日々の便り

男女を問わず中高年者で、暇つぶしに、居住地の四季の移り変わりや、趣味等を語りあえたら・・と。

山と河にて (5)

2023年08月20日 04時30分35秒 | Weblog

 ”雨後の筍”と言う諺があるが、一夜の雨で、翌朝、驚くほど筍が伸びており、一週間も放っておくと孟宗の竹林が様相を一変している。
 若い人達も、これに負けず劣らず心身の成長が著しい。
 此処、飯豊山脈の麓にある町の風景も、5年もすると、各人の生活様式に合わせた廃家や転居それに新・増改築もあり、加えて、各家とも若年層の都会への流出と老齢化現象で、家族構成や職業事情等から変化する。
 ”栄枯衰勢”は、人の世の常であり、浮世の習いとわいえ”諸行無常”移ろい易いのはいなめず、すべてが様変わりしてゆく。

 人の年代を区別する表現に、季節の”春・夏・秋・冬”の言葉になぞらえて、”青春” ”朱陽” ”白秋”に”玄冬”の言葉があると聞いたことがある。
 この表現でいけば、白秋に近ずいた健太郎は、朱陽で燃え盛るような情熱と艶やかな体をしている妻の節子には、内心、癌を患ったことにより、必然的に体力の弱さもあり、これで妻を本当に幸せにできるのか。と、忸怩たるおもいで、日頃、ことあるたびに、自らの不甲斐なさに情けなくなり申し訳ない気持ちで心を痛めることがある。

 ”青春”の真っ盛りを、鮮やかに彩って過ごしている大助と、彼が好意を抱いている美代子,それに幼な馴染みの奈緒の身辺も、それぞれに、悲喜こもごも華やかな暦を刻んで、紆余曲折を経ながらも、高校とミッションスクールをつつがなく終えて3年の時の流れが、彼等を取り巻く人達とともに大きく変わって行った。

 大助は、春・夏の休みには決まって美代子の故郷を訪ねては、老医師や寅太達と山菜採りや渓流でのヤマメ釣りを楽しんでいた。 
 美代子は、週末の休みには健ちゃん達と町内会の運動会に積極的に参加して友好を深め、時には皆で湘南海岸で水泳をしたりして慣れぬ都会での高校時代を悔いなく過ごした。
 美代子は、プールでの得意の水泳では海自上がりの六助も伴走が精一杯で舌を巻くほど巧みであるが、海水浴での遠泳では波もあり六助には流石にかなわいが、それでも日焼けなど苦にせず、都内の高校水泳大会に選手として出たときは、健ちゃん達一同が応援に駆けつけ嬉がらせた。
 そんな美代子も、大助がレギュラーとして出場した高校野球大会では毎年予選一回戦落ちで落胆させられ、町内の慰労会で気落ちした彼を慰め、勝気な性格から悲憤でやるせない気持ちにもなったが、振り返れば親元を離れた寂しさや彼に対する根拠もない妬みで悩んで気持ちが落ち込んだときに、彼の何気ない一言で弱い心を鍛える夏を過ごしたことなど、今となっては懐かしい思い出となった。

 わけても、珠子から都会での生活や友達との交際に対する心構えや、大助との恋愛についての様々なアドバイスを受けて、理解ある態度で優しく接してもらったことや、最も悩んでいた奈緒との打ち解けた交際が稔り、女性三人で乙女峠や十国峠など箱根路を旅行したことが、彼女にとってはミッション・スクールでの厳しい戒律に縛られた学業を凌ぐほどに楽しく心に残った。
 彼女は、そんな体験から少しは都会のセンスを身につけ、帰郷したときには祖父の老医師や母親のキャサリンに対して学業や生活振りを自慢して話せる自信が心に漲り会話に弾みがついて祖父等を喜ばせた。
 彼女は、彼等の愉快で明るい理解ある態度に接して、差別に苦しんだ小・中学生時代を忘れさせるほど良い友達に恵まれたことを、日夜マリア様に感謝し益々信仰の念を深めた。
 勿論、その裏では大助の細かい心遣いがあったことは言うまでもない。

