かつて高倉健主演の東映任侠映画に、「望郷子守唄」というのがあった。
オロロンオロロン オロロンバイ
ねんねんねんねん ねんねんばい
おどまおっ母さんが あの山おらす
おらすと思えば行こごたる
で始まり、
「母ちゃん 許してやんない」
という科白で終わる歌である。
主人公の男は小倉生まれ。近衛連隊の兵士だった。男は身に降りかかるどんな苛めにも、理不尽にも耐え続ける。故郷を出るとき、母に絶対に喧嘩はしないと誓ったためである。やがて男は任侠の世界に入るが、そこでも彼の我慢は続いた。やがて、どうしても許せぬ悪を前に、男の憤怒が爆発する。
この「望郷子守唄」は宮崎耿平(こうへい)の「島原の子守唄」と「五木の子守唄」の本歌取りである。宮崎耿平の「島原の子守唄」は、「五木の子守唄」と山梨の「縁故節」の本歌取りであろう。
高群逸枝にも「望郷子守唄」という詩がある。
おどま帰ろ帰ろ 熊本に帰ろ
恥も外聞もち忘れて
おどんが帰ったちゅて誰がきてくりゅか
益城木原山風ばかり
風でござらぬ汽車でござる
汽車なるなよ思い出す
おどま汽車よか山みてくらそ
山にゃ木もある花もある
遠くなった故郷を想い、恋しさに胸が張り裂けるような切なさがある。逸枝は明治二十七年に熊本県の下益城郡豊川村に生まれた。若くして詩人として世に出、平塚らいてう等と無産婦人芸術運動や婦人運動の先駆をなし、やがて民俗学と女性史の巨人となった。逸枝の「望郷子守唄」は、幼い頃から耳に馴染んだ「五木の子守唄」の本歌取りである。
「オロロン」は乳児や幼児がぐずって「あーんあーん」と泣き、しゃくりあげる様を表現したものらしい。子守娘が身体を揺すり、背負った赤ん坊の尻を掌で優しく叩きながら
オロロンオロロン オロロンバイ
ねんねんねんねん ねんねんばい
とあやすのである。
はよねろ泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ン久助どんの連れん来らるばい
…泣きたいのは子守娘であった。
島原の老人ホームでキチお婆さんが亡くなった。九十五歳の大往生である。しかし彼女を看取る家族は誰もいなかった。一人息子とその家族は川崎で暮らしていたが、実は息子は十数年前に亡くなっていたのである。その息子がまだ元気だった頃、そしてキチお婆さんがまだ頭もはっきりし、目も見えていた頃、彼は川崎で一緒に暮らそうと何度も説得した。しかしキチお婆さんは
「わしはどこも行かん。ここにおる。わしはここで生まれた。ここで死ぬ。山見て暮らす」
と言い張った。
おどま汽車よか山みてくらそ
山にゃ木もある花もある
…息子は溜息をついて川崎に戻って行ったのだ。やがて彼女は老人ホームに入った。
キチお婆さんに息子の死を伝えても、彼女はすでに人語が全く理解できぬ重度の認知症を患っていた。身の回りの世話をする看護婦や医師の顔も名前も判別できなかった。キチお婆さんの晩年の十五年は、進行した認知症と白内障で何も分からず、何も見えなかったのだ。
ほとんど言葉を発することがなかったキチお婆さんだったが、彼女は息を引き取る間際、聞き取れぬほどの嗄れた声で何かを呟いた。介護を担当していたまだ二十三、四の看護婦と医師がそれに気づいた。キチお婆さんの口元に耳を近づけると
「帰りたか…」
と聞こえた。そして確かに
「…お母ちゃん」
と言った。見えないはずのキチお婆さんの小さな両目に涙が溢れていた。薄い総白髪の小さな老媼は、幼児が泣いてしゃくりあげてから大きな溜息を吐くように、息を引き取った。
みんなキチお婆さんと呼んでいたが、彼女の本当の名前は「キツ」だった。漢字では「橘」と書くのだ。キツの家は凄まじいまでに貧しかった。食べるものがないのだ。両親も祖父母も健在だったが、何しろ口が多かったのである。父は日雇いの仕事に出、祖父母と母は余所から頼まれた畑を耕したり、炭を焼いて僅かな賃金を得た。彼らは病気がちだった。キツの他に八人の兄弟姉妹がいたが、二人は早世し、長兄は関西方面に出稼ぎに行ったきりで、姉と次兄は奉公に出た。キツはろくに学校にも行かず、近所の農家で下働きをした。キツが十三のとき、島原の町の富裕な醸造屋に奉公に出た。その家の子守娘に雇われたのである。
