第一回はここにあります。クリックしてください。
第一回からの続き。
天正14年(1586)10月、徳川家康は上洛して一旦豊臣秀吉に臣従の姿勢を見せた。秀吉はこの年「明智と称するもの」が丹波の奥で潜んでいたとして処刑した。それと同時に、天下に対して次のような布告を行った。秀吉は瑞海と名乗り、明智十兵衛が生きていること、家康が匿っていることを知っている。知っていて世間に対して箝口令をひいた。
「この度、明智と称するものが丹波で逆意をあおっていたので処刑した。関白が直々に検分したが明智ではなかった。近頃、明智が生きていると風聞を流すものがいる。許せない所業である。中国大返しの速きをいぶかり、関白が明智と組んで信長公を殺したというものがいる。とんでもない話である。そのような風聞を流すものは誰であろうと、吟味の上、極刑に処す。さらに徳川が明智をかくまっていると噂するものがいる。徳川殿が死を覚悟して伊賀の山中を抜け、帰国したことを知らないのであろうか。朝廷や帝が明智と組んでいたという話に至ってはあきれてものも言えない。本日を持って、明智の「あ」の字も噂することを禁止する。また明智の旧臣や子女についても今後一切罪は問わない。明智が生きているがごとき風聞を流し、関白の偉業を卑しめるものは、きつく処断する。日記や文に書くことも、同罪である。誰であろうと、大臣であろうと、大名であろうと、きつく処分する。」
この後、明智生存の噂は消えた。そもそも十兵衛の顔を見知っている大名は多くはない。この年、秀吉はまだ全国を支配下には置いていないが、秀吉が北条征伐をした時点で考えるなら、上杉も伊達も、北条も、真田も、長曾我部も、毛利も、宇喜多も、島津など九州の大名も、十兵衛の顔は知らない。
むろんかつての織田家臣は十兵衛の顔を知っている。そのうちの大なる者は、細川藤孝、筒井順慶などがいる。しかし細川に十兵衛の名を蒸し返そうなどという気は毛頭ない。この時点、天正14年には順慶は既に死んでいる。柴田勝家も死に、滝川一益も丹羽長秀も病死した。前田利家ら信長近習だった者は豪の者を気取っているが、政治の機微を知っている。太閤に従うことで身を立てた者たちである。関白の意向にあえて逆らう必要がない。一番厄介なのは、織田信雄であったが、本心は分からぬものの、太閤の権威に逆らうことはなかった。やがて淀君となる茶々も、十兵衛と直接会ったことはない。素直に信じた。というより、謀反人の十兵衛が生きている理由を何も思いつかなかった。茶々の妹である「お江」はやがて徳川秀忠の正室となる。本能寺の変が起きた時、彼女はわずか9歳で、織田信長の顔もろくに見たことはなかった。まして十兵衛の顔なぞ知らなかった。本能寺で父や兄、弟が死んだ家族たちには十兵衛への遺恨があった。しかし彼らとても「徳川家の瑞海」に会う手立てはなく、十兵衛が明智だと断定するすべはなかった。それがあったとしても、関白に逆らうほどの力はない。関白としては、この段階において、家康をつなぎとめておくことが最大の政治課題であり、その為には、母親さえ人質に差し出した。十兵衛を「生かしておくこと」など、徳川つなぎとめという政治効果を考えた場合、何の苦にもならない。自分が「麒麟をよぶ」と伝えておく限り、あの律儀な十兵衛は、家康を説得してくれるであろう。秀吉はそう考えていた。自分の晩年、そして死後「明智十兵衛が最後の戦いを仕掛けてくる」ことなぞ、想像もできない。
十兵衛は晴れて「死んだ」ことになった。そうなるともう瑞海と名乗り、僧形でいる必要もない。すぐに俗体に戻り、武士となった。名乗りは長井十兵衛光春とした。この稿では、十兵衛で通すことにする。顔も特に変えない。ただひげだけは少しばかり長く伸ばした。それだけでも面相はずいぶんと変わった。禄高は少ない。しかし家康の参謀であった。
