見るのである。
(M・トルガ)
エネルギーの流れがあまり複雑になると、系が吸収できないほどの大きな<ゆらぎ>が生じ、系は有機体化を強いられる。しかし有機体化が行われるとエネルギーの流れはいっそう複雑になり、ゆらぎもますます大きくなる。こうして、不安定性の増大がさらなる有機体化をもたらす。つまり、生物がどんどん新しい構造に生まれ変わっていくのだ。
(プリゴジン)
何がリアルかということについてのわれわれの観念が、リアリティの形成手順においてわれわれの知覚器官の方向付けをするのだ。
(J・ピアス)
「筋」は要らない、人生には「筋」はない……
(阿部昭)
汝の右手をた易く誰にでも差し出すなかれ。
(ピュタゴラス)
我々はこの特異でダイナミックな状態(全人的に行為に没入している時に人が感ずる包括的感覚)をフローと呼ぶことにする。フローの状態にある時、行為は行為者の意識的な仲介の必要がないかのように、内的な論理に従って次々に進んでいく。人はそれをある瞬間から次の瞬間への統一的な流れとして経験し、その中で自分の行為を統御しており、更にそこでは自我と環境との間、刺激と反応との間、過去現在未来との間の差はほとんどない。
(M・チクセントミハイ)
前にも言ったように、いろんなことが「自動的」に進むようになると……ある意味でほとんど自我のない状態になって……どういうものか、考えることなしに、また全く何もしないのに……正しくことが運ばれる……とにかくそうなってしまうのです……。それもふだんより気分が集中している、禅が精神の集中であるように、これは瞑想のようなものでしょう。やらねばならないただ一つのことは、心を一点に集めることです。何物かに到達するために精神の焦点を結ばせる能力がたいせつです。
(或るロッククライマー)
結果にではなく、行いの中に動機を置かねばならない。行為への動機が報酬に対する期待に置かれるような人間であってはならない。
(『バガヴァツド・ギータ』)
たった一瞬というが、全き熱中のために、人は瞬間の内に消え去り、永遠という風がその中を吹き抜ける。
(D・ロビンソン)
考えるということは、相違を忘れることと、概括すること、抽象することである。過度に充満したフネスの世界には、細部、ほとんど連続した細部しかなかった。
(J・L・ボルヘス)
個人はすべて各自がそこへ生れ落ちた言語習慣の受益者であると同時に犠牲者である……
(A・ハックスリー)
端的に私と環境との最初の結びつきは気分である。良質の、ためにするのではない閑雅な観察とはこの意味での気分的な結びつきにほかならない。
(大室幹雄)
言葉を効果的に扱う術を学ばなければならない、と同時にわれわれは所与の事実すべてに品種のレッテルを貼ったり解説的抽象を施してまったくの陳腐な見せかけへと歪曲してしまう概念という半透明の媒体を通さずに世界を直に眺める能力を保持し、必要とあればそれを強化することもしなければならない。
(A・ハックスリー)
この至福の金剛身として表されている清浄な境界に達した時、初めて超意識の領域に足を踏み入れられるのだ。一切の汚れがきれいに洗い流され、自我は心の深層部を透かし出す透明な窓になる。これに伴い、この世界の認識の仕方も変化する。前方に広がる美しい国々がそれを暗示している。今や目にする物一切が、神聖な本姓を見せて光り輝き、その光景はまるで地上に降りかかる天国の欠片のようだ。
(E・バーンバウム)
ここでは日常の生活空間も随所でその存在論的な意味を変換することが起こる。われわれの構えから見れば、ごく他愛もない出来事をきっかけに生活空間の一転に潜伏する生命の流れが噴出すると、そこは聖なるものの顕現する場所として存在論的な変換を遂げ、この聖所を中心として生活空間全体が宇宙論的な秩序を現す新たな世界として人々の視のうちに出現する。そしてそれとともに人間の内なる生命もまた新しい秩序のうちに新たな生を開始する。
(大室幹雄))
一回きりの人生だけでは充分ではありません。
(フェンテス)
―終り―
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