 大助は、高校の担任の薦めと自らの希望もあり、成績抜群な理工を勉強したく、京都大学工学部の受験勉強に余念がなかったが、受験練習のため卒業前に防衛大学の理工専攻を受験しておいたら合格の通知を貰っていた。
 ところが、そのあと、京大合格の知らせを聞いたとき、母親の孝子から、京都での生活と学費のことで
 「お父さんが生きておれば、お前に思う存分勉強してもらいたいが、珠子の結婚を控え、悲しいけれども、わたしの、稼ぎではとても無理だわ」
と、涙を浮かべて話されると、彼は「母さん、気にしないでくれよ」と逆に母を励まし、無理に笑顔を作っていた。 
 彼も家庭の経済的事情は充分に判っていたので、京大卒業後のことまで深く考えず、当面、生活と卒業後の就職を保証されている防衛大に進学することを決意した。入学前に見学した研究施設が整っていることも、彼の心を揺るぎないものにした。
 姉の珠子も、母親の正直な話を聞いていて「大ちゃん、御免ね」と言って頭を下げたが、弟が不憫でならなかった。

 「健ちゃん」と、皆から愛称で慕われ、今年から商店街の理事に就いた健太も、長い春を只管辛抱強く待ち、昨年の秋に、恋焦がれていた音楽教室のピアノ教師をしていて、ときたま、駅前の居酒屋にピアノを弾きに来る母子家庭の愛子と結婚したが、彼女には小学生の女の子がいたが、彼は勿論のこと奈緒も可愛がり、すっかりなついていた。
 その、健ちゃんが、大助が防大に進学すると聞いて、自衛官出身だけに人一倍喜んで、入学前の居酒屋での歓送会で、早くも「少尉殿、おめでとう御座います」と、自衛隊に入れば卒業後は自動的に3尉になる大助を冷やかしていた。
 その歓送会には、珠子に思いを寄せる昭二や海自出身の六助に混じって、孝子や珠子、それに愛子と奈緒の母親も同席していたが、孝子は喜びも半分といった面持ちで、愛子の薦めにも遠慮してカラオケを歌うこともなかった。
 健ちゃんは、皆と顔を合わせる度に祝福の言葉をかけられると、持ち前の性格で「将を射んとほっするればウマを射よ・・」とか「啼くまで待とう不如帰・・」と諺で誤魔化して、愛子の娘さんを可愛いがっていた。

 時の流れは速く
 大助が入学して以後、珠子のもとに美代子からメールが何度も送られてきて、珠子がその都度電話で、防衛大は規則が厳しく、外出泊は行き先や時間を届けねばならないと教えても、美代子は「兎に角、5月の連休には田舎に来て欲しい」と矢の催促をしてきた。
 大助が、入学後、初めての休暇で帰宅すると、珠子が保存していた美代子からのメールを見せて
 「連休後半には、前からの予定で群馬県の山に、健ちゃんや昭ちゃん達と行くことになっているが、大ちゃんは、どうするの?」 
と聞くと、彼は少しの間、何度もメールを読み返して考えこんでしまった。
 その姿を見て、母親の孝子が
 「大助、一泊でもいいから行ってきなさい」「中学から高校の間、お互いに家を行き来していて、親のわたしでも、羨ましくなるくらい仲良くしていたので、美代ちゃんの気持ちを思うと行ってあげるべきだわ」
と、彼が思案苦慮している様子を見かねて、美代子のところに行くことをすすめてくれた。

 珠子や大助の母親である孝子は、先輩で同郷の山上節子から、美代子がミッションスクールを卒業して帰郷したあと、地元の大学に進学したが、そのころ養父の正雄の希望で弟子の医師と見合いすることになっているらしい。と、彼女の家庭内の事情を聞かされていたが、誰にも話すことなく胸に秘めていた。
 孝子は、父親亡き後も明るく育ち、学業成績も担任教師から褒めらるほどよいのに、経済的理由で志望した大学への進学を諦めたうえに、更に、追い討ちをかける様な胸を痛めることが起きるかもしれないと思いつつも、大助が可哀想になり、二人の交際もこれで終わりになるのかも知れないと思い、例え最後となっても何時の日かは、人生でかけがいのない思い出が残れば・・。と考えて、二人を何とか逢わせてあげたいとゆう母性愛から話した。
 大助は、その様な母親の心遣いは露とも知らず、高校卒業を間近に控えた年の秋、美代子を訪ねて老医師と渓流釣りを楽しんだあとでの、夕食時、心なしか彼女の養父である外科医の正雄の冷たい視線が気になっており、美代子には逢いたいが、また、昨秋の様な雰囲気につつまれるのかと思うと気が重くなり、行くことを躊躇っていた。
 
 

 
 

 

 
 
 
 

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