安藤昌益は多くの名を持っていた。安藤昌益、安氏正信、確龍堂良中、安藤良中、藤原姓、柳枝軒、安藤孫左衛門などである。安藤昌益は表紙裏から発見された手紙の名前である。
安氏正信という表記もあるが安氏は安藤氏の略だろう。研究者たちは確龍堂良中を医師名とし、安藤良中は「書肆目録」に掲載された折の名で、また昌益の医学系統図を示す「儒道統之図」に記載された名でもあり、これも医師名とされる。
藤原姓も見える。これは「良演哲論」でそう紹介されているのと、二井田の碑文も安藤家が藤原家の出であると書かれている。
柳枝軒は号と思われる。「詩文聞書」には和歌の署名に確龍堂柳枝軒正信として記している。このように彼の名にも諸説がある。安永寿延は「良中」を僧名であると推察している。寺尾五郎は「確龍堂」が医号、「柳枝軒」が文号としている。
私論では、本名が安藤正信で、正信は誕生時に親が付けたものであろう。昌益は成人後に自らが付けた本名と思われる。「益」は医師の名に多いことから、彼が医師を志した折に改名したものと考える。安氏は単に安藤氏の略で間違いなかろう。
良中は僧名だったかも知れないが、そのまま医号として使用したもので、昌益本人が作成したと思われる医学系統図の「儒道統之図」に安藤良中と書いている。この名が師の味岡三伯が認めた医号であろう。「儒道統之図」は味岡三伯から示され、昌益が筆写し、味岡三伯の次ぎに安藤良中の名を書き入れたものである。彼は本名の昌益も医号として使用している。確龍堂はそもそも医書や論文等を執筆するにあたっての筆名・号名として作ったものであろう。
「自然真営道」「統道真伝」の著者名は確龍堂良中としている。確龍は狩野良知が指摘した易経の「確固として節操を奪い得ぬ人物こそ、地に潜む龍と云うべき」から作ったという説に与したい。
柳枝軒は寺尾の言うように文号・雅号に間違いないだろう。八戸の天聖寺住職・八世守西が記した「詩文聞書記」には、彼の講演会の記述で「名医昌益大公」と紹介しており、昌益が医号でもあることが知れる。
また、そのサロンで昌益が詠んだ和歌の署名は「確龍堂柳枝軒正信」と記されている。延享二年の夏に脱稿したと思われる「暦之大意」には「柳枝軒確龍堂安氏正信」と署名している。ややこしい人である。概して昔の人は多才であったから、各分野ごとに名前を使い分けたりしていたのである。
さて「柳枝軒」のことである。寺尾によれば、同時代、京都最大の書肆・版元である小川屋茨木(茨城)多左衛門が柳枝軒を名乗っていた。この書肆は貝原益軒や西川如見、宮崎安貞の著作を独占的に出版し、元禄から享保にかけて全盛を誇り、大正時代まで存続したそうである。
小川屋は初代の多左衛門から代々「柳枝軒」の号を名乗り、江戸の出店を任された小川彦九郎も「柳枝軒」を号していたという。
「自然真営道」三巻本の版元・小川屋源兵衛は小川屋多左衛門柳枝軒と同じ一族なのだろうか。狩野亨吉の弟子・渡辺大濤は「小川源兵衛の本家は小川多左衛門です」とこともなげに書いている(この大濤の断言癖は、何とも説得力がある)が、今のところその証拠は挙がっていない。
ただ寺尾が推論するように、八戸の田舎の無名医師が、あまり売れそうもない難渋な文章のその著作を、江戸ではなく京都の書肆から出版するには、よほどの縁故があったものと思われるのだ。寺尾は昌益の妻は、この小川屋一族の娘だったのではないかと推察しているが、私もそれに与したい。
昌益が使用した「柳枝軒」という文号・雅号は、おそらく小川多左衛門かその一族に、昌益が「一族」として迎えられて、名乗ることを許されたものではなかろうか。
昌益の息子の周伯(秀伯)が八戸で町医を継いだ。昌益が妻子を八戸に残したまま二井田村に去り、昌益が亡くなった百日後、周伯は藩に願い出、医学勉学のため母を連れて京都に上っている。行き先は京都なのである。
あれほど夫婦愛、夫婦の和合を第一とした愛妻家の昌益が、妻と子らとどんな話をして、ひとり二井田に帰ったのか。彼は農業を尊び「直耕」を説きながら、自らがサービス業としての医師であることに、内心忸怩たるものを感じていたのかもしれない。