町でキツは派手な着物の女たちを見た。店の飯炊きの婆さんが「からゆきさんばい」と教えてくれた。婆さんは「からゆきさん」が何かも教えてくれた。
彼女たちは外地で成功したという。また中国人の大金持ちに嫁入りして、たまさか里帰りしたのだという。その手に二つも金の指輪をはめていた。キツは彼女たちに何か不潔さを感じながらも、その指に光る金や、派手で美しい着物や、赤い口紅を羨ましくも思った。あのお嫁さんの燃えるような赤い口紅は誰がくれたのだろう。中国人の大金持ちの旦那が買ってくれたのだろうか。彼女は背に負うた赤ん坊をあやしながら思った。キツは十四、貧しかったのである。
あん人たちゃ二ちも あん人たちゃ二ちも
金の指輪をはめちょらす
金はどこん金 金はどこん金
唐金げなばい ショウカイナ
嫁御ん紅(べ)んな 誰(た)がくれた
唇(つば)つけたら あったかろ
ある日、道で赤ん坊をあやしていたキツに、ひとりの老婆が近づいてきた。そして
「外地の酒場の住み込み女に出らんとね? 大きな船ン乗って。月に五円六円は稼ぎが貯まるとよ、え?」
と誘った。
「外地? 外地ってどこね?」
「香港や上海たい。もし行くんなら、十円五十銭の支度金も出るとよ」
キツは目をむいた。
「ほんまこつ?」…
そして彼女は迷わなかった。今の境遇から脱出したい。ただそれだけだった。
数日後、キツは約束の支度金を受け取り、その一部を母の元に届けた。キツは自分の身支度を整えて、婆さんの指示通りの宿屋に行った。そこには黒いインバネスをまとった八の字髭の中年の男と、キツより一つ二つ年上らしい二人の娘がいた。
男は優しかった。夜になると、男は三人の娘を小舟に乗せた。頑強そうな若者が漕ぐ舟は、小波に揺られながら口之津の港に入った。口之津は石炭の積出港である。舟が暗い岸壁に着けられた。そこには二人の男がいた。八の字髭の男は岸壁にいた男たちと小声で何やら話をすると、小舟を沖に停泊していた大きなオランダ船に向けさせた。
そのうち、ぱあっと山の方が赤く明るくなった。火事らしい。半鐘が鳴って、口之津の町の方が騒がしかった。その間に小舟はオランダ船に横付けされた。それは石炭船である。男は急に邪険になった。キツたちは揺れるタラップを怒鳴られながら上った。甲板に着くとすぐに船倉に追い立てられた。船倉の中にはすでに石炭が積まれており、その上に二十人ばかりの娘たちが蹲っていた。キツは知った。「からゆきさん」になったのだ。その夜、オランダ船は大きな煙突から黒煙をあげて出航した。
おどみゃ島原の おどみゃ島原の
梨の木そだちよ
何の梨やら 何の梨やら
色気なしばよ ショウカイナ
はよねろ泣かんで オロロンバイ
鬼(おん)の池ン久助どんの連れん来らるばい
子守の少女にそっと老婆が近づき
「外地の酒場に住み込みに出らんとね」
と囁く。
「私なんてまだなんの色気もない小娘よね」
と少女は笑って尻込みした。そして背で泣く赤ん坊に、早く寝ないと恐い人買いの久助が連れに来るよと脅かすのである。鬼の池は口之津の対岸の地名である。そこは熊本県だ。久助どんは天草の女衒(ぜげん)の名前である。
山ん家はかん火事げなばい 山ん家はかん火事げなばい
サンパン船はヨロン人
姉しゃんな握ん飯で 姉しゃんな握ん飯で
船ん底ばよ ショウカイナ
泣くもんなガネかむ オロロンバイ
飴がた買うて ひっぱらしゅう
女衒の一味が山の方で火を放ったらしい。火事騒ぎの間に、与論島の男が漕ぐサンパンと呼ばれる平底の木造船を石炭船に横付けし、娘たちを積み込んだ。これは密航なのである。外国の石炭船は全てバッタンフルと呼ばれた。本当はバターフィールドという船舶会社の社名なのだが、大きな外国の石炭運搬船の総称となった。バターフィールド社船舶の煙突は、全て青色で統一されていた。
