あるがままに高齢を生きる! シャンソン、菜園とともに・・

予測不可能な未来のドラマに期待を寄せつつ、明日を見つめてまだまだ濃い時間を紡げたらとブログを書き続けます。

終戦の日

2015-07-31 23:24:31 | 日記
梅雨が上がったら、途端にせみ時雨がうるさいほどです。

8月15日の終戦の日もそうでした。もっとジリジリと陽射しが強烈だったように思います。

玉音放送があるので、全員心して聞くようにとの町内会長からの伝達です。
どう心すればいいのか、家族全員、何となく緊張しながら正座をしてラジオの前に並びました。

かなり待って、その玉音放送は始まりました。

ラジオがジージー、ガーガー、と雑音を発しながらの合間を縫って、天皇陛下のお言葉が聞こえてくるのですが、12歳の少女には充分に理解することは困難でした。

確かに伝わったのは、陛下の緊張と寂しげな響きだけでした。

後で、日本が戦争に負けたという、あるまじき連絡が町内全戸に回って来たのです。

少女の頭の中で、得体の知れない物体がぐるぐると回り始めました。

世界一強い日本がどうして? 鬼畜米英(獣同然の卑しい国)にどうして負けるの?

でも、敵機が日本の上空を我が物顔に飛び、警戒警報と空襲警報の日々の連鎖、長崎と広島に原子爆弾が落ち、食料や物資の不足がギリギリの状態になっていたのを、認める理性も持ち合わせていました。受け入れざるを得ない現実でした。

その夕方、五右衛門風呂を沸かすために薪を放り入れるとき、部屋から持ち出した何冊かのアルバムのページを引きちぎりながら、薪とともに燃やしてしまいました。
その多くが、凛々しい軍服姿の父の写真だったからです。

止めどもなく流れた涙を今でも覚えています。

ですから、それ以前の我が家の家族写真はなかった筈です。




戦時下の思い出

2015-07-31 23:22:49 | 日記
いま夜の10時前、雲のない藍色の空に孤高の光を放つ月が、まばらなビルの光の群れを見下ろしています。今日一日、世界中が何事もなかったかのように。

たまたまチャンネルを回して飛び込んで来たのが「永遠の0」。しばらく見ていたのだけれど、やっぱり戦争ドラマはいや! 空中戦で日の丸をつけた飛行機が敵機に攻撃されるシーンでカット。

私の小学校3年生の時に第2次大戦(大東亜戦争)が始まり、4年生の時には勤労奉仕と称して、田植えや稲刈りに駆り出されました。稲刈りの鎌で切った傷が、今でも私の小指に残っています。

田植えでは、蛭(と言っても大方の人は知らないでしょうが)、血を吸うために足いっぱいに吸い付くのです。それをキャーキャ言いながら自分の手で一匹一匹はずさなければなりません。その蛭も薬のために、今は見ることもありませんが。

小学生の子供たちにそんな経験などさせたくないですよね。

戦争も後半になると、家庭で使ってる鉄製品の鍋、釜の類は国から強制的に供出させられました。船や飛行機を作るためとかで。

その頃になると、食料は不足し、日本国中栄養失調の人だらけでした。お米さえ手に入らない状況
なんて想像できますか? 北朝鮮の現在をよそ事だと思っていませんか? 当時は餓死者がごろごろ
いたのですよ。

そんな時でも、日本は勝ち続けてると報道していました。

続きはまた!