青山さん出演のラジオ番組『ザ・ボイス』や独立総合研究所の講演、youtubeなどを視聴しているうちに、著作も読みたくなってようやっとこの度この本に出会うことになった。青山さんの基本的な考え方は上記のメディアからわかっていたので、本書もスラスラと読み進むことができた。マスコミの反日偏向報道、北朝鮮による拉致被害、硫黄島への無関心、尖閣諸島・竹島など領土問題、原発・メタンハイドレートなどエネルギー対策など、突き詰めていくと本質の根っこは「祖国とは何か」を教えない戦後の歪んだ日本の教育にあることがわかってくる。すなわち、「日本が戦争に負けたから」「アメリカをはじめ勝った側の言うとおりにせねばならない」「日本は資源小国である」ことを教えられ、そう思い込むようにされてきた。こうした思い込みを捨て脱することによって日本は根っこから生まれ変わる。話が飛躍しているようにとられるかもしれないけれど、決してそうではないことは本書を読んで確かめていただきたい。「政府と祖国は違う」、「政府は変えられるけど祖国は変わらない」これが個人的には大きな「気付き」だった。読んでヨカッタと思った。確かに両者を混同して議論するとおかしなことになってしまう。マスコミでの議論もほとんどが両者を混同して進められていて、とんでもない結論になっているような気がする。本当は「祖国」という土台(共通認識)をもって、その時の「政府」をあーだこーだと議論すべきなのだ。
最後に宮崎正弘さんのメルマガにあった書評を引用して締めくくりたい。
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日頃まったくテレビを見ない評者(宮崎)にとって、この著者は初めて知る詩人である。『詩人』と書くと「なにを見当違いなことをいうのか」と不思議がられそうだが、この本を読んで、まさしく東日本大震災、硫黄島、拉致問題を論じながら、この著作そのものが一篇の叙情詩になっていると思った。
平明な叙述だが、言葉に力がこもり、詩的なリズムを秘めているからである。
硫黄島は激戦地、いまも日本の領土なのに立ち入り禁止である。天皇陛下ご夫妻の訪問と慰霊が実現したのは平成四年になってからだった。
青山さんは硫黄島へ飛んだ。防衛庁と何回か交渉を繰り返しても、全島を自由に歩き回ることは許可が下りず、一部の場所へしか案内されないという条件を示されてきた。そのやりとりも自衛隊幹部との怒鳴りあいが数回、それならボートで島に近づき泳いで上陸しようかとも考えて、すっかり諦めかけた。
クリント・イースウッドが監督した映画「硫黄島」のことをフト思い出した。あの映画を作ったプロダクションに問い合わせた。「いったい、ロケ隊は硫黄島へ上陸したのか。ロケはどこで行われたのか?」
すると日本のジャーナリストでも制限付きなのに米国はライス国務長官じきじきの要請で特別にロケを認めたというではないか。「硫黄島は日本の主権にある、わが領土ではないのか」と怒気が沸き上がる。
ある日、青山さんが出演しているテレビ局が企画を立てた。取材ジェット機を保有する局が硫黄島の特集を行うと言うのである。青山さんは、かくして硫黄島へ飛んだ。
壮絶な体験が始まった。
「狭い機中の左側の窓際に、壁に身体をくっつけて座っていた(中略)。その瞬間、両足の間から、座っている足の間から、ものすごい数のなにか、百とか千ではなく、万を超える数の何かが入ってきて、ぼくの目や口から、うわぁっと抜けていった。何がおきたか分からない。声が聞こえた。戻せ、戻せ、帰せ、帰せという声がどっと体内で響いて、さっとすべて消えた」
これは幽鬼、あるいは鬼気、その英霊たちの魂の叫びである。
評者もじつは同様な体験を何回かしたことがある。
一番強烈な霊的体験は会津白虎隊の少年らが眠る飯森山墓地でお参りし、帰京した夜だった。ものすごいエネルギーを秘めた数百数万の魂の粒子のような鬼気がどっと迫り、そしてすっと消えた。震えがきたが、未知の、呪われた霊気への懼れではなく、なにか名状しがたい、悟ったような気配があった。
青山さんが硫黄島へ着陸して、ジェット機からしばし降りられなかった。
「なぜか両足が凍り付いたようになって動かない。(中略)自衛隊、海上保安庁、そして在日米軍が使っている(硫黄島の)滑走路の正体は、1945年3月、硫黄島の戦いの真っ最中に、日本兵の亡骸を収用することなく、弔うことなく、その顔の上に、胸、腹、足の上に直接、アメリカ軍がコンクリートを流し込んで造った滑走路だ」
からである。
返還後、じつは滑走路の一部だけがはがされ、遺骨の一部だけが収集されて、後は『便利だから』と理由で使用され続けた。
しかしなんとか機から滑走路へ降りた青山さんは、「降りて、土下座をした。土下座は生まれて初めてだった。滑走路のコンクリートを撫で回して、手のひらをじっと当てて『この下にいらっしゃるみなさまがた、こころから申し訳ございません。なんと言うことか、皮肉なことにアメリカ人の映画監督が思いださせてくれるまで、ぼくたちは、皆様のことを忘れていました。なんと言うことでしょうか。ようやく、目が覚めて、やっとここに参りました』と小さな声にだして話しかけた」
現地に駐在する自衛官、建設土木関係者が凄絶な体験を淡々と話すという。
「(島では)半透明のような帝国軍人と昼も夜も暮らすことになる」だから「昼ご飯を食べていると、隣で、帝国海軍の士官も昼ご飯らしいものを食べているのです」「夜寝ていると、寝台の下で帝国軍人もお休みになっています」
硫黄島から帰って一年後、青山さんは栗林中将の遺族から六十三回忌に招かれ講演を頼まれた。
気がつながったとしか思えない劇的な出来事が続いた。
だから言う。この本はいっぺんの叙情詩である、と。
以上
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成24(2012)年1月4日(水曜日)通巻第3530号より
最後に宮崎正弘さんのメルマガにあった書評を引用して締めくくりたい。
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日頃まったくテレビを見ない評者(宮崎)にとって、この著者は初めて知る詩人である。『詩人』と書くと「なにを見当違いなことをいうのか」と不思議がられそうだが、この本を読んで、まさしく東日本大震災、硫黄島、拉致問題を論じながら、この著作そのものが一篇の叙情詩になっていると思った。
平明な叙述だが、言葉に力がこもり、詩的なリズムを秘めているからである。
硫黄島は激戦地、いまも日本の領土なのに立ち入り禁止である。天皇陛下ご夫妻の訪問と慰霊が実現したのは平成四年になってからだった。
青山さんは硫黄島へ飛んだ。防衛庁と何回か交渉を繰り返しても、全島を自由に歩き回ることは許可が下りず、一部の場所へしか案内されないという条件を示されてきた。そのやりとりも自衛隊幹部との怒鳴りあいが数回、それならボートで島に近づき泳いで上陸しようかとも考えて、すっかり諦めかけた。
クリント・イースウッドが監督した映画「硫黄島」のことをフト思い出した。あの映画を作ったプロダクションに問い合わせた。「いったい、ロケ隊は硫黄島へ上陸したのか。ロケはどこで行われたのか?」
すると日本のジャーナリストでも制限付きなのに米国はライス国務長官じきじきの要請で特別にロケを認めたというではないか。「硫黄島は日本の主権にある、わが領土ではないのか」と怒気が沸き上がる。
ある日、青山さんが出演しているテレビ局が企画を立てた。取材ジェット機を保有する局が硫黄島の特集を行うと言うのである。青山さんは、かくして硫黄島へ飛んだ。
壮絶な体験が始まった。
「狭い機中の左側の窓際に、壁に身体をくっつけて座っていた(中略)。その瞬間、両足の間から、座っている足の間から、ものすごい数のなにか、百とか千ではなく、万を超える数の何かが入ってきて、ぼくの目や口から、うわぁっと抜けていった。何がおきたか分からない。声が聞こえた。戻せ、戻せ、帰せ、帰せという声がどっと体内で響いて、さっとすべて消えた」
これは幽鬼、あるいは鬼気、その英霊たちの魂の叫びである。
評者もじつは同様な体験を何回かしたことがある。
一番強烈な霊的体験は会津白虎隊の少年らが眠る飯森山墓地でお参りし、帰京した夜だった。ものすごいエネルギーを秘めた数百数万の魂の粒子のような鬼気がどっと迫り、そしてすっと消えた。震えがきたが、未知の、呪われた霊気への懼れではなく、なにか名状しがたい、悟ったような気配があった。
青山さんが硫黄島へ着陸して、ジェット機からしばし降りられなかった。
「なぜか両足が凍り付いたようになって動かない。(中略)自衛隊、海上保安庁、そして在日米軍が使っている(硫黄島の)滑走路の正体は、1945年3月、硫黄島の戦いの真っ最中に、日本兵の亡骸を収用することなく、弔うことなく、その顔の上に、胸、腹、足の上に直接、アメリカ軍がコンクリートを流し込んで造った滑走路だ」
からである。
返還後、じつは滑走路の一部だけがはがされ、遺骨の一部だけが収集されて、後は『便利だから』と理由で使用され続けた。
しかしなんとか機から滑走路へ降りた青山さんは、「降りて、土下座をした。土下座は生まれて初めてだった。滑走路のコンクリートを撫で回して、手のひらをじっと当てて『この下にいらっしゃるみなさまがた、こころから申し訳ございません。なんと言うことか、皮肉なことにアメリカ人の映画監督が思いださせてくれるまで、ぼくたちは、皆様のことを忘れていました。なんと言うことでしょうか。ようやく、目が覚めて、やっとここに参りました』と小さな声にだして話しかけた」
現地に駐在する自衛官、建設土木関係者が凄絶な体験を淡々と話すという。
「(島では)半透明のような帝国軍人と昼も夜も暮らすことになる」だから「昼ご飯を食べていると、隣で、帝国海軍の士官も昼ご飯らしいものを食べているのです」「夜寝ていると、寝台の下で帝国軍人もお休みになっています」
硫黄島から帰って一年後、青山さんは栗林中将の遺族から六十三回忌に招かれ講演を頼まれた。
気がつながったとしか思えない劇的な出来事が続いた。
だから言う。この本はいっぺんの叙情詩である、と。
以上
「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成24(2012)年1月4日(水曜日)通巻第3530号より