薔薇はなぜという理由なしに咲いている。
薔薇はただ咲くべく咲いている。
薔薇は自分自身を気にしない。
ひとが見ているかどうかも問題にしない。
植田重雄・加藤智見訳『シレジウス瞑想詩集・上』(岩波文庫)より
千田完治撮影
寺の本堂と道を隔てた某家の庭に、薔薇の木があります。それが今、満開です。なんという種類かは知らないけれど、まっ赤な大輪です。かなりの数が咲いています。
夕方、鐘をついていると、その薔薇の木に買い物帰りの女性が、吸いつけられるように近づいていくのが見えました。その家に用事でもあるのかと思ったけれど、違いました。ただ、ただ、薔薇の花を見るだけのために、近づいていったようです。
心が動く何かを見つけて、そのために、今やっている自分の行動をいったん止めてしまう。止める勇気を「ゆとり」というのでしょうか。「ゆとり」がある時間は「ゆたか」です。
今月のことばは、ドイツ・バロック時代を代表する神秘主義的宗教詩人、シレジウス(1624~1677)の言葉だそうです。そんな詩を岩波文庫から引っぱってくるなんて、「凄い!」と思われるのも恥ずかしいから、いつもながら、正直に白状すれば、木田元著『一日一文』(岩波書店)からの孫引きです。
薔薇の詩歌といえば、思い出すのが北原白秋の「薔薇ノ木ニ/薔薇ノ花サク/ナニゴトノ不思議ナケレド」でしょうか。
花の種類は特定してないけれど、「理由なしに咲いている」といえば、このことばをご紹介しないわけにはいきません。柴山全慶元南禅寺派管長の絶唱です。
花は黙って咲き/黙って散ってゆく/そうして再び枝に帰らない/けれども
その一時一所に/この世のすべてを托している/一輪の花の声であり/一枝の花の真である/永遠に滅びぬ生命のよろこびが/悔いなくそこに輝いている
いつも思うけれど、キリスト教の詩人も、禅の老師も同じ事をうたっているのではないだろうか。それにしても、「薔薇」という漢字。ワープロだから書けるけれど、「お手本を見ずに書け!」と言われたら、書けないな。あなたは書けますか?