娘たちは船の底で握り飯を配られた。白い米を食べるのは何年ぶりだろう。いや初めて食べる娘もいた。
…泣く子は蟹にかまれるよ、飴を買ってやるから泣くんじゃないよ…。
姉しゃんな どけ行たろうかい 姉しゃんな どけ行たろうかい
青煙突のバッタンフル
唐は何処んねきぇ からは何処んねきぇ
海の涯ばよ ショウカイナ
はよねろ泣かんで オロロンバイ
オロロンオロロン オロロンバイ
白い握り飯が出たのは初日だけで、その後は石のような固くなったコッペパンが一日に一個のみとなった。キツたちは船倉で三週間ばかりを過ごした。そこは暑熱と排泄物の臭いでまさに地獄であった。息ができない、目がかすむ。しかも夜昼関係なく船員たちが襲ってくるのだ。積み荷の石炭を掘って穴を作り、そこに潜んで身を守るようにした。少女たちは真っ黒に汚れ、ぼろぼろになった。
船は夜間にボルネオ島の東マレーシア、サバ州サンダカンの港に入港した。どこからともなく近寄って来た何艘かのサンパンが横付けされ、キツたちをサンダカンの船着き場に運んだ。少女たちは真っ黒な幽鬼のように上陸した。サンダカンはまさに紅灯の巷であった。生まれて初めて青い灯も見た。
彼女たちは日本人が経営する娼館で働かされることになった。客の多くは華僑であったが、肌の浅黒い大地主たちもいた。こうして一晩に五人、六人の相手をさせられたのである。日本の兵隊たちを積んだ船が入港してくる日は地獄だった。男の数が何倍にもなったからである。女たちはボロ雑巾のようになった。キツは
「帰りたか」
と呟いた。
「お母ちゃん」
と声をあげて嗚咽した。
数年後、キツはイギリス人の男に身請けされ、妾となった。二年が経ち、そのイギリス人が帰国すると、コキタナバルでオランダ人の妾になった。男はサラワク州にゴム園を所有していた。キツは燃えるような真っ赤な口紅をさし、手に二つの金の指輪をはめた。その男が死ぬと、キツがゴム園の経営を引き継いだ。バーも経営した。しかし雇っていたインド人に騙され、キツは全てを失ってしまった。
第二次世界大戦の中期、キツは運良く帰国することができた。これは奇跡的な幸運と言ってよい。帰国の輸送船に乗り込む前に、キツはサンダカンの「からゆきさん」たちの墓に詣で、手を合わせた。二百をはるかに超す墓標と土饅頭が、暑熱にむれる草叢の中に埋もれていた。
キツは島原の旅館で女中になった。キツがサンダカン時代のことを口にすることは決してなかった。戦後、そこの初老の男衆と結婚し、やがて男の子も生まれた。彼女はその過去を夫にも打ち明けることはなかった。誰もキツが「からゆきさん」だと知らなかった。キツはずっと島原で暮らした。
宮崎耿平の「島原の子守唄」は、そういう貧しい子守娘の唄なのである。そういう「からゆきさん」を唄ったものなのである。宮崎耿平が島原鉄道の経営に従事し、その過労からほとんど失明したとき、妻は二人の幼子を残して家を出た。彼は深い絶望の中で、ぐずる子どもをあやすための子守唄を作った。「島原の子守唄」はそういう唄なのである。「口之津という港は悲しい町さ」と耿平は口癖のように言った。
耿平は後に彼の眼のかわりを果たす素晴らしい伴侶・和子を得、島鉄の重役に復帰した。それは城山三郎が「盲人重役」に描いている。宮崎耿平の本名は一章で、後に一彰と改名した。筆名の耿平も康平に改めて「まぼろしの邪馬台国」を口述した。この著作に対し、宮崎康平・宮崎和子の二人に第一回吉川英治文化賞が贈られている。
…キツは夢の中にいた。その夢の中の土地はボルネオのサンダカンだった。一日に五人も六人も客をとらされる娼館だった。キツは
「帰りたか」
と呟いた。
「お母ちゃん」
と声をあげた。そして深い溜息を洩らした。…
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