瑞海の弟子たちも武士に戻った。明智左馬助は長井左馬助となった。藤田伝五は斎藤伝五である。斎藤利三は山崎の戦いで戦死した。彼の娘は、やがて徳川家光の乳母となり、「春日局」と呼ばれた。
十兵衛には思想家の体質がある。お駒のいう「麒麟のくる世は」、儒学的立場から書くなら「尭舜(ぎょうしゅん)の世」であった。徳川家内には「殿さんがやること」をいぶかる声もあった。しかしその度に、本多正信、また本多忠勝などの「四天王」が出向いては、説得を行った。「殿さん」は「尭舜(ぎょうしゅん)の世」を目指していると言った。多少本を読むことが好きな家臣は、それでなんとなく納得した。もっと「現実的」な家臣には「秀吉と戦うためには、十兵衛が必要」と説いた。家内の不満は次第に収まった。上記の秀吉の禁令がでてからは、徳川家内でも明智の名を出すものはなくなった。
十兵衛が直接出向いた大名がいる。美濃金山7万石の大名。森忠政である。この天正14年(1586)においては、まだ16歳の少年であった。彼の兄が、森蘭丸であり、そして坊丸、力丸であった。いずれも本能寺の変で戦死した。本能寺の変が起きたころ、森蘭丸は17歳であった。そして森忠政は12歳であった。忠政は後、美作18万石の藩祖となる。森家は100年、美作を統治したが、18世紀の初頭に改易された。十兵衛は家康の使者として森蘭丸の弟と対面した。むろん明智十兵衛とは名乗らない。が、家老から言われたのだろう。うすうす十兵衛の正体を知っている。憎しみを込めた目で十兵衛に接した。十兵衛は目撃者と言って、蘭丸らの最期を語った。十兵衛も直接見たわけでない。兵士に聞いた話である。森の末弟はうっすらと涙を浮かべた。十兵衛は去った。憎しみの目は最後まで変わらなかったが、十兵衛は森一族だけには筋を通しておきたかった。どうした心持であろう。
続く。
第一回からの続き。
天正14年(1586)10月、徳川家康は上洛して一旦豊臣秀吉に臣従の姿勢を見せた。秀吉はこの年「明智と称するもの」が丹波の奥で潜んでいたとして処刑した。それと同時に、天下に対して次のような布告を行った。秀吉は瑞海と名乗り、明智十兵衛が生きていること、家康が匿っていることを知っている。知っていて世間に対して箝口令をひいた。
「この度、明智と称するものが丹波で逆意をあおっていたので処刑した。関白が直々に検分したが明智ではなかった。近頃、明智が生きていると風聞を流すものがいる。許せない所業である。中国大返しの速きをいぶかり、関白が明智と組んで信長公を殺したというものがいる。とんでもない話である。そのような風聞を流すものは誰であろうと、吟味の上、極刑に処す。さらに徳川が明智をかくまっていると噂するものがいる。徳川殿が死を覚悟して伊賀の山中を抜け、帰国したことを知らないのであろうか。朝廷や帝が明智と組んでいたという話に至ってはあきれてものも言えない。本日を持って、明智の「あ」の字も噂することを禁止する。また明智の旧臣や子女についても今後一切罪は問わない。明智が生きているがごとき風聞を流し、関白の偉業を卑しめるものは、きつく処断する。日記や文に書くことも、同罪である。誰であろうと、大臣であろうと、大名であろうと、きつく処分する。」
この後、明智生存の噂は消えた。そもそも十兵衛の顔を見知っている大名は多くはない。この年、秀吉はまだ全国を支配下には置いていないが、秀吉が北条征伐をした時点で考えるなら、上杉も伊達も、北条も、真田も、長曾我部も、毛利も、宇喜多も、島津など九州の大名も、十兵衛の顔は知らない。