そこへ仲谷八郎右衛門や仲谷彦兵衛らから、兄(絶道信雄)の死の報せと安藤家の跡を継ぐことを勧められ、直耕生活に入るよい機会と考えたのかも知れない。しかし京のお嬢様育ちである妻は、そこまではついて行けなかったのかも知れないし、秋田での農婦暮らしは健康に自信が持てなかったのかも知れない。二人は別々の老後を決意し、時期を見て息子の周伯が、母が実家に帰るのに同行し、自分の京都留学を兼ねたのではなかろうか。
安藤周伯は「当時勃興してきた医学」を学ぶため、京都の山脇東門(山脇東洋の次男)に弟子入りしている。また、ある八戸の郷土史の研究者が、後年周伯が八戸郊外の南郷村で医業をしていたという記録を発見したという。もしそれが事実なら、周伯は京都留学の後、おそらく母の逝去後、ひとり八戸に戻ってきたのかも知れない。
そして「医師 橋本玄益」なる人物のことである。川原衛門は、彼を昌益のもう一つの名前、江戸における偽名だと考えているようである。しかし偽名を使う必要があるだろうか。
千住掃部宿(現北千住仲町)の、穀物屋藁屋兵右衛門(橋本平右衛門)の隣、酒荒物屋中村屋甚平衛家の一室もしくは敷地内の一軒家に住み、その隣の藁屋兵右衛門の土地を借地していた「医師 橋本玄益」なる人物は何者なのか。
以下、私の乱暴な推論である。この「橋本玄益」は実在せず、昌益の「隠れ確門」である橋本兵右衛門が、昌益や南部藩御側医の神山仙確と「確門・転真敬会」一党のアジトを提供するために、「橋本玄益」なる医師らしき名前を創作してしたのではないか。
もちろん、酒荒物屋中村屋甚平衛も「隠れ確門」の一人である。神山仙確や、その父神山仙益は、御側医として殿様が参勤交代で江戸住まいをされる折は、江戸勤務となっているのである。しかし藩の上屋敷、中屋敷、下屋敷では、「確門・転真敬会事務局長」として大っぴらな動きはできないだろう。この父子もアジトが欲しいのである。
あるいは、昌益の門人には仙確をはじめ関立竹、上田祐専、内藤玄秀と医師が多く、また昌益に感心しきりの奥南部の医師錦城、その弟子の宇都宮の田中真斎、その弟子の橋栄徳と、医師たちの名が複数上がっていることから、未だ我々の知らない医師の門人たちが何人もいたことも考えられる。そして、そのうちの一人が橋本玄益なのかも知れない。
「医師 橋本玄益」の看板を掲げて、何も知らない患者が訪ねてきても、ちゃんと診察・治療できる医師がいなければ怪しまれるからである。その「橋本玄益」は穀物屋藁屋兵右衛門(橋本平右衛門)か、本家の穀物屋穀屋甚兵衛(橋本甚兵衛)の家の者で、医師になった男なのではないか。
こうも考えられる。その橋本家の医師・橋本玄益が、どこかで昌益の医論になじみ、さらに昌益本人か、仙確、あるいは確門の医師を通して、昌益の人となり、その思想に触れた。彼はすっかり昌益先生の思想にかぶれて確門の一人となる。そして実家か親戚の橋本平右衛門か橋本甚兵衛に昌益先生の話をし、彼らも昌益に惚れ込むようになる。そして確門・転真敬会に入る。隣の気の良い酒荒物屋中村屋甚平衛も確門の一人となる。
…こうして千住掃部宿に確門・転真敬会の江戸アジトができたのではなかろうか。
もうひとつ、転真敬会の全国シンポジウムの参加者は、「良演哲論」に名が出て、発言もしている十四人(昌益を含む)だけではなく、もっと多くの参加者がいたのではないか。また、このシンポジウムは数日間に渡って行われており、都合で全ての日に参加できなかった門人もいたのではないか。
後日このシンポジウムの活発なやりとりの議事録をまとめ、「自然真営道」に入れた神山仙確が、この著作の危険性から、間違いなく秘匿できる場所で、かつ都合で参加できなかった門人たちも閲覧が可能な場所として、江戸、八戸、上方の三カ所に秘密閲覧所を設けたのではないか。…
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