理恵子達が、久し振りに顔を合わせた江梨子の営業担当として培われた巧みな話しに乗せられて、彼女の近況報告を交えて賑やかにお喋りしているとき、裏庭の方で父の健太郎の笑い声が聞こえたので、節子が廊下に出てガラス戸越に庭を見ると、織田君と二人で池の囲い板を取りはずしながら、なにやら愉快そうに話あっている姿が見えた。
節子は、座敷に戻り理恵子にソット耳打ちし「織田君が来ているわ」と告げると、理恵子の肩を江梨子がいたずらっぽく叩いて「ソ~レ 真打登場だ」と言って、彼女をからかったあと、皆が廊下に出て庭を見ると、織田君が作業着姿で健太郎と池を覗いていたので、理恵子は、ガラス戸を開けて大声で
「織田く~ん、なによ声もかけてくれないで~」
と叫ぶと、彼は健太郎と揃って池を覗いたまま振り向くこともなく
「お~ぅ!理恵子。いま、お袋から頼まれた配達を終わっての帰り道に、先生の姿を見かけたので、池の鯉を見ているんだが、どうやら二人とも鯉に嫌われたらしく、鯉が深みから出ようとしないんだ」
と答えたので、彼女は
「嘘っ!本当は、わたしに逢いたくて来たんでしょう」
「珍しい美人にあわせてあげるから、早く部屋に来なさいよ~」
と、嬉しさを隠すように返事をすると、彼は「家に帰ると、また、内弁慶か!」と苦笑いして答えていた。
やがて織田君が座敷に顔を出すと、奈津子と江梨子が座り直して丁寧に挨拶したので、彼は
「オヤオヤ 本当だ。美女がお揃いで花盛りだなぁ~」
「部屋中が早春の香りでプンプンとによっているわ」
と笑いながら言うと、江梨子が、すかさず
「織田先輩、女性にも賞味期限があるのよ。さっさと理恵ちゃんと一緒になりなさいよ」
「それにしても、また、一段と体が大きくなり、理恵ちゃんを押し潰さないでよ」
と冗談混じりにジョークをまじえて冷やかすと、彼は
「君もすっかり都会のレデイになり、小島君とは順調かな」「それとも、失恋して悩んでいるんかな」
と、笑いながら冗談で答えるや、理恵子が
「まぁ~、失礼なことを!。皆さん、幸せだわ」「わたしだけ、中途半端で可哀想だと思わない・・」
と拗ねると、母親の節子が「なにを言っているの、それが我侭なのよ」と、たしなめていた。
暫くして、奈津子達が帰ると、健太郎が節子に対しねだる様に
「緋鯉がお帰りになったし、陽も暮れかけてきたので、餌をくれないかなぁ~」
と、お酒を催促すると、彼女は「おかしな真鯉ね」と言いながらも台所に立ち去ると理恵子もついて行き、厚揚げの焼き豆腐やレタスにチーズとハムの盛り合わせ等を二人で作り、節子は咄嗟のことにオドオドしている理恵子に
「今日は暖かかったしビールのほうが良いと思うわ」「貴女、お酌してきてあげなさい」
と言って、冷えたビール瓶とジョッキーを御盆に載せて渡し、理恵子が座敷に運んでゆくと、なにが面白いのか廊下に響き渡る様に父と織田君の明るい笑い声が聞こえてきた。
彼女はジョッキーにビールを注いでお酌してあげながら、彼に
「何時来たの?、帰宅する前に、会いたかったけれども、年度末でお忙しいと思い連絡しなかったけれど、怒っている?」
と、小声で聞くと、彼は
「夜行バスで今朝着いたんだ」「新潟に建築の打ち合わせ会議があり、二泊して明後日帰るよ」
と答え、続けて「いま、先生とも話していたところだが」と言ってビールを美味しそうにのみながら近況について
「今年の秋頃、会社で新潟に支店を出すことになり、社長の計らいで自分も新潟に来ることになっている。
大きい工事なので設計から完成まで10年位はかかり、その間、新潟勤務になるので自宅から通勤することになるが、お袋も喜んでいる」
と話してくれた。
彼女は思いがけない話に嬉しさで胸が一杯になり、母親にも早く知らせようと台所に行き、織田君の話を知らせると、節子は冷静な表情で「そうなの、良かったわね」「たまには、お弁当を作ってあげるのよ」と返事をして「マスの塩焼きが出来たわ、持っていってあげなさい」と言ったが、彼女は、秋になれば織田君と毎日一緒に過ごせると思うと、嬉しさがこみ上げて来て涙で瞳がうるみ、母に顔を見られたくなく横を向いて、そっと涙を拭いチラット振りかえり母親を見ると、節子は微笑んでいたが、その笑顔を見て母の優しさが胸に染み、我慢していた涙が零れ落ちてしまった。
節子は、そんな理恵子の様子を見ていて、自分の若き日を想いだし、乙女心は時を経ても変わりがないものだと、当時の母の気持ちを懐かしく偲び
「いいわ、母さんが運んでくるから」「貴女、顔をなおして来なさいね」
と言ってくれたので、彼女は化粧を直して座敷に行くと、父は上機嫌で織田君に「そうなれば、君のお母さんとも色々今後の事について相談しなければならんな」と、二人の結納から結婚式のことまでの段取りを、勝手に話していたが、織田君も「お袋も、先生にお任せする方がよい」と言っていると答えていた。
傍らで話しを聞いていた節子は、健太郎の顔をみて
「貴方、そんなに急がなくても・・」
「織田君のお母様の老後の生活のこともお聞きし、私達の老後も考えて、話を進めることにしましょうよ」
と、如何にも彼女らしく慎重な考えを話し、続けて
「織田君は、もう、立派な大人ですけど、理恵子はこれから研修の身ですし、それに、まだ子供ぽさが抜けていないし・・」
「わたしも、母親としてそれなりに家事等教えなければならないことが沢山ありますから」
と愚痴をまじえて言ったあと、俯いてエプロンの端を摘みながら顔を曇らせ呟くように
「それに、理恵子達には私達の様に不器用に人生の春を過ごして欲しくないし・・」
と言うと、健太郎は若き日を想いだして苦い顔をしていたが、織田君は屈託なく
「そんなこと、心配しないで下さい。自分達できちんと御面倒をみさせて戴きますので」
「それに、理恵子も、いざとなれば、火事場の馬鹿力で頑張りますよ」
と言うと、それまで、俯いていた理恵子も彼の一言にビックリして顔を上げ「まぁ~」と否定的な声を出したが、彼の自信溢れる豪快な笑い声に圧倒され、逆に、おおらかな個性に頼もしさを感じて、将来、どんなことがあっても絶対に彼に従って行こうと思った。
織田君が帰るとき、理恵子は母親に「お宮様まで送ってくるゎ」と言って外にでると、朧月夜で、彼女は自転車を引く彼の腕に縋って歩きながら
「この道は貴方と何度も歩いたが、そんなとき、何時かは貴方と一緒になれる日が必ず訪れることを、いつも夢見ていたゎ」
と、彼に甘えて囁き、薄くらい神社の境内に来ると、彼の太く逞しい腕に抱かれて熱いキスを交わし別れた。
少し歩いて振り向くと、彼の姿が杉の大木の間から漏れる月の光に蒼い影となって映りだされ、やがて音もなく闇に消えていった。