むろんかつての織田家臣は十兵衛の顔を知っている。そのうちの大なる者は、細川藤孝、筒井順慶などがいる。しかし細川に十兵衛の名を蒸し返そうなどという気は毛頭ない。この時点、天正14年には順慶は既に死んでいる。柴田勝家も死に、滝川一益も丹羽長秀も病死した。前田利家ら信長近習だった者は豪の者を気取っているが、政治の機微を知っている。太閤に従うことで身を立てた者たちである。関白の意向にあえて逆らう必要がない。一番厄介なのは、織田信雄であったが、本心は分からぬものの、太閤の権威に逆らうことはなかった。やがて淀君となる茶々も、十兵衛と直接会ったことはない。素直に信じた。というより、謀反人の十兵衛が生きている理由を何も思いつかなかった。茶々の妹である「お江」はやがて徳川秀忠の正室となる。本能寺の変が起きた時、彼女はわずか9歳で、織田信長の顔もろくに見たことはなかった。まして十兵衛の顔なぞ知らなかった。本能寺で父や兄、弟が死んだ家族たちには十兵衛への遺恨があった。しかし彼らとても「徳川家の瑞海」に会う手立てはなく、十兵衛が明智だと断定するすべはなかった。それがあったとしても、関白に逆らうほどの力はない。関白としては、この段階において、家康をつなぎとめておくことが最大の政治課題であり、その為には、母親さえ人質に差し出した。十兵衛を「生かしておくこと」など、徳川つなぎとめという政治効果を考えた場合、何の苦にもならない。自分が「麒麟をよぶ」と伝えておく限り、あの律儀な十兵衛は、家康を説得してくれるであろう。秀吉はそう考えていた。自分の晩年、そして死後「明智十兵衛が最後の戦いを仕掛けてくる」ことなぞ、想像もできない。
十兵衛は晴れて「死んだ」ことになった。そうなるともう瑞海と名乗り、僧形でいる必要もない。すぐに俗体に戻り、武士となった。名乗りは長井十兵衛光春とした。この稿では、十兵衛で通すことにする。顔も特に変えない。ただひげだけは少しばかり長く伸ばした。それだけでも面相はずいぶんと変わった。禄高は少ない。しかし家康の参謀であった。
瑞海の弟子たちも武士に戻った。明智左馬助は長井左馬助となった。藤田伝五は斎藤伝五である。斎藤利三は山崎の戦いで戦死した。彼の娘は、やがて徳川家光の乳母となり、「春日局」と呼ばれた。
十兵衛には思想家の体質がある。お駒のいう「麒麟のくる世は」、儒学的立場から書くなら「尭舜(ぎょうしゅん)の世」であった。徳川家内には「殿さんがやること」をいぶかる声もあった。しかしその度に、本多正信、また本多忠勝などの「四天王」が出向いては、説得を行った。「殿さん」は「尭舜(ぎょうしゅん)の世」を目指していると言った。多少本を読むことが好きな家臣は、それでなんとなく納得した。もっと「現実的」な家臣には「秀吉と戦うためには、十兵衛が必要」と説いた。家内の不満は次第に収まった。上記の秀吉の禁令がでてからは、徳川家内でも明智の名を出すものはなくなった。
十兵衛が直接出向いた大名がいる。美濃金山7万石の大名。森忠政である。この天正14年(1586)においては、まだ16歳の少年であった。彼の兄が、森蘭丸であり、そして坊丸、力丸であった。いずれも本能寺の変で戦死した。本能寺の変が起きたころ、森蘭丸は17歳であった。そして森忠政は12歳であった。忠政は後、美作18万石の藩祖となる。森家は100年、美作を統治したが、18世紀の初頭に改易された。十兵衛は家康の使者として森蘭丸の弟と対面した。むろん明智十兵衛とは名乗らない。が、家老から言われたのだろう。うすうす十兵衛の正体を知っている。憎しみを込めた目で十兵衛に接した。十兵衛は目撃者と言って、蘭丸らの最期を語った。十兵衛も直接見たわけでない。兵士に聞いた話である。森の末弟はうっすらと涙を浮かべた。十兵衛は去った。憎しみの目は最後まで変わらなかったが、十兵衛は森一族だけには筋を通しておきたかった。どうした心持であろう。
続く。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます