八丈島の方言で遊ぼう 

方言だけだよ わかりんのうこともおじゃるのうが!?あんでもかってみればよけどうじゃ

江戸時代の終わりの頃

2024-05-13 20:44:58 | つぶやき
昨年11月、小笠原訪問ツアーに参加しました。
私が母親のお腹にいたのは父島です。
強制疎開で東京から栃木県の馬頭町へ疎開しました。
敗戦後すぐに八丈島へ渡りました。
小笠原に一番近い所へ渡ったのだそうです。
小笠原の開拓には八丈島の若い人たちが行ったそうです。
私の祖母は明治元年生まれです。
祖父と一緒に小笠原開拓団に入っていたそうです。
八丈島出身です。
続きはまた後で!
八丈弁の話は続きます。


菊池作次郎さん

2023-12-25 20:27:34 | つぶやき
江戸時代に作次郎さんは小笠原を調査に行った。
作次郎さんの話を聞くのを忘れました。

今年(小笠原訪問並びに交流ツアー)です。
2023年10月31日(火)午前11時に竹芝桟橋から船に乗った。小笠原丸です。
11月1日午前11時父島着 とても静かな船旅でした。
船に弱い私でも船酔いしなかったのです。
上陸したとき何とも言えない。何も言えない!ただボートとしていた。
私の先祖が小笠原開拓に行ったときは、、、、、、。
私の母が父島に上陸したとき何を思ったのでしょう!
父島に私の従兄の子供が(女性)いました。
生まれて初めて会えることができました。感激しました。
私の父は小笠原、沖縄の 返還運動を先頭に立って活動していました。
私も中学2年の時 昭和34年(1954)です。
今の銀座(数寄屋橋の交差点だと思います)で話をしたのを覚えています。
その頃私に家には小笠原の引揚者の方が毎日のように訪れてきていましたよ。
「良いところだところだ」「早く帰りたい」何とか海岸、なんとか浦、何とか山
ナサニエル セーボレー 等々
等々、たくさんの言葉が耳に残っています。



私の HP です

菊池 作次郎さんの足跡

2023-11-25 16:08:05 | 日記
国からはるか南小笠原諸島。父島 母島 
1000キロメートル 江戸時代の終わりごろの話
作次郎さんの足跡を少しだけ辿ってみました。
ああ、今の船、小笠原丸では竹芝桟橋から24時間ですよ。
風や潮の流れに乗って航海するのは不安だらけだったのでしょう。
お上の命令とはいえ命がけの船旅。
島影が見えた時は安心したのでしょう。
続きは又しばらくしたら報告します。


不精庵の HP 新しくなりました


作次郎と小笠原のはなし

2022-11-18 10:53:53 | つぶやき
中之郷のむかーしの村長さんで、菊池作次郎てよしとがおじゃらっていや。
そいでのう、文久元年(1862)に八丈の役人惣代で江戸げーあらっていや。
そんとき幕府かー、呼び出しがあってのう、小笠原げーいかされたっていがのう。
そん頃の八丈は人口が多くてのう、そいじゃなくてものう、
出百姓てってほかんとけいでていこしとー集めてあらっていがよけあんべーに、
八丈のわけいしゅらあ、つっていかっていがのう。
作次郎てよしとの、日記の初めの言葉が面白けじゃ。
「この手扣若し御らんのお方様有之は無筆同様の作次郎心覚へに有之間、左におさっし可被下候」
だっていや。





このにさんち、へんどう、ほとおりだら

2022-08-24 15:04:21 | つぶやき
ピンポーンておとがしょんて、でてみとうだら。
そうしたんねいや。
「おーい、これーかむだろう」てってのう。
せーんから、しょけ人で、おじゃろがのう。
とばぐちんとけい、すいかがしっかりおいてあってのう。
まいねんしっかりもらおどうが、うれーしくおじゃろわ。
あいは、すいこう好きどうて、めしがわりん、かもどうじゃ。