歴史とドラマをめぐる冒険

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小説風「麒麟がくる」・スピンオフ・「明智十兵衛最後の戦い」・「第三回」「家康という男をどうする?」

2021-02-11 | 麒麟がくる
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これまでの話。明智十兵衛は長井十兵衛と名乗って徳川家康に庇護されている。秀吉はそれを知っているが、徳川との良好な関係を優先し、問題としない。そればかりか、光秀は確かに死んだという通達までだして、光秀生存の噂をかき消した。なお「光秀生存以外」は「なるべく史実に近づけよう」とはしていますが、フィクションです。

「家康という男」
天正14年末(1586)、徳川家康は豊臣秀吉に臣従した。徳川家中には反対論もあったが、家康自身はそれを後悔はしていないようである。

十兵衛の見るところ家康はいわゆる英雄とはよほど違っている。英雄になろうという気もないようであった。

「わたしは三河の土豪の出ですからな」と家康は言う。今は三河・遠江・駿河・甲斐・信濃の一部を有する大大名である。しかし信長の時代、家康は三河の大名で、遠江をやっと死守しているという状態であった。武田の滅亡後、駿河を与えられた。信長が天下で活動した15年間、家康の版図は、信長に比べれてまことに小さい。東の武田の抑えであった。絶えず武田勝頼の攻勢に悩まされていた。それは「長篠の戦い」で、織田徳川軍が勝利した後も同じであった。武田勝頼は旺盛な領土拡張活動を行った。家康がやっと武田から解放されたのは、信長が死んだ天正10年(1582)のことである。
十兵衛が初めて家康と会った時、彼はまだ少年で、織田の人質であった。やがて今川の人質になって、17歳まで駿府で暮らした。桶狭間の戦い(1560)で、信長が今川義元をやぶるや、やっと岡崎の入城して「領主らしく」なった。それから26年がたっている。

「わたしは英雄ではない。その点、十兵衛殿に期待されても困ります。麒麟は呼びたいが、今の版図では太閤には勝てませぬ。そもそも数年前まで私は信長公の家臣同然で、天下人になろうとしたことなどなく、自分がなれると考えたこともない。その気持ちは今も変わりません」
こうした素直さがこの男の美点であると十兵衛は思っている。十兵衛とてそのような重荷を家康に負わそうとは思っていない。それが信長との長い愛憎の時代を経て、十兵衛が得た教訓であった。今始まったばかりの関白の政治に協力しながら、関白の行き過ぎを正していく。それだけでも十分意味はある。
「家康殿にも十分に英雄というべき美点がござります」
「ほう、十兵衛殿だからおべっかは言いますまい。どのような点でありましょう」
「いざとなれば、いつでも身を捨てようという気概がございます。上洛して太閤に会う前、家康殿はそのような気概を示されました」
「ふっ、あのことですか」と家康は言う。

「三河物語」こうある。家康は上洛で秀吉の殺されることも覚悟していた。そうなれば秀吉の母も死ぬが、そういう非情さに秀吉は耐えうる男かも知れない。そうした予測のもと
「われ一人腹を切って、万民を助くべし」と言い放った。自分が死んで、関白との戦争が回避できるならば安いものだというのである。十兵衛はそれを知っていた。
しかし家康は言う。
「どこが英雄でありましょうかな。臆病者の言い草でしょう。それに家中をまとめるには、ああいうしかなかったわけで」
十兵衛はこういう素直な家康を好ましく思った。太閤の政治はまだ見えていない。あの男は信用できないが、天下人となれば、人が変わることもある。協力しながらしばし見守る。それが十兵衛の考えだし、徳川家康も家中のものもそう思っている。
さらに、十兵衛はこの「大人びた」男が、意外にも少年のように感情的だということも知っていた。褒められることではないが、好悪が激しいところがある。先年、石川数正が出奔して太閤のもとに走った。数正は家康にさほど好かれてはいなかった。この大人びた男が、ついつい顔にそれを出してしまうことがあった。わが子にすらそうであった。本来の嫡男は、結城秀康であったが、関白のもとに人質に出してから、いやその前から、家康は明らかにこの子を嫌っていた。そうした家康のマイナス面、好悪の激しさが、家康をして英雄に飛翔させる可能性がある。十兵衛はそう思っていた。大人びているだけでは、あの関白に対向することは無理である。が家康に言うことはない。まさか「好悪が強い」と言えるわけもなかった。
「しかしながら」と十兵衛は考える。あまり無理をしてこの男を英雄に育てる必要はあるまい。思えば、義昭公も、信長公も、自分の期待を実現させようとして、そして道をはずれていったのかも知れない。麒麟がくる世は、自分の理想である。人に実現してもらうことではない。自分は自分の領分で活動する。今は家康に助言をし、補佐するのみである。

「さて、十兵衛殿、わしは今、藤原を名乗っておるが、それを源氏に変えようと思う。関白は怒ると思いますか」
十兵衛は首をひねった。そして何か政治的な意図があるのかと家康に尋ねた。家康は何もない風に
「いや、特別な意図はございません。御存じでしょう。私は源頼朝公を尊敬している。英雄でない私としては、少しでも頼朝公にあやかりたい。それだけでござる。あっ、征夷大将軍への布石かとお尋ねか。いやいや違います。それに源氏でなければ征夷大将軍になれないということもありますまい。鎌倉には宮将軍もおられますからな」
家康は読書家である。十兵衛は言った。
「征夷大将軍への布石ではないのですな。いや布石であったとしても、関白は気にしますまい。征夷大将軍は、われら武士にとっては特別なものですが、関白にとってはいかほどのものでもないらしい。それに官位としてみれば、下から3番目か4番目の官であります。関白ははるか上の官位。気にもしますまい」
家康はうなずきながら笑った。この源氏改姓がなされたのは1年ほど後のことである。

続く。


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